Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2015/01/29

インタビューが載りました

アルクの『翻訳事典 2016年度版』というムックにインタビューが載りました。インタビュアーはベテランの大橋由香子さん。とりとめもなくしゃべった内容を、すばらしくポイントを押さえてまとめてくださいました。
 訳本なども紹介するコーナーがあり、クッツェーの三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』、アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』、そして詩集『記憶のゆきを踏んで』の写真が左ページ下にずらりとならんでいます。もちろん、それぞれの本の紹介も!

 また、わたしが翻訳を始めたきっかけになった藤本和子さんとの出会いのエピソードが、「わたしの翻訳学校」というコラムになっています。右ページ下です。思えば、あれは1984年、そのとき藤本さんに教わった3つのことが、箇条書きになって出ています。この教えはいまも変わらないなあ、とあらためて読み直してしまった。
 そうそう、アデレードでジョン・クッツェーさんのお宅にうかがったときの写真も、小さいけれど、載ったのでした。ジョンとのツーショット。
 大橋さん、お世話になりました。ありがとうございました。

2015/01/18

もう一度「笑い」について

 書き忘れたことを簡単にメモしておこう。

 中島らもの本『何がおかしい』を埃っぽい書架からひっぱりだしたのは、彼が確か、笑いを3つに分類、分析していたはずだと考えたからなのだけれど、そのときわたしの頭のなかにあった3つの「笑い」とは、以下のような分類だった。

1)自分とは異なる者を下に見て自分の優位性を確認する笑い(つまり「差別的な笑い」)
2)ナンセンスな笑い
3)自分自身を批判的に見る笑い

 でも、紹介したように、そうではなかった。中島らもの分類は、およそ1)と2)にあてはまるものだったのだ。あると思っていた3)についての言及は──本を隅から隅まで読み返したわけではないが──ざっと見たかぎり、残念ながら、なかった。

 劇作家であり放送作家であり、笑いをとるコントをたくさん書いてきた中島らもにとって、3)の笑いは確かにあったはずなのだが、それをもとにコントをつくるのは至難の業だったのかもしれない。この辺はむしろ、ベケットやカフカが得意とするところだろう。(あるいは、らもがいう「あほ系」に少しかぶるところがあるかも・・・)

 ベケットやカフカの作品がかもしだす笑いは、文学が得意とするところであり、いわゆるお笑いの世界で受けるのはなかなか難しいのかもしれない。
 しかし、中島らもの散文には、まちがいなく自分自身を、すさまじいばかりの勢いで笑い飛ばす精神が満ちていた。そこが面白かったのだ。

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付記:そしてこの自分自身を笑う精神こそ、多文化、多民族の社会内で人びとが共存するために、絶対必要な要素なのではないか、とわたしなどは思うのだ。

2015/01/15

芥川賞:小野正嗣さん、直木賞:西加奈子さん


 嬉しいニュースだ。さきほど芥川賞と直木賞の発表があった。

   芥川賞は、小野正嗣さんの『九年前の祈り』
   直木賞は、西加奈子さんの『サラバ!』

 おめでとうございます。そうだったらいいなあ、と思っていたので、あまりにもその希望通りになったので、ちょっと驚き! 嬉しい! お祝いがてらに、勝手ながら、クッツェーやアディーチェがらみのエピソードを少しご披露させていただこう。

 小野正嗣さんは最近、クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』を紹介したり、オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』の書評を書いてくれたばかりだ。西加奈子さんは以前、アディーチェの最初の短編集『アメリカにいる、きみ』をNHK週刊ブックレビューで「いちおし」してくれた方だ。2013年に毎日新聞にアディーチェの「シングルストーリー」をめぐる記事が載ったこともあった。西加奈子さんはアディーチェと同年生れなのだ。

 昨年の6月、ノリッジの文学祭を訪れた小野さんは、参加者の一人だった J・M・クッツェーと会って、話をしたとか。小野さんの『ヒア・アンド・ナウ』の書評を英訳してクッツェーさんに送ったら、「彼と会ったことはよく覚えています。ポールにこの書評を転送しました」と返事が来たところだった。(もうひとつ、ぐっと深くまで読み込んだ、力のこもった書評を書いてくれたのが、あの、都甲幸治さんだった! 西加奈子さんとの対談イベントに行けなかったことは、返す返すも残念!)

