2017/11/19

秋の光のなかの収穫

つんと鼻にくる冷たい空気と、急激に西にかたむいていく光。そのなかを散歩した収穫。






ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』

遅ればせながら『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著 中公叢書)を読んだ。

 16世紀半ばから17世紀半ばまでの日本がスペイン・ポルトガル人と交易をするなかで、どんなことが起きていたのか。
 キリスト教を受け入れながら、あるいは反発しながら南蛮貿易にたずさわるなかで、戦国時代の「乱取り」と呼ばれる捕虜の習慣によって、あるいは年季奉公的な扱いや、親に売られた子供などが人身売買されて、日本人が太平洋を越え、メキシコやヨーロッパへ、あるいはインドネシア、インドを経由してアフリカ大陸まで渡ったプロセスが、豊富な歴史資料にょって裏付けられ、浮かび上がる。それがこの本の大きな特徴だ。

 奴隷貿易といえば、ポルトガルやアラブの商人によってアフリカ大陸、とりわけ西アフリカからカリブ海を経由して南北のアメリカ大陸へ運ばれた黒人奴隷を思い浮かべることが多い。しかし、じつは、多くのアジア人が奴隷として売買されていたことは、南アフリカのケープタウンにある「スレイブ・ロッジ」を訪れたときから、筆者にもはっきり意識されてきた。この本は、そのもやもやした歴史的背景をクリアに開いて見せてくれるのだ。スレイブ・ロッジに残された記録として、奴隷の名前に日本人と思われる名があった理由が、その経緯が、この本を読むと納得できる。アジア、とりわけマカオ、マニラ、インドのゴアなどからポルトガル領アフリカ(現在のモザンビーク)や南アのインド洋に面したナタール(現ダーバン)を経由して、カフィール(アフリカ人奴隷)やインド系、他のアジア系の人たちといっしょに、日本人奴隷が南アフリカに入っていったことがわかるのだ。

 本文がわずか200ページにも満たない薄い本だが、そこに描き出される「世界史」の概要は、これまで日本国内で採用されてきた教科書では、少なくともわたしの世代では、まったく教えられなかった「世界史」の盲点を開いてみせてくれる。その意味でも、新たな「大航海時代」ともいえるグローバル化の時代に、「世界の歴史」として国境や言語を超えて共有できる、歴史家たちの貴重な仕事といえるだろう。本書は著者ルシオ・デ・ソウザの元本を岡美穂子がダイジェスト版として書いたものらしく、元本の翻訳もすでに完了しているという。出版されるのが楽しみだ。

2017/11/14

J・M・クッツェーの自己形成期(3)

