2017/05/29

クロッホとクッツェーとコウト

昨年の9月にブエノスアイレスのサンマルティン大学で行われた「南の文学」講座のことは、ここでも触れましたが、その後、アンキー・クロッホとミア・コウトとJMクッツェーが仲良くならんだ写真が見つかりました。記録のために、ここに貼り付けます。
南部アフリカ出身の3人の作家たち

写真が小さいとジョン・クッツェーの顔が怖い顔に見えるけれど、拡大してみてください。3人とも、かすかに微笑んでいるんですよ〜〜。

2017/05/28

反アパルトヘイト・ニュースレターのリンク先

昨日開かれた「反アパルトヘイト運動と女性、文学」の場で、アフリカ行動委員会のニュースレターのアーカイヴが移設されていたことを知ったので、リンクをいくつか更新しました。かつての投稿をここに再掲いたします。

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2013/12/31(の投稿です)

2013年がもうすぐ終る。今年はドリス・レッシング、チヌア・アチェベ、そしてネルソン・マンデラが逝った。来年早々にはそのネルソン・マンデラ追悼特集があちこちの雑誌に掲載されることだろう。1950年代にアパルトヘイトに抗して抵抗運動を組織したネルソン・マンデラとその仲間たち。たぐいまれな品格と、その意志と思想の強さで、27年という獄中生活を耐えた人は、南アフリカの抵抗運動、解放運動のシンボルとなっていった。

 日本でも古くは60年代初頭に、南アフリカの人びとと繋がろうとする反アパルトヘイト運動が芽吹いた。70年代初めにマジシ・クネーネが来日して当時の若者たちにあたえた「クネーネ・ショック」、それを契機に運動は着実に継続され、ネルソン・マンデラ解放時に最盛期を迎えた。この運動についてはもっと知られてもいいだろう。また当時の日本社会がどんなようすだったかも振り返ってみるのは悪くない。
 その運動のおおまかな歴史(日本各地に自発的につくられたグループがあり、それぞれに思い思いのかたちで展開された)を、東京のグループである「アフリカ行動委員会」の実質的中心人物、楠原彰氏がまとめたものがここで読める

 わたしが知っているのは80年代末、そのマジシ・クネーネというズールー詩人の叙事詩の翻訳で悪戦苦闘していたころからネルソン・マンデラが解放され、来日した時代のことだ。それについては中村和恵編『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店 2009)に詳しく書いたので、ぜひ。
 特筆にあたいするのは、日本における反アパルトヘイト運動が、それまでわたしが抱いていた「運動」のイメージを快く裏切ってくれたことだ。つまり、組織特有の束縛が一切なく、あくまで自発的個人の意思による活動の場として確保されていたのだ。これは60年代末の全共闘に端を発する運動がセクト化してやせほそり内向きになっていくのを学内でちらちら横目で見ていた者には、じつに新鮮だった。
 だから、集団がからきしダメというわたしのような人間もすっと入ることができた。つまり、あの運動は「あ、それ、わたしがやります!」と手をあげて事実やってしまう人間の集まりであり(そのなかでみんな力をつけた)、命令とか指令とか動員とか、上下関係とか、初心者とかベテランとか、先輩とか後輩とか、そういうものとは無縁だったのだ。人と人の関係が、いわゆる「縦系」の縛りから完全に解放されていた。

 きみもぼくもわたしもあなたも、来る者はこばまず、去る者は追わず。ほんの数年ではあったけれど、のびのびと、やりたいことをやらせてもらったように思う。自分の仕事ともリンクさせることができたし、大いなる学びの場として、また、面倒な人間関係もおなじ志を仲立ちにしてのりこえ、深めていけることも学んだ。だから、心地よく裏切られたり勘違いしたりしたこともあったけれど、恨みとか怨嗟とは無縁だった。世はバブルたけなわ、喧噪とは縁のないわたしの30代から40代にかけての例外的事件だった。

 先日、20年ぶりにそのころの仲間数人とテーブルを囲む会があった。同窓会などとは違って、すっとあの時期に戻っておしゃべりできて、さらに現在この社会で起きていることをも気兼ねなく話題にできた。そういう人間関係。これは貴重。
 運動の最盛期、東京を中心に活動していた「アフリカ行動委員会」は「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」を毎月発行し、定期購読者に郵送していた。1987年の準備号を出した森下ヒバリ編集長から始まり、つぎの高柳美奈子編集長が第三種郵便にする努力を惜しまず、それを引き継いだ須関知昭編集長の超人的な遠路往復で、1995年まで全85号が発行された。その全ページがその須関氏の努力で「アーカイヴ」にpdf ファイルとしてアップされ、読めるようになった。

