2014/06/30

2014年6月30日夜の官邸前

2014年6月30日夜、首相官邸前。国会記者会館屋上からの映像。記録のために。

2014/06/29

あわれ怒りは錐をもむ ── 安東次男「六月のみどりの夜は」再録


2008年7月に書き込んだものを、ここに再録します。
************


かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である
それを押しかえして
酢のにおいががだよう、
練つたメリケン粉の
匂いがただよう。
ひわれた机のまえに座って、
一冊の字引あれば
その字引をとり、
骨ばつた掌に
丹念に意識をあつめ
一字一劃をじつちよくに書き取る。
今日また
一人の同志が殺された、
蔽うものもない死者には
六月の夜の
みどりの被布をかぶせよう、
踏みつぶされた手は
夜伸びる新樹の芽だ。
その油を吸つた掌のかなしみが、
いま六月の夜にかこまれて
巨大にそこに喰い入つている。
目は頑ななまでに伏目で
撫でつくされ
あかじみて
そこだけとびだしてのこつている
活字の隆起を
丹念にまだ撫でている、
それはふしぎな光景である
しかしそのふしぎな光景は
熱つぽい瞳をもつ
精いつぱいのあらがいの
掌をもつている、
敏感な指のはらから
つたわつてくるのは
やぶれた肉に
烙印された感触、
闇にふとく吸う鼻孔から
ながれこんでくるのは
はね返している酢の匂い、

五躰は
夏の夜にはげしくふるえている、

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である、
それらのなかで
机は干割れ
本や鍋や茶碗がとび散つて
それにまじつて
酢で練つたメリケン粉の
匂いがただよう、
いまはただ闇に
なみだ垂れ、
ひとすじの光る糸を
垂れ、
あわれ怒りは錐をもむ、
やさしさの
水晶の
肩ふるわせる……
そんな六月のみどりの夜は
まだ弱々しい。
        (1949・5・30事件の記念に)

                定本『安東次男著作集第1巻』より



************
「1949・5・30事件」というのは、この日、都議会で公安条例制定反対のデモ隊3千人が警官隊と衝突し、1人が3階から落下して死亡した事件のことだ。それから65年とひと月の時間が過ぎて、この土地に。
2008年のそのとき、この国がいまのような状態になると、いったい誰が想像しただろう。2014年6月末日、「集団的自衛権」という名の戦争への加担を可能にする、現政権の明確な憲法違反行為に抗して。


2014/06/28

清岡智比古さんのブログで『記憶のゆきを踏んで』が

じつは少し前に、カリスマ「ふら語教師」の異名をとる清岡智比古さんが、ブログで『記憶のゆきを踏んで』を紹介してくれました。とても嬉しい! Merci beaucoup! とここは「ふら語」でごあいさつ。

 清岡さんとは2011年夏にサラヴァ東京で開かれた「ことばのポトラック vol.3」でごいっしょしました。ブログで紹介してくれたのは、そのとき朗読した詩です。
 清岡さんもご自分の詩を朗読したのですが、慣れない司会役のわたしが、途切れ途切れにゆっくりしゃべるものですから、テレビなどで場を重ねた清岡さんが見かねて、どんどん話を先へ進めてくれたのでした。これまた、Merci beaucoup!

2014/06/24

作家「J・M・クッツェー」ができるまで

明日、発売です。


 クッツェーの『サマータイム、青年時代、少年時代 ── 辺境からの三つの〈自伝〉(インスクリプト刊)がもうすぐ書店にならびます! 全684ページ、3冊をコンパクトに一巻におさめた本なので厚めですが、持つと手に馴染む大きさで、それほど重くありません。本文書体はとてもおしゃれな明朝体です。

 カバーは赤土と灌木のカルーの風景。内陸の町ヴスターまで往復したときに撮った写真です。南アフリカの初夏は空気が乾いていて、明暗がくっきり、ピントもばっちり。澄みわたった空の青かったこと!
 扉に、テーブルマウンテンやケープタウン大学の写真が使われ、ヴスター駅前のユーカリの並木道もあります。ページを開いて、びっくりしました。写真処理のすばらしさ。手に取って、ぱらりと開いてみてください。

