Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2014/09/11

ラゴスで今年もファラフィナ・ワークショップ


ケニア出身の作家、ビンニャヴァンガ・ワイナイナがナイジェリアでインタビューを受けています。

1月にカミングアウトをして世界中のメディアのトップ記事をにぎわしたワイナイナでしたが、今回で9回目になるというナイジェリア訪問は(ファラフィナ・ワークショップ参加のためかな)かなり突っ込んだ話をしています。お薦めです。アフリカの文化事情に興味のある方には、とりわけ。興味のない方にも「アフリカ文学」というなんとも大雑把な旧いラベルで、あの大陸出身の作家たちが書くものを分別したがる読者にも/笑。

 ヨーロッパを中心に「西欧およびアメリカの外国文学」を追いかけてきた、日本に住み暮らす「われわれ」読者にとって、「アフリカ文学」はそれとちょうど対をなす概念だったのかもしれない、といまさらながら気づきます。旧来の「アフリカ文学」というくくりかたそのものが、それぞれの地域の差異をローラーで押しつぶすような、乱暴なものの見方だったのではないかということです。

 それは、インド出身の作家も、中国出身の作家も(じつに多様な)、もちろん日本出身の作家も、ぜんぶ「アジア文学」と呼んでしまい、それでOK! ということに等しいかもしれません。(言語の問題がまた複雑・・・。)
 そういう色眼鏡を通した「アフリカ文学観」そのものに、アディーチェもワイナイナも異議を唱えているように思えます。

 たとえば、アディーチェの作品には「アメリカ」がふんだんに出てくるし、それも金持ちばかり出てくるから、あれは「真正の」アフリカ文学とはいえない、という無茶な意見がいまだにこの土地にも見られますが、おおっと、金持ちばかり出て来たら「アフリカ文学」じゃない、という意見の裏には、「貧困、饑餓、紛争・・・」を描くものこそがアフリカ文学、という恐るべき固定観念がしみついています。
 アディーチェのような作家にしてみれば、いつまで外側から、他者から「真のアフリカはこれ」なんて教えられなければならないのかっ! と怒り出しそうな意見ですね。

 それって、あえていってみれば「ハラキリもゲイシャも出て来ないムラカミの作品は真正の日本文学じゃない」といっているようなものです。まったくの時代錯誤といわざるをえません! 
 
 とにかく、今年もまたナイジェリア国内のビール会社の資金援助を受けて、ラゴスで10回目の Farafina Creative Writing Workshop はにぎやかに開催されたようです(メセナがあの国ではしっかり育っているんだなあ、と思いますね)。「自分(たち)の物語を書く」という若い作家たちが確実に育っている!

 アディーチェはナイジェリアの社会で女性のおかれている位置をなんとかしたい、そのために人の意識を変えたい、それには・・・と考え抜かれた方法論でさまざまな活動をしています。それもあくまで作家として。そのアディーチェの物語が、アフリカ人向けに書かれてないなんていうのは、ちょっとちがうかも! ですね。もちろん、自分の好みに合わないと思う人だってアフリカにはいるだろうし、もちろん日本にもいるでしょう。たんにそういうことでしょう。