Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2017/11/26

「挑発的な」風のなかでほかほか

今日は朝から大勢で建物の周囲や芝生などの庭そうじ。日差しは暖かいけれど風は冷たく、緋寒桜の美しく色づいた黄色い葉を揺らしながら吹いていて、確実に冬が近づいているのを感じました。
 さて、人の心の温かさを試してくる挑発的な??その風のように😎──「挑発的」という表現でクッツェー『ダスクランズ』を的確に評してくれたのは、江南亜美子さんです。

「さあ行くぞ」。ちなみにこの掛け声は……冒頭一行目の言葉でもある──中略──作家クッツェーは、南アフリカの白人という自身のルーツにもかかわる物語を、三十歳にしてすでにこのように提示していた。ひと癖ある本作は、あくまで読者に挑発的で、まさにクッツェーらしさが横溢している。

写真は江南さんのtwitterから拝借しました
「本の雑誌」の12月号、「新刊めったくたガイド」のページに、いっしょに並んでいるのがこれまたすばらしい本たちです。ありがたきかな。寒風のなか心がほかほかします。
 
都甲幸治著『今を生きる人のための世界文学案内』(立東社)
・エンリーケ・ビラ=マタス著/木村榮一訳『パリに終わりはこない』(河出書房新社)
・ダニエル・デヴォー著/武田将明訳『ペストの記憶』(研究社)
・J・M・クッツェー著/くぼたのぞみ訳『ダスクランズ』(人文書院)

2017/11/19

秋の光のなかの収穫

つんと鼻にくる冷たい空気、急激に西にかたむいていく光。そのなかを散歩した収穫。






ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』

遅ればせながら『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著 中公叢書)を読んだ。

 16世紀半ばから17世紀半ばまでの日本がスペイン・ポルトガル人と交易をするなかで、どんなことが起きていたのか。
 キリスト教を受け入れながら、あるいは反発しながら南蛮貿易にたずさわるなかで、戦国時代の「乱取り」と呼ばれる捕虜の習慣によって、あるいは年季奉公的な扱いや、親に売られた子供などが人身売買されて、日本人が太平洋を越え、メキシコやヨーロッパへ、あるいはインドネシア、インドを経由してアフリカ大陸まで渡ったプロセスが、豊富な歴史資料によって裏付けられ、浮かび上がる。それがこの本の大きな特徴だ。

 奴隷貿易といえば人は、ポルトガルやアラブの商人によってアフリカ大陸、とりわけ西アフリカからカリブ海を経由して南北のアメリカ大陸へ運ばれた黒人奴隷を思い浮かべることが多い。しかし、じつは、多くのアジア人が奴隷として売買されていたことは、南アフリカのケープタウンにある「スレイブ・ロッジ」を訪れたときから、筆者にもはっきり意識されてきた。この本は、そのもやもやした歴史的背景をクリアに開いて見せてくれるのだ。スレイブ・ロッジに残された記録として、奴隷の名前に日本人と思われる名があった理由が、その経緯が、この本を読むと納得できる。アジア、とりわけマカオ、マニラ、インドのゴアなどからポルトガル領アフリカ(現在のモザンビーク)や南アのインド洋に面したナタール(現ダーバン)を経由して、カフィール(アフリカ人奴隷)やインド系、他のアジア系の人たちといっしょに、日本人奴隷が南アフリカに入っていったことがわかるのだ。

 本文がわずか200ページにも満たない薄い本だが、そこに描き出される「世界史」の概要は、これまで日本国内で採用されてきた教科書では、少なくともわたしの世代では、まったく教えられなかった「世界史」の盲点を開いてみせてくれる。その意味でも、新たな「大航海時代」ともいえるグローバル化の時代に、「世界の歴史」として国境や言語を超えて共有できる、歴史家たちの貴重な仕事といえるだろう。本書は著者ルシオ・デ・ソウザの元本を岡美穂子がダイジェスト版として書いたものらしく、元本の翻訳もすでに完了しているという。出版されるのが楽しみだ。

2017/11/14

J・M・クッツェーの自己形成期(3)

