2017/09/16

J・M・クッツェーとUNSAMの仲間たち

9月12日と13日の両日、アルゼンチンのブエノスアイレスにあるMALBAおよびUNSAMで開かれた「南の文学」の写真をいくつか、備忘のためにアップしておく。

MALBAでアナ・カスミ・スタールと

JMクッツェーとカルロス・ルタ
スペシャル・ゲスト、キャロル・クラークソン
クラークソンの話にはヘッドフォンは不要😎

研究発表
ヘッドフォンでシンポを聞きながらメモするクッツェー、めずらしく黒いシャツ姿
「Foe」の演劇キャスト、スタッフたちと
左端がアナ・カスミ・スタール、3人目がキャロル・クラークソン
UNSAMの仲間たち、みんな笑顔



2017/09/15

お誕生日おめでとう!──チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

オレンジ賞授賞式 2007
今日9月15日は、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの誕生日です。『パープル・ハイビスカス』でデビューしたチママンダ・アディーチェは当時27歳でした。1977年生まれの彼女も今年で40歳。

Happy Birthday, Chimamanda!!

初来日2010
最年少でオレンジ賞を受賞した『半分のぼった黄色い太陽』(2006)と、アフリカ人で初めて全米批評家協会賞を受賞した『アメリカーナ』(2013)という2冊の傑作長編小説で大ヒットを飛ばしたアディーチェ。
 昨年はTEDTalkの第2弾『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』のタイトル文字がディオールのTシャツの胸を飾って、ファッション界でも大きな話題をさらいました。「フェミニスト」ということばがそれで新たな生命を吹き込まれたように思います。そのアディーチェは、いまや一児の母です。

2016年秋
今年もまたノーベル賞が話題になる時季がやってきましました。まだ40歳のアディーチェが、すでにその渦のなかにあるというのはまったくの驚きです。
 アディーチェの日本デビューをはたすべく、それまであたためてきたプランが、日本独自の短編集『アメリカにいる、きみ』となって河出書房新社から出たのが2007年。早いものであれから10年です。2010年の来日をはさんで日本でも多くの読者にめぐまれているアディーチェ。

 これからがますます楽しみな作家ですね。


2017/09/09

『ダスクランズ』──J・M・クッツェーのデビュー作


みほんができた。作家が30代前半に書いたデビュー作は、「クッツェー、すげえ!」と口走りたくなるような本だった。こう書くか、ここまで書くか!と。

新訳『ダスクランズ』(人文書院刊)
彼の作品を訳しはじめて何年になるだろう。ペンギン版の『マイケル・K』と出会ったのは1988年だから、かれこれ30年か……とつい回顧的になってしまう。まあそういう年齢だからね(笑)。なにこれ?という驚きから始まり、ただならぬ作家と知って居住まいを正し、翻訳者としてこれは外せないと思うところを調べているうちに今日にいたった。この30年、いまも発見の連続なのだ。

 最初のきっかけとは前後するが、南アフリカ関連の書籍や短編をいくつか訳してきた。収穫は大きかった。それは翻訳する作品の時代背景を探るための、訳者として欠かせない作業にとどまらず、作家の生い立ちや考え方を形成したものを知る作業でもあった。いや、過去形ではなく、現在形としてそうなのだ。

・IDAF/UNESCO『まんが アパルトヘイトの歴史』1990
・マジシ・クネーネ『アフリカ創世の神話』1992
・ベッシー・ヘッド『優しさと力の物語』1996
・ゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』2012
・メアリー・ワトソン「ユングフラウ」2017──雑誌「すばる 10月号」

J.M.Coetzee in the World

クッツェーは「数々の偽装を凝らした作品」を書いてきた。だから、いろんなアプローチが可能だ。しかし彼にとってまず切実なテーマは「歴史の哲学」だった。『ダスクランズ』に入った第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」は、米国滞在中に書きはじめた作品で、やむなく南アフリカへ帰国するころには、ほぼできあがっていた。この部分を訳しながら、作家としてのスタートラインを再確認できたのは大きかった。ここでクッツェーはみずからの「歴史的ルーツ」と「同時代的な現在」を見出そうとしたのだ!

 この作品には、自分が生まれ育った土地を中心にしたスパンの長い歴史を、強烈な「透視」によって貫こうとする強い意志がみなぎっている。それはいまだから見えるもので、『ダスクランズ』が発表された1974年は、かの地にはアパルトヘイトという人種に基づく暴力的搾取制度があり、それがクッツェー作品とどう繋がるか、部外者には見えにくかった。

カンネメイヤーの伝記
米国滞在期にヴェトナム戦争報道や反戦運動を目の当たりにして帰国してから、クッツェーは第一部「ヴェトナム計画」を書いた。1994年、日本語の訳書として4冊目にあたる『ダスクランズ』の初訳が出たころは、この二部構成の不可解な作品で作家がいったい何をしようとしているのか、よくわからないと言われたものだ。 
「歴史の哲学」を軸にして、二つの土地をゆるく、ときに緊密につなぐこの『ダスクランズ』から、ポストアパルトヘイトの状況を非情なまでに明晰な文体で描いた『恥辱』へと、数々の技巧を駆使した作品をクッツェーは書き継いでいった。だが、その底流を支えるものが誰の目にも明らかになったのは、2012年に「クッツェー・ペーパー」が公開され、JCカンネメイヤーの伝記や、デイヴィッド・アトウェルの本が出たあとだった。

自伝的三部作
とはいえ、2009年に出た自伝的三部作の最終巻『サマータイム』には、『ダスクランズ』を書いてデビューする若い作家の姿がリアルに描かれていた。『少年時代』や『青年時代』にくらべてフィクション性が強く、妻も子もいない独身者という設定になっているが、それでも、ここにはデビュー当時の作家の心情が強く滲み出ていた。当時の自分に対する作家自身のコメントが、登場人物の口を借りてはっきりと語られ、長い時間軸の上に自分の仕事をのせて、強烈な光をあてながら分析しているのだ。だから、『サマータイム』を訳したときから、『ダスクランズ』で始まるクッツェー作品全体を見直す作業が、避けて通れない課題になってしまった。

『ダスクランズ』の翻訳中には、これが、ここが、作家 J・M・クッツェーの紛れもない出発点だったのか、と再確認する瞬間が何度かあった。そこには、クッツェーがさまざまな実験を試みながら作品を書いていく萌芽がほぼすべて出そろっていたのだ。たとえば、作品は最初から「翻訳」だった。まさに born translated だ。作者が作中人物をどこか「外側から見ている感覚」が常につきまとっていた。運命に翻弄される人物を描き出す筆致は、じつは、サミュエル・ベケットのような究極のダーク・コメディをもとめていた、などなど。

 作家、J・M・クッツェー誕生とその後の軌跡について知るためには、『ダスクランズ』は必読の書だろう。30歳前後のワカゾーが書いた、聞きしにまさるエグい小説だけれど!! 解説は、この作家の始まりから現在までをざっと見通せるよう、いくつかのキーワードでまとめてみたが、おそらく作家クッツェーの真髄は、こんな「まとめ」をことごとくすり抜けてしまうところにあるのかもしれない。
 最後に残るのはテクストのみだ。