 当時はまだインターネットはなかった。ようやく小型のワープロが出まわってきたころで、紙面はそれを駆使して打った原稿をそのまま写植で起こして即印刷された。そのため、字間行間に独特のニュアンスが残る。購読料だけでやりくりしたので、経費上ざらっとした紙が使われ、当時はまだコピーも上質ではないため、滲みも多い。いまから見れば紙面は苦労がしのばれるものではあるが、わずか20年のあいだに、われわれを取り巻く活字媒体の変化は恐ろしいほど変化したことをも実証している。
 
 あのころの南アフリカと日本の関係がどうだったのか、バブルにわく日本社会の裏側で、南アフリカの解放運動を横目でながめながら、経済的に裕福になった不名誉な、恥知らずの「名誉白人」がどう振る舞ったのか。80年代に白人アパルトヘイト政権下の議員たちと「友好議員連名」なるものをつくり事務局長をやった当時の国会議員、のちに長らく東京都知事をやった人の名前も登場する。あの時代に若者だった人たち、子供だった人たち、そしていま社会の最前線で活躍する人たちが、なにを得てなにを失い、なにを引きずっているのか。
 いずれ、各号の「目次」もできるはずだ。そうなれば、もっと使いやすくなるだろう。これはまちがいなく貴重は記録だ。2013年大晦日の、わたしからのプレゼント。


 では、みなさま、よいお年をお迎えください。

2017/05/26

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの魅力全開トーク

さる5月4日にニューヨークで開かれたNYTimes のトークです。聞き手は編集者のラディカ・ジョーンズ。限定公開アップですので、ご注意ください。



ちょっと長いトークですが、核心をついたやりとりで話は進みます。

 会場からの質問にも丁寧に答えるアディーチェの姿がいい。かなり突っ込んだ質問が出ますが、なかでも、「天才」という考えはもう過去のものだ、とか、人種差別ではなく肌の色の違いによる(まさに南アフリカのアパルトヘイトを彷彿とする)差別意識がTVからコマーシャルなどで流されて若い女性に内面化される問題──だから「ファッション」はだたの「ファッションの問題」にとどまらないわけですが──とか、現代社会を包むそんなもやもやを払って、クリアに見せてくれるアディーチェのことばには、とても説得力があります。
 
 最後に質問者に対して、Enjoy your life! と加えるところがとてもいい。

2017/05/22

ふたたび!「クッツェー」について、「クッツィー」ではなく

ジョン・クッツェーのCoetzee の発音は、このブログにも、『マイケル・K』の訳者あとがきにも書きましたが、クッツェー [kutsé:] です(左の作家自身の手紙を参照してください! 下から二段目のパラグラフに、My family name is pronounced /kutse:/. The /u/ is short, the stress falls on the second syllable, the syllable break is between the /t/ and the /s/.とあります)。
 
 オランダ人が南アフリカへ移住したことでさまざまに変化した名前ですが、作家本人が「クッツェー [kutsé:] 」だといっているのですから、これはもう疑問の余地がありません。というか、直接面と向かって質問し、この耳で確認した者としては、あくまで彼の意思を尊重しなければなりません。

 ところが、先日ちょっとびっくり、という体験をしました。
 来日したデイヴィッド・アトウェルやジャン=ミシェル・ラバテさんたちは「クッツィー」と発音するのです。クッツェーの弟子であるアトウェルさんには、「いや、クッツェーだ、作家本人にも確かめたのだ」と上の手紙のコピーもお渡ししました。

 以下に三つの動画を貼り付けます。最初の部分をよく聴いてください。クッツェーがアデレード・ライターズ・ウィークで最初に My name is John Coetzee. と自己紹介をしています。

まず、2008年、シリ・ハストヴェットを紹介するところ。



次に、2008年、デイヴィッド・マルーフを紹介する動画。



さらに、2010年、ジェフ・ダイヤーを紹介する動画。



どう聴いても、クッツェー、です。クッツィー、ではありませんね。

 この間違いは、英語という言語には [e:] という長母音がないことからくるものと思われます。Wikiの英語版も「クッツィー」です。何度かわたしも修正を試みたのですが、上の動画を参照として貼り付けても、英語には [e:] という長母音がない、とはじかれました。(パートナーのドロシー・ドライヴァーさんも、かつて何か修正を試みたがやはりはじかれた、と伝えられています。Wikiって!!!

