Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/12/31

反アパルトヘイト・ニュースレター、全ページがアップ


2013年がもうすぐ終る。今年はドリス・レッシング、チヌア・アチェベ、そしてネルソン・マンデラが逝った。来年早々にはそのネルソン・マンデラ追悼特集があちこちの雑誌に掲載されることだろう。1950年代にアパルトヘイトに抗して抵抗運動を組織したネルソン・マンデラとその仲間たち。たぐいまれな品格と、その意志と思想の強さで、27年という獄中生活を耐えた人は、南アフリカの抵抗運動、解放運動のシンボルとなっていった。

 日本でも古くは60年代初頭に、南アフリカの人びとと繋がろうとする反アパルトヘイト運動が芽吹いた。70年代初めにマジシ・クネーネが来日して当時の若者たちにあたえた「クネーネ・ショック」、それを契機に運動は着実に継続され、ネルソン・マンデラ解放時に最盛期を迎えた。この運動についてはもっと知られてもいいだろう。また当時の日本社会がどんなようすだったかも振り返ってみるのは悪くない。
 その運動のおおまかな歴史(日本各地に自発的につくられたグループがあり、それぞれに思い思いのかたちで展開された)を、東京のグループである「アフリカ行動委員会」の実質的中心人物、楠原彰氏がまとめたものがここで読める

 わたしが知っているのは80年代末、そのマジシ・クネーネというズールー詩人の叙事詩の翻訳で悪戦苦闘していたころからネルソン・マンデラが解放され、来日した時代のことだ。それについては中村和恵編『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店 2009)に詳しく書いたので、ぜひ。
 特筆にあたいするのは、日本における反アパルトヘイト運動が、それまでわたしが抱いていた「運動」のイメージを快く裏切ってくれたことだ。つまり、組織特有の束縛が一切なく、あくまで自発的個人の意思による活動の場として確保されていたのだ。これは60年代末の全共闘に端を発する運動がセクト化してやせほそり内向きになっていくのを学内でちらちら横目で見ていた者には、じつに新鮮だった。
 だから、集団がからきしダメというわたしのような人間もすっと入ることができた。つまり、あの運動は「あ、それ、わたしがやります!」と手をあげて事実やってしまう人間の集まりであり(そのなかでみんな力をつけた)、命令とか指令とか動員とか、上下関係とか、初心者とかベテランとか、先輩とか後輩とか、そういうものとは無縁だったのだ。人と人の関係が、いわゆる「縦系」の縛りから完全に解放されていた。

 きみもぼくもわたしもあなたも、来る者はこばまず、去る者は追わず。ほんの数年ではあったけれど、のびのびと、やりたいことをやらせてもらったように思う。自分の仕事ともリンクさせることができたし、大いなる学びの場として、また、面倒な人間関係もおなじ志を仲立ちにしてのりこえ、深めていけることも学んだ。だから、心地よく裏切られたり勘違いしたりしたこともあったけれど、恨みとか怨嗟とは無縁だった。世はバブルたけなわ、喧噪とは縁のないわたしの30代から40代にかけての例外的事件だった。

 先日、20年ぶりにそのころの仲間数人とテーブルを囲む会があった。同窓会などとは違って、すっとあの時期に戻っておしゃべりできて、さらに現在この社会で起きていることをも気兼ねなく話題にできた。そういう人間関係。これは貴重。
 運動の最盛期、東京を中心に活動していた「アフリカ行動委員会」は「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」を毎月発行し、定期購読者に郵送していた。1987年の準備号を出した森下ヒバリ編集長から始まり、つぎの高柳美奈子編集長が第三種郵便にする努力を惜しまず、それを引き継いだ須関知昭編集長の超人的な遠路往復で、1995年まで全85号が発行された。その全ページがその須関氏の努力で「アーカイヴ」にpdf ファイルとしてアップされ、読めるようになった。

 当時はまだインターネットはなかった。ようやく小型のワープロが出まわってきたころで、紙面はそれを駆使して打った原稿をそのまま写植で起こして即印刷された。そのため、字間行間に独特のニュアンスが残る。購読料だけでやりくりしたので、経費上ざらっとした紙が使われ、当時はまだコピーも上質ではないため、滲みも多い。いまから見れば紙面は苦労がしのばれるものではあるが、わずか20年のあいだに、われわれを取り巻く活字媒体の変化は恐ろしいほど変化したことをも実証している。
 
 あのころの南アフリカと日本の関係がどうだったのか、バブルにわく日本社会の裏側で、南アフリカの解放運動を横目でながめながら、経済的に裕福になった不名誉な、恥知らずの「名誉白人」がどう振る舞ったのか。80年代に白人アパルトヘイト政権下の議員たちと「友好議員連名」なるものをつくり事務局長をやった当時の国会議員、のちに長らく東京都知事をやった人の名前も登場する。あの時代に若者だった人たち、子供だった人たち、そしていま社会の最前線で活躍する人たちが、なにを得てなにを失い、なにを引きずっているのか。
 いずれ、各号の「目次」もできるはずだ。そうなれば、もっと使いやすくなるだろう。これはまちがいなく貴重な記録だ。2013年大晦日の、わたしからのプレゼント。


 では、みなさま、よいお年をお迎えください。

*****
付記:2017.5.28──昨日開かれた「反アパルトヘイト運動と女性、文学」の場で、アフリカ行動委員会のニュースレターのアーカイヴが移設された先を知ったので、上のリンクをいくつか更新しました。

2013/12/29

J. M. クッツェー:ノーベル文学賞受賞から10年

facebook でクッツェー・ファンクラブと思われるアカウントが、2003年のノーベル文学賞授賞式のバンケットスピーチをアップしていました。ここにもアップしちゃおう!

 あれからちょうど10年。



 63歳のジョン・クッツェーです。スピーチの内容は、パートナーのドロシーとの会話から始まり、生きていたら99歳半になっていたはずの母親との、時間を超えた想像上のやりとりをつづった小話で、なかなか心にしみるものがあります。途中、会場ではどっと笑い声があがりますが、10年前にこの映像を見たときは、クッツェーが笑いをとっている、とちょっと子気味よい驚きがありました。
 ドロシーさんがなにやら笑っているのは、また、ジョンったら、作り話して・・・なんて思っているのかもしれません(笑)。

 でも、この小話、ちょうどいま、彼の三部からなる自伝的作品の第一部『少年時代』のゲラを読んでいる63歳の訳者には、なんだかしんみり心に響いてきます。

2013/12/27

アディーチェの新作短編が「ガーディアン」に

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの新作短編が「ガーディアン」に載っていました。

クリスマスの幽霊ものがたりです。挿絵がすごい!

