2015/09/30

ちょっと残念な映画「セバスチャン・サルガド ── 地球へのラブレター」

8月1日に封切られたヴィム・ヴェンダースの映画「セバスチャン・サルガド ── 地球へのラブレター」をやっと今日、品川までいって観てきた。

「パリ・テキサス」で4星、「ブエナ・ヴィスタ」で5星だったヴェンダース監督への評価が、残念ながらこの映画で3星に転落した。アフリカに興味をもちはじめたころに出た写真集「An Uncertain Grace」以来、「Workers」をへて「Exodus」までセバスチャン・サルガドという稀有なフォトグラファーの写真に魅入られてきた者として、この映画はちょっと残念だった。

 美しい白黒の映像や、サルガドが自分の人生を語ることばは面白かった。この映画の共同監督である上の息子との絡みも面白かった。ブラジルの大きな農園で7人姉妹と育ったこと(大勢の姉妹のなかの一人息子として彼は1944年に生まれている)、とにかく落ち着かない子だったという父親の語り、自給自足の農園生活を15歳まで送ったために貨幣を使ったことがなく、学生として街で暮らしはじめたとき店で食べ物を注文することができず餓えた話、経済を学んでいたとき出会った女性といっしょにあの60年代にパリへ逃げた話、そこで建築を学ぶ彼女と結婚したのち世界銀行で仕事をしたが、カメラに魅せられて、フォトグラファーの道をたどったことなど、とても興味深かった。ほぼ同時代人としてこの地上に生きてきた人間としての共感も感じられた。
 仕事はすべてプロデューサー、マネージャーの役割をこなす妻との合作だったときちんと語られていたこともよかった。ほかにも、息子が2人いて下の息子がダウン症だったことなど、ディテールに興味はつきなかった。映画のなかで使われたほとんどの写真は、すでに見ていたものだったけれど、あらためてそのすごさを確認もした。

 しかし、ひとつだけ、とても気になったことがあった。90年代後半の写真のところだ。ルワンダの虐殺、その後のコンゴとの国境につくられた難民キャンプの悲惨さ、さらにコンゴの森に忽然と消えた25万人のツチ系のルワンダ人が半年後に4万という数になってキンサシャにあらわれた話など、その映像は聞きしにまさるすさまじさだ。そのときの心境をサルガドは、自分は「魂を病んだ、救済などこの世にあるのか」と語ったことも衝撃的だった。しかし問題はその直後だ。ヴェンダースが「Heart of Darkness/闇の奥」という表現をべったりと使ったのだ。それが棘のようにこちらに突き刺さり、一気に興が冷めてしまった。コンラッドの同名の小説が出たのは1902年。それから100年以上も後のいま、その表現を無批判に使うヴェンダースという監督の価値観を疑わざるをえなかった。なんという上から目線、ヨーロッパ中心目線。ヴェンダースはともかく、ブラジル生まれのサルガドがそれを許すのか?

 ちょうど、『たまたまザイール、またコンゴ』(田中真知著、偕成社)を読んでいる最中だったこともある。これは日本人である著者が1991年と2012年にコンゴ河を下る冒険譚なのだけれど、この本を読んでいるとまったく別の風景が浮かんでくる。コンゴに生きる人たちの顔が見えてくるのだ。被写体としてのみ存在するわけではなくて、日々、住み暮らす人間としての顔が見える。もちろん平時の顔なのだけれど。

 一方、サルガドは紛争のさなかに飛び込んで行って、極限状態の人間を写真に撮る。だから衝撃度、緊迫感が、一枚一枚の写真のなかにすさまじいまでに宿る。その違いは決定的だ。しかし……。

『たまたまザイール、またコンゴ』では、コンゴがなぜかくも自立不能の国なのか、鉱山資源をめぐる紛争に世界各国の利権がからむ構造もきちんと見える展開がある。さらにティム・ブッチャーという作家の本『Blood River』に出てくる逸話が、コンゴの悲惨さを脚色するための嘘だったということも露見するのだ。
 
