Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/12/25

記憶のゆきを踏むクリスマス

去年のクリスマスは何を書いたんだっけ? 

 少しもどって見てみると、自分の両親がにわかクリスチャンだったこと(祖父母は熱心な仏教徒だったのに、彼らだけクリスチャンだった)とか、10歳ころまではクリスマスは教会へ行ったこと、雪のなかを父が馬橇に載せて運んできた木でクリスマスツリーをつくったこと、狭い煙突のなかをサンタクロースがどうやって通ってきたのか不思議でならなかったこと、などなど、思い出していたんだ。


 今年は、わたしが親になり、3人の子どもたちといっしょに過ごしたクリスマスのことを、成人した娘たちが思い出して、あのときは・・・と、わたしたち親に語ってくれた。これはまたこれで、とても面白い体験だ。

 大人になったとき、自分の子ども時代のクリスマスの思い出をだれかに語ることは、なかなか幸せなことだと思う。プレゼントをもらうばかりだった子どものころ、あげたりもらったりする若者時代、ひたすら小さな人たちの枕元にプレゼントをこっそり置く親の時代、そういう喧噪を卒業して淡々と記憶を楽しむ時代、と立場が変わることで楽しみ方も変化する。
 
 
記憶というのは、悲しいことも楽しいことも、苦しんだことも喜んだことも、体験そのものが分離不可能なシャッフル状態の断片であり、深い泉であり、深い闇なのだと思う。それを人は何度も、何度も思い出し、知らず知らずこちらも変化し、それと同時に記憶そのものに少し変化を加えながら、磨いていくのだろうか。新雪に一歩一歩、足を踏み込むように。

 今日も、記憶のゆきを踏んでいく。

**写真はネットから拝借しました。Merci!**