Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2014/06/20

スピヴァクがクッツェーの新作を論じる

あのガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクが、クッツェーの最新作 The Childhood of Jesus の書評を書いている。6月1日付のPublic Books というサイト。

まず、このシンプルな物語は学びのテクストである、読者を意味解明へと引き込み、読み方を学ばせるテクスト、としてこの作品のみならず、クッツェー作品の一般的な特徴を言い当てる。さらに、主要なクッツェー作品を参照し、この作家の全体像を論じながら、新刊(米国で出版されたのは半年ほど前)の単書の評を超えていくのだ。クッツェーという作家の原点に遡って分析するスピヴァクの視点はじつにスリリング。彼女によると、クッツェーは a creative writer of theory(理論を作品内に取り込む実作者、というところか)となる。

「彼は"自分の"ために(これは理論を専門とする作家には難しいが)、かつて植民地だった国へ(で)の白人クレオールの誠実さと愛に対する権利の問題を、積極的に、くり返し、俎上にのせて、かつて植民地化されたものへの遠い憧れにすぎない政治的正しさへの唯々諾々とした隷従を超えようとする。この問題はことによると彼のすべての作品を占めてきたかもしれず、とりわけ『恥辱』や「自伝的」三部作である『少年時代』『青年時代』『サマータイム』、そしてこのThe Childhood of Jesus では顕著かもしれない・・・」

 作家活動を開始したばかりのクッツェーの第一作目『ダスクランズ』の前半部「ヴェトナム計画」に触れ、自伝的三部作に出てくる作家のプロフィールとダブらせながらスピヴァクは論じていく。これはもう、クッツェーが『ダスクランズ』を発表して作家になっていく時期を描いた『サマータイム』(を含む三部作)の解説を書いたばかりの者にとって抜群の面白さである。


 スピヴァクは「ヴェトナム計画」というノヴェラに出てくる若い父親ユジーン・ドーンと5歳の息子の関係から、新作 The Childhood of Jesus で描かれる疑似親子、サイモンとデイヴィッド(あるいは、シモンとダビド)へと長い補助線を引く。クッツェーが「ヴェトナム計画」を新作によって undo 取り消しているようだとスピヴァクは述べて(う〜ん、鋭い!)、クッツェーという作家の全体像を一気に透視しようとする。
『少年時代』や『サマータイム』から具体的に引用して、そこに描かれるカルーという土地へのクッツェーの思いを分析する視線は突き抜けている。

 クッツェー作品の底流には「土地」の問題が常に通奏低音のように響いているが、スピヴァクはこの新作を「コロニアリズムのトポロジーの外側にある土地への愛着を書く一群のテクストとしての最新作」と直感的に位置づけてみたいと述べる。そして彼女自身のことば:「おのれの言語と故郷にナショナリズムを呼び起こしながら感じる不動の安堵は前向きの愛着ではない」としながらも、エリートとサバルタンの土地に対するそれぞれの感情の決定的な差異を指摘し、こう問うのだ。

 植民者エリートは、このサバルタンの無力さ(サバルタンには「そこにいること」しかないという無力さを日々感じて生きていること)へアクセスする権利を獲得したのか? 歴史とは、政治的正しさだけが許容される個人的感情よりはるかに大きいのか?

 そして「The Childhood of Jesus に出てくる、歴史をもたない土地、積極的に記憶を抹消した場所は、ポストコロニアルの白人クレオールという主体が植民地化以前のアフリカの最良を想像する方法なのだと考える」と述べる。

 また、サイモンがデイヴィッドの母親であると直感して子供を委ねるイネスという女性についてスピヴァクは、イネスが住む「レジデンシア」をクッツェー自身の母親の、結婚する前に暮らしていた古い社会を連想させる、と見抜く。やっぱりね。ここはクッツェー作品(とりわけ〈自伝〉三作)を読み込んできた者には、誰しもピンとくるところではないのか。
 幼いデイヴィッドに女の子のような洋服を着せてあまやかすところも、デフォルメされてはいるものの、『少年時代』に描かれる、過剰な愛を息子に寄せる母親の姿に奇妙に重なる。にわか母親になって、子供を夢中になって育てるイネスの姿は、作家が自分の少年時代をふりかえって描く母親のイメージを彷彿とさせはしないか(彼の母親は8歳年下の夫と結婚し、最初の子供ジョンを生んだのが36歳、1940年という時代を考えるとこれは再考に値する)。とにかく彼らは周囲とは歴然と異なるアウトサイダーなのだ。
 こんなにわくわくしながらクッツェー論を読んだのはひさしぶりだ。

スピヴァクの書評のタイトルは聖書の「詩編」を思わせる「Lie Down in the Karoo: An Antidote to the Anthropocene/カルーに身を横たえて:アントロポセンへの解毒剤」だ。サイトにはカルーの写真も出てくる。なかでもスピヴァクが、植民者の末裔=White creole であるクッツェーのこの土地に対する屈折した愛着を(三部作の拙訳につけた解説でもこれについては詳述したが)、『サマータイム』の「マルゴ」の章から引用しながら指摘しているところが興味深い。彼女はこの作品を「あとに残してきたカルーに身を横たえる権利を獲得するための試み」だとする。この結論は面白い。面白いが、「権利を獲得する試み」という表現ははたしてどうか? これはこと旧植民地の「土地」となると、絶対に後へは引けないスピヴァクの姿勢が際立つ読みだ。

 しかし、スピヴァクさん、文中に引用したクッツェー作品のタイトルが一カ所だけ違ってますよ! 日本語訳ではシンプルに『マイケル・K』とした1983年のブッカー賞受賞作は Life & Times of Michael K であって、The Life & Times of Michael K ではありません! この「The あり」「The なし」の問題については、あえて「The なし」にしたのだと、クッツェーがあるインタビューではっきり述べています。まだまだこの間違いはつづくのかしらねえ?! この問題についてはここに書きましたので参照してください。