 今日観た映画では、サルガドは偉大なフォトグラファーであることが淡々と描かれる。彼の素顔に迫ろうとする意図も理解できる。その精神の旅路もまた面白い。しかし……。それらの写真を撮るまでに至った、当然そこにあったであろう現地の人間たちとのやりとりや関係が、まったく見えない。あるいは「Workers/労働者」を撮るなら、なぜ、自分の農園の労働者の話はでてこないのか。これは映画の限界なのか。その部分は落として構わないと判断されたのだろうか。そこが理解できない。そして残念だ。この不満は彼の自伝を読むことで満たされるのだろうか。
 読んでみよう、彼の自伝。

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付記:アフリカで病んだ精神を大地が癒してくれたというサルガドは、次に、大地と生き物の創生へと関心を移していく。荒廃したサルガド農園に植林をして青々とした森を取り戻す。そのプロセスはすばらしい。しかし、その農園がもともとだれの土地だったか、と自問するところはこの映画にはない。自伝にはあるのだろうか?

2015/09/25

南の文学 ── クッツェー、ふたたびアルゼンチンへ

 4月につづいて、J・M・クッツェーがアルゼンチン、ブエノスアイレスのサンマルティン大学で、9月14日から25日まで開かれた第2回「南の文学」セミナーのチェアをつとめた。今年のセミナーのゲストは、ゾーイ・ウィカムとイヴァン・ヴラディラヴィッチ、いずれも南アフリカ出身の作家だ(ウィカムはスコットランドに住むが、ヴラディラヴィッチはヨハネス在住)。以下は、サンマルティン大学のホームページに掲載された記事を、ざっと訳したもの。


左からヴラディスラヴィッチ、ウィカム、ルタ、クッツェー
 学長のカルロス・ルタは、「南の文学」とはアフリカ、オーストラリア、そしてラテンアメリカを照らし合わせながら相互交流をする場だと述べた。クッツェーによってなされたこの提言の核心には、南という世界がもつ経験のために、大学として必然的なコミットメントがある。アカデミズムの世界がその視界から除外し、押さえ込んできた部分を可視化させる、そういう真実を明らかにするものがあるのだ。そのために文学は有効な役割をはたすだろう。……中略……「南の文学」のチェアはもちろん、既成の境界を広げたいという要望についてさらに深く考え、断固とした決意をもっている、と述べた。

 それに対してクッツェーは「前回、ゲイル・ジョーンズとニコラス・ジョーズという2人の作家をオーストラリアから伴ってこの大学を訪れ、オーストラリアの文学について講義をしたが、たいへん心踊るものであり、新しい学生や作家、テクストと出会う喜びがあった。今回はサンマルティン大学の方々に南アフリカの主要な作家を2人紹介できて嬉しい。彼らには6つのコースを担当してもらう。今回のプログラムでは、南アフリカ文学の歴史と、「南」という概念について扱うが、この「南」が理論的に含み持つ意味合いには大いなる可能性がある」と述べた。
 北と南、という軸を立てることについて、チェアであるクッツェーは、それが新しい次元を切り開くことになるのではないかと提案。「北と南というパラダイムは、南アフリカや南全域を貫いているが、この軸で考えると、南のなかでもっとも小さな大陸であるオーストラリアは北に属している。南北の軸で国々を分けるのは、地理的にほとんど注目されず、多くは経済的な意味合いにある。オーストラリアはこのパラダイムでアルゼンチンと合致しないだけでなく、20世紀初めには世界でもっとも裕福な国のひとつとなり、今日ふたたび中心的位置を獲得する可能性をもっている。北と南という図式は、奇妙なシンメトリーを活性化しつつ、ひとつの均衡のようなものを作りあげている。しかし、北は政治権力とグローバル・コミュニケーション・ネットワークの中心であり、南はそれ以外ということだ。このパラダイムは北のアカデミズムの概念であり、南の知識人は警戒して考えなければならない。南は、北が押し付けてくる受け身の役割を引き受けてはならない。文学においては、北によって決められたスタンダードとパターンを追いかける結果になっている。北と南は、中立的な分析タームではなく、分離の歴史を背負わされている。今回のチャレンジは、南の新しい文学を立ち上げることなのだ」と述べた。

