E. Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/03/29

セザリア・エヴォラを聴く春の夕暮れ

セザリア・エヴォラ(1941~2011)の「rogamar」1曲目、"赤道のサントメ" 

大西洋の奴隷貿易の中継地だったカボ・ヴェルデ出身のセザリア・エヴォラがサントメ・プリンシペについて歌う。「サントメ、サントメ、誰のためにたたかっているのか、忘れないこと」と。





2016/03/22

チママンダ・アディーチェが短編「オリコイェ」を朗読

こんなのがありました。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが短編を読んでます。BBCの番組。
短編のタイトルは:

Olikoye


 ナイジェリアでかつてめざましい保健衛生政策を実施した大臣、オリコイェ・ランサム・クティの物語です。つぎつぎと新生児が下痢をして死んでいく村、病原菌による感染症から新生児や乳幼児をまもるための施策をし、袖の下を決して受け取らなかったこの人物は、かの伝説のミュージッシャン、フェラ・クティの兄弟だそうです!

 日本だって1950年代までは、田舎の医療衛生状態はナイジェリアの田舎と似たような状態だったことを思い出したい。わずか半世紀前のことでした。長い歴史的時間に照らして見るなら、あまり差はないのよね。

テクストはこちらで読めます

2016/03/20

春は、唸る風が……

 調子にのって駆け出そうとした漱石ざんまいの日々も、胃痛をいただいてしまって早々に中断。春の日差しのなかで、ひたすら静養と軽い手作業の日々だ。
 一昨日は部屋の隅に積んであった、書類やら、本やら、何度かの数少ない旅の記録やらを整理した。引越しをしてから、かれこれ13年以上も放ってあった、子供たちの写真も少しだけ整理した。約20〜30年前の写真である。

 これ、いつごろの写真だったっけ?──と親たちがすっかり忘れてしまった写真を、夕食に来た娘たちに見せると、さすが記憶する細胞が古びていない。あ、それは……とぴたりと言い当てる。
 卒園式、入学式の朝の写真などなど、おびただしい枚数の写真がアルバムに貼られたり、ブックポケットに収められて書棚に入っていたり。時系列にならべかえて埃を払い、しばし見入る。

 昨年秋に逝った猫の写真もたくさん出てきた。
 春は、唸る風が、旅立っていったものたちの残影を、記憶の底にかすかに波立たせる季節でもある。

2016/03/13

『道草』から遡って読む夏目漱石

今日も曇り空だ。おまけに真冬なみに寒い。でも風はないので、亡霊の泣くような音に悩まされずにすむ。

 没後100年だからというわけでもないが、そうだ漱石かと思って、このところもっぱら夏目漱石を読んでいる。もっぱらといっても、まだ『夢十夜』『道草』『硝子戸の中』を読んだだけだ。そういえば、学生のころは辛気臭い男になってみる読書などゴメンだと、10代のころ母親が高く評価していたエスタブリッシュメントのマッチョ作家、森鴎外ばかり読んでいた。(いま考えてみると、自分の子を宿した女を捨てて帰国する無責任な日本男の「苦悩の」内面なんぞを描いた『舞姫』が教科書に載っていたなんて信じがたい!)

 数年前に家人から漱石はこれと薦められて、読みかけては中断してきた『道草』を一気に読了できたのは嬉しかった。それで、発見!
 これは漱石の傑作中の傑作ではないのか。地味な作品といわれているらしいけれど、とんでもない。ファンタジー性を一切使わないで、妻である鏡子とのやりとり、子供とのやりとり、それにまつわる自分の生い立ちとの葛藤、実の父母や兄姉と自分の位置関係、養父母との腐れ縁と絡まり合いの収め方を、ここまで赤裸々に、簡潔に書いたものはなかったのではないか。
 漱石の自己分析の鋭さ、自意識の奥にさらに高いところから光をあてようと奮闘する力技に脱帽しながら、爆笑する場面も何度かあった。記憶との距離感と批判力がすごいのだ。
 漱石という作家は、一貫して、自己セラピーのために小説を書きつづけた作家だった。絶筆となった『明暗』の直前に書いたものだけに、凄みと切実さと真摯さがないまぜになっている。漱石ってこんなに面白かったのか。

 学校の教科書で習った『坊ちゃん』の登場人物にキヨという下女がいた。全面的に主人公を受け入れ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、といってくれる女性だ。もう死んでしまったお婆さんの姿で描かれていたが、キヨというのは漱石が結婚した相手、つまり鏡子夫人の本名だというから驚いた。そうか、「紺無地の絽の帷子に幅の狭い黒繻子の帯」をしめたお婆さんの姿でしか記憶されていない実母と、妻である鏡子をミックスして、幼いころはこういう女性に育てられたかった、と初期には甘いファンタジックな人物像を描いていたのかと膝を打った。
 もう一度、『坊ちゃん』も読み直してみよう。