2017/09/05

メアリー・ワトソンを訳しました──「すばる 10月号」

すばる 10月号」が「あの子の文学」という特集を組んでいて、とても充実している。わたしも南アフリカ出身の作家、メアリー・ワトソンの短篇「ユングフラウ」を訳出した。
 2004年に出版された短篇集『Moss・苔』に収められたこの作品で、ワトソンは2006年にケイン賞を受賞した。同年9月に初来日したJ・M・クッツェーと会ったときも、この作品のことが話題になった。あれから10年あまりが過ぎて、ようやく翻訳紹介できた。嬉しい。
 
Mary Watson
「ユングフラウ」の舞台は海岸沿いの居住区、どうやらケープタウン南東に広がるケープフラッツの南端、グラッシー・パークらしい。ワトソンが生まれ育った土地だ。そこに住む少女の目からポスト・アパルトヘイト時代の日々を描く物語は、ワトソンが修士過程で書いたものが原型になっているという。ということは1990年代後半、クッツェーが『恥辱』を書いていた時期とかぎりなく重なる。ということもあって、多くの人に読んでいただきたいが、とりわけ『恥辱』ファンにはおすすめだ。

セックスをめぐる語りの中心が、片方は白人男性、もう片方が十代の(間違いなく非白人の)少女で、ジェンダーも人種も、いわば真逆の視点から、当時のケープタウンの人々の関係をのぞきみることになる。二つの作品は相互に強く響き合う要素をもっているのだ。「歴史の哲学」を最重要テーマとして『ダスクランズ』から出発したクッツェーがたどりついた『恥辱』、そして「ユングフラウ」を読むと、ふたつの物語の背後に広がる世界がじわり、じわりと迫ってくる。

 Mary Watson は1975年生まれ、ケープタウン大学で映画と文学を学び、クリエイティヴライティングの修士過程では故アンドレ・ブリンクの指導を受けた。2003年に出版された、南部アフリカの女性作家たちのアンソロジー『Women Writing Africa──The Southern Region』に協力者としてワトソンの名前がある。この分厚い本を編集した一人は知る人ぞ知るドロシー・ドライヴァー、クッツェーのパートナーだ。ドライヴァーはケープタウン大学の教授でもあったから、ワトソンはドライヴァーの教え子だったかもしれない。さらにワトソン自身がケープタウン大学で講師として映画論を教えていたという。めぐり、めぐる、人と時間。

「すばる 10月号」には、ほかにも岸本佐知子さん、柴田元幸さん、斉藤真理子さん、古市真由美さんが、それぞれとても興味深い作品を紹介している。ピンクの濃淡、青と紫の色に縁取られた特集号だ。

2017/08/31

オクスフォード大学でも「クッツェーと旅する」シンポが

今年もまた9月から、クッツェーをめぐる催し物が目白押し。

 すでに8月28日にはチリのサンティアゴで、これで3回目になる「クッツェー短篇賞」の授与式が行われるという記事があった。サンティアゴ近辺の学生を対象に、今年のテーマは「都市」。金、銀、銅、そして佳作3作が選ばれて、それぞれ講評が行われたらしい。昨年と一昨年の授与式では、これまでクッツェーが受賞した2つの賞(子供時代にもらった賞)について述べたが、今年はスウェーデン国王から授与された賞について語るとか。ノーベル賞のことだが、今回はスペイン語のスピーチが準備されていたそうだ。

それが終わったら、ブエノスアイレスの第6回「南の文学」だ。12日、13日にサンマルティン大学で開かれる今回は、シンポジウム形式で「ラテンアメリカ文学におけるJMクッツェーの影響」がテーマ。
 ケープタウン大学の元同僚で優れたクッツェー論『カウンターヴォイス/Countervoices』という著書をもつキャロル・クラークソン(2014年にアデレードで会いました!──いまはアムステルダム大学で教えている)がスペシャルゲストだ。詳しいプログラムはここ


 さらに9月末からはオクスフォード大学で「クッツェーと旅する、他のアート、他の言語:Travelling with Coetzee, Other Arts, Other Languages」という魅力的なテーマの、ジャンルを拡大した大がかりなシンポがある。エレケ・ボーマーとミシェル・ケリーがオーガナイザーとして名を連ねているが、このプログラムを見て、ああ、クッツェー研究も若手が主体になっていくんだなあ、と感慨深い。
 2014年にアデレードで発表した人たちの名前もあるし、クッツェーの小説を演劇化したニコラス・ランスや、クッツェーの初期作品のシナリオを書籍化したハーマン・ウィッテンバーグの名もならんでいる。彼のセレクションでクッツェー自身の写真もならぶらしい。少年ジョンが聖ジョゼフ・カレッジの生徒だったころ、自宅に暗室をつくって写真に凝った時代のものだ。さらに『文芸警察』でアパルトヘイト時代の検閲制度を詳述した(現在オクスフォード大で教えている)ピーター・マクドナルドの名も見える。

 瞠目すべきは、この「クッツェーと旅する」シンポの最後に翻訳者が数名ならんでいることだ。セルビア語、オランダ語、イタリア語の訳者の名前があって、最後に、オランダのコッセ出版社代表であるエヴァ・コッセの名がある。エヴァ・コッセはクッツェーが70歳になったときに、アムステルダムで大々的なイベントを開催した人で、カンネメイヤーの分厚い伝記やアトウェルの本の編集・出版権を担当したツワモノである。(わたしも原稿段階の伝記をPDFで読ませていただいてお世話になりました。Merci beaucoup, Eva!)
 フランス語の訳者でクッツェーの古くからの友人であるカトリーヌ・ローガ・ドゥ・プレシの名がないのがちょっと寂しいが、いずれにしてもヨーロッパ言語間の翻訳をめぐってあれこれ論じられるのだろう。英語とヨーロッパ言語少し、という枠内の話だが、それでも興味深い。

 再度書いておこう。この催しのプログラムの詳細はここで見ることができる(Downloadで)。わたしの目を引いたのは、現在ウェスタン・ケープ大学で教えるウィッテンバーグが『マイケル・K』を論じるタイトル:「Against World Literature/世界文学に抗して」、そして、2014年にまだ赤ん坊だった男の子を連れてパートナーといっしょにアデレードにやってきたウェスタン・シドニー大学のリンダ・ングが「Coetzee's Figures of the non-national/クッツェーのノン・ナショナルな(「非国民・非国籍・非民族の」とでも訳そうか?)人物たち」という発表をすること。
 10月は先述したロンドン大学での催しも待っている。いずれも、最後にクッツェーがリーデイングをする、祝祭めいた催しだ。10月1日、聖ルカ礼拝堂で行われるクッツェーの朗読だけを聞くこともできるそうだ。

 ジョン・クッツェーさん、またまたロング・ジャーニーに出たんだな。こうして旅するあいだも、彼はどこにいようと、毎朝きっちりPCに向かって創作を続けていくのだろう。


2017/08/30

アディーチェがエディンバラ大学で名誉博士号を受ける

ああ、忙しい。クッツェーもアディーチェも神出鬼没、まるい地球上をあちこち飛びまわっている。追いかけるほうも大変よ〜〜〜😆。

 そう、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェがエディンバラ大学で名誉博士号を受けたというニュース。アディーチェ自身のfacebookへのポストで知ったのだけれど、大学のニュースサイトはこちら、さっそくYOUTUBE には動画もアップされている。ほら。



