2015/03/31

ケープタウン大学のセシル・ローズ像を撤去

ケープタウン大学でセシル・ローズの像の撤去を決定!というニュースが流れた。この像の撤去を求めて、像に汚物がかけられて布で覆われた写真が(右下)がネットにも流れたのはつい先日のことだった。

 さて、そもそもケープタウン大学はこのセシル・ローズの別荘の敷地に創られたという歴史があるのだ。
 右手をあごの下にあてて遠くエジプトのカイロを眺めやり、ケープタウンからカイロまで鉄道を引くことを夢想する像がキャンパス内に残されていた。今回撤去することになったのはこの像である。ケープタウン大学構内のはずれには太いギリシア様式の円柱を使った神殿様式のメモリアルもある──そこのカフェで数年前にわたしがランチを食べてきたのはゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』にこのカフェが出てきたからだった。

 ほかにも、ケープタウン市内中心部にあるカンパニーガーデンにローズの立像があって、訪れた観光客がその前で写真を撮ったりしていたし、ローズの名前や像はいたるところに残っているのだ。植民地時代の名付けの暴力によってつけられた呼称を変える、という流れはここのところ随分出てきている。通りの名前、飛行場の名前、大学の名もまた。しかし、ちょっと待てという議論もある。

 撤去についてさまざまな意見を述べて議論する学生たちの全学集会のようすも動画でアップされていた。この動画の1時間16分あたりから始まる白人と思しき男子学生の発言に、おっと耳をそばだてる内容があった。それをちらりと紹介する。


 彼は、ケープタウン大学が、南アフリカ経済がいかに搾取システムによって支えられてきたかを触れずに経済学を教えている、と指摘してもいる。ローズはその搾取システムを形成した張本人だが、その歴史的事実を学ばずに学生は卒業してしまうと。またこの学生の発言には、J.M.Coetzee が卒業に必要な必須単位としてアフリカの言語履修を入れるよう主張していた、というのが含まれているようだ(なにせ聞き取りにくい英語なので、かの地で学んだ知人に確認してもらったのだが。。。Mさん、muchas gracias!)
 それを聞いてふと思ったのは、北海道大学でアイヌ語履修を将来的に卒業必須科目にするってのはどうだろう、ということだった。
 いやあ、熱気にあふれる集会だ。言いたいことをずばずば言う若者の姿がいい。

 しかし、像を撤去する方向へ若者のエネルギーが向くだけで、現在、この国が抱えている大きな諸問題が見えなくなるのは問題だという議論もある。世界経済の動向と絡んで、ケープタウン大学の再編が問題になる現在、解放後約20年を経て、この国の、アパルトヘイトをじかに知らない若者たちが、自分たちは学ぶべきことをちゃんと学んでいないと主張している姿を見ると、これら若者たちがこれからどう動くか、とても気になるところだ。
 そしてもちろん、この南アジアの土地に吹き荒れるファッショの波を押し返す力に若いエネルギーがどれだけそそがれるか、そのために古いエネルギーがその養分になることに身を徹することができるか。。。ダナ。

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付記:文字と写真をうまくレイアウトしようとしているうちに、大事な一節がどこかへ行ってしまった。つまり:

セシル・ジョン・ローズというのは「アフリカのナポレオン」と異名をとった植民地経営者であり、現在のデビアス社を創設した人物。南部アフリカ一帯の植民地経営に腕をふるった。彼の名前がつけられて「ローデシア」と呼ばれた地域は、現在、1975年に独立したザンビア(北ローデシア)と、1965年に白人差別主義者スミスが一方的に独立宣言した独裁政権下で解放闘争(チムレンガ)をくりひろげて1980年にようやく独立したジンバブエ(南ローデシア)に分かれる。ジンバブエはわたしが初めてアフリカ大陸の土を踏んだ土地で、来年が独立10周年というころだった。南部アフリカの希望の星といわれていた。
 
