Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2015/11/06

「早稲田文学 2015冬号」に『アメリカーナ』のことを

 このところ不振とつぶやかれる翻訳文学だが、昨今、息苦しい「国」という枠から思い切り飛び出したいという願いに応えてくれるのが翻訳文学だ。いまの、この世界、を見る視点がぐんと広がる。そんな翻訳文学に力を入れているのが「早稲田文学」だ。今日、最新号、「早稲田文学 2015年秋号」が発売になった。

「なぜ動かずにいられないのか?」──というタイトルが示唆するのは、世界各地で起きている人の移動だ。旅行、移民、難民、その背景、内実、結果などをかいまみる作品群が掲載されている気配。

 植民地への入植がさかんだったころとは逆に、現在の移民は、基本的により良い生活をもとめて、あるいは、切羽詰まった生命の危険を感じて、北側の経済的に豊かで安全な国々に「向かう」ものが多い。難民の場合はその緊迫度がさらに激しいだろう。
 しかし「旅」となると必ずしもその方向をとるとはかぎらない。むかしの文学的な旅行記では、むしろ、未知なる土地への探検や、エキゾチスムに刺激されての旅となるわけだから、圧倒的に「都市→辺境」が多かったはずだ。
 それはまた、書籍の出版や販売が北側に集中してきたこと、読者が「北」に属する人間を中心とし、「南」に属する人間はその視点に倣うものとされてきたことに関連があるかもしない。したがって「南」に属する人間は、「北」の視点を内面化せざるをえなかった。そんな長い歴史があったことは事実だ。さて、日本語社会はこの「北」と「南」のあいだの奈辺に位置付けられるだろうか。日本語使用者の意識は、どこにあるのだろうか?

 今日日、言語や国境を超えようとする、あるいは、はからずも超えてしまう文学は、過去の固定された視点を批判的に再考したり、逆転する可能性を秘めている。そんな期待と希望をつい期待してしまいそうな今回の「早稲田文学」だけれど、取りあげる作品や、評論、コラム、座談会に見られることばたちは、そのどのあたりをどんなふうにあとづけているのだろう? 興味津々。雑誌はさきほど届いた。読むのはこれから。

 わたしも、3つの国、3つの土地を往還する物語『アメリカーナ』について、作品紹介のコラムを書いたので、ぜひ、のぞいてみてほしい。チママンダ・ンゴズィ・ディーチェがみずからの体験をふんだんに取り込みながら書いた長編小説だ。