 内容は、シンプルな、しかし、奥の深い話です。女の子の弟が鍵をかけて部屋にとじこめられている。その弟に対する母親の態度を(おまえの息子、という父親のことも)じっと観察する女の子。
 隣家に引っ越してきた若いカップル。奥さんのほうが、どうやら呪術を使う人らしく・・・最後は・・・これはぜひ、続きが読みたいな、と思わせる作品です。

2013/12/26

サミュエル・ベケットが『ワット』から朗読!

かのサミュエル・ベケットが『ワット』から詩を読んでいる! なんと! 
最後の方の、Addenda に出てくる詩を読んでいるのだ。録音は1965年、映像は1963年の Waiting for Beckett からのものらしい。ということは、声はベケットが59歳のときのもの、映像は57歳以前ということになる。詳細は、Open Culture で。





 クッツェーがロンドン時代、行きつけの書店のウィンドウでふと目にとまり、小型の分厚い『ワット』を買い込み、アパートで読みふけるあの『ワット』だ(『青年時代』に出てくる)。この作品との出会いから、クッツェーはコンピュータ・プログラミングの仕事を辞めて、ふたたび文学研究者への道をたどることになるのだ。

 でも、最近は「ベケットについて僕はなんら新しいことが言え」ないし「ひょっとしたら僕はベケットとは無関係なのかもしれない」なんて言っている。とはいえ、そのあとすぐに「もちろんベケットがこの世に生まれていなければ、僕はいまのような作家になっていなかっただろうが」とも。そして・・・

 この辺の微妙な感じは面白い──上の発言は、来年春に出版予定の、ポール・オースターとの往復書簡集『Here and Now』(岩波書店)に出てくるものだ。

2013/12/25

記憶のゆきを踏むクリスマス

去年のクリスマスは何を書いたんだっけ? 

 少しもどって見てみると、自分の両親がにわかクリスチャンだったこと(祖父母は熱心な仏教徒だったのに、彼らだけクリスチャンだった)とか、10歳ころまではクリスマスは教会へ行ったこと、雪のなかを父が馬橇に載せて運んできた木でクリスマスツリーをつくったこと、狭い煙突のなかをサンタクロースがどうやって通ってきたのか不思議でならなかったこと、などなど、思い出していたんだ。


 今年は、わたしが親になり、3人の子どもたちといっしょに過ごしたクリスマスのことを、成人した娘たちが思い出して、あのときは・・・と、わたしたち親に語ってくれた。これはまたこれで、とても面白い体験だ。

 大人になったとき、自分の子ども時代のクリスマスの思い出をだれかに語ることは、なかなか幸せなことだと思う。プレゼントをもらうばかりだった子どものころ、あげたりもらったりする若者時代、ひたすら小さな人たちの枕元にプレゼントをこっそり置く親の時代、そういう喧噪を卒業して淡々と記憶を楽しむ時代、と立場が変わることで楽しみ方も変化する。
 
 
記憶というのは、悲しいことも楽しいことも、苦しんだことも喜んだことも、体験そのものが分離不可能なシャッフル状態の断片であり、深い泉であり、深い闇なのだと思う。それを人は何度も、何度も思い出し、知らず知らずこちらも変化し、それと同時に記憶そのものに少し変化を加えながら、磨いていくのだろうか。新雪に一歩一歩、足を踏み込むように。

 今日も、記憶のゆきを踏んでいく。

**写真はネットから拝借しました。Merci!**

2013/12/22

南アフリカの素晴らしきストーリーテラー/ティナ・ムショーペ



圧倒的な語り口! 日本にも1990年代に何度か来日して、聴衆を魅了したティナ・ムショーペです。

2013/12/15

1990〜94年/危険な時代に騒然となった彼の国を統括したマンデラ by クッツェー

 今日、12月15日(日曜日)、マンデラの遺体はイースタンケープ州の彼の生地クヌに埋葬される。アパルトヘイト時代から一貫して盟友であったデズモンド・ツツ主教の出席しない葬儀のあとで。(註/紆余曲折の末、ツツ主教は参列することになったようです。)(左の写真は遺体がクヌまで運ばれるようす。)

「ネルソン・マンデラが長い生涯を終えた──長いとはいえ、嘆かわしいほど切り詰められた人生だった。終身刑に処されて、人間としての最良の時期を27年間も幽閉されて過ごしたのだ」

 と始まるのは先に紹介した、J・M・クッツェーのネルソン・マンデラへの追悼文(12月6日付の「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙)。マンデラという人物のプロフィールと「彼の国」に対して果たした役割を、適確な、無駄のないことばでクッツェーは書く。以下に引用しながら紹介する。それはこう続く──

「幽閉されながらも、彼は無力であったわけではない。長い刑期の最後の数年、事実上、彼は国の外交政策に対しては拒否権を行使し、看守たちに対しては統制力をますます強めていった。
 F・W・デクラークとともに──モラル上ははるかに劣る人物ながら彼もまた彼なりに、南アフリカ解放への貢献者だ──マンデラは1990〜94年という危険な時代に、騒然となった彼の国を統括した。その大いなる個人的な魅力を発揮して、新しい民主的な共和国内には白人の居場所もある、と白人たちを説得し、一方では一歩一歩着実に、分離主義をかかげる白人右翼勢力を骨抜きにしていった。

 その正統な権利によって大統領になるころ、マンデラはすでに老人だった。公正な経済秩序を創造するという、時代の差し迫った仕事に対して、彼がもっと多くのエネルギーを注ぎ込むことができなかったのは、不運だったとはいえ無理もなかった。ANCの他の指導者同様、彼は世界規模で起きている社会主義の崩壊に不意打ちをくらい、政党は新たな、略奪を目的とする合理的経済理論に哲学をもって対抗することができなかった」

 これは先日のブログにも一部引用したところだが、「彼の国」と書いているところにわたしの針はぴくり、ぴくりと大きく触れた。「ニューヨーカー」(12月5日付)に載ったナディン・ゴーディマの文章の書き出し:「おなじ時代におなじ故国にネルソン・ホリシャシャ・マンデラと生きてきたことは、わたしたち南アフリカ人が共有する導きであり恩典だ。わたしはまた彼の友人になるという恩典にあずかった。私たちが会ったのは1964年・・・」とはひどく対照的だ。そしてクッツェーはマンデラという人間について、曇りない歴史的な光をあてる。


