Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/08/21

「名誉白人」は名誉なのか???!

 猛暑のなか、クッツェー漬けの毎日で、ブログに書くこともクッツェートリビアばかりです/笑。でも今日は、ちょっとガツン! で行きます。この暑いのに.....と頭すずやかに読んでください。

 日本人は一般に、都合の悪いことは忘れる、知らんぷりする、しょうがないと諦める、この三つにかけては天才だ。でも、今回ばかりは、2011年3月11日以降のさまざまな出来事を見てきて、そのなかで生きてきて、今回ばかりはこの天才性を放棄しなければいけないときに来ていると思う。

 たとえば、こういうこと。あまりにも情けないことだが、愚直に問題にしていきたい。
 先日、若い人たちの前で話をするチャンスがあり、南アフリカという国に「アパルトヘイト」という合法的人種差別システム(搾取システム)があったという話になった。そこで、日本人は「名誉白人」という扱いを受けた時代があった、と話すと、いまの20代の人たちのなかに、高校の授業で「名誉白人」ってのは聞いたような気がするけれど、名誉なことだと習った印象があるという。これには、心底びっくり! アチャーである。

英語とアフリカーンス語で「白人専用」
アパルトヘイトが完全になくなったのは1994年、いま20代の人たちが生まれたころだ。映画「遠い夜明け」も「ワールド・アパート」も知らない、マンデラ来日も知らない世代なのだ。

 ヨーロッパ人種のように白くなりたい(美白?)という願望が日々、ファンションや音楽や映画など、さまざまな媒体から、これでもか、これでもか、と流れてきて、戦後そんな価値観を内面化してきた多くの日本人は、ありのままの自分を受け入れることができなくなった。まあ、これは、いまも、むかしもそうかな? 相当長い時間、この価値観にほとんど暴力的にさらされつづけてきた。(ここ十数年はとりわけ、若い子たちが、とりわけ女の子たちが、不必要に、病的なまでに、どんどん痩せてしまった。痩せなければ、と強迫観念を抱くようになった。)

だからこそ、アジア人であることを一瞬忘れて「名誉白人」扱いされることを、尻尾をふって喜んだのだろうか? オランダと昔ながらのやりとりがあってか、「お前は黄色いカラードだが、特別あつかいして、貿易相手としてだけ白人並みにあつかってやる」というのが「名誉白人」の中身だったのに。
 人種間結婚が禁止されていたから、当時の南アフリカでは日本人と白人のカップル、日本人と黒人のカップルが同一地域に住むことは違法だった。つまりそれだけで逮捕されたのだ。あるいは国外追放。

 それはすっかり忘れて、見たくないものには幕引きをして、アフリカとえいば未開の「暗黒大陸」から、サファリの、冒険の、自然豊かな秘境へ、そして次は「資源大陸」としてのアフリカへ、あくまで「ふつうの人が住み暮らす土地」を横に置いて、見たいアフリカだけに焦点をあてる。それでは、まさにアディーチェのいうシングルストーリーを、意図的に地でいく姿勢だ。

 そもそも「名誉○○」というのは「○○」にはなれないが、特別扱いしてやろうという完全上から目線の差別主義者の思想なのだ。「名誉白人」という語の裏にある歴史的な、優生思想に基づいた深い意味合いをもう一度、しっかり考えてほしい。

 2007年に会ったときジョン・クッツェーも、わたしが「日本人として名誉白人を返上できなくて残念だった!」というと、苦い苦い笑いを浮かべていたっけ。(とまあ、結局、クッツェートリビアで終わるのかっ、また!。。。爆)