2017/04/26

「翻訳ハイキング」:現代詩手帖に詩を一篇!

鶯色の表紙に汽船が浮かぶ。今月の現代詩手帖で「旅する現代詩」という特集をやっている。わたしも「翻訳ハイキング」という詩を書いた。ハイキングもまたちいさな旅だからね、というこじつけ。

 ずらりとならんだ名前が「翻訳」にかかわってきた人たちなのが、この特集の「旅」の意味をあらわしている。
 ジェフリー・アングルスさんと柴田元幸さんの対談も面白そうだし、アンソロジーが「エクアドル現代詩」で訳者には千里靴を履いて、いつもいつも飛行機に乗っている管啓次郎さんの名前があり、エッセイには山崎佳代子さんや吉田恭子さんの名前もある。旅ばかりしている人たちだ。

 そして作品として7人の名前が。隣に中村和恵さんの名前があるのが、嬉しい。和恵さんもまた旅の人だ。みんな、ぱらぱらしてみてね!

2017/04/21

『男も女もみんなフェニミストでなきゃ』刊行記念イベント決定!

チママンダ・アディーチェの『男も女もみんなフェニミストでなきゃ』刊行記念イベント、詳細が決まりました。風薫る5月、土曜の午後のマチネーです。ゲストはなんと、作家の星野智幸さん!

"フェミニスト"が生まれかわる

日時:5月20日(土曜日)午後3時~5時
場所:下北沢 B&B
出演:くぼたのぞみ × 星野智幸

予約も始まりました。こちらから。

*****B&Bのサイトから引用します****

ナイジェリアに生まれ、アメリカとナイジェリアに暮らす作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが、2012年12月にTEDxEuston(アフリカに焦点を当てて毎年開かれている会議 http://tedxeuston.comで行なったスピーチ「We Should All Be Feminists」のテキストが、この春、日本語版として書籍化されました!
「フェミニストという言葉やフェミニズムという考え方そのものに、ステレオタイプの型がはめられているように思えてならない」という問題意識から、アディーチェは「フェミニスト」を「ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね──という人」のすべてだと定義します。このスピーチからは、ビヨンセがアディーチェの声をサンプリングした曲を発表したり、DiorがTシャツをつくったり、スウェーデン政府が16歳のすべての子どもにテキスト全文を配布するなどの広がりを見せ、世界中で話題になりました。 

男性、女性にかぎらず、どんな人も、窮屈な価値観から自由になろう。「フェミニスト」ということばをリフレッシュさせるのは、わたしたちひとりひとりなのだから――そんなメッセージを短いながら過不足ない構成でいきいきと伝えてくれるこの本には、誰もが励まされることでしょう。

本書の刊行を記念し、アディーチェの作品を日本語に訳してきたくぼたのぞみさん、そして本書の書評を執筆され、そこで「ジェンダーに縛られているのは実は男も同じなのであり、アディーチェの言葉に解放を味わってもいいのだ。平等をともにめざすフェミニストたることは、男にとっても自分を取り戻す行為なのだから。」と述べる作家の星野智幸さんをお招きし、おふたりに本書のテキストを中心に、フェミニズムについて、アディーチェについてお話いただきます。

この集いに、新たなフェニミストとして、あなたもぜひお越しください。
We Should All Be Feminists!

*****
星野智幸さんの書評はいま発売中の『文藝』に掲載されています。こちらもぜひ!

2017/04/20

第5回「南の文学」のテーマは映画!

 2015年から毎年2回、ブエノスアイレスのサンマルティン大学で行われている「南の文学」講座。第5回目にあたる今年は、5月3日から7日まで。テーマは「本からスクリーンへ」、つまり「映画」! 文学作品をシナリオに書くことについて学ぶコースがあるとか。

 ゲストはオーストラリアから映画『Disgrace』のシナリオを書いたアナ・マリア・モンティセッリ、『ロミュラス、わが父』(日本での上映名は「ディア・マイ・ファーザー」)の原作者レイモンド・ガイタ、アルゼンチンからはトリスタン・バウアー監督が参加する予定らしい。おもな講師陣がUNSAMのサイトにアップされているのでぜひ!


 そうだ、すっかり忘れていた。クッツェーの第三作『夷狄を待ちながら』がコロンビアの若手監督シーロ・ゲーラによって映画化されるんだった。詳しくはここで。

*****
追記:加筆しているうちに、消えてしまった箇所があって、あらためて書き直しました(汗)。講師陣については、ある記事を参照して書いたのですが、公式サイトのほうが確かかも。

2017/04/12

みほんがきた!──『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著『男も女もみんなフェニミストでなきゃ』、みほんが届きました! We Should All Be Feminists.  ひゃっ!

白地に墨文字が浮かぶ、シンプルな装丁です。帯のオレンジ色が鮮やか。縦が167mm、横が124mmという小ぶりの本で、予定より少し早く、4月18日から発売です。定価1200円+税(河出書房新社刊)

 帯に推薦のことばを寄せてくださったのは、アディーチェとおなじ年に生まれた作家の西加奈子さん。


──あらゆるボーダーを越えて皆の心にするりと入り込み、皆を心から笑わせ、くつろがせ、でも絶対に核心となる言葉を逃さず、皆に「心から考える」ことを促すことができる彼女に、私は10代の少女みたいに夢中になった。              ──雑誌「SPUR」2017.2から──