マンデラの個人的、政治的権威は、アパルトヘイトには武力をもって抵抗する、という鍛え抜かれた防御論と、その抵抗のために受けた過酷な刑罰に基礎をおいている。さらにさかのぼるなら、・・・(中略)・・・これが個人としての一貫性というヴィクトリア朝風の理想と大衆のために献身的に奉仕することを、彼の目前に示しつづけたのだ。
 
 ・・・中略・・・

 マンデラは過去においても偉人であり、死期が近づくころには世界的な偉人になっていた。偉大さという概念が歴史的陰影のなかに後退していくとき、彼はおそらく偉人といわれる最後の人になるだろう」


「偉人=偉大な人物」という考え方が消えようとする時代に、われわれは生きているのか。
 しかしまた、ゴーディマの先の文章の結びが、ウィットとユーモアに富んだ人だったマンデラのエピソードを伝えているのは嬉しい。マンデラが獄中にあったとき、すでに他に恋人ができていたウィニーと1996年に正式に離婚したあと──マンデラは1998年にグラサ・マシェルと結婚した。モザンビークでポルトガルの植民地支配と闘った解放闘士であり、モザンビークのサモラ・マシェル初代大統領夫人だった人だ。マシェル大統領は、アパルトヘイト政権を支持する南アフリカ人の工作によると言われる飛行機事故で殺害された・・・結婚式の「誓います」という儀式と喝采ののち、グラサはマシェルという名前をこれからも名乗ると公言した。それをどう思うかと問われたマンデラは──「彼女の」名前を名乗ってほしい、と彼女から言われなかったのは良かったよ──と答えたという。

 5日にマンデラが長い一生を終え、その翌日6日に、今世紀最悪の法律といわれる「特定秘密保護法」が日本の国会で、十分な審議もないまま、多くの人たちの反対や慎重論を踏みにじるようにして、まるで、民主制とは形式を踏めばいいのだといわんばかりに暴力的に採決された。忘れない。

2013/12/13

「神奈川大学評論」にクッツェーとブラワヨの短編を訳しました!

「神奈川大学評論 76号」が出ました。「特集 アフリカの光と影」です。今朝届いた雑誌を見ると、書き手がなかなかすごい。

 わたしはJ・M・クッツェーの「ニートフェルローレン」と、ブッカー賞最終候補になって話題を呼んだノヴァイオレット・ブラワヨの「ブダペストやっつけに」(ブッカー賞候補作の第一章にあたります)を訳しました。
 その前書きとして「複数のアフリカ、あるいはアフリカ「出身」の作家たち」というエッセイも書きましたので、ぜひ!

 目次を見ると、おお! 瞠目すべき、おなじみの名前がずらりです。マンデラ解放時に一大イベントを開いた旧称「マンデラハウス」のオーナー、勝俣誠さんの名がまず目に飛び込んできました。
 ほかにも、カテブ・ヤシンの詩を鵜戸くんが訳している! 1988年からANC東京事務所の専従を務め、南アフリカに長期滞在して活躍していた津山直子さんもエッセイを書いている! アフリカ文学研究者である福島富士男さんがソマリア出身の作家、ヌルディン・ファラの作品について論じている! アフリカと人類学の関係についてはケニア社会に詳しい子馬徹さんが書き、アフロブラジル文化につとに詳しい旦敬介さんが、大西洋間で19世紀に頻繁に往来のあった奴隷海岸(ナイジェリアやベナンなど)とブラジルはバイーアのやりとりについて、具体的な資料をあげながら詳述している(写真もあり)。ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』の書評が中村和恵さんというのも嬉しい。

 ビニャヴァンガ・ワイナイナのエッセイ「アフリカのことをどう書くか」は、残念ながら次号掲載になりました。(版権の問題をクリアするためにあれこれやっているうちに、時間切れになってしまったのです。)雑誌「Granta」に掲載されて議論を呼んだあの刺激的な文章を紹介するのが、もう少し先になってしまったのは悔しいですが、来年3月には晴れて読んでいただけると思いますので、、、ご期待ください/涙。


 

 雑誌の入手方法は、こちらです

***
ちなみに、ワイナイナの辛口エッセイ「How to Write About Africa」を英語でいいから早く読みたいという方はGrantaのこのページへ

2013/12/11

マンデラの追悼式典への「M&G」の批判記事

南アフリカの人々はどこに?

昨夜は3時間におよぶ「マンデラ追悼式典」をライブで観ていて、ちょっと疲れたが、ソウェトの巨大なサッカースタジアムは、たしかに、最上段の観客席はいっぱいだったけれど、その下の客席はオレンジ色の空席が広がっていた。そこまで多くの人が集まれなかった、ということだろう。
 TVカメラは当然のように貴賓席ばかり映し出す。世界中の要人が一堂に介するこんな機会はめったにないわけだから、それも無理はないのだけれど、この「メール&ガーディアンの記事」が指摘するように、確かに「南アの人びと」の姿は影が薄かった。

 





彼らにとっては聞き慣れない世界各国の要人のスピーチが延々と続くなか、ときおり、歌声が大きくなって「まだ3人のスピーチがあるから、それが終るまで待ってくれ」と頼む司会のシリル・ラマポーザのことばを聞いて、わたしでさえも、あれまあ、と思ったのも事実だ。集まったのは多分、与党ANC支持者が圧倒的に多かったのではないか、とも思う。

 それにしても、日本からの出席者の影の薄さは、あまりに際立ちすぎだ。

2013/12/09

ネルソン・マンデラ解放時の映像

1990年2月11日、ヴィクター・ヘルスター刑務所から出てくるマンデラ。そして解放後、初めて、ケープタウン・シティ・ホールの2階バルコニーからグランド・パレード(『デイヴィッドの物語』の最後のシーンにも登場する)の大観衆に向かって演説する姿を!