いつもながら、この人の笑顔はいいなあ。

2017/08/29

7月のミラノ──映画狂 J・M・クッツェーと3本の長い映画


 ミラノで7月7日、ラミラネシアナという総合文化祭でJ・M・クッツェーが映画を3本上映しながら講演する、というニュースが入ってきたのはいつだったか。

 その3本とは:
 ・黒澤明監督の「七人の侍」
 ・サタジット・レイ監督の「大地のうた」
 ・ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「奇跡の丘」


 フェスの様子がイタリアの新聞に掲載された、La Lettura という新聞の日曜読書欄別冊300号記念の分厚い号で、 3本の映画についてクッツェーが書いているという。イタリア語なのでまったく読めない。ところが「世界文学・語圏横断ネットワーク」の事務局をつとめる土肥秀行さんが電子版を定期購読していて、ページ画像を送ってくれたのだ。日本語の概略までつけて。ありがたきかな、とはこのこと! さっそくこのブログでシェアしようと思う。

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 序として、
40年前にロンドンで映画を観ていた、昔は映画が一番身近な芸術で、世界中の若者が同じ映画を観ていた、いまもそうだろうが20代は影響されやすいもの、だから自分が影響が受けたものーそれは今の映画よりもアンビシャスだったーを紹介する。

『大地のうた』について──
ベンガル地方の言葉で撮られた映画で、世界中で有名になったものの、インドのなかではマイナーである、サタジット・レイは裕福な家の生まれで、イタリアのネオレアリズムやクロサワに影響を受け、カルカッタ郊外の田舎を舞台にした、「さまよう」という言葉がふさわしい撮り方と語り方である、インドでは右派からも左派からもたたかれた、彼自身「普遍的な人道主義」に根差したとコメントしていたから余計たたかれてしまった、(クッツェーがひきつけられている点として)ブレッソンのように人とモノが対等に溶け合う映像である。
『七人の侍』について(3本のなかでもべた褒め)──
筋は単純だが、現代的なテーマを抱えていて、一次的にサムライを雇って悪者を駆逐した農村はその後どうなるのか、また別の悪者があらわれたらまたサムライを雇うのか、それとも常備軍を整えるのか、農村にそんな余裕があるのか、それにそんなことをしたら軍人層に圧迫されないか…といった疑問を生じさせる、時代背景としては日本がアメリカ統治期に「時代劇」が戦中の「武士道」を煽ったため禁止されていた、しかし軍政下でも「時代劇」は前近代的なものとして制限されていた、「時代劇」の復活は、戦後の日本の大変革を後押しするために行われた、笑いや恋愛を交えて展開していくクロサワの語りはシェイクスピアに匹敵する、ベストな俳優たちがベストな演技をみせている、特にミフネは道化的かつ悲劇的ですばらしい。

『奇跡の丘』について──
弱き者と抑圧されき者に寄り添うマタイ伝を忠実に映像化しようとした、イエスは超人的に描かれる、それはパゾリーニのイエス観にもとづく、神話を再現しようとしている、当初撮影が予定されていたパレスチナはイスラエルの意図により聖性が取り去られていて、南部イタリアに変更された、そこは先進国のなかの第三世界であり抑圧された土地だった、人々の慎みは聖地がもっていたものと同じである、その慎みと聖性は、現代のパレスチナのように、失われていくものだった、パゾリーニはのちにそれを嘆くようになる、パゾリーニはこの映画に中世の世界観を持ち込む、すなわち光は世界を照らすというものである、ゆえにこの映画の人々は逆光や真上からの光線により、造形的に正面から絵画的に描かれる、イコンのよう映像なのである。
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 どれもいかにもクッツェーらしいコメントである。「七人の侍」については『Diary of a Bad Year/厄年日記』(2007)の巻頭を飾る章「国家とはなにか」で詳述しているし、「大地のうた」も「奇跡の丘」も『青年時代』に出てくる。ロンドン時代に映画を観ることが唯一の気晴らしだったコンピュータプログラマーのときの話である。とりわけ、インド映画の音楽に心身ともに揺さぶられたこと、母親と息子の関係の描きかたなどが心に残ったこと、が書かれていた。
 しかしなんといっても「奇跡の丘」を観たときの体験が印象深い。政教一致の南アフリカで彼は教育を受けた。それまでに心身ともに染み込んでいるキリスト教文化の土埃を足から振り払ったつもりが、そうではなかった、最後に近いシーンでキリストの両手に釘が打ち付けられる一瞬一瞬に身体がぶるっぶるっと震えたこと、見終わったときは不覚にも涙が出てきたこと、などが体験として述べられていたのだ。
 このへんのことが、いま彼が書いている「イエスの連作」とどう関連するのか。

 いずれにしても、上の映画評はたんなる印象評ではなく、それぞれの映画が制作された時代背景や、そのときどう評価されたかまで含めて、概略ながらじつに的確な論評である。全文をぜひとも英語のオリジナルで読んでみたいものだ。

Grazie mille, Doi-san!



2017/08/26

10月にはロンドン大学でクッツェー研究会が

昨日、猛暑のなかを『ダスクランズ』のゲラをめぐって、編集担当のAさんとメールで最後のやりとりをして、ついに校了!

クッツェー自伝的三部作の原書
そんななか、10月5日と6日にはロンドン大学で「クッツェーとアーカイヴ会議/Coetzee & Archive Conference」なる催しが迫っているというニュースが飛び込んできた。

 ここへきて、ますます盛んになっていくJMクッツェー研究。テキサスのランサム・センターに彼のペーパー類が収められたのが2011年だったから、それ以後、クッツェー研究はこのペーパー類の調査抜きにはありえない状況になっているようだ。これまでのポストモダン的に斬新な「見立て」によって作品を読み解く方法から、作家と作品の複雑で一筋縄ではないかない関係に光をあてる方法へと、クッツェー研究は大転換した。自伝とフィクションの境界をなくしたい、と考えるクッツェーだから、これはもう当然といえば当然の状況だろう。作品とそれを創作した人、そしてその歴史的文脈にもっとも興味がある者としては大歓迎! さまざまな偽装を凝らした作品を書いてきたクッツェー、その偽装をはがしてくれといっているようなものだから。

リトアニア語のThe Schooldays of Jesus
クッツェーさん、ロンドン大学での催しでも、やはり「朗読」をするようだ。何を読むのだろう?

 つい最近、The Schooldays of Jesus がリトアニア語に翻訳されたというニュースに接した。リトアニアとはバルト3国のいちばん南の小さな国だが、リトアニア語の話者はなんと370万人だとか。この370万人を対象としてクッツェーを翻訳し、それを出版する人がいるというそのことに感激する。それに対して日本語の話者は少なくみても1億2千万人、クッツェーという作家が現代の文学世界においてどれほど重要な作家か、もう一度考えなおしてみたいと思った。


2017/08/24

「南の文学」講座のお知らせ

クッツェーも77歳。今回で6回目、たぶん最終回になるはずのサンマルティン大学で開かれる「南の文学」講座。今年は9月12日、13日に集中して行われるようだ。


 どんな内容になるんだろう? 全6回の講座を、クッツェーはどうまとめるのだろう?