Muchas gracias!  Merci beaucoup! Grazie mille! Muito obrigado! 非常感謝你!большое спасибо! 대단히 감사합니다! Daalụ nke ukwuu!  আপনাকে অনেক ধন্যবাদ! Eskerrik asko! شكرا جزيلا! आपका बहुत बहुत धन्यवाद! Tack så mycket! Veel dank! மிக்க நன்றி! Asante sana! Enkosi kakhulu! Terima kasih banyak! Nagyon szépen köszönjük! Vielen Dank! Cảm ơn nhiều! Вялікі дзякуй! Kiitos paljon!
Çok teşekkür ederim! ──かぎりなくGoogle 翻訳したくなります😆。だって、アディーチェの作品はこれまでに30以上の言語に翻訳されているんですから。

*****
 じつは、5月20日にイベントを予定しています。アディーチェの本をめぐるイベントは、これが初めてかもしれません。いまから、わくわく、どきどき。ゲストは豪華です! ちょっと緊張します。
 
 イベントに来てくださった方々が、女の人も男の人も、話を聞いているうちにだんだん気持ちが楽になってきて、帰るころには元気になっている、そんなイベントにできたらいいな、とわたしは思っています。だって、フェミニズムってそもそも、男でなくても女でなくても、だれもがみんな、人と人がフェアな関係で生きていけるようになるためのものなんですから。

 詳細は決まりしだいお知らせしますっ!

2017/04/09

抒情詩との決別──安東次男のことば

 安東次男氏が逝ってから15年がすぎた。今日4月9日は彼の命日。1950年8月、安東次男は初詩集『六月のみどりの夜わ』を出した。「あとがき」から引用する。


 ぼくは時には政治という風景を、時には文学という風景をじぶんに許されたものとしてしらずしらずそれをゆるめたかたちで書いてきたようにおもう。しかしこれは安易にあまえた態度であり、最後のぎりぎりのところでじぶんの人間的立場をあいまいにするものだということを感じはじめている。
 そういうところからぼくはもういちど歌いなおさねばならぬ。ぼくにはアラゴンのいうような「たたかい」も「人」もうたえてはいない。そのことはぼくに、あらゆる「たたかい」の場に於て──ぼくがそれを黙認してきたかたちになつたかつての日本帝国主義侵略期の戦争をもふくめて──いかに抵抗を持ちつずけることがむつかしいかということをおしえた。このおしえはぼくにとつてもう決定的なものとなるであろう。
 そういうところからぼくは持続する歌をうたっていきたい。感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ。

(下線は引用者)


人それを呼んで反歌という

「叙情詩は危ない」時代がある、という危機感をもったのはいつだろう。抒情的なものに感動し、なにかと一体化する至福感に酔って、足元を一気にすくわれていくのは危ないと思ったのはいつだろう。抒情的なものに満たされる自分がいることに気づいたときがあった。日本的抒情(あわれ)が現実を見えなくすることにも、そのとき気づいた。うっとりと溶ける、自他の境界が消える、それはこの土地では、下手をすると、自己憐憫や自己惑溺と表裏一体だ、という覚醒が危機感のように襲ってきたのはいつだろう。


 抒情については、1969年の激動の時間のなかでよく考えた。それはよく覚えている。抒情というのとは少しずれるが、セックスによって全宇宙との一体化をめざすヒッピー思想が嫌いだったのは、それが理由かもしれない。女は当然のように「一体化される客体」としてもとめられた時代だ。それを称揚する歌も流行った。奥村チヨの「恋の奴隷」、広田三枝子の「人形の家」。和製フォークもひどく薄っぺらく思えた。いつか足をすくわれる、日本浪漫派のように、と思った。

 暴力について、人と人がかかわることについて、両方の立場から考えてみることを自分に課したのもそのころだった。人とのかかわりが、結果として、抑圧や暴力となってしまうことがあるのかと、愛も、情も、そういうものを伴わずにはありえないのだろうか、と。


 以来、ぬくもりはいつも渇いた場所で見つけてきたように思う。男も女も、厳しい表情がふいに破れて笑顔になるときほど、その人の優しさが強く感じられるときはない。

 たぶん、抒情詩と別れたのは、あの時代だったのかもしれない。うっとりする、足をすくわれる、それはなにかに盲目になることを意味すると、気づいてしまったからだ。Love is Blindという歌に、だから、泣いた。


 安東次男のことを、晩年は「国内亡命者」のように暮らしていた、といったのは確か 粟津則雄氏だった。

 この国を捨てばやとおもふ更衣   流火

 しかし、いまにして思えば、安東次男のことばは、あの戦争に駆り出された被害者としての自己認識はあっても、加害者としての自己認識は不完全だった大正生まれの、わたしの親の世代に共通するものだったかもしれない。

「自然は じつに浅く埋葬する」と歌った詩人は、日本語の外部へ出ることを最終的に恐れ忌避した。その問題を問題として問いそこねた次世代である「われわれ」は、いま、まだ不完全な自己認識を、自己への批判性を、時代の裂け目に試されているような気がする。


2017/04/05

「すばる 5月号」にミア・コウトの「フランジパニの露台」が

今月号の「すばる」には、表紙にはありませんが、「すばる海外作家シリーズ」の34回アグネス・オーエンズと35回ミア・コウトが掲載されています。オーエンズは柴田元幸さんの翻訳と解説、コウトはわたくしめの拙訳と解説です。

 アグネス・オーエンズはスコットランド出身の作家(1926~2014)で、今回は「アニー・ロジャーソン」と「金貸し」という二編の短編が訳されています。グラスゴー近辺を舞台にした労働者階級の家族の物語で、どれもとても面白い。

 一方のミア・コウトは1955年生まれで、モザンビークのポルトガル語で書く作家です。今回訳した「死んだ男の夢」は長編(というか中編ですね)『フランジパニの露台』の第1章にあたります。作品については少し前にここに書きました。よかったら、ぜひ!