そしてTLSの記事はこんなふうにまとめられる。
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 ライブラリーは若き芸術家の発達過程における鍵となる瞬間を刻みながら、最初期の文学的嗜好との決別を示してもいる。『少年時代』(拙訳 インスクリプト)』で述べられるように、クッツェーはイーニッド・ブライトンの推理小説、『ハーディ兄弟』シリーズ、「ビグルズ」の物語を貪るように読みふける。だが、この自伝作品はこういった本以外のものを読もうとする早熟な野心をも記録している。「もしも偉人になりたかったら、まじめな本を読まなければいけないのはわかっている」と。
 本棚はまた、クッツェーのヨーロッパの伝統的古典との複雑で、発展途上の関係を示す鍵となる瞬間を物語っている。エッセイ「古典とは何か?」のなかで、クッツェーはバッハの「平均律クラヴィア曲集」を聞いてその場に釘付けになった経験を「その音楽が続いている間、私は凍りついてしまい、呼吸する気力さえなかった。音楽がそれ以前には決して語りかけなかったような仕方でその音楽に語りかけられていたのである」(『世界文学論集』田尻芳樹訳 みすず書房)と述べる。彼が詳述するように、それはプラムステッドの家の裏庭で、「15歳だった1955年の夏、ある日曜日の午後」に起きた光景だ。バッハ体験の瞬間は極めて重要な出来事であり、知的発展と文化的嗜好の方向性を立て直す契機を刻印しながら、クッツェーが「ヨーロッパのハイカルチャーを選び取るシンボリックな」瞬間を示している。しかし当時を振り返りながら、クッツェーは自分の情熱的反応は「その音楽に固有の性質」によって惹き起こされたものなのか、あるいはバッハとは当時の辺境的南アフリカにおける「社会的、歴史的行き詰まり」を表象するものではなかったのか、と問いかける。若いクッツェーがその当時収集しはじめた書籍類は、その意味で、このような切望の結果だったといえるだろう。
エリオット、ワーズワース、キーツが並ぶ
 クッツェーはここに写っている書物のうちの何冊かとはそれ以後も長く深い関係を結んでいく。2010年にポール・オースターに宛てた手紙のなかで、書棚にあった一冊、トルストイの『戦争と平和』について「半世紀のあいだ、大陸から大陸へ移動する僕についてきた。僕はそれに感情的な結びつきを感じている──あの途方もなく大きなことばと思想の構造物であるトルストイの『戦争と平和』に対してではなく、1952年にリチャード・クレイ・アンド・サンズという印刷所から出てきて、ロンドンのどこかにあるオクスフォード大学出版局の倉庫から出荷され、ケープタウンにあるその出版局の販売代理店に配送され、そこからジュタ書店を経由して僕のところへやってきたモノに対してだ」(『ヒア・アンド・ナウ』拙訳、岩波書店)と書いた。写真のなかで、書棚の下段中央付近にある、背の低い、かなり厚めの本がそれだ。
 『戦争と平和』の隣にある、何度も読み込まれた本もまた重要である。それはフェイバー&フェイバー社から戦後出版されたT・S・エリオットの『選詩集 1990-1935』で、ペンギン版のエリオットの散文作品補遺として出されたものだ。第二の自伝作品『青年時代』でクッツェーはエリオットについて、彼の「詩と初めて出会って圧倒されたのはまだ高校生のころだ」と書いている。「Homage」というエッセイのなかでクッツェーは「エリオットの詩はじつに魅力的だと思い」「T・S・エリオットふうな詩を書いた」と吐露している。作家クッツェーがイニシャルを二つ重ねるスタイルは(J.M.はジョン・マクスウェルの略)、トマス・スターンズが言うように、エリオットの影響といえそうだ。
 書棚にある何冊かの来歴をたどることも可能だろう。たとえば『ワーズワースの詩作品』は、自伝作品に記述されたことばを信じるなら、クッツェーの父親から譲られたものかもしれない。『少年時代には「ある日、父親がワーズワースの本を手にして彼の部屋に入ってきて、「おまえはこれを読んだほうがいい」 といって、鉛筆でしるしをつけた詩を指し示す」気まずい場面が描かれている。やがて父親が戻ってきて「ティンタン修道院・Tintern Abbey」について息子と話をしようとするが、困惑した少年は知らんぷりを決め込み、興味がないという。クッツェーのロマン派文学との関係には相反する心情が混在しているのは確かである──少なくとも『恥辱』(1999)のなかでバイロンへのオブセッションを取りあげていることからも、それは推測できるだろう。
 自己形成期の読書を振り返りながら、クッツェーはエッセイ「Homage」のなかで、これは「人が人生において、ほぼ不可避的に、自己のアイデンティティを定義したり、あるいは、少なくともその境界づけを開始する」時期であり、「成長するにつれて失われる熱烈な没頭によって」本を読む時期だと述べている。こういった思春期の気持ちがゆるんだとしても、むしろ、さらに自意識の高い、自己批判的な態度がそれに取って代わり、『ダスクランズ』(1974)から始まるすべての本にその刻印が残されることになったのだ。

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 二段重ねの書棚にならんだギリシア哲学、古典思想書、イギリスのロマン派詩人の詩集など、どれも『青年時代』で言及されたり、のちの作品にくっきりと刻印されるものだ。しかしこれは、16歳の少年が読破しなければならない、という強烈な野心によってならべた書物だということでもあるのだ。高校生というのは硬い哲学書を「読破」することを自分に課したがる時期でもあって、消化不良を起こしながらも、とにかく「読む」。クッツェーはおそらくこのうちから何冊かを大陸から大陸へ彼が移動するあいだずっと携えながら暮らしてきたのだろう。オースターに宛てた手紙に書いたように、たとえば『戦争と平和』、たとえば……
 クッツェーの自己形成期には、詩の本やロシア作家の小説はあってもイギリス小説がなかったことは彼の作品を考えるうえで、どこか決定的なことを物語っているように思えてならない。そこがわたしのような英文学門外漢にとって、まことに興味深いところなのだが。
(了)