 英語圏の人たちは、クッツェーという英語で書く作家が自分のオリジンにこだわって名前はオランダ語風に(1980年代まではアフリカーンス語風といっても通ったはずで、クッツェー自身もアフリカーンス語風の発音だといっていましたが)読むという主張が受け入れられないのでしょうか。もちろんオランダ語圏ではごくふつうに、クッツェー、と発音されています。(2010年の70歳の誕生日を祝って、アムステルダムで開かれたイベントの動画などを参照してください。)

 またデイヴィッド・アトゥエルさんにクッツェー自身から来た説明(上の手紙)を見てもらいました。オランダ語の文法書に、[e:] という長母音は存在します。英語内にすんなり入らない音は、作家本人の意思であっても、受け入れられないのでしょうか。あるいは2009年のBBCの情報が、誤って理解されているのかもしれません。
 そのBBC情報ですが、2009年に『サマータイム』がブッカー賞のファイナルに残ったときBBCから問われてクッツェー自身が答えたもののようです。そのBBCのサイトには「kuut-SEE」と表記され、この後ろ部分を英語を母語とする人たちは[i:]音と読んだようです。ここが決定的な間違いなのですが、[e:]という音をもたない言語を母語とする人たちには、英語で作品を書くノーベル賞作家が英語の発音以外の音で自分の名前を発音するということが受け入れられなかったのかもしれません。どうなんでしょうねえ。
 Wikiの頑固さについては、いろいろ複雑な要因はありそうですが、なんだか英語的テンプレートによる世界観の肥大がここにもあらわれていると思わざるをえません。グローバル言語の英語だけで世界を見ようとする世界観には大きな違和感を感じると、クッツェー自身が『ヒア・アンド・ナウ』で吐露していましたが、その片鱗がこんなところにもあらわれているのでしょうか。

 さて、オランダと長いつきあいのある日本は、これをどうするか?
 オランダ語とも長いつきあいのあった日本語は、これをどう受け入れるか?
 グローバル言語である英語圏の勢いに乗るのか、それともオランダ語をオリジンとして自分の名前の音にこだわりつづけているJMクッツェー自身の意思を尊重するのか。英語圏文学にたずさわる人たちの良識、歴史観、アイデンティティー観などが問われる場面でしょうか。アルファベットのままいけたらいいのですが、日本語ではなにしろ原音に近いカタカナ表記をしなければいけないわけですから。

 ちなみに、南アフリカでは、クツィア、クツィエ、といわれることが多く、このことをジョン本人にたずねると、It's a dialect. それは方言です──という返事が返ってきたことは以前ブログに書きました
 まあアルファベット言語圏では表記さえ正しければ、それをどう読もうと、読み手のバックグラウンドによって差異が出るのも当然で、個々の「なまり」についてはどれが「正しい」とはいえないのですが、それはあくまでアルファベット言語圏内の話で、カタカナにしなければならない日本語圏内の翻訳者は苦渋の選択を迫られますが。

 訳者としては作家本人の主張を尊重して「クッツェー」とします。

 ただ、ラグビーなどで Coetzee という監督が来日して新聞や雑誌などで「クッツェー」と書かれているのを見ると、あああ、と複雑な思いです。おそらく南アフリカ出身の彼らは、南アフリカ社会で呼ばれているように、自分は「クツィア」だと主張するかもしれないからです。😅。

付記:文面を少し修正しました。

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付記:2017.5.29現在、Wikiの英語版をのぞいてみると [kut'se:] となっていました。訂正してくださった方に感謝します!

2017/05/19

無関心な人びとの共謀

 敵を恐れることはない──敵はせいぜいきみを殺すだけだ。
 友を恐れることはない──友はせいぜいきみを裏切るだけだ。
 無関心な人びとを恐れよ──かれらは殺しも裏切りもしない。
 だが、無関心な人びとの沈黙の同意あればこそ、
 地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。
                      
                  ヤセンスキー『無関心な人々の共謀』より
                      
共謀罪法案が衆議院法務委員会で強行採決された。こんなひどい法案が、こんな雑で非論理的な説明のままゴリ押しされて成立してしまうのを放置するこの社会、民主思想のかけらも感じられない政治家たちを国会へ送り込んでしまう選挙民の愚挙、それを抑制したり阻止したりできないままの無責任はどこからくるのだろう。

 1970年代に読んだこんな詩を思い出す。思い出すだけでなく、何度でも認識しなおしたい。レジスタンスの方法も各人で、あきらめずに考えていこう。あきらめないで。

付記:まだ「成立」したわけではない。法務委員会で強行採決されただけだ。だから。。。。

2017/05/18

トレヴァー・ノアとチママンダ・アディーチェが語ります!