今回撤去対象となっている像は、そのセシル・ローズの像だ。この人物が南部アフリカでやったことは、歴史的、経済的、政治的にきわめて大きな足跡+傷痕を残している。そのレガシーの上に南アフリカは現在の国を運営していることは、批判的にしっかり学ぶ必要があるだろう。ヨーロッパとアフリカの関係を見て行くうえで、避けて通れない人物だし、どのように評価するかはおそらく、その人の立ち位置によって大きく分かれるところだろう。像を撤去すれば済む話しでもないけれど、目の前に日々あって、それが批判の対象とされない授業であるなら、それこそが問題だろう。日本の近代史にもこういう例はたくさんありそうだ。

2015/03/24

書評『素晴らしきソリボ』を北海道新聞に

3月22日(日)の北海道新聞書評欄に、パトリック・シャモワゾー著 関口涼子/パトリック・オノレ訳『素晴らしきソリボ』(河出書房新社刊)の書評が載りました。掲載紙がいま届いたばかり。さっそくアップします。あべ弘士さんのイラスト、エゾヒグマのおまけつき!
 


2015/03/23

岩波文庫『マイケル・K』のゲラ読み完了

三度目の正直、とはこのことかと思いながら、J・M・クッツェー作『マイケル・K』(岩波文庫)のゲラを読んだ。初訳が出たのは1989年10月だったから、かれこれ26年以上も前だ。二重の意味で初訳書だった。クッツェーの作品が日本語になるのも、わたしが訳者となる本が書店にならぶのも初めてだったからだ。インターネットなどない時代で、南アフリカの事情や固有名詞を調べるのには本当に苦労した。

 二度目はちくま文庫に入ったときで、2006年だった。いろいろ気づいたことがあったので全面的に改訳した。そして三度目の今回は、作品を読んでいてまったく異なる風景が目の前に立ちあらわれて驚いた。理由はいくつも思い当たる。
 
 まず、クッツェーの作品をすでに6作も訳してきたので、初訳時と違って、この作家のことがかなり深く理解できていること。ことば遣いの特徴、文章のリズム、作家の好きな表現や癖、疑問符の多用、くり返される自問など、いろいろある。なんといっても大きな違いは、この10年のあいだに作家自身と何度も会って話をし、人柄などがじかに分かったこと、数年前に南アフリカを旅して作品の舞台となった風景を実際に見てきたことだ。

『マイケル・K』はいわばロードノベルだ。マイケルはケープタウンから内陸部のプリンスアルバートまで徒歩で旅する。その道程は地図通りに進んでいく。いまなら、グーグルマップでたどることもできるし、ストリートビューを使えば、田舎町の大通りをゆっくり車で走る気分さえ味わえる。

 作品が書かれたのは1980年代初頭、30年以上も前のことだ。だから、もちろん違いもある。アパルトヘイトは1994年に完全撤廃され、新体制に変わった。これは決定的だ。ヴスターへ向かう国道1号線も変わった。マイケルがプリンスアルバートをめざしたころは、まだユグノートンネルは着工されたばかり。当然、マイケルは山を登り、峠を越える道をたどる。それでもケープ半島や内陸のカルーの風景そのものは、基本的に変わっていない。気候だってそれほど違わない。出てくる地区、道路、街、山脈、川といった固有名も地図を探せば見つかる。

 今回、あらためて発見したのはスヴァルトベルグ山脈の近くの風景が、まさしく赤い岩石質の土だということだった。放棄された農場にやっと辿り着いて畑を耕し始めたが、かつての持主の孫が脱走兵としてあらわれて彼を下僕にしようとした。そこでマイケルは農場をいったん離れてこの山のなかにこもる。洞穴ぐらしをして、岩肌に咲いた花を両手に何杯も食べて胃が痛くなったりもする。それがこの赤土の山だ。

俺が欲しいのは緑と茶色ではなくて黄色と赤の大地だ。湿った土ではなくて乾いた土、暗色ではなく明色の土、柔らかい土ではなくて固い土だ。かりに人間に二種類あるとしたら、俺は違う種類の人間になろうとしている。手首を突き出してじっと見ながら、傷を負っても血は噴き出さずに滲み出すだけかもしれない、そう思った」(岩波文庫版、p106)

 1989年に初訳が出たとき、この本を「マジック・リアリズム」と評した人がいたが、これほど実際とかけなはれた読み方もないだろう。南アフリカという土地について地理、歴史といった基本的な知識がない時期だったせいだろうか。背景や流れがよく分からないものに、このレッテルを貼って分類するのが流行りだったのか。
 