2017/08/16

渇いた耳にしみるセザリアの声

思っていたよりずっと渇いていたらしい。耳という感覚が。このアルバムを、本当にひさしぶりに聴いて、ほとんど泣きそうになっている自分を発見したのだ。

 CESARIA EVORA の SÃO VICENTE DI LONGE

このブログで初めてセザリア・エヴォラのことを書いたのは、2010年5月9日だ。まだセザリアも健在、3.11も起きていない。こんな歌手がいるよ、とカーボベルデの歌姫、セザリア・エヴォラのことを教えてくれたのは、長年のつきあいの編集者O氏だった。わたしにとって初めて聴いたセザリア・エヴォラ、それがこのアルバムで、たぶん2002年か2003年だった。
 とりわけ最後から二番目の曲、CREPUSCULAR SOLIDÃO が好きで、何度も何度も聴いた。あ、またしても「薄明」だ。クレプスキュル、クレプスクラル。ダスク。


 ここ1年、JMクッツェーの『ダスクランズ』の新訳にかかりきってきた。途中チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』も出したけれど、原著が出版されてまもなく神奈川大学評論に訳してあったので、今回は見直しをして解説を書いただけ。

 長さからいっても、内容の濃さ、重さ、迫力からいっても、圧倒的にクッツェーの『ダスクランズ』の新訳が仕事の中心を占めてきた1年あまり。その作業からほぼ解放されて迎えた旧盆のお休み。セザリアの歌声を聴いて、つくづく思うのだ。感覚の表面が渇ききっていたと。いま耳から、砂漠に雨が降るように、といいたくなるような、そんな気分で、セザリアの歌声がしみる、しみる。

2017/08/07

J. M. クッツェー『ダスクランズ』

 嵐の夜に、表紙がアップされました。カヴァーも帯も、燃え尽きるような深い赤です。そして強い黒いタイトルと、帯には白く踊ることばたち。

     J. M. クッツェー『ダスクランズ』


 ・暴力の甘美と地獄を描く、驚愕のデビュー作

ふと考える──この赤はなんだろう? 平原に沈む太陽が空を焦がす色? ナマクワランドの赤土? いや、ひょっとしたら200年を隔てて、「黄昏の土地」で流されてきた……かもしれない。

  J. M. クッツェーが34歳のときに発表した『ダスクランズ』、新訳で人文書院から9月30日に発売です。 

2017/08/05

カナディアン・ロッキーとマーモット

今年もまた、うだるような暑さの8月です。
東京から離れられない身としては、せめて、カナダの友人ブライアン・スモールショーさんの写真を拝借して、涼をとりたい。


 ブライアンは今年もまたカナディアン・ロッキーに挑戦したみたい。大きなマーモットの写真。そして見事な縞模様を見せる山肌。真っ白な残雪が美しい。


仕事は今日も、ゲラ読みです。

2017/08/03

彷徨える河──やっと観た、面白かった!

 エアコンを入れた途端にぐんと涼しくなって、プチ夏休みも最後の日。
 昨年の秋に観そびれていた映画をDVDでようやく観た。

「彷徨える河」 監督シーロ・ゲーラ

 日本公開のための予告編に、これまた定番のように『闇の奥』なるラベルがペタッと貼ってあったので、なんだかなあ、と思っていたけれど、信頼できる複数の人たちが「いい映画だよ」「面白いよ」といっていたので観に行こうと思ってはいたのだ。でも、昨秋は結局時間がなくて映画館に足を運べなかった。だからDVDになると聞いて注文しておいた。それが今日とどいた。さっそく観た。

 いやあ、面白かった。(それでふたたび『闇の奥』はやっぱり不要なラベルだと思ったんだけれどサ。)2時間あまりのモノクロ映画で、最後に少しだけカラーの映像が入る。この間、まったく見飽きなかった。途中で喉が渇いてきたけれど、一時停止ボタンを押す気になれなかった。ちいさなPC画面ではなく、やっぱり映画館の大きなスクリーンで観たかったなあとあらためて思った映画だった。

 なかなか良いレビューが密林(!)のサイトに載っているので、興味のある方はそちらへ。

 シーロ・ゲーラというコロンビア出身の若い映画監督は(なんと1981年生まれか!)これからJMクッツェーの『Waiting for the Barbarians』を映画に撮る予定。(2018年に撮影して、リリースされるのは2019年の予定だそうだ。)
 若いころから映画狂のクッツェーが、あのBarbarians を映画化する許可を出した若い監督の作品とあって観たのだけれど、出てくる人たちの描き方に、いたく納得した。こうなると、Barbarians の映画もすごく楽しみになってきた。わくわく。

2017/07/31

思い出す「まゆだま」

 今日からまたプチ夏休みに入った。今回の休みは暑さ負け状態寸前で小休止するための休みだ。ついにリビングにエアコンが入った。仕事場にはないが、いざとなればそこに逃げ込めるという、まあいってみれば、最後の切り札のようなものか。

  たま川にさらす手づくりさらさらに何そこの児のここだかなしき

これは子供にたいする歌じゃないのか、という意見にわたしも一票! 忘れないうちに書いておきたい。谷崎由依著『囚われの島』を読んで、もうひとつ痛切によみがえった情景のことを。この本を読んで、ありありと思い出したのは、裏日本と呼ばれた、ひとつづきの土地のことだ。そこに綿々とつらなる村社会の内実だ。越前─越中─越後。

 谷崎さんは「村」を描いてきた人だとあらためて思った。ファンタジックに。この日本社会の根っこにある「村」を、そしてその人間関係の救いがたさ、男尊女卑、それでも、そこでしか生きられなかった女たちの細やかな心、体、その生と性をまるごと描きたかったのだなと感得した。311以後、見渡せば日本中にいまだに広がる「村社会」を。

 旧植民地ながら、じつは、わたしもその湿り気を皮膚からじっとりと吸いあげるようにして育ったのだ。土地は移っても、ひきずっていく移民たちの「故郷」という繭玉の内部を目にしながら。旧正月になると黒い梁から伸びる枝につけられた「まゆだま」。
 だからわたしにとって、因習に対する反発とともに、これは不思議な懐かしさも感じられた小説だったのだ。

2017/07/15

プチ夏休み:読書の愉楽

まだ梅雨はあけないみたいだけれど、東京はまるで真夏の暑さだ。このところ、5月に種を蒔いた朝顔がほぼ毎日のように花を咲かせている。

 昨日、40枚ほどの短編を訳了! クッツェーの『ダスクランズ』の再校ゲラがとどくまでに、まだ少しあるので、数日プチ夏休みということにした。
 昨日はまず、洗濯を朝から二回に分けて、がらがらと。風があるので、あっという間に乾いた。で、午後からは読書の愉楽にひたった。夢中になって本を読むという時間はひさしぶりだ。時間がかぎられていない「夏休み」ならではだ。読まねば、という義務感もないし、読んだら書評を書かなければという縛りもなく、ひたすらページをめくるという、遠いむかしの「夏休み」の感覚を取り戻す。ときのたつのを忘れて読みふける。

 今年のささやかなプチ夏休みの読書は、これ!
 谷崎由依著『囚われの島』(河出書房新社刊)。
 
 無駄のない端正な日本語と、ことばのリズムに乗せられて読み進む心地よい読書、ひさしぶりだな、この快楽は。たとえばこんな細部が光るのだ。

「蓮花がちいさな花びらの先を赤く燃やして咲くときに、その年の蚕飼いははじまりました」

 高校時代まで住み暮らした北の外地に「蓮花」はなかった。教科書に引用された俳句のなかに出てくる花の名前として記憶された「蓮花」を、内地にきてから目にして「ああ、これが蓮花の花か」と思ったことは覚えていても、それがどこでいつだったか記憶は定かではない。
 蓮花はマメ科の植物だから、根に根粒バクテリアとの共生によって窒素を固定する。だから休閑地や、耕す前の田んぼに蓮花を植えて、それを土地にすき込む、と学んだのは生物の授業でだったか。