すごい組み合わせです。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェとドレヴァー・ノア、そしてランダムハウスの編集者P・ジャクソン。PEN ワールド・ヴォイスが開催した「表現の自由」のためのプログラム。5月3日の録画です。



 ナイジェリアで子供時代を送ったアディーチェは、軍事独裁政権下で生きることがどういうことかを身をもって体験している。自分はアメリカへ移民したわけではない、自分はナイジェリア人で、ナイジェリアとアメリカの両方に半々に住んでいるのだと明言するのが印象的。アメリカの楽観主義の危険性を指摘する。

また、アディーチェがパン・アフリカニズムについて質問されて、アメリカスの奴隷制はアメリカで始まったわけではなく、アフリカから始まったといって、ブラジルのバイーアやアフロ・コロンビアにも言及するところが興味深い。

南アフリカで1984年に生まれたドレヴァー・ノアが、初めてアメリカにやってきてやったショーのエピソードがまた、めっちゃ面白い、というか、考えさせられるんだけど、アメリカという国の内実がぼろぼろ出てくる感じ。笑い、というのは誰と何を共有するかというのが、とっても微妙なものだから。これは深い。フィクションよりもっと深いかも。

 話のなかで一箇所だけ、アディーチェの口からジャパンという語が出てくる。ユニヴァーサルの話に絡めて。ここは耳をしっかり傾けたいところ。あなたの本はユニヴァーサルだ、といわれることはアディーチェにとっては決して褒めことばではないのだ。なぜか。来日したときも明言していた。それ以前からも語っていた。『アメリカにいる、きみ』の「あとがき」にも書いたんだけど。
 チママンダがドレヴァーのお母さんについて最後の方で語る内容が、すごく心にしみる。とにかく、南アフリカ出身の作家とナイジェリア出身のコメディアンの絡み、これを見逃す手はない。


2017/05/17

3日後に迫りました ── B&Bのイベント!

B&Bのイベントが3日後に迫ってきました。もう一度ここに告知いたします。星野智幸さんとアディーチェの『男も女もみんなフェニミストでなきゃ』について語ります。どきどき。

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チママンダ・アディーチェの『男も女もみんなフェニミストでなきゃ』刊行記念イベント、詳細が決まりました。風薫る5月、土曜の午後のマチネーです。ゲストはなんと、作家の星野智幸さん!

"フェミニスト"が生まれかわる

日時:5月20日(土曜日)午後3時~5時
場所:下北沢 B&B
出演:くぼたのぞみ × 星野智幸

予約も始まりました。こちらから。

*****B&Bのサイトから引用します****

ナイジェリアに生まれ、アメリカとナイジェリアに暮らす作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが、2012年12月にTEDxEuston(アフリカに焦点を当てて毎年開かれている会議 http://tedxeuston.com)で行なったスピーチ「We Should All Be Feminists」のテキストが、この春、日本語版として書籍化されました!
「フェミニストという言葉やフェミニズムという考え方そのものに、ステレオタイプの型がはめられているように思えてならない」という問題意識から、アディーチェは「フェミニスト」を「ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね──という人」のすべてだと定義します。このスピーチからは、ビヨンセがアディーチェの声をサンプリングした曲を発表したり、Dior Tシャツをつくったり、スウェーデン政府が16歳のすべての子どもにテキスト全文を配布するなどの広がりを見せ、世界中で話題になりました。 

男性、女性にかぎらず、どんな人も、窮屈な価値観から自由になろう。「フェミニスト」ということばをリフレッシュさせるのは、わたしたちひとりひとりなのだから――そんなメッセージを短いながら過不足ない構成でいきいきと伝えてくれるこの本には、誰もが励まされることでしょう。

本書の刊行を記念し、アディーチェの作品を日本語に訳してきたくぼたのぞみさん、そして本書の書評を執筆され、そこで「ジェンダーに縛られているのは実は男も同じなのであり、アディーチェの言葉に解放を味わってもいいのだ。平等をともにめざすフェミニストたることは、男にとっても自分を取り戻す行為なのだから。」と述べる作家の星野智幸さんをお招きし、おふたりに本書のテキストを中心に、フェミニズムについて、アディーチェについてお話いただきます。

この集いに、新たなフェニミストとして、あなたもぜひお越しください。

We Should All Be Feminists
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星野智幸さんの書評はいま発売中の『文藝』に掲載されています。こちらもぜひ!