 それで思い出すのは、「マジック・リアリズム」という語について、ハイチ出身の作家エドウィージ・ダンティカが鋭い批判を述べていたことだ。ガルシア・マルケスの作品内で起きる出来事について、あれはカリブ海社会の「日常だ」と彼女は言った。このことは「リアリズム」という語について、誰の目から見て「リアル」なのかを考えるとき、とても示唆的だ。

思えば、あの時代は南アフリカだけでなく、世界を見る目が恐ろしいほど偏っていたのではないか。この国では1994年に悪名高いアパルトヘイトから解放され、2010年にはサッカーのワールドカップも開催された。距離感は明らかに変わった。でも、無意識に眠る西欧中心主義、名誉白人は名誉であるという意識は、はたして変わっただろうか? むしろ「グローバリズム」だとか「英語中心主義」の文脈のなかで、暗黙のうちに強化されてはいないだろうか?
 作品の背景にある暴力的な格差社会(不平等社会と呼びたい)も、ある意味、南アフリカ固有のものではなくなって、世界中どこでも、じつに身近なものになってしまった。

 今回の決定版のために訳文は再度見直しをし、訳者あとがきもここ10年間にえた新情報を盛り込んで、クッツェーという作家の全体像がこの作品を通しても透かし見えるようにした。この「決定版への訳者あとがき」には昨年のアデレードの作家宅訪問の成果も入れたのでお薦めしたい。

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写真は上から「国道1号線からの風景」(道の両側に必ずこんな金網のフェンスが張ってある。)。2枚目が「タウスリヴァーの駅舎」でマイケルが鉄道の土砂崩れに労働力として駆り出され、汽車でたどり着いた場所だ。3枚目が「スヴァルトベルグ山脈の道」、赤い山肌を見せてそそり立つ絶壁。4枚目がSecker&Warburg から1983年に出た原作の英国版ハードカヴァー。

2015/03/18

「パプーシャの黒い瞳」、映像の美しさに溜め息

白黒の映像って、こんなに美しかったのか! と思いながら、久々に映画を堪能した。

 昨日は『パプーシャの黒い瞳』の試写会のため、6月の陽気のただなかを六本木まで足を運んだ。20分ほど前に到着したにもかかわらず、入ってみると客席はほぼ満席。最後に残っていた席をようやく確保した。
 130分を超える作品なのに、少しも飽きずに、むしろ最後まで食い入るように観入ってしまった。帰ってからも、あのシーンはここと繋がっていたんだ、最後のシーンで頭のシーンに戻るのか、といろいろ思い出しては、パンフレットで確認したり、以前訳したイザベル・フォンセーカの『立ったまま埋めてくれ』(青土社刊)を引っ張り出して、映画の主人公となったパプーシャ自身の写真(下)をしみじみと凝視したりした。

 そう! この映画は1900年代初頭に生まれたポルスカ・ロム(ポーランド・ジプシー)の女性、ブロニスワヴァ・ヴァイス(愛称パプーシャ)を扱った映画なのだ。フォンセーカの『立ったまま埋めてくれ』はこのパプーシャをめぐるエピソードから始まる。彼女の歌の歌詞をめぐる思い出は随分前だけれどブログにも書いた。

 1989年から共産圏諸国が大変動を迎えたあと、フォンセーカは東欧のロマ社会を何度も旅する。ジプシー/ツィガン/ヒターノ/ツィンガリ/ツィゴイナー/ツィガーニ/ツィカン/アツィンガノイ、と言語によってさまざまに呼ばれてきた人たちの共同体に住み込み、歴史を調べ、一冊のルポルタージュを仕上げた。その結果、「流浪の民」というステレオタイプで語られる彼らが、どれほど多様な存在であるかが明らかになった。英語で書かれたその本は欧米で長期にわたってベストセラーを続けた。