「笑い」について

「笑い」についてずっと考えていたことを、備忘録の代わりに書いておく。

中島らもという劇作家がいた。1952年に生れ、2004年に没した、いわばわたしの同世代である。ミュージシャンでもあったけれど、80年代から90年代にかけての一時期、彼の本をよく読んだ。とりわけ『今夜、すべてのバーで』が面白かったし、他の本に書かれた自伝的物語も面白かった。若いころギターをかっぱらった話とか、美大を出てから印刷所に務めたときの、ぶっちゃけた話なんかは絶妙な青春物語として、お腹をよじらせながら読んだ。
 関西生れの彼の破天荒な生きざまは、遠くからちらちらのぞき見るかぎり、ある種の美学に支えられているようにさえ思われた。朝日新聞に連載していた「明るい悩み相談室」も、彼の書く回は楽しみにしていた。そこにはナンセンスを含む、大いなるカタルシスがあったからだ。

 その中島らもに、2006年に出た『何がおかしい』という本がある。そのなかで彼は「笑い」を分析しながら、笑いには大きく分けて3つあると述べている。

 1)「あほ」系統
 2)精神障害者差別系統
 3)身体障害者差別系統

 いずれも「笑い」の根底には「差別的感情」があると中島は分析している。そして、このどれにも入らないものとして「ナンセンス系」をあげている。

 非常に具体的な例をあげて、それぞれ書いていく彼の「現場」は、こうして10年近く経ったいま読んでみると、出てくる事例が「なぜ可笑しいのか」一瞬考えてしまうときがあるのも面白い経験だった。つまり、「笑い」というのはその時代、その社会と非常に密着した関係があり、かつ、言語内あるいは集団内で共有されてきた積み上げの上に成立するものだということがわかるのだ。積み上げられてきた「共有部分」が時間とともに薄れていけば、あるいはそれを支持する集団性が弱まれば、そのコントそのものは伝わりにくいし、笑いを取れない、ということになっていく。だから「なぜ可笑しいのか」を理解するためには説明が必要となる。説明されると、それはちっとも可笑しくなくなってしまう。

 同一言語内でもそうなのだから、ましてや、異文化、異言語のあいだで「笑い」そのものを伝えようとするのは至難の業となる。翻訳不能の最たるものが「笑い」なのだろう。同一の価値観、同一の経済基盤などを共有する者が、そこからこぼれおちるものを排除し、差別することによって「笑い」は起きることを、中島らもははっきりと書いている。「笑い」を取ろうとする芸というのはそういうものなのだろう。

しかし、人はどの社会においても、どのような状況下でも、このカタルシスとしての笑いを必要とする。緊張感が高まるほどにこの傾向は強まることもまた事実なのだ。表現における異文化と差別の関係は「正義」だけでは語れない。ある人たちにとって笑いとなることが、また別の人たちにとっては侮蔑となる。そこがまことに厄介である。「笑い」もまた、一言語内、一社会内にあってさえグローバル化時代にさらされていく時代を迎えているのだ。まあ「帝国言語」にとっては、長い過去の歴史の、つまり植民地化活動およびその結果としての現在の政治/経済活動の、必然的結果として引き受けなければならないことでもあるのだけれど。

追記:中島らもの『何がおかしい』の帯にある、らものことばを付記しておく──「笑いが差別的構造を持つことと、笑うことが生きることであることとは、全く位相の違う問題だ。笑いはニンゲンに絶対に必要な存在だ。明記しておく」

2015/01/12

頭を冷やして考える──シャルリー・エブド

nikkei.com
2015/1/11 1:49
 【ナイロビ=共同】ナイジェリア北東部ボルノ州の州都マイドゥグリの市場で10日、10歳前後とみられる女児が自爆し、少なくとも19人が死亡した。フランス公共ラジオなどが伝えた。犯行声明は出ていないが、イスラム過激派ボコ・ハラムの関与が疑われている。この市場では昨年にも2回、女性による自爆テロがあった。
 市場の入り口で、金属探知機に反応した女児が身体検査を受けている際に爆発したという。目撃者は「女児は体に何を装着されているか知らなかったのではないか」と語った。
 ボコ・ハラムは今月初めにボルノ州バガとその周辺を集中攻撃するなど、北東部で支配圏を拡大。一方でマイドゥグリなど政府軍による警備が厳重な都市部では爆破テロを繰り返している。