2017/05/15

J.M.クッツェー『三つの物語』ドイツ語版も

JMクッツェーのフランス語版『三つの物語』が出版されたことは昨年すでにお知らせしましたが、今年5月にはドイツ語版も出たようです。 この写真がそれ! とても瀟洒な装丁です。


 このうちの一篇「スペインの家」は昨年の秋、雑誌「すばる 10月号」に訳出しましたが、三つの物語を一冊の薄いおしゃれな本にして、日本語版もぜひ出したいなあ、と思っているのですが……。

2017/05/13

ふたたびJMクッツェーの動画です

5月10日(水曜日)、人権擁護組織によって開催されるマーチ(アルゼンチン最高裁が76年からの軍事政権時代に行われた誘拐、拷問など人権侵害の罪でいま刑に服している軍人たちの刑期を半減させる判決をしたことに反対するデモ)のために(下の付記参照)、JMクッツェーが『夷狄を待ちながら』の冒頭部分を朗読する動画がアップされています。朗読に入る前はスペイン語です。



 場所は、後ろの書架のようすを見ると、図書館か資料室のようなところですね。
 クッツェーが述べていることは、76年以降のアルゼンチンの軍政時代と南アフリカのアパルトヘイト政権下の拷問などについてだと思われます。スティーブ・ビコが虐殺されたのが67年、76年にはソウェト蜂起が起きました。
 この動画は、facebookでデイヴィッド・アトウェルさんがシェアしてくれました。Muchas gracias, David!

付記:MSさんの情報によれば──そこで議会はその判決には問題があるので、判決を一時的に差し止めるよう働きかけ、その動きは街路にも波及した。作家たちも抗議に加わり、クッツェー氏もその流れに賛同し、MALBA(ラテンアメリカ芸術博物館、公立ではないパトロンが複数いるNGO運営の美術館)での講演を中止した。

つまり、クッツェーはこの判決に抗議するために(付記:というか10日に予定されていた講演とマーチがぶつかるので、マーチと連帯するために)、MALBAで予定されていた講演を延期し(アリアドネの糸社から出版した個人ライブラリーの話をする予定だったらしい)、その代わりに翌日、『夷狄を待ちながら』から朗読したようです。
 
MALBA で予定されていた講演は次回9月にかならず行うと約束したと伝えられています。https://www.facebook.com/museomalba/photos/rpp.35416449206/10155330947624207/?type=3&theater

スペイン語のできる方は、こちらの記事をぜひ!

2017/05/05

ボゴタのブックフェアでのJMクッツェー:動画!



先日、コロンビアのボゴタで開かれたブックフェアに参加したJMクッツェーが、市内の書店をまわる動画がアップされています(と書いたら、詳しい方がこれはブックフェアの会場です、と指摘してくださいました。さすが! Muchas gracias!)。ならべられた本の説明を受けたり、偶然そこにいあわせたファンといっしょに写真を撮ったり、本にサインをしたり。アルゼンチンのほかにも、毎年のように訪ねているコロンビアを、クッツェーはとても気に入っているようです。このクッツェーの姿からは、英語圏ではなくスペイン語圏のアメリカスに親しみをおぼえているのが伝わってきますね。

 それにしても、ベストを脱いだシャツの背中に、バンドエイドみたいなものが貼られているのは何? だれかがどさくさに紛れて貼ったのかな? なんだか、ニヤリとなりました。

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2017.5.6付記──ボゴタのフェアでクッツェーが読んだのは The Glass Abattoir という短編で、エリザベス・コステロと息子のジョンが登場。動物を屠殺するためのガラス張りの屠殺室を作ったらいい、人間が動物になにをしているか知るために、という話のようです。それについてのレポートが「The Bogota Post」に載りました。エマ・ニューベリーという人が記事を書いています。でもそのサイトの写真は今年の写真じゃないですね!(調べるとこの写真のクレジットは、Coetzee in 2014. EPA/Mauricio Duenas Castaneda!
 3年前の写真でした。今年の写真をあげておきます。ほら、背景もクッツェーのネクタイの色も全然ちがう!「ボゴタ・ポスト」の記事はファクトチェックが不完全ですねっ!