 ジプシーは文字をもたない民族だった。この映画の主人公パプーシャは、でも、文字というものがあることを知り、それを覚えたかった。父親に怒られ、殴られても、土地の女性に「文字を教えて」と鶏や卵を授業料として持ち込んで文字を覚えた。その切実さはどれほどだっただろうか。ポーランド語の文字を覚え、その文字を使って、ジプシーのことば(ロマニ語)の歌や物語を書いていった。紙に。パプーシャより14歳ほど若いイェジ・フィツォフスキというポーランド人が、それをポーランド語に翻訳し、ポルスカ・ロムの歴史も書き添えて出版する。それが栄光と悲惨と呪いを運ぶ始まりだった。

 映画は、反体制活動家のイェジが逃げ込んでくる場面や、焚き火を囲んで詩や記憶をめぐってパプーシャとやりとりをする場面などが、含みをもった映像で示される。
 ジプシー社会を描く手法も面白い。新聞に載ったパプーシャの記事を見せられた少年(パプーシャがホロコーストの殺戮現場から拾って育てた子)も、夫も、最初は喜びながら、ジプシーの掟に反すると咎められると、手のひらを返したように反感をあらわにする。みんながパプーシャたちを仲間はずれにする。パプーシャは精神に異常をきたして八カ月入院。手書き原稿をすべて焼き払ってしまう。
 ほかにもジプシー社会の特徴を、核心を押さえながらそれとなく表現する場面が光っていた。もちろん、マジョリティとしてのポーランド人の差別的な態度、ナチのジプシーへの迫害、ポーランドがジプシーにとった強制的定住化政策、そして最終的には国家の文化内に取り込まれていくようすも、じつに抑制のきいた調子で描き出されている。

 とりわけ映画の冒頭で、オーケストラと合唱団が彼女の歌を曲にして演奏する場面で光るのは、国家の記念すべき催しに引っ張り出され、無理矢理ドレスに着替えさせられて隣席するパプーシャの苦渋に満ちた表情だ。それを最終場面とリンクさせる構成には溜め息が出た。
 その最終場面とは、灰色の雪原をとぼとぼと進む小さなキャラバンが、分岐点で左と右に分かれていく象徴的なシーンなのだけれど、ここで使われる音楽がジプシー音楽ではなく、オーケストラによる最初の場面の音楽なのだ。ジプシー音楽で有無を言わさず観客の情動に訴えかけて盛り上げる手法をとらずに、パプーシャの歌は、こうして歴史的な記録/取り込み/が行われた、と暗示する。余白を残し、余韻をかもし出しながら、少し距離をおいて、あくまで残された資料を想像力で補いながら歴史的事実を淡々と描こうとする姿勢といえるだろう。この映画のすばらしさは、おそらく、ここにある。映像による詩の響きとはこういうことかと思った。

 考え抜かれた構成の映画でもある。大きくシーンが変わるたびに必ず年代が字幕にあらわれるのが特徴。年代が前後するのだ。そのたびに、いまパプーシャは29歳、とか、39歳、と考えながら観た。パプーシャは少女役と成人した女性役の二人の女優によって演じ分けられるのだけれど、成人女性のパプーシャ役を、ジュリエット・ビノシュを思わせる女優が演じていたのが印象的だった。

 15歳で意に染まぬ結婚を強いられたパプーシャの人生では、「希望」や「願望」の裏に必ず「諦め」が織り込まれていたのかもしれない。わずかながら残っている彼女の詩にも、この映画にも、一貫して運命的な諦観が通奏低音のように流れている。狭い共同体に閉じ込められずに、どれほど外の世界へ飛び出したかっただろう。世界全体をその目で見たい、文字によって知りたい、とどれほど願ったことだろう。それを思うと身を切られるように切ない。それでも彼女の作品は、少ないながら、残っている。そこがアイヌ民族の詩人、知里幸恵との大きな違いだろうか。金田一京助とイェジ・フィソフスキを思わず比較してしまった。

 映画は1900年代初頭に生まれた一人の女性が生きた時代を、燈台のように照らし出しもするが、思えばカリブ海の小さな島で、1937年に生れたマリーズ・コンデの母の母は、文字を知らない人だった。この日本でも、1919年に旧植民地北海道に生れて銃後の看護婦を担わざるをえなかったわたしの母の、その母は文字を知らない人だった。20世紀とはそんな時代でもあったのだ。そんな想像の翼を広げさせる映画である。4月4日から岩波ホールで上映開始。