2013/12/07

クッツェーとゴーディマの「マンデラ追悼文」

ネルソン・マンデラが逝き、南アフリカ出身の2人のノーベル文学賞作家が、それぞれ追悼文を書いている。南アフリカに住むナディン・ゴーディマと、オーストラリアに住むJ・M・クッツェーだ。

 ゴーディマのニューヨーカーの記事
 クッツェーのシドニー・モーニング・ヘラルドの記事

 それぞれの作家の特徴がそのまま出ていて面白いが、マンデラが27年の幽閉ののちに解放されたときの事情を多少なりとも知っている者には、ゴーディマの具体的な内容の回顧がだんとつに面白い。
 たとえば、解放後にマンデラが初めてゴーディマに会いたいといってきた理由が、彼女の小説『バーガーの娘』についてではなく(マンデラは当時発禁だったこの小説を読んでいたのだ!/どういう方法で入手したか分からないが──とゴーディマは書いている)、ウィニー・マンデラに恋人ができていたことについてだった・・・というのは、当時の事情というかスキャンダルを知っている者にとって、わっ! という内容!
 また、彼女の家が、ANCが当時の政権と話し合いをする準備の場として用いられたこともリアル。

 とはいえクッツェーの、感情を抑制して、少ない語数で、クリアな視界のなかにマンデラという人間をおいて容赦なく分析する、圧倒的な視線の冴えには唸るしかない。とりわけ、マンデラが人間として人生の最盛期を牢獄に幽閉されたことで奪われた時間と自由を思いやる視線、あるいは、その老齢ゆえに大統領を一期つとめただけで引退し、獄中にあって世界規模で起きた社会主義の崩壊について(他のANCのメンバー同様)不意打ちをくらったため、南アフリカの経済が、ANCが最初となえていた理念からどんどん離れていったことへの無念さ。しかし、老齢ゆえに正しい経済秩序を創造するという差し迫った仕事にエネルギーを注入できなかったことは、不運だとはいえ無理もない、とする一方、いまのような略奪を目的とする合理的経済理論に対抗する哲学を現政権党はもたなかった、とクッツェーは批判する。
 これは「神奈川大学評論」に訳出したばかりの彼の短編「ニートフェルローレン」と繋がるものでもある。

 ゴーディマはコムラッドとしてのネルソン・マンデラを具体的に書き、クッツェーは同時代を生きた人間としての共感を含め、時代のなかで果たしたその人物の役割に鋭い光をあてる。とにかく、こちらの目の表面の曇りがメリッと剥がされて、これでもかというくらいの強度の光のなかに置かれるのだ。いずれも、一読にあたいする。
 
 そして、忘れてはならないのは、このマンデラという解放闘争の闘士/政治家は、長いあいだ、西側諸国から「テロリスト」という名で呼ばれつづけたことだ。そのことは、いまの日本の状況のなかで、常に思い出す必要がある歴史的事実だ。 

*****
2013.12.29 追記:もうひとり、作家のゼイクス・ムダが「ニューヨークタイムズ」に書いている追悼文が面白い。幼いころ自分の家に来たマンデラ、大統領になってから閣僚たちの政治を批判する手紙を書いたムダに、マンデラがすぐ電話してきたことなど、興味深いエピソードが書かれている。いずれもこちらに訳出する予定です。

2013/12/06

追悼ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ── forever!!


最近はもっぱら「マディバ」の愛称で呼ばれたネルソン・マンデラが危篤状態とのニュースが流れてから数カ月。ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ、95歳。ついに逝った。試練のたびに自分を鍛え抜いた、見事な政治家だった。ひとつの時代が終わろうとしている。

1990年2月2日、東京は前日に降った雪が凍って、踏みしめる靴の下でざくざく鳴った。その日、南アフリカに郵送する為替をつくるために、わたしは西新宿の東京銀行まででかけた。駅までの雪道を歩いたとき、この日のことをずっと記憶しつづけるだろう、とはっきり意識したことを、ざくざくというあの靴音といっしょにいまも鮮明に思い出す。前日の1990年2月1日は、それまで違法とされた解放組織が合法化された歴史的な日だったからだ。

 当時、国家の厳しい検閲によって出版停止、記事の黒塗りなど、度重なるban(出版禁止)にもめげず、反アパルトヘイトの姿勢を貫いていた週刊新聞「Weekly Mail」を定期購読するためには、ジョハネスバーグの新聞社に書留で銀行為替を送らなければならなかった。4万円あまりの為替を作成するのに手数料が5千円くらいかかった。カード決済はまだできなかった時代だ。

 周囲では、27年間も監獄に入れられていた解放闘争のヒーロー、ネルソン・マンデラがいつ釈放されるかという噂でもちきりだった。そして2月11日、本当にそのマンデラ自身が釈放された。南ア国内の人たちはもちろん、世界中の反アパルトヘイト運動にかかわった人たちが歓喜した。しかし、それにしても不名誉な「名誉白人」扱いを最後まで返上できなかった日本人、あの人種差別という非人間的な搾取制度を打倒するための世界的経済制裁の波に最後まで加わらなかった「経済利益至上主義」の日本人。人の生命より儲けを優先する日本人。この歴史的事実はいまも、忘れようにも忘れられない。(そして、いまこの国はどこへ向かおうとしているのか?)

 1990年2月11日に大勢のジャーナリストや、歓迎を叫ぶ群衆が押し寄せるなかを、ネルソン・マンデラとウィニー・マンデラが拳をふりあげ、にこやかな笑みを見せながら歩いていく感動的な映像が世界中に流れた(1枚目の写真)。
 その下はいまは観光地のようになっている無人の道路(2枚目の写真)、これが彼らの歩いたヴィクター・フェルスター刑務所(後にドラケンスタイン刑務所と改名)前の道だ。入口の近くに、それを記念するマンデラの銅像もあった(右下)。後半2枚は2011年11月、南アへ旅したとき、内陸のヴスターへ行った帰りに立ち寄って撮影したものだ。

 ネルソン・マンデラという人物については、いまさらここで述べるまでもないだろう。「テロリスト」という汚名を着せられながら、人間としてのあるべき姿を信じつつけたこの不屈の闘士に敬意を表して、1996年に共同通信からの依頼で書いた、彼の伝記『自由への長い道(上下)』の書評を、彼の病状悪化のニュースが流れたときに、ここにアップした。
 

2013/12/03

『サマータイム』に出てくるミュリエル・スパークとウィリアム・トレヴァー


 最近出た面白そうな本に『バン、バン! はい死んだ』(河出書房新社)というのがあって、その著者がミュリエル・スパークと知ったときは、気持ちが小躍りしました。というのは、この作家の名前が、クッツェーの自伝的三部作のなかに出てくるからです。

 三部作の最後『サマータイム』の第一章「ジュリア」には、ジョンと浮気をしていたことがばれてしまい、夫と大げんかするジュリアという女性が出てきます。かっとなって家を出て、とりあえずショッピングをして、近くにあるカンタベリー・ホテルに車で乗りつけて、部屋をとります。一日目は、自分は自由になったのだと意気揚々でしたが、二日目の夜ともなると気持ちは落ち込み、ホテルのレストランでひとり採る食事もさえない味。舌平目のベシャメルソース。さて、どんな人がこのホテルには・・・