そしてTLSの記事はこんなふうにまとめられる。
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 ライブラリーは若き芸術家の発達過程における鍵となる瞬間を刻みながら、最初期の文学的嗜好との決別を示してもいる。『少年時代』(拙訳 インスクリプト)』で述べられるように、クッツェーはイーニッド・ブライトンの推理小説、『ハーディ兄弟』シリーズ、「ビグルズ」の物語を貪るように読みふける。だが、この自伝作品はこういった本以外のものを読もうとする早熟な野心をも記録している。「もしも偉人になりたかったら、まじめな本を読まなければいけないのはわかっている」と。
 本棚はまた、クッツェーのヨーロッパの伝統的古典との複雑で、発展途上の関係を示す鍵となる瞬間を物語っている。エッセイ「古典とは何か?」のなかで、クッツェーはバッハの「平均律クラヴィア曲集」を聞いてその場に釘付けになった経験を「その音楽が続いている間、私は凍りついてしまい、呼吸する気力さえなかった。音楽がそれ以前には決して語りかけなかったような仕方でその音楽に語りかけられていたのである」(『世界文学論集』田尻芳樹訳 みすず書房)と述べる。彼が詳述するように、それはプラムステッドの家の裏庭で、「15歳だった1955年の夏、ある日曜日の午後」に起きた光景だ。バッハ体験の瞬間は極めて重要な出来事であり、知的発展と文化的嗜好の方向性を立て直す契機を刻印しながら、クッツェーが「ヨーロッパのハイカルチャーを選び取るシンボリックな」瞬間を示している。しかし当時を振り返りながら、クッツェーは自分の情熱的反応は「その音楽に固有の性質」によって惹き起こされたものなのか、あるいはバッハとは当時の辺境的南アフリカにおける「社会的、歴史的行き詰まり」を表象するものではなかったのか、と問いかける。若いクッツェーがその当時収集しはじめた書籍類は、その意味で、このような切望の結果だったといえるだろう。
エリオット、ワーズワース、キーツが並ぶ
 クッツェーはここに写っている書物のうちの何冊かとはそれ以後も長く深い関係を結んでいく。2010年にポール・オースターに宛てた手紙のなかで、書棚にあった一冊、トルストイの『戦争と平和』について「半世紀のあいだ、大陸から大陸へ移動する僕についてきた。僕はそれに感情的な結びつきを感じている──あの途方もなく大きなことばと思想の構造物であるトルストイの『戦争と平和』に対してではなく、1952年にリチャード・クレイ・アンド・サンズという印刷所から出てきて、ロンドンのどこかにあるオクスフォード大学出版局の倉庫から出荷され、ケープタウンにあるその出版局の販売代理店に配送され、そこからジュタ書店を経由して僕のところへやってきたモノに対してだ」(『ヒア・アンド・ナウ』拙訳、岩波書店)と書いた。写真のなかで、書棚の下段中央付近にある、背の低い、かなり厚めの本がそれだ。
 『戦争と平和』の隣にある、何度も読み込まれた本もまた重要である。それはフェイバー&フェイバー社から戦後出版されたT・S・エリオットの『選詩集 1990-1935』で、ペンギン版のエリオットの散文作品補遺として出されたものだ。第二の自伝作品『青年時代』でクッツェーはエリオットについて、彼の「詩と初めて出会って圧倒されたのはまだ高校生のころだ」と書いている。「Homage」というエッセイのなかでクッツェーは「エリオットの詩はじつに魅力的だと思い」「T・S・エリオットふうな詩を書いた」と吐露している。作家クッツェーがイニシャルを二つ重ねるスタイルは(J.M.はジョン・マクスウェルの略)、トマス・スターンズが言うように、エリオットの影響といえそうだ。
 書棚にある何冊かの来歴をたどることも可能だろう。たとえば『ワーズワースの詩作品』は、自伝作品に記述されたことばを信じるなら、クッツェーの父親から譲られたものかもしれない。『少年時代には「ある日、父親がワーズワースの本を手にして彼の部屋に入ってきて、「おまえはこれを読んだほうがいい」 といって、鉛筆でしるしをつけた詩を指し示す」気まずい場面が描かれている。やがて父親が戻ってきて「ティンタン修道院・Tintern Abbey」について息子と話をしようとするが、困惑した少年は知らんぷりを決め込み、興味がないという。クッツェーのロマン派文学との関係には相反する心情が混在しているのは確かである──少なくとも『恥辱』(1999)のなかでバイロンへのオブセッションを取りあげていることからも、それは推測できるだろう。
 自己形成期の読書を振り返りながら、クッツェーはエッセイ「Homage」のなかで、これは「人が人生において、ほぼ不可避的に、自己のアイデンティティを定義したり、あるいは、少なくともその境界づけを開始する」時期であり、「成長するにつれて失われる熱烈な没頭によって」本を読む時期だと述べている。こういった思春期の気持ちがゆるんだとしても、むしろ、さらに自意識の高い、自己批判的な態度がそれに取って代わり、『ダスクランズ』(1974)から始まるすべての本にその刻印が残されることになったのだ。

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 二段重ねの書棚にならんだギリシア哲学、古典思想書、イギリスのロマン派詩人の詩集など、どれも『青年時代』で言及されたり、のちの作品にくっきりと刻印されるものだ。しかし、16歳の少年が、これは読破しなければならないという強烈な野心によってならべた書物だということでもあるのだ。高校生というのは硬い哲学書を「読破」することを自分に課したがる時期でもあって、消化不良を起こしながらも、とにかく「読む」。クッツェーはおそらくこのうちから何冊かを大陸から大陸へ彼が移動するあいだずっと携えながら暮らしてきたのだろう。オースターに宛てた手紙に書いたように、たとえば『戦争と平和』、たとえば……
 クッツェーの自己形成期には、詩の本やロシア作家の小説はあってもイギリス小説がなかったことは彼の作品を考えるうえで、どこか決定的なことを物語っているように思えてならない。そこがわたしのような英文学門外漢にとって、まことに興味深いところなのだが。
(了)


J・M・クッツェーの自己形成期(2)