 ゾーイ・ウィカムはサンマルティン大学への招待にお礼を述べたあと「南の文学に多大な貢献をしてきたイヴァン・ヴラディスラヴィッチやJ・M・クッツェーとともにこうして参加できるのはとても光栄だ」と述べた。

 最後にイヴァン・ヴラディスラヴィッチが「こんなに歓迎されたこと、大勢の人たちと自分の熱意を共有できたのはとても嬉しい。ブエノスアイレスに来ることができるとは思わなかった。講座をとおして、もっとも興味深く、重要な南アフリカの作品を学ぶことになるだろうが、それと同時に、アルゼンチンの作品についても学びたいと思う」と述べた。


「南の文学」講座は、ラテンアメリカ文学とラテンアメリカ研究の共同研究活動として開催される。
 第1回は、オーストラリアからゲイル・ジョーンズとニコラス・ジョーズの2人が参加したが、今回は「グローバル・サウス」と「リーディング・ムンディ」および「サンマルティン大学編集局」(今回の南ア作家2人の作家の話をアンソロジーにした『Perspectives:South African Tales』の特別出版に注目!)も参加。
 南アフリカの文学をテーマとする今回のコースは、8回のミーティングと6回の授業、そして2回の公開講座から構成される。

 ノーベル賞作家 J・M・クッツェーによって指導される「南の文学」は、アフリカ、オーストラリア、ラテンアメリカや他の南部地域出身の作家、文芸批評家、文学研究者、教師の交流、意見交換の場である。
 クッツェーがめざす方向性は、文学が隔たった知られざる世界を結びつけることにある。つまり、この活動は、経験や出自を問わず、だれにでも開かれた構成を促すことにあり、近似しているであろう活動を、南というイメージをもつ世界に相互に出会う経験をもたらす。その意味で、サンマルティン大学は、南と南の文化交流的空間のプログラムを創設する指導的な大学となっている。

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2015.9.28付記:上の記事の原文はスペイン語です。Googleで英訳したものの、あくまでおよその訳ですのでご了承ください。

2015/09/21

「スーダン」と耳にして……

自衛隊が来年2月にも南スーダンに派遣されるかもしれない、というニュースが流れた。
 立憲政治も法治主義もかなぐり捨てて、委員会室に部外者の侵入を画策し、乱闘ともいえる暴力によって無理やり進めた「採決不在」の違憲の法律を根拠に据えて、自衛隊が派遣される先が、自衛隊の内部文書どおり、南スーダンなのか。

(2015.9.22付記:すでに自衛隊が数百人派遣されているから、それの増強で、NGOなどで働いている民間人を武器をもって警護する、いわゆる「駆けつけ警護」ということだろうか。しかし、銃をもたない日本人のイメージで信頼されてきたのになあ、これまでは。アフガニスタンの中村哲氏がいっていたように。南スーダンの紛争についてはここで。)

南北に分かれたスーダンは(付記:おおざっぱにいうと、北がイスラム教徒が多く、南はキリスト教が広まっている)内戦が何十年も続いた。2011年に独立した南スーダンに油田が発見されたのは1974年だったそうだ。
 1980年代の政変、そして今世紀に入ってから、チャドとの国境近くのダルフールで虐殺が起きたのを覚えている人もいるだろう。「Save Darfur=ダルフールを救え」の名で、アメリカでは運動が盛り上がったりもしたけれど、「ダルフールを救え」は現地の救援活動を危険にさらすような提案をする一方、集めた数百万ドルの寄付はダルフール難民のためには使われていない、批判する人(マフムード・マンダニ、コロンビア大学教授)もいる。

 とても複雑なかたちで民族が混住している土地だ。宗教や文化もさまざま。

 石油のパイプラインをめぐって、中国資本が入り既存の諸国の利益を損なうとして勢力争いが起きているといわれている。中国資本がアフリカ大陸に積極的に入っていったのは、スーダンだけではないが、2011年に独立した南スーダンが第二のDRC(コンゴ民主共和国)にならないことを祈りたいが......