 「その夜はカンタベリーの哀れをそそる食堂=サラマンジェで夕食をとり、初めて、自分が泊まり合わせた宿泊客を一瞥しました。ウィリアム・トレヴァーやミュリエル・スパークの本からそのまま抜け出してきたような人たち。でもわたしだって彼らの目にはきっと似たり寄ったりに見えていたでしょうね──気まずくなった結婚生活から一瞬頭に血がのぼって逃げ出してきたやつかと」──J・M・クッツェー『サマータイム』より

 ウィリアム・トレヴァーはここ数年、何冊も翻訳が出たアイルランドの作家です。名もない人たちの、それとない行動や人生を情感ゆたかに描く作家ですが、スパークというのは有名ながら、あいにく食わず嫌いだったので、これを機会に読んでみようかなあと。
 それにしても、この二人の作家の名前を見たときは、思わずクスッとなりました。

 そのクッツェーの三部作、そろそろ分厚いゲラになって手元にくるころです。クリスマスもお正月もない? 今年もまた? う〜ん。。。。。
 

2013/12/02

参議院特別委員会での審議の様子

これが「審議」か? 特定秘密保護法案。ひどすぎる。

「野党の質問に答えるべき、担当者である官房長官が質疑の場に出てこない。森まさこ担当大臣は、法案が通ったらこの案件から外れることになっているので、答弁に信憑性がない。だから内閣総理大臣、せめて官房長官をと、ちゃんと申請もして、出てくることになっていたのに、菅官房長官が出てこない。審議の時間は限られているのに、無駄に時間ばかりが流れる――。そういう場面です」──KNさんのコメント



2013/12/01

毎日新聞の書評:『ある北大生の受難──国家秘密法の爪痕』

今朝の毎日新聞に掲載された中島岳志氏の書評です。『ある北大生の受難──国家秘密法の爪痕』(上田誠吉著 花伝社刊)です。戦前に起きた事件の内容は、いま、きわめて切迫しています。お薦めします。

「処罰の対象は必ず一般市民にまで及ぶ。本人が全く意図しない事柄でも、唐突に罪が着せられ、みせしめ的に逮捕・収監されるのだ」──まさに秘密保護法が成立したらどうなるかを予見させる内容です。

今日は午後、都心に用があるので、新宿西口も通りかかる予定です。

 

2013/11/30

Kwani? Trust の創立10周年記念イベントの写真

ケニアのナイロビで、この27日から開かれていた、Kwani? Trust の創立10周年記念イベントの写真をいくつかアップします。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェももちろんいます。

 ビニャヴァンガ・ワイナイナさんと連絡は取れたけれど、とにかく彼はこのイベントで超多忙。








2013/11/28

複数のアフリカ(後)──ワイナイナのエッセイ

 予定より少し遅れていますが、もうすぐ出ます。「神奈川大学評論 76号 ──アフリカの光と影」

「複数のアフリカ、あるいはアフリカ ”出身 " の作家たち」と幾重にも括弧のつくタイトルで、3人の作家を紹介しました。このブログでも、ノヴァイオレット・ブラワヨ と J・M・クッツェー について書きましたが、今日は残りの一人、ピリ辛エッセイを書いているケニア出身のビニャヴァンガ・ワイナイナについて。
 
(最近までBinyavanga をビンヤヴァンガと表記してきたのですが、小野正嗣さんがある書評のなかで「ビニャヴァンガ」と書いているのを見て、ああ、そうか、ビニャヴァンガだわ、これ、と気がつきました。どうもわたしには変な癖があって、Anya などもついつい「アンヤ」と読んでしまい、Binyavanga もつい最近まで「ビンヤヴァンガ」と読んでいました。訂正します。sorry!)

 さて、今回訳出したのは2005年に、雑誌Grantaの特集号「アフリカからの眺め/The View From Africa」に掲載された 「アフリカのことをどう書くか/How to Write About Africa」という辛口エッセイです。このエッセイで彼が物議をかもしてから早いもので8年にもなりますか。その後、このエッセイは彼自身が立ち上げた出版社 Kwani Trust から出た文庫サイズの薄い本に入りました。右がそのカバー写真です。いかにも皮肉な、挑発的とも思えるイラストです。
 このエッセイ、あらためて読むと、いまだに耳が痛いところがあります。8年前に書かれていますが、古びないどころか、まだまだ鋭さは失われていない。それが良いことか悪いことか、問題は読む側にあるんだよなあ、とはたと考えさせられてしまうのですが、内容としては、ちょうどチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDトーク「シングルストーリーの危険性」と対になる、と考えるとその理由が想像できるかもしれません。
 ぜひ、じかに雑誌を手に取って、彼の文章を読んでみてください。これまでさんざん語られてきた靄のかかったアフリカへの視界が、からりと晴れてばっちり見えるようになるかもしれません。

 ワイナイナさんの著書『いつか僕はこの場所について書く/One Day I Will Write About This Place』については、2年ほど前にここに書きました。アディーチェさんの大の仲良し、というか同志というか、よくあちこちにいっしょに出没します。左の写真は2011年にサンタフェで2人がトークをしたときのもので、それについてはここです! トークも聴けるようリンクを貼ってありますので、よかったら。このトークを聞くかぎり、ホントに面白そうな人です。ウィットとユーモアが抜群です。

 今回、メールでやりとりするチャンスがあったのですが、その文面がまたなんともポップな感じでした。彼の著書を思わせる、ビートのきいたことば遣いが伝わってきて。この人のことばは、文体は、まったくもってユニークです! 彼の『いつか僕はこの場所について書く』も、まるでラップのような感じでことばが続き、そのリズムにのせられて読んでいくと、ふっと心打つ憤懣と悲哀が秘められていたり、せつない心情が込められていたり。だれか、ぜひ日本語にチャレンジしてください!!

 27日から、ナイロビではクワニ・トラスト創立10周年のイベントが始まったばかりです。もちろん、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェも参加しています!
 

2013/11/24

黒い蘭 by マリア

このところ連日、仕事が終わるとかける音楽はこれ!