 高校時代の夏休みは家の前の植え込みのかげにデッキチェアを広げて、そこに寝転んでよく本を読んだ。あの当時、夢中になって読んだフランス小説に出てくる「ヴァカンス」なるものを真似てみたかったのかもしれない。それはダントツに涼しい北の国で、ささやかな演出をかねた「夏休みの読書」だったのだけれど、いかんせん、気温が27度くらいまでしか上がらなかった60年代半ばのこと、強い風に吹かれて本を読んでいるうちに、手足が冷えて、芯まで冷たくなってしまう。ぶるぶる震えながら、家のなかからシーツを持ち出して全身をおおい、シーツから手だけ出して文庫本を読んだ記憶がある。いま思うと笑える。
 

2017/07/05

対談:ハッピーなフェミニスト

アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の出版を記念して、下北沢のB&Bで5月20日に行われた対談が、雑誌「すばる 8月号」に掲載されました。タイトルは:

 ❤️ハッピーなフェミニスト❤️

2時間ちかく星野智幸さんとしゃべった話の要点をざっくりまとめて、しかも、とてもわかりやすい流れにしてくださったのは倉本さおりさん。Merci beaucoup! みんな、読んでね〜〜。

7月9日には神田でこんな読書会もあります! わあ、満員御礼ですね!

2017/06/28

2年遅れの読書──セバスチャン・サルガド再考

2年間、積ん読状態だった本をようやく読了した。セバスチャン・サルガドのことばを聞き書きした『わたしの土地から大地へ/De Ma Terre à la Terre』だ。

本を読む前に「地球へのラブレター」という、タイトルを見るとちょっと恥ずかしくなる映画を観てしまったのが、はっきりいって、悪かった。それで2年前に、ここで、映画を観た感想を早々と書いてしまった。いまサルガドの自伝的語りを読み直してから、2015年のブログの文章を再読してみたが、書き直さなければならない箇所はなく、むしろそこで疑問に思ったことがこの『わたしの土地から大地へ』を読んで、おおかた解決されたことを報告したい。

 この本は面白い、面白いだけでなく感動的でもあり、サルガドの写真を理解するうえでとても貴重だ。彼の写真を、彼自身が語る人生や時間と重ね合わせて、もう一度見たり考えたりすることができるからだ。とりわけブラジルの1960年代の政治事情。恋人レリアといっしょにパリへ亡命した10年間については、じっくりあちこち調べながら読んだ。そうか、60年代に南アメリカ諸国からパリへ逃げた人たちは本当にたくさんいたんだなあと。歌手のカエターノ・ヴェローゾもその一人だったはずだ。当時の亡命人たちを監視していたスパイの事情(サルガドの家にやってくる知人、友人の姿をとった)も背筋がぞくっとしたけれど。

 ヴェンダーズの映画を見て激しく疑問に思ったコンラッドのことばは、この本のどこを探しても出てこない。あれは明らかにドイツ人映画監督から見たアフリカへの、ヨーロッパ的視点であり、西欧の観客受けのために加筆したことばだったのだろう。

 もちろんこれはサルガドの「自伝的な語り」であるため、おそらく記憶は自分に都合よく整理されて記録され、それを聞き手がさらに整理して読者の前に差し出すプロセスを経ている。だから「物語」としてはとても読みやすい。つまり消費されやすいものとなっている。しかし、サルガドの写真を追いかけてきた者にとって貴重な細部をも提供してくれるのは事実。

2009年の展覧会カタログ
2009年に恵比寿の東京都写真美術館で開催された「アフリカ」を思い出しながら読んだ箇所もある。モザンビークの作家ミア・コウトを訳したこともあって、モザンビークの歴史事情にふれるサルガドのことばがびんびん響いてきた。
 最後のナイル川の源流をさかのぼるエチオピアの旅では、スーダンのハルツームで白ナイルと青ナイルが合流することを、スーダン出身の作家レイラ・アブルエラーが強調していたことも思い出した。

 そして、なにより大きな収穫は、サルガドは、やっぱり、南半球の出身、それもブラジルの森の奥にある農園で少年時代を送った感性を身につけている人間だということだ。この本を読むとなぜ彼が「アフリカ」を愛したか、ルワンダ虐殺に関係するさまざまな光景を見て、事態に遭遇して、精神を病むほど影響を受けたか、そこからの自己快復として父親から譲り受けた土地に数百万本の木を植えながら「GENESIS」へ向かっていった理由がよくわかる。
 読みながら、あらためてブラジルってどういう国だっけという疑問が浮かんだ。ブラジルってアフリカからアメリカスへ奴隷として大航海時代以降もっとも多くの黒人が連行された土地だったことも思い出した。ブラジルとナイジェリア、ブラジルとアンゴラ、などの大西洋をまたいだ関係も視野に入ってくる。

レリアとわたしにとって大事なことは、いつでもじぶんの時代にかかわるような生き方をすることだ」──p210。これがもっとも印象にのこったフレーズだった。
 
 先日買った、ジョアン・ジルベルトのベストアルバムでボサノヴァを聞く耳さえ、この本を読んだあとでは、少しだけ変化したような気がする。

 写真集 GENESIS も買おうかな。
 

 

2017/06/13

チママンダ・アディーチェの最新スピーチ

6月4日に、マサチューセッツ州にあるウィリアム・カレッジの卒業式で、アディーチェがこれまでになく、政治について、階級について、はっきりと語りました。民主制が本当に民主的であるためには。。。
 そして最後に、卒業生にエミリー・ディキンソンの詩から「希望」をめぐることばを贈っています。希望はいつも羽をもっている、と。




2017/06/04

ボードレール、だれそれ?


明後日6日発売の雑誌「すばる」7月号がなんと「詩」の特集を組んでます。

 わたしも「ボードレールと70年代」というお題をいただき、あれこれ考えているうちに、学生時代のことをリアルに思い出して書きました。
 当時通った狭い敷地の大学に、「造反教官」と呼ばれた2人のすばらしい教官がいたこと。もちろんカッコイイ先生はほかにもいたのですが、ダントツに強い記憶に残っているのは安東次男と岩崎力のご両人、いずれもフランス文学を教えていた人たちです。安東教授に対する一方的かつ理不尽な教授会からの弾劾辞職勧告決議に、日本フランス語学文学会はすぐさま抗議声明を出したのは快挙でした。当時の世相がどんなものだったか、レジスタンスのありかたなんかも少し。記録として。
 また、阿部良雄責任編集による1973年5月刊の雑誌「ユリイカ、ボードレール特集号」にずらりと並んだ、そうそうたる面々も書き写しました。記録として。

 昨年出した『鏡のなかのボードレール』(共和国)を書くことになったいきさつや、JMクッツェーの個人ライブラリーの最終巻『51 poetas/51人の詩人』に『悪の華』から入った4つの詩篇「スプリーン(憂鬱)」についても。あいからわず、話は「一つ所に滞らない」どころか、じつにあちこちにジャンプします😆。

 タイトルは「たそ、かれ、ボードレール」!
 そう。「黄昏ボードレール」です、というよりむしろ、ぶっちゃけた話、「だれそれ、ボードレール?」って感じでしたね、あのころは。😇!