 とにかく歴史的に見れば、何百年もヨーロッパの植民地支配がつづいたアフリカでの内戦には、いつも必ず大国同士の勢力争いがバックにある。南アフリカのアパルトヘイトだって、いまとなってみれば、結局は、冷戦時代のソ連とアメリカの勢力争いが背後にあったのだ。南部アフリカの資源、さらにサハラ砂漠以南の資源をどのように「開発」するか、という利害の上に、アパルトヘイトはあれほど長引いていたのだ。南アを反共の砦にするために、レーガン政権やサッチャー政権に支持されて、南アの白人政権が行った数々の南部アフリカ不安定化工作! つまりは、アメリカが世界にばらまいていた紛争地帯(ラッツネット)のひとつだった、と J・M・クッツェーが『ヒア・アンド・ナウ』で書いていた。それが文通相手の当の大国アメリカに住むポール・オースターにとって周知の事実ではなかったことは、外部の人間から見ると、ちょっと驚きではあったけれど。。。いや、そんなもんか、アメリカという国に暮らしていると。。。

 そしていつも、その内戦の最大の被害を被るのは、現地に住み暮らす人間、とりわけ、女性と子供たちだということを忘れずにいたい。メディアはぜひ、人としての顔の見える報道をしてもらいたい。とりわけ紛争地では、被害者を数字だけで書くのではなく。
 アフリカが紛争や貧困やエイズなどばかりで語られる「シングル・ストーリーの危険性」をチママンダ・ンゴズィ・アディーチェは口がすっぱくなるほど語ってきたけれど、さて、かの大陸に住み暮らす人たちへの想像力を、私たちはどれほど耕すことができているだろうか。
 スーダンという名前が出たついでに、といってはなんだけれど、スーダン出身の英語で書くムスリムの作家、Leila Aboulela レイラ・アブルエラーの作品が早く日本語に訳されることを心から願っている。

2015/09/09

6年前──自公の惨敗、強い予感

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』の第一稿、約1400枚を訳了。ナイジェリアとアメリカとイギリスと、行ったりきたりの若者が2人。すれちがったり、出会い直したり。なんともはらはら、どきどきのラブストーリー。髪のこととか、グリーンカードやら不法移民のこととか、食べ物の違いとか、ナイジェリアのヒップポップとか、細部がめっちゃ面白いのだ。
 そして、ふと思った。

 前回の長編『半分のぼった黄色い太陽』を訳了(とにかく)したのはいつだったか? あれは6年前、2009年の11月だったな、と思って日記(作業日誌)を調べてみた。
 訳了が11月4日とある。その前日に「アディーチェが来日決定」の報。さらにぱらぱらやっていると目に飛び込んできたのは、8月30日の「衆院選」と、翌日の「自民、公明が惨敗。民主が政権党に」の文字列だ。

 あれから6年。この間の、この社会の変動はすさまじい。

 とりわけ、2011年3月11日の大地震と福島原発事故からの激変、そして2012年12月には自民党が多数派に返り咲き、それ以降は狂ったようにこの国は坂をころげおちてきた、ように見えるけれど、それは、戦後70年のあいだ、隠されていた事実がだれの目にも、否応なく明らかになったということだったのだ。それをみんなが認識したのだ。

 翻訳をしていると、さまざまな出来事が起きたときのことを、そのときやっていた仕事と絡めて記憶することが多い。あれは、だれの、どの作品を訳していたときか、あるいはだれが来日したときか、自分がどの作品や作家がらみでどこへ旅したあとか、などなど。

 たとえば、2010年の8月にアディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』が出て、9月末に著者が来日した年の暮れに、右腕を骨折したとか、クッツェー三部作を翻訳すると決まったのは、2011年3月の大地震と原発事故の直前か直後だったとか、2012年の暮れに自民が圧勝して、これからどうなるのかと不安いっぱいだった翌年に、クッツェーが3度目の来日をしたとか。

 そして今回は、アディーチェの『アメリカーナ』を訳了したあとに、ほとんど誰もが違憲といい、日本中の6〜7割の人が今国会で決めるのは時期尚早といっている「安保法案」なる戦争法案が、詭弁につぐ詭弁を弄して、参議院で強硬に採決されようとしている。こんなに反対運動が激しく、広く、起きているのに、政府はいっさい耳をかさず、どうみても、クーデタとしかいいようのない無茶苦茶なやり方で法案を通して、自衛隊を米軍の下請けに出そうとしている。だんだん法治国家の体をなさなくなっていく、と多くの人が不安にさいなまれ、憤懣やるかたない思いでいるのが、いまだ。

