Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/08/17

書評「二つの性を往還できるこの時代にふさわしい視点」

またひとつ、『鏡のなかのボードレール』の書評が出ました。「二つの性を往還できるこの時代にふさわしい視点」というタイトルで、掲載は8月12日発売の「週刊読書人」。評者はフランス文学の専門家、芳川泰久氏です。ボードレールの詩の訳についてまで突っ込んだ内容の評で、「なかでも読んできたことが累加的に焦点を結ぶ九章「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」は圧巻」ということばに筆者はとても喜んでいます。


 知人のなかに、自著や訳書に対する書評に「ありがとう」というのはおかしい、なぜなら、それは書評というのものが本来もっている「批評性」をそこないかねないから、という意見を持つ人がいます。わたしも、確かにそう! 日本語文化圏には日刊紙ならたった800字ほどの「書評」という名の「紹介記事」を書く文化が主流、あるいは書評紙や週刊誌などの書評欄にしても、3200字あまりの枠しかないのは、残念しごくです。
 たとえば、ニューヨークタイムズの書評は一本がもっと長いし、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスの書評にいたっては、その何倍もの量があり、ちょっとした論文のようだもの。
 あるいはフランス語圏のル・モンドの書評もがっちり長いし、突っ込んだ内容の辛口の評が載ったりする。フランスでは高校生のゴンクール賞というのまであって、そこで選ばれる作品の質の高さには定評があります。だから、本を読み、それについて評することは、たんなる読書感想文とはわけが違い、書評欄では当然、作品のよしあしとその理由を細かく論ずるスペースが確保される。

 それでも。それでも。この「本来の批評」の成立しにくい日本語文化圏に生きる者としては、やっぱり評が掲載されると、心のなかでつぶやいてしまうのだよね──Muchas gracias!