昨日はシャルリー・エブド事件をめぐる日本の報道について、日本語社会の「わかりやすさ」を求めすぎる罠について、書いた。わたしはここ10年以上TVを観なくなった。その結果、映像や音声として一瞬のうちに切り取られる世界のニュースのヴァーチャルな現場に距離を置くことになった。


 この事件の後、パリで行われている追悼集会に「西側諸国」からそうそうたる政治家たちが集まり、60万とも70万ともいわれる群衆が集まっていると知って、あれ、どこかで見た・・・911後のアメリカ社会? と既視感に襲われ、またしても理不尽な戦争を西側諸国はイスラーム世界に仕掛けはしないだろうか? と思ったのは、ずいぶん時間がたってからだ。どうもずれているのだ。

 昨日のブログ書き込みをしたあと、ナイジェリア北東部で起きた上記の事件を知って、頭から冷水を浴びせられたような思いがした。それで、facebook や twitter に「シャルリーエブドがこれほど大々的なニュースとして伝えられるのに、この事件など、ちっとも大きく伝わらない。この非対称性。どれだけの人たちが絶望的なまでに苦々しく思っているか・・・。今夜は頭を冷やして考えてみよう」と書いた。

 冷水の種はほかにもあった。知人友人が今回の事件をたんなる「表現の自由」で論じるべきではないと主張していたのだ。シャルリー・エブドに描かれた漫画は、ほとんどヘイトスピーチに近いと言う人もいる。現在のフランスという国に、なぜ今回、自分たちの文化や信仰を貶める漫画を執拗に描きつづけた漫画家や編集者を「銃撃によって」攻撃するにいたるまでの、烈しい絶望感に追いやられた者たちがいたか、ということを抜きに、たんなる「表現の自由」云々で論じることはできないというのだ。彼らの絶望の深さに思いをはせなければ、今回のような事件は何度でも起きてくると。確かにそうだ。

 世界規模で考えるとき、マイドゥグリで起きた悲惨な事件が大きなニュースとして取り扱われない現実を考えあわせるとき、その非対称性が少しでも小さくならないなら、今回のような事件はまだまだ続くだろう。注目されるために「西側社会」の内部でそれは起きる。実行に誘われるのは社会内で不当にあつかわれてきたと感じる絶望した若者たちだ。その構造は火を見るよりも明らかだ。

ヴォルテールの論もまた再考されねばならないかもしれない。ナイジェリア系の作家テジュ・コールの記事を読んで、そう思った。彼は「ヴォルテールは反ユダヤ主義者だった」と述べている。ヴォルテールが生きた18世紀とそれに続く時代、彼の用いる「あなた」と「わたし」の二者に、もちろん「女性」は含まれないし、植民地をふやしていった18ー19世紀に、その植民地の人間、たとえばアフリカ人は含まれていなかったことはしっかり思い起こす必要がある。

 フランスが植民地化したアルジェリアの人びとも当然入らない。そこから長い時間が流れ、そして「いま」があることを考えなければならないのだ。上記の「あなた」と「わたし」に、彼らにとっての「他者」も含めよ、という内部からの不断の抵抗の声、要求によってかろうじて幅が広がってきたのが現在のフランスの「平等主義」(実質的な平等ではなく)なのだ。その歴史的パースペクティヴを抜きに「言論の自由」だけで論じると、あっけなく政治的な力の罠に絡めとられてしまうだろう。アルジェリア独立戦争は1954年から62年、命をおとしたアルジェリア人は14万人、フランス人は3万人、ほんの半世紀前のことなのだ。

2015/01/11

シャルリー・エブド事件について思うこと

 数日前に、風刺漫画を出しつづけてきたフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」の編集室がカラシニコフ銃をもった男たちに襲われ、12人の漫画家や編集者が殺されるという事件が起きた。場所はフランスのパリだ。その後、犯人たちは印刷所やスーパーに人質をとって立てこもったが、フランス憲兵特殊部隊とフランス警察所属の特殊部隊によって射殺された。人質のなかからも4人の犠牲者が出た。ほかにも警官が死んでいる。
 