 8月30日には国会前にゆうに12万をこえる人たちが集まった。わたしも少しだけ参加して、元気をもらってきた。まだまだ国会前でも、全国でも、抗議はつづく。今週も、来週も。民主市議ってなんだ? これだ! 生命を守れ! 子供を守れ! という切羽詰まった叫びは続く。デモクラシーに中身を詰めていく。

 今日は台風が通り過ぎた。これを書きはじめたときは、篠突く雨が降っていたのに、いまでは陽の光がさして、青空が広がり、雲が流れている。6年前とおなじように、「自民・公明が惨敗」と日記に書く日が、ふたたび近い将来あることを、秋の日差しを見ながら強く予感する。

2015/09/06

ペティナ・ガッパの新作長編が出ていた

ペティナ・ガッパの新作です。最近、あまり追いかけていなかったのですが、出ていました。次は長編、というニュースを聞いてから、かなり時間がたちましたものね。


The Book of Memory (Faber & Faber)

 主人公はちいさいころに自分は売られた、9歳のとき、売ったのは父と母だった、と述べるアルビノの女性。養父を殺したために裁判にかけられて、判決を受けた。その女性が弁護士に語る物語。どんな話なんだろう。ガッパのことばでは:

 人種のことを書かずに、人種のことを書きたかった("I wanted to write about race without writing about race.")とのこと。

 ここでガッパのBBCの最新インタビューが聞けます。

 第1作目の『イースタリーのエレジー』はクレスト・ブックスから出ましたね。この長編もぜひ、訳出して欲しいな。期待しています。

追記:ガーディアンに詳しい記事が。メモリーというのは主人公の名前らしいな。

2015/09/05

気まぐれな空もよう

さっきまで晴れていた空が、またどんよりと曇ってきて、ばさばさっと雨滴が落ちて、奇妙に明るい空に、ところどころ、茜色の薄日がさしている。
 昨日も今日も家にこもって、とにもかくにも先へ進み、這うようにして最終行までたどりついた。ふうううっ!

「シーリング」ついに彼女は口を開いた。「なかに入って」

2015/09/01

ついに、J・M・クッツェー賞ができた!──いや短編コンクールでした

チリに、J・M・クッツェーの名前を冠した文学賞ができたらしい。受賞者は3人の予定で、9月11日に第一回の授賞式。

記事はスペイン語なので大意からの報告です。

 賞金はそれぞれ100ペソ、70ペソ、50ペソで、スポンサーはロ・バルナチェア地方(commune)とアングロ・アメリカン。
 そのあと彼はアルゼンチンのブエノスアイレスへ行って、南アフリカ出身のゾーイ・ウィカム、南ア在住のイヴァン・ヴラディスラヴィッチとともにサンマルティン大学で、第二回目の文学講座を開講です。「南の文学」の形成をめざして。

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追記:スペイン語の専門家Yさんからのコメント:

「賞金は10万、7万、5万ペソです」と教えてもらいました。今朝になって調べてみると、アルゼンチンペソは1ペソ=約13円と知って、計算すると、上記の額はあんまり少ないんで驚き(笑)。すみません、訂正します。
 また、これはチリのカトリック大学建築学部が催す「都市と言葉」という催し(集中講義?)で、彼は講演をし、それに合わせて短編コンクールを開催、ということで、永続的な文学賞ではないみたいです。

 やっぱり、Google翻訳だけでは情報の確かさは危険がいっぱい! Yさん、Muchas gracias!

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再追記:今後、J・M・クッツェーの活動を追いかけるには、スペイン語、ドイツ語、オランダ語などの記事がちゃんと読める人のヘルプが絶対に必要になってきた。ヨーロッパの旧植民地だった南半球の英語圏以外のところへ彼は活動を広げている。人間以外、つまり動物の世界へはすでにぐんと広げているし。