Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/07/20

『恥辱』のメラニーの肌の色は?

先日のB&Bの『鏡のなかのボードレール』をめぐるイベントで、こんな質問が出ました。

──クッツェーの『恥辱』に出てくるメラニーが前後の脈絡から白人ではありえない、とありますが、どうしてですか? 「メラニー」は白人の名前としてごくふつうに使われる名前ですが。

 あのときは実証例をあげて即答できませんでしたが、昨日そのことをあとづける部分を発見しました。メラニーがいわゆる「カラード」だという理解はあちこちで見かける意見で、南アフリカの研究者たちもそう述べていたと記憶していますが、それは次の箇所をどう読むかにかかっています。

 原著『Disgrace』のp164です。主人公デイヴィッド・ルーリーが娘ルーシーの農場からケープタウンへ車で向かう途中、ジョージという町に立ち寄ります。メラニー・アイザックスの家族が住んでいる町です。そこでルーリーはメラニーに対してレイプまがいのセクハラをしたことを家族に詫びるのですが、最初にアイザックス家を訪ねたときは1人の少女しかいませんでした。少女の名前を尋ねると、彼女は「Desiree」と答えます。デジレーと読むのでしょうか(デジリーア、とアフリカーンス語現地音ふうに読むのでしょうか)。そしてこう続きます。

Desiree: now he remembers. Melanie the firstborn, the dark one, then Desiree, the desired one. Surely they tempted the gods by giving her a name like that! 

デジレーか。それで彼は思い出す。メラニーは初めての子で、浅黒い肌の子、その次がデジレー、強く望まれた子。きっと、彼らはそんなふうに彼女を名づけることで、神々の意思にあえて挑んだのだ!)

 つまり、最初の子供であるメラニーは「dark one──浅黒い肌の子」だったが(melaninを暗示か?)、次に生まれた Desiree は強く望まれた子であり、より美人だった(Desiree, the beauty と4ページ先でルーリーは呼ぶ──p168)。

 上記の「dark one──浅黒い肌の子」という部分が効いています。
カラードの人たちは自分たちの中に白人、アジア人、先住民、黒人などの血が混じっていることを熟知していて(歴史的に混じり合ってきた人たちを制度上「カラード」と括ったわけですから)、それがどんなふうに子供に出てくるか、はらはらしながら、より白い子が生まれてほしい、と考えていたことがわかります。より白い肌で生まれてくるなら、膚の色で人口登録された「アパルトヘイト制度」のなかでは、地位も富もより上位のものが約束される。場合によっては「白人」で通すことも可能だ、と。
 アイザックス家の雰囲気を見て、プチブル的上昇志向の強い家族だとルーリーは判断しています。もしもアイザックスが白人の家族であれば、作家は上記のような書き方をすることはなかったでしょう。(夕飯に招かれて出された料理がカレーという駄目押しまでついています!)

 巧みな、暗示に満ちた書き方ですね。事情に通じた南アフリカの人たちにとっては言わずもがなの事実でも、外部にいる読者にはなかなか自信をもって断定できない要素でもあります。

 イベントこぼれ話のひとつでした!