 巻末には長めの解説と、11ページにおよぶ詳細な年譜──日本語としては初公開の、作家個人の歴史的事実をたくさん盛り込みました──そして著作リスト。さらに、解説ページには、ボーイスカウトのユニフォーム姿の少年ジョンと、英国紳士風に気取った23歳の青年ジョンと、30代半ばの作家クッツェーの髭の顔写真が・・・。Special thanks to John Coetzee です。フラップからは、軽く微笑む作家のプロフィールがのぞきます。これは近影。
 三冊の自伝的作品は、人間ジョン・クッツェーの生い立ちから、青年期、そして作家 J・M・クッツェーができるまでを作家みずからが描いたフィクションです。

 とまあ、ここまでは宣伝文句をならべましたが、この本を訳し終えて、ゲラを読み終えて、本もできあがってくると、もうほとんどライフワークを終えたような気分、数年来の肩の荷がおりた〜〜、という感じです。

 これで作家J・M・クッツェーの全貌を伝える本が、ようやく出せました。ジョン・クッツェーという人間が形成された背景、作家 J・M・クッツェーが立ち上がった瞬間、それは彼の仕事/作品を深く理解するには不可欠で、それこそが、70歳になる直前にみずから手の内を明かすように第三部『サマータイム』を発表し、世界の読者に伝えようとしていることなのですから(とまあ、わたしなどは思うのですが.......)。
 
 クッツェー作品の普遍性が、この危機の時代に生きる人間としての共感が、日本語使用者である「わたしたち」に投げかけるものに耳を澄ませてみてください。そこには掛け値なしの「生きるための文学」があります。

「クッツェーの真実」を伝える初訳が2冊も入り、全面改訳の1作も含めて本体価格4,000円は、とてもお買い得だと思います! 明日、25日(水)から書店にならびます。もちろんネット書店でも!
 まだまだクッツェー作品の翻訳、出版は続きますよ〜。

2014/06/20

スピヴァクがクッツェーの新作を論じる

あのガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクが、クッツェーの最新作 The Childhood of Jesus の書評を書いている。6月1日付のPublic Books というサイト。

まず、このシンプルな物語は学びのテクストである、読者を意味解明へと引き込み、読み方を学ばせるテクスト、としてこの作品のみならず、クッツェー作品の一般的な特徴を言い当てる。さらに、主要なクッツェー作品を参照し、この作家の全体像を論じながら、新刊(米国で出版されたのは半年ほど前)の単書の評を超えていくのだ。クッツェーという作家の原点に遡って分析するスピヴァクの視点はじつにスリリング。彼女によると、クッツェーは a creative writer of theory(理論を作品内に取り込む実作者、というところか)となる。

「彼は"自分の"ために(これは理論を専門とする作家には難しいが)、かつて植民地だった国へ(で)の白人クレオールの誠実さと愛に対する権利の問題を、積極的に、くり返し、俎上にのせて、かつて植民地化されたものへの遠い憧れにすぎない政治的正しさへの唯々諾々とした隷従を超えようとする。この問題はことによると彼のすべての作品を占めてきたかもしれず、とりわけ『恥辱』や「自伝的」三部作である『少年時代』『青年時代』『サマータイム』、そしてこのThe Childhood of Jesus では顕著かもしれない・・・」

 作家活動を開始したばかりのクッツェーの第一作目『ダスクランズ』の前半部「ヴェトナム計画」に触れ、自伝的三部作に出てくる作家のプロフィールとダブらせながらスピヴァクは論じていく。これはもう、クッツェーが『ダスクランズ』を発表して作家になっていく時期を描いた『サマータイム』(を含む三部作)の解説を書いたばかりの者にとって抜群の面白さである。


 スピヴァクは「ヴェトナム計画」というノヴェラに出てくる若い父親ユジーン・ドーンと5歳の息子の関係から、新作 The Childhood of Jesus で描かれる疑似親子、サイモンとデイヴィッド(あるいは、シモンとダビド)へと長い補助線を引く。クッツェーが「ヴェトナム計画」を新作によって undo 取り消しているようだとスピヴァクは述べて(う〜ん、鋭い!)、クッツェーという作家の全体像を一気に透視しようとする。
『少年時代』や『サマータイム』から具体的に引用して、そこに描かれるカルーという土地へのクッツェーの思いを分析する視線は突き抜けている。

