Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2017/07/31

思い出す「まゆだま」

 今日からまたプチ夏休みに入った。今回の休みは暑さ負け状態寸前で小休止するための休みだ。ついにリビングにエアコンが入った。仕事場にはないが、いざとなればそこに逃げ込めるという、まあいってみれば、最後の切り札のようなものか。

  たま川にさらす手づくりさらさらに何そこの児のここだかなしき

これは子供にたいする歌じゃないのか、という意見にわたしも一票! 忘れないうちに書いておきたい。谷崎由依著『囚われの島』を読んで、もうひとつ痛切によみがえった情景のことを。この本を読んで、ありありと思い出したのは、裏日本と呼ばれた、ひとつづきの土地のことだ。そこに綿々とつらなる村社会の内実だ。越前─越中─越後。

 谷崎さんは「村」を描いてきた人だとあらためて思った。ファンタジックに。この日本社会の根っこにある「村」を、そしてその人間関係の救いがたさ、男尊女卑、それでも、そこでしか生きられなかった女たちの細やかな心、体、その生と性をまるごと描きたかったのだなと感得した。311以後、見渡せば日本中にいまだに広がる「村社会」を。

 旧植民地ながら、じつは、わたしもその湿り気を皮膚からじっとりと吸いあげるようにして育ったのだ。土地は移っても、ひきずっていく移民たちの「故郷」という繭玉の内部を目にしながら。旧正月になると黒い梁から伸びる枝につけられた「まゆだま」。
 だからわたしにとって、因習に対する反発とともに、これは不思議な懐かしさも感じられた小説だったのだ。