 この映画、もう一度、観てみたい。

2015/03/15

ハベバ・バデルーン/Gabeba Baderoon の『眼差すムスリム』

届いたばかりのほかほかです。出版年は2014年9月というから、出てからまだ半年。

Regarding Muslims──from slavery to post-apartheid
眼差すムスリム──奴隷制からポスト・アパルトヘイトへ』

著者はハベバ・バデルーン/Gabeba Baderoon、南アフリカのポートエリザベスで1969年に生れた詩人だ。これは南アフリカのムスリムについて書かれた本で、カバーの裏に J・M・クッツェーが推薦文を書いている。

Drawing on the by now extensive scholarship on slavery at the Cape, Gabeba Baderoon guides us through the labyrinth of racial and cultural stereotyping which for centuries minimised Islam and obscured Muslims as actors in South African history.  Intellectually sophisticated in its explorations of material culture, of iconography, and of media rhetoric, yet lively in style and engagingly personal in presentation, Regarding Muslims is a welcome contiribution to the larger revisionist project under way in South Africa.──J.M.Coetzee

「いまや広く学究の対象となっているケープ地方の奴隷制に迫りながら、ハベバ・バデルーンはわれわれを人種的、文化的ステレオタイプの迷宮を抜ける道案内になってくれる。このステレオタイプこそが何世紀にもわたってイスラムを過小評価し、南アフリカの歴史におけるムスリムの役割を不明瞭なものにしてきたのだ。物質的文化、イコノグラフィー、そしてメディアのレトリックの探求で知的な洗練を見せながら、生き生きとしたスタイルで、個人的な関わりを含めて描き出していく『眼差すムスリム』は、目下、南アフリカで進行中の歴史を見直すプロジェクトにとって歓迎すべき貢献である──J・M・クッツェー」

 そう、ムスリムなのだ。そう、『恥辱』の冒頭に出てくるあの「ソラヤ」なのだ。
 これは面白い! 近著『鏡のなかのボードレール』でも触れるが、この有色女性の描写はともすると後半の劇的展開に目を奪われて、読後は印象が薄くなりがちな箇所なのだけれど、じつはクッツェーが極めて明晰かつ含みのあることば遣いで、南アフリカにおける人種をめぐる歴史の深層を暗示している箇所でもあるのだ。
 それは主人公である白人男性デイヴィッド・ルーリーには見えなかった歴史であり、教育や意図的認識によって合理化されてきた、歴史体験やその無知と彼が向き合わざるを得なくっていくドラマへの奇妙な助走をうながしている。この第一章に出てくる女性、それがソラヤだった。
 この本は、そのソラヤの存在を詳細に裏づける瞠目すべき好著である。


 バデルーンについては数年前に、彼女が賞をとったときにあれこれ調べたり、インタビューで声を聴いたりしたことのある詩人だったが、こんな本を書いているとは知らなかった。教えてくれたNさん、Muchas gracias!

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追記:バデルーンの公式サイトから写真を拝借しました!

2015/03/11

きみの写真/TU FOTOGRAFIA

4年目の3.11。なんと長い時間だっただろう、いや、なんと早く過ぎた時間か。

 福島第一原発は収束どころか、廃炉作業に必要な技術、知識を十分もった人がどんどん不足していると聞く。そこで働く人たちの労働条件の過酷さ。すでに4年も経っているのに。東京の夜のネオンはまったく減らず、前を通るたびに、こんなに必要なんだろうか、と思わずにはいられない。恥ずかしい。

 4年前の3月末には、今日は電気が消えるだろうか、明日はどうだろうか、とはらはらした。あれはなんだったのか! いま考えると、どう見ても「脅し」以外のなにものでもなかった「計画停電」。災害を受けた人たちの多くがまだ仮の暮らしを営んでいる。思うこと。考えること。感じること。今日も生きている、この世界で。
 