2017/06/02

6月の夕暮れ

 今日は風の強い1日だった。朝方の、もう梅雨かと思わせる強い湿気が強風に吹き払われて、昼すぎには空気も軽くなってほっと息をつく。夕方、いつもの散歩にでかけると、6月の陽はまだ高く、雑木林に斜めに差し込む西陽が足元の路上に揺れる葉波模様を描いている。樹木から振り払われた小枝を踏む。靴底がぱりぱりと音をたてる。
オパールの原石:璃葉
 夕陽をあびながらいつもの道をたどる。古い保育園の前で立ち話をする母親たちのまわりを、幼い子供が走りまわる。一瞬、走ってくる小さな娘たちを思い切り抱きあげた遠い記憶がよみがえる。そして、長いあいだ住み暮らした土地を離れなければならなくなった人たちのことを考える。戦争で。原発事故で。津波で。過疎で。残って土の世話をしつづける者のことを考える。廃屋に住みつづける者。野生化寸前の山羊と。牛と。緑なす原野のことを考える。

 今日は風の強い1日だった。いまもまだ風は吹いている。余計な湿気も、妄想の霧も吹き払ってくれそうな6月の、もう初夏とはいえない、夏の風だ。

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絵は「水牛のように 6月号」に掲載された、璃葉さんの文と絵「オパール石」から拝借しました。

2017/06/01

クッツェーがトルコの教育者たちに連帯のメッセージ

Nuriye Gülmen and Semih Özakça
JMクッツェーが、トルコで昨年、クーデタ未遂事件後に出された非常事態宣言によって解雇された教育者たちに連帯のメッセージを出した、と伝えられる。彼らは解雇に抗議してハンガーストライキをしていたが、逮捕され、刑務所内でもハンストを続けているという。以下はこのトルコの「デイリーニュース」のサイトからの抜粋。
 またストックフォルムの「自由のためのセンター」のサイトにも詳しい。(画像はこのサイトから拝借。)

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<ノーベル賞作家JMクッツェーがトルコでハンガーストライキをしている教育者たちへ連帯のメッセージを送る>

JMクッツェーが、非常事態命令のために解雇されたことに抗議して80日以上のハンガーストライキを続ける教育者ヌリエ・ギュルメンさんとヘミヒ・オザクチャさんに連帯するメッセージを送った。
 ギュルメンさんは研究者、オザクチャさんは小学校教師で、ハンガーストライキを開始して75日目にあたる5月23日に「テロ」容疑で逮捕されたが、刑務所内でもハンガーストライキを続けている。スレイマン・ソイル内務大臣は彼らを非合法化された「革命的人民解放党」のメンバーだと非難した。
 クッツェーは手紙でトルコ政府に対し、この問題について行動をとるよう呼びかけた、と5月30日付オンラインニュース・ポータル「Bianet」は報じた。 

 クッツェーは手紙のなかで「ヌリエ・ギュルメンさんとヘミヒ・オザクチャさんが勇敢にもハンガーストライキによって訴えたのは、新体制トルコで知識人が置かれた絶望的な状況に世界の耳目を集めるためだ。どうかNATO内でトルコと同盟を結ぶ国々の政府はこれに注目し、レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領に対して自国を法治国家へ戻すように圧力をかけてほしい」と述べた。

 トルコでは、2016年7月15日に合州国を根拠地とするイスラム教伝道者フェトフッラー・ギュレンの信奉者によって指導されたと広く考えられているクーデタ計画が失敗したあと、非常事態命令が出され、それ以来ずっと非常事態が続いている。

 何千という人が非常事態命令のために職場から解雇されたままだ──以下略──
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クッツェーの手紙の文面は以下の通り:

“Nuriye Gülmen and Semih Özakça have bravely gone on hunger strike to draw the attention of the world to the desperate situation of intellectuals in the new Turkey. It is to be hoped that governments associated with Turkey in NATO will take note and exert pressure on President Erdoğan to return his country to the rule of law,” said Coetzee.



2017/05/29

クロッホとクッツェーとコウト

昨年の9月にブエノスアイレスのサンマルティン大学で行われた「南の文学」講座のことは、ここでも触れましたが、その後、アンキー・クロッホとミア・コウトとJMクッツェーが仲良くならんだ写真が見つかりました。記録のために、ここに貼り付けます。
南部アフリカ出身の3人の作家たち

写真が小さいとジョン・クッツェーの顔が怖い顔に見えるけれど、拡大してみてください。3人とも、かすかに微笑んでいるんですよ〜〜。

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2017.5.30付記──アンキー・クロッホについてJMクッツェーが『厄年日記』に書いた文章をここで紹介しました。ミア・コウトは雑誌「すばる」に抄訳をのせましたが、それについてはこちらへ。

2017/05/28

反アパルトヘイト・ニュースレターのリンク先

昨日開かれた「反アパルトヘイト運動と女性、文学」の場で、アフリカ行動委員会のニュースレターのアーカイヴが移設されていたことを知ったので、リンクをいくつか更新しました。かつての投稿をここに再掲いたします。

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2013/12/31(の投稿です)

2013年がもうすぐ終る。今年はドリス・レッシング、チヌア・アチェベ、そしてネルソン・マンデラが逝った。来年早々にはそのネルソン・マンデラ追悼特集があちこちの雑誌に掲載されることだろう。1950年代にアパルトヘイトに抗して抵抗運動を組織したネルソン・マンデラとその仲間たち。たぐいまれな品格と、その意志と思想の強さで、27年という獄中生活を耐えた人は、南アフリカの抵抗運動、解放運動のシンボルとなっていった。

 日本でも古くは60年代初頭に、南アフリカの人びとと繋がろうとする反アパルトヘイト運動が芽吹いた。70年代初めにマジシ・クネーネが来日して当時の若者たちにあたえた「クネーネ・ショック」、それを契機に運動は着実に継続され、ネルソン・マンデラ解放時に最盛期を迎えた。この運動についてはもっと知られてもいいだろう。また当時の日本社会がどんなようすだったかも振り返ってみるのは悪くない。
 その運動のおおまかな歴史(日本各地に自発的につくられたグループがあり、それぞれに思い思いのかたちで展開された)を、東京のグループである「アフリカ行動委員会」の実質的中心人物、楠原彰氏がまとめたものがここで読める

 わたしが知っているのは80年代末、そのマジシ・クネーネというズールー詩人の叙事詩の翻訳で悪戦苦闘していたころからネルソン・マンデラが解放され、来日した時代のことだ。それについては中村和恵編『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店 2009)に詳しく書いたので、ぜひ。
 特筆にあたいするのは、日本における反アパルトヘイト運動が、それまでわたしが抱いていた「運動」のイメージを快く裏切ってくれたことだ。つまり、組織特有の束縛が一切なく、あくまで自発的個人の意思による活動の場として確保されていたのだ。これは60年代末の全共闘に端を発する運動がセクト化してやせほそり内向きになっていくのを学内でちらちら横目で見ていた者には、じつに新鮮だった。
 だから、集団がからきしダメというわたしのような人間もすっと入ることができた。つまり、あの運動は「あ、それ、わたしがやります!」と手をあげて事実やってしまう人間の集まりであり(そのなかでみんな力をつけた)、命令とか指令とか動員とか、上下関係とか、初心者とかベテランとか、先輩とか後輩とか、そういうものとは無縁だったのだ。人と人の関係が、いわゆる「縦系」の縛りから完全に解放されていた。