 クッツェー作品の底流には「土地」の問題が常に通奏低音のように響いているが、スピヴァクはこの新作を「コロニアリズムのトポロジーの外側にある土地への愛着を書く一群のテクストとしての最新作」と直感的に位置づけてみたいと述べる。そして彼女自身のことば:「おのれの言語と故郷にナショナリズムを呼び起こしながら感じる不動の安堵は前向きの愛着ではない」としながらも、エリートとサバルタンの土地に対するそれぞれの感情の決定的な差異を指摘し、こう問うのだ。

 植民者エリートは、このサバルタンの無力さ(サバルタンには「そこにいること」しかないという無力さを日々感じて生きていること)へアクセスする権利を獲得したのか? 歴史とは、政治的正しさだけが許容される個人的感情よりはるかに大きいのか?

 そして「The Childhood of Jesus に出てくる、歴史をもたない土地、積極的に記憶を抹消した場所は、ポストコロニアルの白人クレオールという主体が植民地化以前のアフリカの最良を想像する方法なのだと考える」と述べる。

 また、サイモンがデイヴィッドの母親であると直感して子供を委ねるイネスという女性についてスピヴァクは、イネスが住む「レジデンシア」をクッツェー自身の母親の、結婚する前に暮らしていた古い社会を連想させる、と見抜く。やっぱりね。ここはクッツェー作品(とりわけ〈自伝〉三作)を読み込んできた者には、誰しもピンとくるところではないのか。
 幼いデイヴィッドに女の子のような洋服を着せてあまやかすところも、デフォルメされてはいるものの、『少年時代』に描かれる、過剰な愛を息子に寄せる母親の姿に奇妙に重なる。にわか母親になって、子供を夢中になって育てるイネスの姿は、作家が自分の少年時代をふりかえって描く母親のイメージを彷彿とさせはしないか(彼の母親は8歳年下の夫と結婚し、最初の子供ジョンを生んだのが36歳、1940年という時代を考えるとこれは再考に値する)。とにかく彼らは周囲とは歴然と異なるアウトサイダーなのだ。
 こんなにわくわくしながらクッツェー論を読んだのはひさしぶりだ。

スピヴァクの書評のタイトルは聖書の「詩編」を思わせる「Lie Down in the Karoo: An Antidote to the Anthropocene/カルーに身を横たえて:アントロポセンへの解毒剤」だ。サイトにはカルーの写真も出てくる。なかでもスピヴァクが、植民者の末裔=White creole であるクッツェーのこの土地に対する屈折した愛着を(三部作の拙訳につけた解説でもこれについては詳述したが)、『サマータイム』の「マルゴ」の章から引用しながら指摘しているところが興味深い。彼女はこの作品を「あとに残してきたカルーに身を横たえる権利を獲得するための試み」だとする。この結論は面白い。面白いが、「権利を獲得する試み」という表現ははたしてどうか? これはこと旧植民地の「土地」となると、絶対に後へは引けないスピヴァクの姿勢が際立つ読みだ。

 しかし、スピヴァクさん、文中に引用したクッツェー作品のタイトルが一カ所だけ違ってますよ! 日本語訳ではシンプルに『マイケル・K』とした1983年のブッカー賞受賞作は Life & Times of Michael K であって、The Life & Times of Michael K ではありません! この「The あり」「The なし」の問題については、あえて「The なし」にしたのだと、クッツェーがあるインタビューではっきり述べています。まだまだこの間違いはつづくのかしらねえ?! この問題についてはここに書きましたので参照してください。


2014/06/18

スポーツとは負けることを学ぶ場である

 ブラジルで行われているワールドカップ。スポーツとは、それぞれの国家がチームを作ってたたかう催しとは、考えてみれば、「負ける」ことを学ぶ場ではないのか。

 いま最後の訳稿を見ている『Here & Now』──ポール・オースターとJ・M・クッツェーの往復書簡集──に出てくることばだ。そう言っているのはジョンのほうなのだけれど、けだし名言だと思う。

 スポーツ大好き人間のジョンとポール。サッカーやクリケット、野球やテニス、テレビの前にどっかと座って、読みかけの本をほっぽり出して見入る2人の文豪たち。しかし、ただのスポーツ好きにとどまらないところが作家の作家たるゆえんだろうか。ジョンはポールに対してこう書く。