ケープタウンの画廊で開かれる写真展
ウィッテンバーグの文章から少し紹介しよう。
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 J・M・クッツェーの最初の自伝作品『少年時代』にあるように、「すごい速さで、完全に没頭して」読むことは、クッツェーが早いころに確立した習慣だった。だが、若いジョンが我を忘れるほど熱中して読んだものとは、いったいどんなものだったのだろう?
──中略──
 下の写真が雄弁に物語るのは、これがクリエイティヴ・アートへ初めて分け入ろうとするクッツェーの最初の制作物だったことで、クッツェーがハイスクール時代(最近のオリヴァー・レディの論によれば)フォトグラファーになろうと思っていたことを表している。クッツェーは上質なカメラ、イタリア製のウェガ35ミリ(ライカIIより低価格のコピー製品)を購入していた。暗室をしつらえ、そこでネガをポジに現像してプリントにした。一家は裕福ではなかったので、経済上の理由からプリントは重要な写真に限られた。この写真は少年が、地図、キーツの詩、新聞、雑誌のカバー、ピアノ曲の楽譜(バルトークのルーマニア風舞曲)といった印刷物に熱中したことを示す写真数枚のうちの1枚である。

 ──中略──
ずらりと並ぶ古典
 この写真で注目せずにいられないのはその中身だ。16歳にしては、ずいぶん野心的で生真面目な選書である。20世紀前半に知の民主化をめざしたエヴリマン、オクスフォード、ペンギン各社から出版された詩集、哲学書、古典の翻訳から構成されているのだ。
 照明があまりよくないとはいえ、数多くのエヴリマン叢書の背表紙からいくつかの書名が判読できる。プラトン、聖アウグスティヌス、ホッブズ、スピノザ、ルソー、ロック、カント、デカルトの名があり、ロシア文学の古典であるドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『戦争と平和』の文字が読み取れる。英文学の小説は皆無、シェイクスピアさえなく、あるのはT・S・エリオット、ワーズワース、テニスン、キーツの詩の選集だ。ユークリッドの『原論』などは数学者になろうとするクッツェーの野心を示しているが、マルクスの『資本論』はたいした影響力をもたなかったようだ。これらの書物のうち何冊かは、のちに彼のフィクションに痕跡を残すことになるが、将来大きな影響力をもつようになるパウンドやベケット、そしてカフカはこの時点ではまだ姿を見せていない。
つづく

J・M・クッツェーの自己形成期(1)

非常に興味深い写真がネット上で見られるようになった。JMクッツェーが少年時代に、といっても15歳か16歳のころに、みずから撮影したスナップショットだ。思春期のジョン・クッツェーが何をめざそうとしていたか、3回に分けて紹介する。

16歳ころプラムステッドの家で撮影されたショット
クッツェーの自伝的三部作『少年時代』『青年時代』『サマータイム』の第一部は、少年ジョンが8歳になり、ケープタウンから内陸の町ヴスターへ引っ越したところから始まるが、5歳か4歳、あるいは3歳ころかと思える体験もエピソードとして盛り込まれている。最初の記憶をさかのぼる話が秀逸だ。母親とバスに乗って山間の道路を移動しているときのキャンディーの包み紙をめぐる記憶、あるいは、ヨハネスブルグの託児所の窓から見た、道路で犬が……というシーン(まあ、創作かもしれないけれど)。そして最終章は、アニーおばさんが死んで、ストライプのダサい制服を着て墓地へ行く場面で終わる。作品内ではこのとき少年は14歳、しかし実際にアニーおばさんが亡くなったのは、カンネメイヤーの伝記によれば大学入学後だから、これは時期を前後させた創作部分だ。

 第二部の『青年時代』では、すでに大学に入学して親元を離れて暮らしている。つまり17歳以降のことが語られるのだ。しかしこの時期と微妙に重なるようで重ならない思春期に、クッツェーが凝りに凝っていたのが写真だったことが明らかになった。上の写真は15歳から16歳ころ、つまり聖ジョゼフ・カレッジに通ってクリケットのクラブに属していたジョンが撮影したものだ。

 2017年11月7日付TLSに、この写真とともにハーマン・ウィッテンバーグの面白い文章が載った。ウィッテンバーグはJMクッツェーの二つのシナリオを書籍化した人で、クッツェーのハイスクール時代の写真ネガを託された人でもあったことはすでに書いた
「Absorption and intensity・没頭と熱中」というタイトルのこの記事は、16歳ころのクッツェーのライブラリーをめぐる内容で、二段組みの木製の本棚にならんだ50数冊の書物の中身について興味深い事実を教えてくれる。なんと、そこには英文学の小説は皆無で、シェイクスピアさえなかったと。では、いったいどんな本があったのだろう?
つづく

