Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/05/01

記憶の鈴蘭シャッフル

 スギ花粉もおさまって(ヒノキの花粉は幸いあまり苦しくない)、寒くもなく、暑くもなく、ようやく心身ともに「ほっ!」とできる季節になった。見ると、かわいらしい鈴蘭がちらほら、うつむきながらベルを連ねている。ほのかな香りが建物の入口にふわっと立ちのぼるこの時期は、一年のうちでもいちばん好きな季節だ。
 
 いまでこそ、東京の庭にも鈴蘭が咲くようになったけれど、わたしが上京した1968〜70年ころは、鈴蘭といえば北海道の花だった。札幌の花屋さんが切花を航空便で送るサービスをやっているからといって、母が毎年のようにアパートまで送ってくれた。それを持って、当時、桜上水に住んでいたジャズピアニストの菊池雅章さんのお宅まで、追っかけファンだったわたしは、厚かましくも届けにいったっけ。
 札幌の花屋さんのサービスは、切花から根付きの株になって、これは1990年代になってからだけれど、第三詩集の帯を書いてくださった矢川澄子さんに札幌から送った記憶がある。黒姫に住んでいた矢川さんから「無事に根がつきました」とお便りいただいたのはいつだったか。

 バルザックの作品に『谷間の百合/Le lys dans la vallée』というのがあるけれど、あれをそのまま英語にすると Lily of the Valley で「鈴蘭」のことになる。そう知ったのはいつだったのか?

 アン・バートンが歌っている曲:Sweet William にも出てきたなあ──と記憶はすでに故人となった人たちの影と絡まって、とめどなくあちこちに飛ぶ。香りがかもしだす、記憶の鈴蘭シャッフルだ。