「つまりスポーツは良いことだと僕たちは考えている。しかし、なぜだ? だって、男のスポーツはもちろん人をより良い人間にすることはないし──スポーツでは抜きん出ていても人間としては、たいしたことがない例は掃いて捨てるほどある。だがひょっとしたら、ここには僕たちが見て見ぬふりをしている重要な問題があるのかもしれない」


「スポーツには勝者がいて敗者がいる。あえて言うこともないのは(あまりに明らかだから?)勝者の数をはるかに上まわる敗者がいるということだ」

「プロのテニスについて考えよう。トーナメントには32人の選手が参加する。彼らの半数が第1ラウンドで負け、甘美な勝利を一度も味わうことなく家に帰る。残った16人のうち8人はたった一度の勝利と追放を味わって家に帰る。人間的見地から言うなら、トーナメントでひときわ目立つ経験は敗北という経験だろう」

 そしてジョンはこう結論づける。

「スポーツが教えてくれるのは勝つことについてよりも負けることについてで、理由は簡単、われわれのじつに多くが勝たないからだ。なによりそれが教えてくれるのは、負けたっていいんだ、ということである。負けることはこの世で最悪のことではない、なぜならスポーツは、戦争と違って、敗者が勝者によって喉を掻き切られることはないのだから」

 なるほど! 

2014/06/15

「アフンルパル通信 14号」がとどいた!

ひさびさに出ました。札幌の書肆吉成が出しているアフンルパル通信 14号!

 2年ぶり。わたしも「サイロのある家」という一文を書きました。
 書いたのは少し前のことだったけれど、つい最近、北海道の、生まれ故郷である新十津川を訪ねて、「サイロのある家」に書かれている山二線の赤いトタン屋根の家──まだ建っていた!──と再会してきたばかりだったので、このタイミングのよさに唸りました。でも、行ってみると曲がり角に建っていたサイロの家はもうなかったな。
 
 執筆者の面々は:橋口譲二、木下哲夫、石塚純一、管啓次郎、河野聡子、山田航、山田亮太、小川基、宇波彰、くぼたのぞみ。

 表紙のモノクロの写真がすごい迫力です。管さんの詩はどの詩集におさめられたものだろう。タイトルがその名もずばり、Agend'Ars。4冊のシリーズとして出た詩集、『Agend'Ars』『島の水、島の火』『海に降る雨』『時制論』の思想的根幹をなす詩だと思う。4冊を読んだあと、いま、こうしてAgend'Ars という詩を読んでいると、この詩人の原点/方法論/みずからに課した運命論、のようなものを見る思いがする。初心、ということばもまた思い出される。お薦めです。

2014/06/07

サマータイム、青年時代、少年時代 ── 辺境からの三つの 〈自伝〉

カバーができあがってきました。
 J・M・クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代 ── 辺境からの三つの〈自伝〉』(インスクリプト刊)です。文字部分はすべて校了、作業は編集者の手を離れ、これから印刷、製本に入るところです。お待たせしました。もうすぐです!


 ついに、三部作が一冊になって登場! 書店にならぶのは6月25日ころです。
 カバーに使われた写真は、訳者が南アフリカへ旅した2011年の11月、内陸のヴスターへ向かったときに撮影した、ジョン・クッツェーが愛してやまないカルーの風景。感無量です!

***********
追記:2014.6.9   先ほど版元インスクリプトのサイトに、三部作の詳細がアップされました。訳者解説からの引用もあって、作品の魅力をぞんぶんに伝えてくれます! ネット書店でも、予約受付が始まりました。

2014/06/04

「水牛のように 6月号」にいきさつを少し

詩集『記憶のゆきを踏んで』が出た経緯を「水牛」に書きました。よかったら! タイトルはただシンプルに「22年ぶりの詩集」です。

 午前中に32度という、季節はずれの猛暑の札幌から、昨夜、帰ってきたらAmazon にもアップされていました。6月5日発売です。
 甲賀グロテスクの文字だけの表紙。三つの文字が五行、そろい踏みです。帯には「百里靴」をはく詩人、管啓次郎さんのことばがならんで。といってもAmazon は残念ながら帯なしですが!

 今回の旅は、札幌から高速道路を走って、ついに生まれ故郷の新十津川まで行ってきました。これまた22年ぶりの帰郷です。懐かしい人たちに会えて嬉しかった。かけがえのない時間をすごしました。天に向かって感謝したいような気持ちです。