2017/11/13

毎日新聞にインタビュー記事が載りました

自分のブログでお知らせするのをすっかり忘れていました(汗)。

11.9 毎日新聞夕刊
11月9日(木)の毎日新聞夕刊にインタビュー記事が載りました。

 読者を試す真実の曖昧さ
  クッツェー第一作を新訳

 J・M・クッツェーの衝撃のデビュー作『ダスクランズ』の新訳が9月に発売になり、それをめぐる話ですが、クッツェーのことになると、とりとめもなくあっちこっちへ話が飛んで、とまらなくなる訳者の話をきちっとまとめてくれたのは、記者の鶴谷真氏です。Muchas gracias!

 記事はネットでも読めます。 
『ダスクランズ』、じわじわ動いています。そしてまた、新たな作業がはじまりました。

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追記:『ダスクランズ』の帯について、備忘のために、あらためてここに記しておきます。

<暴力の甘美と地獄を描く、驚愕のデビュー作>
  ヴェトナム戦争期の米国と、植民地期の南部アフリカ
  男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか

帯の部分は基本的に編集者の領分ですが、今回は訳者もあらかじめ相談を受けて意見や対案などを出し、その結果が今回の帯になりました。
 ある男性読者から「男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか」というところに強いジェンダー・バイアスがかかっている、とご意見をいただきました。でも、この部分は訳者が考えたわけではなく、若い編集者Aさんの考案によるもので、訳者としては、鋭い、優れた切り込みだと感じていることをお伝えしておきます。そしてAさんは女性ではありませんので、誤解しないでくささいね。⭐️

2017/11/03

アデレード大学エルダーホールの夕べ

備忘録として3年前の催しの動画を。アデレードで開催された Traverses: J.M.Coetzee in the World の初日:2014.11.11 の夕べ全体をYOUTUBE で見ることができる。クッツェーが朗読したのは、なんと、Age of Iron の冒頭だった。

2017/11/02

テンプレートの枠内で思考するとは

今日の東京郊外は夕焼けがとてもきれいだった。今年は寒暖の差が大きく、樹々の紅葉がじつに美しい。散歩から帰るまもなく、近くのふとん屋さんに頼んで作ってもらったふかふかの純綿の敷布団が届いた。「もう65年もこの商売をやっているけど、このワタはいいワタで……」とにこやかに語る職人気質の白髪の店主が、みずから運んできてくれたふとんだ。長いあいだこつこつと続けてきた仕事に誇りをもっている人の笑顔もまたじつに美しい。

 クッツェーとオースターの往復書簡集の日本語訳『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)が出版されたのは2014年の秋だった。そのなかで、ジョンがポールにあてて書いた2009年5月27日付の手紙のなかに、こんな箇所があった。


──これほど英語にどっぷり浸かった環境で暮らすことが僕におよぼす影響はひどく特異なものになってきた。つまりそれは僕自身と、僕がおおまかにアングロ的「世界観(ヴェルトアンシャウウング)」と呼ぶものとのあいだに懐疑的距離を作り出し、その世界観に組み込まれたテンプレートの枠内で人がどう思考し、どう感じ、どのように他の人たちと関係を結ぶかといった点で、その距離は広がるばかりだ。(p82-83)


 この「テンプレートの枠内」という表現が、それ以来ずっと頭のなかで、ちりちりと音を立てつづけている。訳者は日本語が第一言語で、10歳から学んできた英語も、学生時代にやったフランス語も、「それで」暮らしたことのない言語だ。生まれてこのかた、ほぼ全面的に「日本語のテンプレートの枠内で」思考してきた。日本語でものを考え、感じ、理解したことを記録し、あれはどうだったかと自問し、自分以外の人たちと日常的に挨拶やことばをかわし、相手のことばを理解し、記憶してきた。
 でも、ずっとなにか違和感を感じて、狭い日本語の枠内から外へ出たい、と考えてきたのも事実だ。つまり、日本語以外の「テンプレート」のなかで思考してみたいと感じてきたと言い換えることができるかもしれない。クッツェーの上のことばを読んでそう思った。
 クッツェーが「英語のテンプレートの枠」をなんとか超えようとする姿勢には、とても共感する。しかもクッツェーはそれを「英語で」やろうとするのだ。この一見矛盾する「立ち位置」に、わたしのような「日本語で」日本語に抵抗しようとする者が共感する余地があるのかもしれない。