 フランスの風刺画といえば、わたしなどはすぐにドーミエという19世紀の版画家を思い出すが、シャルリー・エブドという週刊紙で作家たちが風刺対象にしたのは、イスラーム教をめぐる事柄のみならず、キリスト教や広く政治、社会、などあらゆる分野におよんでいたと聞く。ただ、それに対して言論による批判ではなく今回のように暴力による口封じをしようとした実行犯が、フランス生れのアルジェリア系のフランス人であり、その背後にアラビア半島を拠点にするアルカイダがいるらしいということで、ややこしくなる。この事件はグローバル社会の歴史的背景やその重層性を抜きに、単純な二項対立で考えるわけにはいかないのだ。
 
今回の事件をめぐる詳細な分析や情報等は、事件が起きた場所の近くに住む詩人・翻訳家・作家である関口涼子さんが facebook などに、時を移さず書き込みをしてくれるおかげで知ることがで、とても助かる。ややもすると、西欧社会×イスラーム社会、とか、キリスト教社会×イスラーム教社会、といった図式的な枠組みで理由づけして分かったような気にさせてくれる、いわゆる「専門家の分析」のことばに頼りがちだけれど、今回の事件は、つきつめていうなら「言論の自由」を暴力で封じ込めるという事件である。今回の場合、その「言論の自由」が、ある人たちから見れば「ダブルスタンダード」であるとしても、その根幹にある事実に変わりはない。しかし、である。
 
 関口涼子さんの指摘を読んでいて、今回あらためて確認したのは、日本語社会が抱く、いわゆる「フランス」のイメージのなかには(大雑把な議論になるが)、有色の人たちは含まれていないらしいということだ。いうまでもなく現在、フランスには大勢の非白人系の人たちが住んでいる。フランスが過去に植民地としてきた土地からやってきた人たち、あるいは、生れた土地で命の危険を感じて亡命してきた人たち、経済的な困窮ゆえに移民した人たち、などなど混じり合いながら、そういう人たちの子供、孫の世代まで含めて、大勢の非白人系の住民があの国には住み暮らしてきたし、いまも住み暮らしている。日本だってじつはそうなのだ。
 それをどうも、きちんと理解したいと思わない傾向がこの日本語社会にはあるらしい。だから、今回の事件を説明することばが、まず「フランスにはイスラーム教徒の移民が・・・」といった解説が入ってきて、議論が横にずれていく。フランス革命記念日を「パリ祭」と呼び換え、そのパリといえば相も変わらず「花の都」だの、ファッションの本拠地といった「イメージ」ばかりを、とりわけ女性雑誌が流しつづけてきたのだから、これは無理もないか・・・。

 かつてカトリックでなければ「市民」としてさえ認められなかった時代から現代まで、この国では「言論、宗教の自由」は長い年月をかけて鍛えられてきた。キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教、仏教、ヒンドゥー教など、「宗教」への風刺は許されても、その宗教を信じる個人への風刺は許されない、というバランスを取ってきたのだ。そのバランス感覚をつくりあげてきた多民族社会、それが現在のフランスという国だ。その努力のなかには、当然のことながら、この国に亡命を余儀なくされてきた非西欧系とされる人たちの、たゆまぬ努力もまたあっただろう。そこの部分が、この日本社会にいて、日本語の大手ジャーナリズムに頼っていると、見えにくい。
 
 Je suis Charlie Hebdo! ── 事件が起きた直後、フランス全土で大きな抗議のデモが広がった。このとき「わたしはシャルリー・エブドだ!」と書かれたプラカードを掲げる人の写真がメディアにも流れた。この表現はひっかかるなあ、とわたしは思う──対象に自己を重ねて「同情」したがる傾向だもの。でも、これは「シャルリー・エブドの論調に同感する」という意味ではなくて、「わたしはあなたの意見に同感ではないが、あなたがその意見を主張できる権利は死守する」という意味だそうだ。そう発言するフランス人が多かったと関口さんは伝えている。この考え方は、かつてこのブログでも書いたヴォルテールに由来する有名なことばを思い出す。しかし、である。