マラウィ出身のマリアが歌う「ブラック・オーキッド」、黒い蘭。全曲、ニーナ・シモンへのトリビュートだ。曲目をあげておこう。

 My Baby Just Cares for Me
   Don't Explain
   Baltimore
   Feeling Good
   Four Women
   I Love You Porgy
   If You Go Away
   I Put Spell on You
   Keeper of the Flame
   He Ain't Comin' Home no more
   Marriage is for Old Folks
   Wild is the Wind
   That's All I Want from You


 以前ここでも紹介した Young Bones とは少しちがって、ゆっくり目のテンポで歌いあげるスタンダード曲、じっくり歌い込むバラッド風、さらりと英語で流すシャンソン、さらには、これ、何語かな? と思わせる、アフリカンな楽器を使ったアフリカンな曲も。

 こういうアルバムを作りたかったけれど、なかなかその時機が熟さなかった。いまようやく、ニーナ・シモンへの恩返しができる、そうマリアは書いている。ニーナ・シモンがあたえてくれたものは喩えようがなく深く、大きいと。

 ニーナ・シモンの新しい伝記が出たら、絶対に翻訳する、と友人の編集者に向かってわたしが息巻いていたのはいつだったか。ニーナ・シモン、すごかったなあ、怖かったなあ、ステージの上の彼女を見たときは・・・まだ学生のころだった。

2013/11/23

ジョンとポールの往復書簡、翻訳まっさいちゅう

どんどん進みます。ジョンとポールの往復書簡集「Here and Now」。

 昨日と今日、訳したところで、すごく面白いところがありました。1947年にアメリカで生まれていまもそこに住むポール・オースターと、1940年に南アフリカで生まれてここ10年ほどはオーストラリアに住むジョン・クッツェーがやりとりする手紙のなかで、話題はイスラエル/パレスチナ問題から発展し、旧南アのアパルトヘイト体制のことに及びます。

ポールがイスラエルと旧アパルトヘイト体制下の南アフリカを比較して、少なくとも南アフリカはイスラエルのように周辺諸国から威嚇されることはなかった、と述べると、ジョンは、いや、80年代にアンゴラとの戦争で南アは負けたんだ、キューバの友軍がソ連製の優れたジェット戦闘機で数の上でも性能の上でも南ア軍を圧倒したと、ポールの認識をただす場面があります。

 それに対してポールは、あ、ごめん、ばかだった、と反省しながらも、ふたたび「アパルトヘイトは基本的に国内問題だったよね」と述べるところがあるのですが、これに対してジョンは次の手紙の「追伸」でこんなふうに返します。


追伸/南アフリカの歴史についてこれ以上、無用に議論を広げたいとは思わないが、もしも冷戦がなかったら、南アフリカの混乱全体がもっと早期に解決していたかもしれない。何十年ものあいだ、南アフリカの政治制度は、鉱物資源に富んだサハラ砂漠以南のアフリカへロシアが侵攻するのを防ぐための要塞代わりを務めていたのであって、合州国政府は代々そのシナリオに乗っかってきたんだ。ANC(アフリカ民族会議)が南アフリカ共産党と網の目のように絡まったことは助けにならなかった。
 南アフリカの旧制度は、合州国が冷戦時代に戦略上の目的で資金援助した独裁制や寡頭政治からなる世界規模のラッツネストの一つにすぎなかった。ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が倒れたおなじ年に、F・W・デクラークがANCを合法化したのは偶然の一致ではなかったんだ。


 ここに読み取れるのは、外交関係について圧倒的な支配力をおよぼすアメリカという大国内に生まれ、いまもそこに住み暮らす人間の世界認識と、世界全体のなかでは周辺に位置づけられる国に生まれた人間の、グローバル経済をめぐる紛れもない認識の差です。
 いまやこの国も、このラッツネストの一つであることがあらわになってきたことを考えると、これは大変に興味深いですね。

付記:写真はカタルーニャ語版。スペイン語版ももちろん出ています。スペイン語を母語とする話者は世界に4億2000万ですが、カタルーニャ語は約300万人。なのにあっという間に訳されるクッツェーというのもすごい。ちなみにフランス語の母語人数は7200万、日本語は1億3000万で倍近いというのもあらためて驚きます。
 日本人の頭のなかでは、総人口にしろ言語の話者人口にしろ、ヨーロッパ偏向的書き換えが起きているのでは? と思う瞬間がありますが、それにしても、カタルーニャ語がんばっていますね。ざっと40倍の話者のいる日本語なんですから、がんばらなくっちゃ。

2013/11/20

ステレンボッシュに降る雨

南アフリカのウェスタンケープ州のなかでも、もっとも古い町のひとつ、ステレンボッシュ。
 今年の冬(8月)に大雨が降ったときのネット上に登場した写真だけれど、あまりに美しいのでアップすることにした。なんだか不思議な物語がはじまりそうな雰囲気だ

 ステレンボッシュはケープでも古くからワイン作りで名高い町。オランダ系植民者、アフリカーナーが多い町といわれている。
 クッツェーの『マイケル・K』にも出てくる。病気の母親をマイケルが手製の手押し車にのせ、やっとたどりついたこの町で、母親が発熱。病院に連れていったものの、そこで母親は息をひきとり、荼毘にふされ、ぞんざいに骨灰を渡されることになった町だ。

 2年前のケープタウン旅行のときは、内陸へ向かったとき町のなかを車で通っただけで、ゆっくり見てまわる時間がなかったのが少し残念。

2013/11/18

ドリス・レッシング追悼!

ドリス・レッシングが逝った。享年94歳。2007年にノーベル文学賞を受賞したとき、この作家は88歳だった。もう少し早く受賞してもよかった。授賞式に参加したいというレッシングの希望は、ドクターストップで実現しなかった。

 訃報を報じる英ガーディアンの記事

 このブログでも、レッシングについて書いたことがあった。当時を思い出しながらリンクしておこう。

 ノーベル文学賞を受賞したときの、代表作『草は歌っている』を書評しながら書いたもの

 また、J・M・クッツェーのエッセイ集からの引用も実に興味深いものがある。

 オリーブ・シュライナーも、ナディン・ゴーディマも、ドリス・レッシングも、田舎から出てきて作家になった大物女性たちは、当時の女の子を「ちゃんと」しつけるための学校へは行かなかった、それをクッツェーは指摘している。学校へ行かなかったという事実も面白いが、クッツェーがそれを指摘していることが、大変興味深いのだ。

 ちなみにクッツェーが2007年12月に2度目の来日をしたとき、駒場で行われた講演でレッシングの受賞について触れながら、『黄金のノート』について言及していたことを思い出す。

2013/11/17

ひさびさのヒット ── YOUNG BONES by Malia

待っていたアルバム、とうに到着していて、毎日のように聞いている、いや、聴いている。

Young Bones by Malia。マラウィ生まれのこのシンガーについては先日書いたので、詳しいことはそちらへ

 ひさびさのヒット、もちろん、わたし個人にとって。絶妙な度合いのハスキーヴォイス。気怠さ。スタンダードなジャズナンバーが、肩が凝らずに聞けるアルバムになっている。

 60年代のニーナ・シモンなどは室内向けではなかったけれど、これは、完全に室内オーディオルーム向けだ。仕事のあいまに、ちょっとファイルを閉じて、こうしてブログを書きながら聞くのに絶好の音楽でもある。それでいて、薄っぺらさや頽廃感は、ない。シンプルで深い。かなり知的でもあるが、カーメン・マックレエのような固さはない。飽きない。