 きみもぼくもわたしもあなたも、来る者はこばまず、去る者は追わず。ほんの数年ではあったけれど、のびのびと、やりたいことをやらせてもらったように思う。自分の仕事ともリンクさせることができたし、大いなる学びの場として、また、面倒な人間関係もおなじ志を仲立ちにしてのりこえ、深めていけることも学んだ。だから、心地よく裏切られたり勘違いしたりしたこともあったけれど、恨みとか怨嗟とは無縁だった。世はバブルたけなわ、喧噪とは縁のないわたしの30代から40代にかけての例外的事件だった。

 先日、20年ぶりにそのころの仲間数人とテーブルを囲む会があった。同窓会などとは違って、すっとあの時期に戻っておしゃべりできて、さらに現在この社会で起きていることをも気兼ねなく話題にできた。そういう人間関係。これは貴重。
 運動の最盛期、東京を中心に活動していた「アフリカ行動委員会」は「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」を毎月発行し、定期購読者に郵送していた。1987年の準備号を出した森下ヒバリ編集長から始まり、つぎの高柳美奈子編集長が第三種郵便にする努力を惜しまず、それを引き継いだ須関知昭編集長の超人的な遠路往復で、1995年まで全85号が発行された。その全ページがその須関氏の努力で「アーカイヴ」にpdf ファイルとしてアップされ、読めるようになった。

 当時はまだインターネットはなかった。ようやく小型のワープロが出まわってきたころで、紙面はそれを駆使して打った原稿をそのまま写植で起こして即印刷された。そのため、字間行間に独特のニュアンスが残る。購読料だけでやりくりしたので、経費上ざらっとした紙が使われ、当時はまだコピーも上質ではないため、滲みも多い。いまから見れば紙面は苦労がしのばれるものではあるが、わずか20年のあいだに、われわれを取り巻く活字媒体の変化は恐ろしいほど変化したことをも実証している。
 
 あのころの南アフリカと日本の関係がどうだったのか、バブルにわく日本社会の裏側で、南アフリカの解放運動を横目でながめながら、経済的に裕福になった不名誉な、恥知らずの「名誉白人」がどう振る舞ったのか。80年代に白人アパルトヘイト政権下の議員たちと「友好議員連名」なるものをつくり事務局長をやった当時の国会議員、のちに長らく東京都知事をやった人の名前も登場する。あの時代に若者だった人たち、子供だった人たち、そしていま社会の最前線で活躍する人たちが、なにを得てなにを失い、なにを引きずっているのか。
 いずれ、各号の「目次」もできるはずだ。そうなれば、もっと使いやすくなるだろう。これはまちがいなく貴重は記録だ。2013年大晦日の、わたしからのプレゼント。


 では、みなさま、よいお年をお迎えください。

2017/05/26

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの魅力全開トーク

さる5月4日にニューヨークで開かれたNYTimes のトークです。聞き手は編集者のラディカ・ジョーンズ。限定公開アップですので、ご注意ください。



ちょっと長いトークですが、核心をついたやりとりで話は進みます。

 会場からの質問にも丁寧に答えるアディーチェの姿がいい。かなり突っ込んだ質問が出ますが、なかでも、「天才」という考えはもう過去のものだ、とか、人種差別ではなく肌の色の違いによる(まさに南アフリカのアパルトヘイトを彷彿とする)差別意識がTVからコマーシャルなどで流されて若い女性に内面化される問題──だから「ファッション」はだたの「ファッションの問題」にとどまらないわけですが──とか、現代社会を包むそんなもやもやを払って、クリアに見せてくれるアディーチェのことばには、とても説得力があります。
 
 最後に質問者に対して、Enjoy your life! と加えるところがとてもいい。

2017/05/22

ふたたび!「クッツェー」について、「クッツィー」ではなく

ジョン・クッツェーのCoetzee の発音は、このブログにも、『マイケル・K』の訳者あとがきにも書きましたが、クッツェー [kutsé:] です(左の作家自身の手紙を参照してください! 下から二段目のパラグラフに、My family name is pronounced /kutse:/. The /u/ is short, the stress falls on the second syllable, the syllable break is between the /t/ and the /s/.とあります)。
 
 オランダ人が南アフリカへ移住したことでさまざまに変化した名前ですが、作家本人が「クッツェー [kutsé:] 」だといっているのですから、これはもう疑問の余地がありません。というか、直接面と向かって質問し、この耳で確認した者としては、あくまで彼の意思を尊重しなければなりません。

 ところが、先日ちょっとびっくり、という体験をしました。
 来日したデイヴィッド・アトウェルやジャン=ミシェル・ラバテさんたちは「クッツィー」と発音するのです。クッツェーの弟子であるアトウェルさんには、「いや、クッツェーだ、作家本人にも確かめたのだ」と上の手紙のコピーもお渡ししました。

 以下に三つの動画を貼り付けます。最初の部分をよく聴いてください。クッツェーがアデレード・ライターズ・ウィークで最初に My name is John Coetzee. と自己紹介をしています。

まず、2008年、シリ・ハストヴェットを紹介するところ。



次に、2008年、デイヴィッド・マルーフを紹介する動画。



さらに、2010年、ジェフ・ダイヤーを紹介する動画。



どう聴いても、クッツェー、です。クッツィー、ではありませんね。

 この間違いは、英語という言語には [e:] という長母音がないことからくるものと思われます。Wikiの英語版も「クッツィー」です。(↓付記参照: 訂正されました!)何度かわたしも修正を試みたのですが、上の動画を参照として貼り付けても、英語には [e:] という長母音がない、とはじかれました。(パートナーのドロシー・ドライヴァーさんも、かつて何か修正を試みたがやはりはじかれた、と伝えられています。Wikiって!!!

 英語圏の人たちは、クッツェーという英語で書く作家が自分のオリジンにこだわって名前はオランダ語風に(1980年代まではアフリカーンス語風といっても通ったはずで、クッツェー自身もアフリカーンス語風の発音だといっていましたが)読むという主張が受け入れられないのでしょうか。もちろんオランダ語圏ではごくふつうに、クッツェー、と発音されています。(2010年の70歳の誕生日を祝って、アムステルダムで開かれたイベントの動画などを参照してください。)

 またデイヴィッド・アトゥエルさんにクッツェー自身から来た説明(上の手紙)を見てもらいました。オランダ語の文法書に、[e:] という長母音は存在します。英語内にすんなり入らない音は、作家本人の意思であっても、受け入れられないのでしょうか。あるいは2009年のBBCの情報が、誤って理解されているのかもしれません。
 そのBBC情報ですが、2009年に『サマータイム』がブッカー賞のファイナルに残ったときBBCから問われてクッツェー自身が答えたもののようです。そのBBCのサイトには「kuut-SEE」と表記され、この後ろ部分を英語を母語とする人たちは[i:]音と読んだようです。ここが決定的な間違いなのですが、[e:]という音をもたない言語を母語とする人たちには、英語で作品を書くノーベル賞作家が英語の発音以外の音で自分の名前を発音するということが受け入れられなかったのかもしれません。どうなんでしょうねえ。
 Wikiの頑固さについては、いろいろ複雑な要因はありそうですが、なんだか英語的テンプレートによる世界観の肥大がここにもあらわれていると思わざるをえません。グローバル言語の英語だけで世界を見ようとする世界観には大きな違和感を感じると、クッツェー自身が『ヒア・アンド・ナウ』で吐露していましたが、その片鱗がこんなところにもあらわれているのでしょうか。