 今年も、去年聴いた曲をふたたび。なぜか、これを聴くと心が満たされる。波打ちぎわの砂がなめらかになるように。





GIAN MARCO - TU FOTOGRAFIA──きみの写真

2015/03/08

話題のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

今朝、PCを開けていつものように、さて仕事しようか、と思って少しあちこち見ていると、いきなり『半分のぼった黄色い太陽』No1! といった、冗談かなと思うような文字列が目に飛び込んできました。Amazonで! とあるので、すぐに飛ぶと、なんと157位!
 ひやあ! と声をあげてしまいました。こんなこと初めてだもの。
 
 つい先ごろ直木賞を受賞した西加奈子さん(改めて、おめでとうございます!)が午前7時からのTV番組「ボクらの時代」でこの本をあげてくださったらしい。番組を見ていないから、らしい、としか言いようがないのですが。Muchas gracias!

 拙訳『半分のぼった黄色い太陽』が出た2010年の夏から秋にかけて、あちこちに書評が載って、作家自身も来日して、幸いなことに、二段組みで500ページ近くもある本を多くの人に読んでいただけたのは本当に嬉しかったけれど、当時はまだ「戦争」ということばは読者を遠ざけることばだったなあと、遠い記憶となってよみがえります。わずか4年ほどのあいだに、そのことばがこんなに切迫感をもってくるとは・・・。

 ぜひぜひ、この『半分のぼった黄色い太陽』の映画が日本でも公開されてほしいものです。

 いま、そのアディーチェの We Should All Be Feminists という冊子を訳しています。今日3月8日は国際女性デー/International Women's Day ですから、それにふさわしいテーマ。それほど長くないので、翻訳の作業そのものはもうすぐ終わります。
 内容は、以前、ここでも紹介したアディーチェのスピーチを文章化したものです。「神奈川大学評論」が創刊80年記念号を組むのでその柱になる予定と聞いています。

 ビヨンセがここからことばを採って彼女のアルバム Flawless に入れて歌い、グラミー賞にもノミネートされたテクストです。すでにフランス語にも、ポルトガル(ブラジル)語にもなっているのですね。
 その後はまた新作長編『アメリカーナ』の翻訳にもどります。日々こつこつと。

2015/03/06

Barbarians が映画化されなかった理由

 クッツェーは Waiting for the Barbarians の映画シナリオを書いている。この作品の映画化権を売って、教える仕事から身を引き、創作に専念したいと強く思ったらしい。1995年のことだ。

 でも、それは実現しなかった。結局、映画化したいという側の、マカロニウェスタンさながらの翻案企画は作家の了承を得られず、クッツェーが準備したシナリオは使われることなくお蔵入りとなった。他のシナリオを使うことも彼は許可しなかった。In the Heart of the Country の轍を踏みたくなかったのだろう。この小説がマリオン・ヘンセル監督によって映画化され、「Dust」となったときの苦い経験があったのだ。
 しかし1995年に、まとまったお金を手にするビッグチャンスを目前にして、彼があえてそれを退けた理由は、日本語への一翻訳者としてやはり考えておきたいと思う。その態度はとりもなおさず、彼がみずからの作品が読者にどのように受け取られることを望んでいるかを示してもいるからだ。

 自分の書いた作品が、それを書いた目的、意図などから大きくずれることを彼は嫌った。初めて訳されたドイツ語訳のWaiting for the Barbarians が、作家の意図とは大きくずれて、別の翻訳者の手によって改訳されることになったいきさつは、ここですでに書いたが、翻訳に対してもまたこの作家は同じ態度であることは間違いない。

 Waiting for the BarbariansIn the Heart of the Country、この二つの小説を舞台化するためのシナリオが昨年出版された。編集したのはウェスタンケープ大学のハーマン・ウィッテンバーグ。写真は昨年11月にアデレードで会ったときのもの(真ん中がウィッテンバーグ、向かって左はデイヴィッド・アトウェル、右はいわずもがなの作家自身だ/残念ながらレンズの設定を間違えてちょっとピンぼけ!)。

2015/03/02

月曜朝から、ケープタウン南部で山火事

ケープタウンで山火事が起きている。月曜の朝かららしい。ミューゼンバーグに向かって強い風にあおられて火は、すごい勢いで広がっていく。チャップマンズ・ピークも炎に包まれているという。