 80年代初めころからか、いや70年代の終わりからか、ジャズという音楽はすでに山を越えて、「おしゃれな音楽」へ向かってひた走るようになった。往年のホットなプレイヤーも、もっぱら余裕の「楽しめる音楽」を奏でるようになって.....それはそれで成り行き、というか、ひとつの歴史的流れなんだけれど。。。。

「ワールドミュージック」ということばが出てきたのは20年くらい昔だったか。ここ数年前から「世界文学」ということばも、あちこちで語られるようになった。簡単に比較はできないけれど──文学と音楽は構成要素がまるで違うのだから──しかし、結局は、「商業的に」という縛りからどれだけ自由になれるか、というところで勝負する姿勢は、人間の活動としては共通する部分はあると思う・・・なんてことを、ぼんやり考えながら、力を抜いて全身でひたる音楽。くり返し。 

2013/11/12

追悼──サティマ・ビー・ベンジャミン

M&Gをなんの気なしに見ていて知りました。この8月にサティマ・ビー・ベンジャミンが、ケープタウンの自宅で亡くなっていたのです。ニューヨークタイムズにこんな大きな追悼記事が載っていました。享年76歳。

 南アフリカを出てから、ダラー・ブランドことアブドラ・イブラヒムといっしょになって、ニューヨークを拠点にして音楽活動を続けたベンジャミン。

 彼女を追悼して、デューク・エリントンの曲から「Lush Life」を。LP盤からのアップらしく、針がレコード盤をこする音が入っています。それもまた一興か。



2013/11/10

YOUNG BONES by Malia ──いま、待っているアルバム

 ひさびさの音楽情報。友人が教えてくれたマラウィ出身のシンガー、マリア。

 試聴したかぎり、きわめてオーソドックスなジャズヴォーカルだ。ちょっとかすれた声の質がわたしの好みにぴったりで、すぐにCDを2枚注文した。いまはネットショップの試聴コーナーでちらちら聞いたり、YOUTUBEの動画を見ているところ。
 歌は英語だったり、フランス語だったり。プロデュースしているのがどうやらフランス人らしい。マリア自身は、お父さんが英国人、お母さんがマラウィ人、生まれたのは1978年とある。

 マラウィという国はちょっと微妙な国だ。1964年にニアサランドとして英連邦内で独立したけれど、それ以後、長いあいだローデシアの白人政権やアパルトヘイト政権下の南アフリカ政府と友好関係を結んでいたのだ。

 クッツェーの三部作には『青年時代』のなかに、マラウィ出身の女性がひとり出てくる。ロンドンで青年ジョンが家賃を節約するため留守番をする文化人類学者の家で、メイドをしている女性シオドラだ。文化人類学者夫婦がフィールドワークにマラウィ(当時はニアサランド?)に行ったとき、彼らの幼い娘のナニーとして現地で雇われた女性である。学者一家がロンドンに引き上げるとき、シオドラもまた一家についてロンドンへやってきた。自分の子供たちを国に残して......彼らに生活費を送金するために....

 白人のアフリカ人である若者ジョンと、アフリカ黒人である中年のメイドのシオドラが、無言の対立感情を抱きながら、1960年代初頭のロンドンで、一つ屋根の下で暮らす場面。そこには当時の「アフリカ人」や「アフリカーナ」に対するジョンの複雑な思いが、みずからの生地と歴史的立ち位置を確認しようとする青年の、強烈な印象を残すことばとともに描かれている。
 
 

2013/11/08

フランス語訳『Here and Now』── Ici & maintenant

早い! もう届いたのだ。なにが?

Here and Now』のフランス語訳、タイトルはそのまま直訳の『Ici & maintenant』。形が面白い、縦長の変形。遊んでいるなあ。ちょっと贅沢! 
 手に持って開くと、とってもいい感じにページが開く。大きめだけれど、これなら電車のなかでも読める。コートのポケットにすいっと入りそうだ。もちろんバッグにも縦に、折り畳んだ新聞みたいに射し込める。
 最初からペーパーバックというのも洒落ている。出版社がいつもの Seuil ではなく、Actes Sud という出版社なのだ。表紙にまでこんな断り書きが出ていて、笑える。

 traduit de l'anglais [États-Unie et Afrique du Sud]
   par Céline Curiol et Catherine Lauga du Plessis

こんな断り書き、というのは、クッツェーもオースターもこの本のなかで、自分のフランス語訳には扉にいつもこういう断り書きが出る、と、ちょっと不満そうに、ちょっと面白がって触れているからで、出版社はそれをわざわざカバーにまで印刷してしまったわけだ。

 もちろんこの場合、「合州国」英語はオースターの英語を、「南アフリカ」英語はクッツェーの英語のことをさしている。面白いのは、僕の英語がいつから「南アフリカ英語」になったのか、だれか教えてもらいたい、というようなことをクッツェーが述べる場面が、この本のなかに出てきたりするところ。

 クッツェーのパートを訳しているカトリーヌさんは、70年代にケープタウンに住んでいたことのある、ジョンの何十年来の友人で、私も以前から彼女のフランス語訳は参照してきた。今回もまた、いろいろお世話になりそうだ。

2013/11/06

詩が人生の手引書だったころ

今日、ジョンの手紙を訳していて行き当たった、興味深い箇所を紹介する。

 これは、世界中で60年代、70年代を若者として生きた人間なら、誰もが思いあたることだろう。ここで述べられていることの舞台は、おもに合州国とヨーロッパではあるけれど、日本だって無縁ではない。


 ジョン・クッツェーがいうように、むしろ、東ヨーロッパとおなじような「真剣さ」あるいは「切迫性」があったかもしれない。いや、どうだろう? たんに軸のない、表層の「ずらし」や「書き換え」「変形」「リパッケージ」ばかりやってきたのか、日本人は? 翻訳も? それが、いまの文化状況を作ったのか? 考えてみたいところだ。


以下引用(Here and Now, p97-98):


***

 先日の手紙で君は大戦後のアメリカの詩人たち、つまり1945年以後に頭角をあらわした詩人たちの名前を列挙していたが、確かにあれは抜群のリストだ。今日、彼らに匹敵する者がいるだろうか?