 さて、オランダと長いつきあいのある日本は、これをどうするか?
 オランダ語とも長いつきあいのあった日本語は、これをどう受け入れるか?
 グローバル言語である英語圏の勢いに乗るのか、それともオランダ語をオリジンとして自分の名前の音にこだわりつづけているJMクッツェー自身の意思を尊重するのか。英語圏文学にたずさわる人たちの良識、歴史観、アイデンティティー観などが問われる場面でしょうか。アルファベットのままいけたらいいのですが、日本語ではなにしろ原音に近いカタカナ表記をしなければいけないわけですから。

 ちなみに、南アフリカでは、クツィア、クツィエ、といわれることが多く、このことをジョン本人にたずねると、It's a dialect. それは方言です──という返事が返ってきたことは以前ブログに書きました
 まあアルファベット言語圏では表記さえ正しければ、それをどう読もうと、読み手のバックグラウンドによって差異が出るのも当然で、個々の「なまり」についてはどれが「正しい」とはいえないのですが、それはあくまでアルファベット言語圏内の話で、カタカナにしなければならない日本語圏内の翻訳者は苦渋の選択を迫られますが。

 訳者としては作家本人の主張を尊重して「クッツェー」とします。

 ただ、ラグビーなどで Coetzee という監督が来日して新聞や雑誌などで「クッツェー」と書かれているのを見ると、あああ、と複雑な思いです。おそらく南アフリカ出身の彼らは、南アフリカ社会で呼ばれているように、自分は「クツィア」だと主張するかもしれないからです。😅。

付記:文面を少し修正しました。

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付記:2017.5.29現在、Wikiの英語版をのぞいてみると [kut'se:] となっていました。訂正してくださった方に感謝します!

2017/05/19

無関心な人びとの共謀

 敵を恐れることはない──敵はせいぜいきみを殺すだけだ。
 友を恐れることはない──友はせいぜいきみを裏切るだけだ。
 無関心な人びとを恐れよ──かれらは殺しも裏切りもしない。
 だが、無関心な人びとの沈黙の同意あればこそ、
 地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。
                      
                  ヤセンスキー『無関心な人々の共謀』より
                      
共謀罪法案が衆議院法務委員会で強行採決された。こんなひどい法案が、こんな雑で非論理的な説明のままゴリ押しされて成立してしまうのを放置するこの社会、民主思想のかけらも感じられない政治家たちを国会へ送り込んでしまう選挙民の愚挙、それを抑制したり阻止したりできないままの無責任はどこからくるのだろう。

 1970年代に読んだこんな詩を思い出す。思い出すだけでなく、何度でも認識しなおしたい。レジスタンスの方法も各人で、あきらめずに考えていこう。あきらめないで。

付記:まだ「成立」したわけではない。法務委員会で強行採決されただけだ。だから。。。。

2017/05/18

トレヴァー・ノアとチママンダ・アディーチェが語ります!

すごい組み合わせです。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェとドレヴァー・ノア、そしてランダムハウスの編集者P・ジャクソン。PEN ワールド・ヴォイスが開催した「表現の自由」のためのプログラム。5月3日の録画です。



 ナイジェリアで子供時代を送ったアディーチェは、軍事独裁政権下で生きることがどういうことかを身をもって体験している。自分はアメリカへ移民したわけではない、自分はナイジェリア人で、ナイジェリアとアメリカの両方に半々に住んでいるのだと明言するのが印象的。アメリカの楽観主義の危険性を指摘する。

また、アディーチェがパン・アフリカニズムについて質問されて、アメリカスの奴隷制はアメリカで始まったわけではなく、アフリカから始まったといって、ブラジルのバイーアやアフロ・コロンビアにも言及するところが興味深い。

南アフリカで1984年に生まれたドレヴァー・ノアが、初めてアメリカにやってきてやったショーのエピソードがまた、めっちゃ面白い、というか、考えさせられるんだけど、アメリカという国の内実がぼろぼろ出てくる感じ。笑い、というのは誰と何を共有するかというのが、とっても微妙なものだから。これは深い。フィクションよりもっと深いかも。

 話のなかで一箇所だけ、アディーチェの口からジャパンという語が出てくる。ユニヴァーサルの話に絡めて。ここは耳をしっかり傾けたいところ。あなたの本はユニヴァーサルだ、といわれることはアディーチェにとっては決して褒めことばではないのだ。なぜか。来日したときも明言していた。それ以前からも語っていた。『アメリカにいる、きみ』の「あとがき」にも書いたんだけど。
 チママンダがドレヴァーのお母さんについて最後の方で語る内容が、すごく心にしみる。とにかく、南アフリカ出身の作家とナイジェリア出身のコメディアンの絡み、これを見逃す手はない。


2017/05/17

3日後に迫りました ── B&Bのイベント!

B&Bのイベントが3日後に迫ってきました。もう一度ここに告知いたします。星野智幸さんとアディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』について語ります。どきどき。

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チママンダ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』刊行記念イベント、詳細が決まりました。風薫る5月、土曜の午後のマチネーです。ゲストはなんと、作家の星野智幸さん!

"フェミニスト"が生まれかわる

日時:5月20日(土曜日)午後3時~5時
場所:下北沢 B&B
出演:くぼたのぞみ × 星野智幸

予約も始まりました。こちらから。

*****B&Bのサイトから引用します****

ナイジェリアに生まれ、アメリカとナイジェリアに暮らす作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが、2012年12月にTEDxEuston(アフリカに焦点を当てて毎年開かれている会議 http://tedxeuston.com)で行なったスピーチ「We Should All Be Feminists」のテキストが、この春、日本語版として書籍化されました!
「フェミニストという言葉やフェミニズムという考え方そのものに、ステレオタイプの型がはめられているように思えてならない」という問題意識から、アディーチェは「フェミニスト」を「ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね──という人」のすべてだと定義します。このスピーチからは、ビヨンセがアディーチェの声をサンプリングした曲を発表したり、Dior Tシャツをつくったり、スウェーデン政府が16歳のすべての子どもにテキスト全文を配布するなどの広がりを見せ、世界中で話題になりました。 

男性、女性にかぎらず、どんな人も、窮屈な価値観から自由になろう。「フェミニスト」ということばをリフレッシュさせるのは、わたしたちひとりひとりなのだから――そんなメッセージを短いながら過不足ない構成でいきいきと伝えてくれるこの本には、誰もが励まされることでしょう。

本書の刊行を記念し、アディーチェの作品を日本語に訳してきたくぼたのぞみさん、そして本書の書評を執筆され、そこで「ジェンダーに縛られているのは実は男も同じなのであり、アディーチェの言葉に解放を味わってもいいのだ。平等をともにめざすフェミニストたることは、男にとっても自分を取り戻す行為なのだから。」と述べる作家の星野智幸さんをお招きし、おふたりに本書のテキストを中心に、フェミニズムについて、アディーチェについてお話いただきます。

この集いに、新たなフェミニストとして、あなたもぜひお越しください。

We Should All Be Feminists
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星野智幸さんの書評はいま発売中の『文藝』に掲載されています。こちらもぜひ!