 I am not Charile, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. という書き込みがツイッターであったそうだ。「私はシャルリーではない、私はアハメド、殺された警官だ。シャルリー紙は私の神や文化をばかにしたが、彼がそうする権利を守るために私は死んだ」という意味だろう。それを日本語の大手新聞が、わかりやすさを追求してか、たんなる思い込みによる誤りか、こう伝えた。「私はシャルリーではなくアハメド。殺された警官です。シャルリーエブド紙が私の神や文化をばかにしたため私は殺された
 これで、「表現の自由」を守る西欧社会の警官である自分(アハメドというアラブ系の名前をもった人間)という、皮肉な位置づけを可視化する過程がすっぽりと抜け落ちてしまった。西欧社会の表現の自由はダブルスタンダードだ、と皮肉る批評性も、ツイッター原文の背後には読み取れなくもない。
 もしも、わかりやすさを追求するあまり、ということであるなら、その「わかりやすさ」を作ってきたものとはなんなのかを考えなければならないだろう。あるいは、思い込みであるなら、この日本語社会でその思い込みを作ってきたものはなにかを考えなければならないだろう。わたし自身もまた、翻訳者としての自戒を込めて。真っ白いフランスなどないし、単一民族の日本社会もないのだから。

 最後にこの事件が起きたとき偶然パリに滞在したナイジェリア出身のアメリカン・アフリカン、テジュ・コールが今日付けの「ニューヨーカー」誌に書いた記事 Unmournable Bodiesをリンクしておく。興奮さめやらぬ調子で書かれたリポートである。

付記:もうひとつ。酒井啓子さんの文章をリンク。視点をぐっと引いた全体像。重要なポイントが含まれる。
つづきがあります

2015/01/08

「アフリカン・アメリカン」と「アメリカン・アフリカン」

 2015年を迎えて初めてのブログ書き込みです。2014年をふりかえってみると:

  5月:詩集『記憶のゆきを踏んで』(水牛、インスクリプト刊)
  6月:クッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト刊)
  9月:クッツェー&オースターの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)

 詩集と訳書2冊を出すという、ここ数年のうちで最も多産な年となりました。
 さらに11月にはオーストラリアのアデレードで開催されたJ・M・クッツェーをめぐる「トラヴァース:世界のなかのJ・M・クッツェー/Traverses: J.M.Coetzee in the World」というシンポ+フェスタに招待されるというラッキーな出来事もあり、いつもなら机に向かって坦々とキーを打つ暮らしが、一転して、あちこち動きまわるというペースになりました。そのため自分でも気づかないうちにエネルギーが切れてきて、暮れからはしばらくPCから距離を置く必要が生じました。ブログも休みがちとなりましたが、今日から復帰です。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 この間、いくつか新しい進展もあり、それが間もなく形になります。それらが出版されて書店にならぶころ、このブログでもお知らせしていきますが、まずはこのところ遠ざかっていた音楽の話題で始めましょう。

 暮れから聴いているニーナ・シモン。60年代のアルバムを少しまとめて聴きなおしました。

Nina Simone sings the Blues (1967年録音)
'Nuff Said!/Nina Simone (1968年録音)
Black Gold/Nina Simone(1969年録音)

 どれもライブ録音で、当時のアメリカ合州国でニーナ・シモンというミュージシャンがどれほど絶大な人気を誇っていたか、それが手に取るように分かります。
 60年代公民権運動、ヴェトナム反戦運動にからんだ集会やコンサートにもひっぱりだこだったという、この黒いディーヴァは、白人や男たちに決して媚びない姿勢が圧倒的に支持されたようです。

 とりわけBLACK GOLDというアルバムの最後の曲「To Be Young, Gifted and Black/若く、才能にあふれた黒人で」は心にしみます。ロレイン・ハンズベリーが書いていた戯曲と同タイトルの曲です。
 ハンズベリーは1930年生れの戯曲家で、黒人女性としてまれにみる才能を発揮しながら、若くして(なんと、34歳という年齢で)ガンで逝った人。1933年生れのニーナ・シモンにとってはまさに同時代、同年代のアーチストであり、実際親しい友人だったといいます。あの60年代をともに生きた人だったのですね。
 
 そんなニーナ・シモンも、晩年はパリに移り住み、そこで2003年に没しています。パリの「アフリカン・アメリカン」だったニーナ・シモン。今年翻訳に取り組むチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』は、逆に、アメリカに渡ったアフリカ人女性イフェメルが中心となる物語ですが、ここに「アメリカン・アフリカン」という表現が出てきます。

「アフリカン・アメリカン」と
「アメリカン・アフリカン」

 地球上を何百年のあいだに移動した人びとの歴史が、そして、それぞれの歴史的な立ち位置、その意味合いを考えてしまう作品です。