 せっかちに返事を書かないよう僕は用心したほうがいいかもしれない──老人は若者の美点が見えないことで悪名高いから。しかし、今日の読者のなかで現代詩人が言っていることから人生の手がかりをつかもうとする者はほとんどいないと言っていい。ところがなんと1960年代は、さらに、1970年代のある時期まで、多くの若者たちが──じつに、多くの最良の若者たちが──詩を、生きるための真の手引きだと考えていた。僕がここで言っているのは、合州国の若者たちのことだが、ヨーロッパでもそれはおなじだったし──もっとはっきり言うと、東ヨーロッパではそれがとりわけ顕著だった。今日いったい誰に、ブロツキイ、ヘルベルト、エンツェンスベルガー、あるいは(より胡散臭い手法ながら)アレン・ギンズバーグがもっていた若いソウルを形づくる力があるだろうか?


 何かが起きたんだ、1970年代末か1980年代初頭に、僕にはそう思える、その結果、芸術はわれわれの内面生活における指導的役割を放棄した。あのころといまのあいだに何が起きたか、政治的、経済的、あるいは世界史的な特性をもった何か、それを分析判断することに留意する覚悟はできてはいるが、それでも僕は、作家と芸術家が、その指導的役割に向けられた異議申し立てへの抵抗におおむね失敗し、その失敗のために今日われわれはより貧しくなったんだと思っている。


2013/11/04

ジョンとポールの往復書簡 ── 翻訳作業再開!

ひと月ほど翻訳仕事から遠ざかっていました。

 クッツェーの自伝的三部作 Scenes from Provincial Life の訳稿を送って以来、すっかり脱力していましたが、見渡せばもう秋。木の葉も美しく色づいて。さあ、今日から作業再開です!

 今日訳していて面白かったのは、通りの名前と文学的連想について(詳細は書きませんが、本になったとき興をそぐので.....)、そして、ベケットがなぜ英語を放棄したか、とか。connotation と denotation。おお、言語学で遠い昔に馴染んだことばたちだ! 60年代に流行った構造主義言語学、クッツェーはこの当時の言語学の申し子であることを公言しています。
 日本でも70年代初頭のフランス語学やフランス文学の周辺には必ずあった「言語学の講座」。わたしも齧りました。なつかしい!

2013/11/02

複数のアフリカ(中)──ブラワヨの『あたしたち、新しい名前が要る』

「神奈川大学評論 76号──特集:アフリカの光と影」(11月末発売予定)に「複数のアフリカ、あるいはアフリカ"出身"の作家たち」という文章を載せ、三つの短編とエッセイを紹介、と書きました。

 一つ目が、J・M・クッツェーの「ニートフェルローレン」

 そして二つ目が、2011年のケイン賞受賞作、ノヴァイオレット・ブラワヨの「ブダペストやっつけに/Hitting Budapest」です。(hit は「めざす」という意味ですが、この作品に登場する子供たちが、なんのためにブダペストという場所をめざすか、ブダペストがどんな場所か、を考えて、あえて「やっつける」としました。)

 ジンバブエ出身の1981年生まれの作家、ノヴァイオレット・ブラワヨが初めての小説『あたしたち、新しい名前が要る/We Need New Names』で、今年のマン・ブッカー賞のファイナルリストに残り、話題をさらったことは記憶に新しいところですが、じつはこの初小説の第一章にかなり書き換えられた「ブタペストやっつけに」が入っています。(私が訳出したのは、ケイン賞受賞作の短編のほうです。)
 
 文体がとっても、とっても特徴があって、あのね、あたし、〜〜なんだよね、それから、それから、〜〜じゃないからね、というふうなおしゃべり文体で、ローティーンの子供たちの目と耳と口と皮膚感覚を全開にして、そして思考を総動員して生きていこうとするようすが伝わってきます。しかし、そこに描かれるジンバブエという国の出来事は、その歴史を含めて、途方もなく苛烈。

 目の前で起きる理不尽な出来事に大人の価値観で意味づけせず、とにかくまっすぐに、彼らならこう考えるだろうな、こうするだろうな、といった位置から物事が見つめられています。子供の心に秘められた根拠のない憧れや希望、どうしようもない悔しさや痛みもふんだんに書き込まれ、生き延びるために幼いうちから否応なく鍛えられる生活力をもありありと描き出していく筆力、したたかな作品です。大人たちのやっていることを見る、子供たちの情け容赦ない視線やことばが、読んでいてホントに痛い。

 とりわけ、早い章(第6章)で明かされる、なぜ、どういうときに「あたしたちに」新しい名前が必要になるか、これはもう胃の腑がきりきりするほど。心身ともにシーンとなります。でも悲壮感というのが不思議とない。そこがうまい。言語や民族や、もちろん国境も突き抜けている。

 そして中盤以降は、おばさんを頼りにアメリカに渡った主人公ダーリンが経験する、ミシガン州デトロイトとカラマズーでの「アメリカン・ライフ」。ナイジェリアとアメリカのあいだで書いてきたのが1977年生まれのアディーチェ、ジンバブエとアメリカのあいだで書いているのが1981年生まれのブラワヨ。共通点はたくさんあるけれど、個別に見ると随分ちがう。

「アメリカのなかのアフリカ人移民」とひとくくりにはできないほど、アメリカのなかのアフリカ人そのものの多様性が具体的に、細部まで、ようやく書かれるようになったことが理解できます。考えたら、当たり前。これは、アメリカ社会のなかに暮らす日本人と、中国人と、韓国人が違うのとおなじことですから。

 ジンバブエはかつて、南部アフリカを植民地化したヨーロッパ勢力の象徴的存在、セシル・ローズの名にちなんで「ローデシア」と呼ばれた国。わたしが初めてアフリカ大陸に足を踏み入れたのは1989年1月、このジンバブエでした。当時は、長い独立戦争を戦って黒人政権を打ち立てて9年、もうすぐ独立10周年、南部アフリカの星といわれていました。

***つづく***

2013/11/01

菊水町の四角い家

11月の「水牛」に、遠い記憶のなかの、北海道の「引揚者の家」について書きました。


よかったら!

2013/10/29

シングルストーリーの「裏切り」by 西加奈子さん


今日の毎日新聞夕刊に、小説家の西加奈子さんがチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのことを書いてくださいました。2007年の第一短編集『アメリカにいる、きみ』のと出会い、アフリカ観をくつがえされた経験について。
 嬉しい! Muchas gracias!


ぱらりとめくったカバーの裏の、著者の写真に一目惚れしてしまったとは! なんか、とっても共感します。翻訳者として.....