 しかし、夏目漱石の自己分析力を光らせる、英語からの翻訳文体と、漢文脈と、ころがすような江戸弁の混じり合った独特の文体は、新聞にはうってつけだっただろう。というか、新聞向けにそのように書いたのだろう。次回を期待させる区切りといい、それを受けてまた始める書き方といい、新聞にコラムのように発表することで漱石の文体はつくられていったのだな、といまさらながら納得した。
 だから、だろうか、小説といっても伏線を張って、あとでそれが一気につながる、といった構造的な仕掛けはあまり感じられない。しかし。この自己分析力、自己批判力、時間と記憶に対する意識は、残念ながら、それ以後の作家にはあまり引き継がれなかったように思う。それを継ぐ作家があらわれなかったのは、どことなくバッハがロマン主義時代に打ち捨てられたことに重なるような気がするが、どうだろう。

 次は『明暗』、そして『こころ』『行人』かな。時間をさかのぼるようにして『吾輩は猫である』まで読めるといいな。
 鏡としての女性からみた漱石を読む。鏡子夫人の名前は、ひょっとして、「おまえは俺の鏡になってくれ」といって漱石が換えたのではないか、とひとり妄想しながら楽しんでいる。

2016/03/05

緋寒桜に鳥がきた

 めっきり春めいてきた。緋寒桜に鳥が来ている。なんという鳥だろう。(付記:ヒヨドリだと教えてくださった方がいました。Muchas gracias!)
『鏡のなかのボードレール』のゲラ読み終了。たくさん入る図版のキャプションも書いたし。

 これで一区切り。ふうっ! 仕事が一区切りするのと、春がやってくるのと、つぎつぎと鳥たちがやってくるのが重なるのは、なんだか嬉しい。
(シンプルなデジカメでめいっぱいズームにして撮ると手ぶれが起きてしまい、1枚目はちょっとピンボケです・涙)

 さてさて、つぎは『アメリカーナ』の分厚いゲラだ。いざいざっ!

2016/03/04

「ブラウン・ベイビー」 by ニーナ・シモン

今日の音楽。ニーナ・シモンの「ブラウン・ベイビー」。1962年に発売されたアルバム「アット・ザ・ヴィレッジ・ゲイト」のB面の最初に入っている曲だ。B面なんてことば、みんな知ってるだろうか? LP時代。この曲との衝撃的な出会いについてはずいぶん以前だけれど、ここに書いた
 ニーナがこの曲を歌ってから54年。アメリカという国の黒人をめぐる野蛮な暴力はいま.........

Brown Baby をまた聴く春の曇り空。

2016/03/02

津島佑子の本がきた

なんだかここ一カ月は、力が抜けた時間だった。長い訳稿を送ったあとしばらくは、読みたいのに読めなかった本の山をどんどん崩していくぞっと、気負い立って本を手にとったはいいのだけれど、数冊読了したところでアウト。「しばしお休みなされ」という心身の芯からの命令で、ひたすら休養した。

まず、やってきた本たち
 その間に、何人もの人が逝ってしまった。逝ってしまって、あ、しまった、もっとちゃんと読んでおくべきだったのに、そうしたかったのに……と悔やんでもあとの祭り。その一人、津島佑子(1948年3月30日〜2016年2月18日)。

 70年代から読んでいたのだ。『寵児』や『光の領分』は雑誌掲載のかたちですぐに読んだ。そうだ、『生き物の集まる家』はまだ学生のころ、四畳半アパートで読み終えて、箱入りのその本を箱に収めて、読後の濃密感にため息をついた。そのとき感じたものの記憶は、いまでも確かによみがえる。

 しかし、80年代に入って、子育てに追われて、読書にあてられる限られた時間に、まず読んだのはトニ・モリスンであり、アリス・ウォーカーであり、トニ・ケイド・バンバーラだった。そして藤本和子、森崎和江、石牟礼道子、etc.etc.
 津島佑子がアイヌ民族のことや、沖縄のことや、台湾のことに深い関心をもち、作品にもそれは如実にあわわれている、ということを見聞きしながら、いつかじっくり読まなきゃなと思いながら、今日になってしまった。そして、津島佑子はもういない。合掌。

「救済としての差別」の書き出し
 目の前に残されているのは、しかし、多数の作品。心して、これと向き合っていくことになるのだろう。そういえば、訃報を聞いたときに真っ先に思い出したのは、津島佑子がトニ・モリスンの『青い眼がほしい』に書いていたエッセイのことだった。朝日新聞社からシリーズの第1巻目として出たバージョンだ。

 そこに「トニ・モリスンという作家の存在を、私はこのシリーズで初めて知り、作品を読むことができたのだったが、それは私にとって幸運なことだった」と始まる「救済としての差別」という津島佑子の文章があった。藤本和子の編集によるこの本が出たのは1981年のことだ。
 思えばそれが「始まり」だったのだ。あれからもう35年になる。