2017/11/13

毎日新聞にインタビュー記事が載りました

自分のブログでお知らせするのをすっかり忘れていました(汗)。

11.9 毎日新聞夕刊
11月9日(木)の毎日新聞夕刊にインタビュー記事が載りました。

 読者を試す真実の曖昧さ
  クッツェー第一作を新訳

 J・M・クッツェーの衝撃のデビュー作『ダスクランズ』の新訳が9月に発売になり、それをめぐる話ですが、クッツェーのことになると、とりとめもなくあっちこっちへ話が飛んで、とまらなくなる訳者の話をきちっとまとめてくれたのは、記者の鶴谷真氏です。Muchas gracias!

 記事はネットでも読めます。 
『ダスクランズ』、じわじわ動いています。そしてまた、新たな作業がはじまりました。

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追記:『ダスクランズ』の帯について、備忘のために、あらためてここに記しておきます。

<暴力の甘美と地獄を描く、驚愕のデビュー作>
  ヴェトナム戦争期の米国と、植民地期の南部アフリカ
  男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか

帯の部分は基本的に編集者の領分ですが、今回は訳者もあらかじめ相談を受けて意見や対案などを出し、その結果が今回の帯になりました。
 ある男性読者から「男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか」というところに強いジェンダー・バイアスがかかっている、とご意見をいただきました。でも、この部分は訳者が考えたわけではなく、若い編集者Aさんの考案によるもので、訳者としては、鋭い、優れた切り込みだと感じていることをお伝えしておきます。そしてAさんは女性ではありませんので、誤解しないでくささいね。⭐️

2017/11/03

アデレード大学エルダーホールの夕べ

備忘録として3年前の催しの動画を。アデレードで開催された Traverses: J.M.Coetzee in the World の初日:2014.11.11 の夕べ全体をYOUTUBE で見ることができる。クッツェーが朗読したのは、なんと、Age of Iron の冒頭だった。

2017/11/02

テンプレートの枠内で思考するとは

今日の東京郊外は夕焼けがとてもきれいだった。今年は寒暖の差が大きく、樹々の紅葉がじつに美しい。散歩から帰るまもなく、近くのふとん屋さんに頼んで作ってもらったふかふかの純綿の敷布団が届いた。「もう65年もこの商売をやっているけど、このワタはいいワタで……」とにこやかに語る職人気質の白髪の店主が、みずから運んできてくれたふとんだ。長いあいだこつこつと続けてきた仕事に誇りをもっている人の笑顔もまたじつに美しい。

 クッツェーとオースターの往復書簡集の日本語訳『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)が出版されたのは2014年の秋だった。そのなかで、ジョンがポールにあてて書いた2009年5月27日付の手紙のなかに、こんな箇所があった。


──これほど英語にどっぷり浸かった環境で暮らすことが僕におよぼす影響はひどく特異なものになってきた。つまりそれは僕自身と、僕がおおまかにアングロ的「世界観(ヴェルトアンシャウウング)」と呼ぶものとのあいだに懐疑的距離を作り出し、その世界観に組み込まれたテンプレートの枠内で人がどう思考し、どう感じ、どのように他の人たちと関係を結ぶかといった点で、その距離は広がるばかりだ。(p82-83)


 この「テンプレートの枠内」という表現が、それ以来ずっと頭のなかで、ちりちりと音を立てつづけている。訳者は日本語が第一言語で、10歳から学んできた英語も、学生時代にやったフランス語も、「それで」暮らしたことのない言語だ。生まれてこのかた、ほぼ全面的に「日本語のテンプレートの枠内で」思考してきた。日本語でものを考え、感じ、理解したことを記録し、あれはどうだったかと自問し、自分以外の人たちと日常的に挨拶やことばをかわし、相手のことばを理解し、記憶してきた。
 でも、ずっとなにか違和感を感じて、狭い日本語の枠内から外へ出たい、と考えてきたのも事実だ。つまり、日本語以外の「テンプレート」のなかで思考してみたいと感じてきたと言い換えることができるかもしれない。クッツェーの上のことばを読んでそう思った。
 クッツェーが「英語のテンプレートの枠」をなんとか超えようとする姿勢には、とても共感する。しかもクッツェーはそれを「英語で」やろうとするのだ。この一見矛盾する「立ち位置」に、わたしのような「日本語で」日本語に抵抗しようとする者が共感する余地があるのかもしれない。