E. Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/10/29

シングルストーリーの「裏切り」by 西加奈子さん


今日の毎日新聞夕刊に、小説家の西加奈子さんがチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのことを書いてくださいました。2007年の第一短編集『アメリカにいる、きみ』のと出会い、アフリカ観をくつがえされた経験について。
 嬉しい! Muchas gracias!


ぱらりとめくったカバーの裏の、著者の写真に一目惚れしてしまったとは! なんか、とっても共感します。翻訳者として.....


2013/10/20

複数のアフリカ(前)──クッツェーの『ニートフェルローレン』

立命館大学の生存学研究センターで行われた、「目の前のアフリカ 第4回──アフリカ文学の彩り/White, Black and Others」、無事に終わりほっとしています。

 質疑応答の時間につぎつぎと出た質問の中身がすばらしく濃くて、京都という土地の知的探求の独特の深さを実感しました。まことに得がたい、充実した時間でした。招待してくださった西成彦さん、お世話になったセンターの方々、聞きにきてくださった方々(遠くから駆けつけてくださった方もいて感激!)、本当にありがとうございました。

 その場でもお知らせしましたが、雑誌「神奈川大学評論 76号──特集:アフリカの光と影(11月末発売予定)に「複数のアフリカ、あるいはアフリカ"出身"の作家たち」という文章を書き、つぎの三つの短編とエッセイを紹介します。

 1)J・M・クッツェーの短編「ニートフェルローレン/Nietverloren」
 2)ビニャヴァンガ・ワイナイナのエッセイ「アフリカのことをどう書くか/How to Write About Africa」
 3)ノヴァイオレット・ブラワヨの短編「ブダペストやっつけに/Hitting Budapest」

 以下に、その予告編を少し。


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 じつは、J・M・クッツェーという作家は「ニートフェルローレン/Nietverloren」という短編を書いている。アフリカーンス語で「Not Lost/失われない」という意味だ。南アフリカの地図を調べると、実際にモッセル湾のそばに、ニートフェルローレンという名の古いワイナリーが出てくるが、作品内ではカルーのどまんなかに、古くからある農場の名として使われている。

 アメリカからやってきた古い友人カップルといっしょに車で、ケープタウンからジョハネスバーグへ向かう旅の途中、リッチモンドから国道1号線を15キロほど入ったところにあるとされるその農場を、ガソリンスタンドにあったちらしを見て、ランチがてらに訪ねてみる。すると農場で採れた食材を使った料理が出てくる。往事の台所や、羊毛刈りを手作業でやった時代の道具等が、お金を払えばそっくり見学できるという。そう、そこは観光客向けのテーマパーク農場だったのだ。

 この短編『ニートフェルローレン』をクッツェーは、2006年9月の初来日直前にトリノで朗読した。当時ネット上はイタリア語の翻訳バージョンしか発見できなかったが、少なくともそれ以前に書かれた作品であることは確かだ。(Nietverloren って何? とわたしは思いつづけていた。)
 今回、調べてみて発見したのだけれど、2010年6月にツールーズの「南アフリカ作家フェス」で、クッツェー自身が英語で、コメディーフランセーズの女優が仏語で、この作品を交互に朗読している写真もあった(上)。
 
 物語は、ジョンがまだ幼い子供だったころの思い出から始まる。父親がまだ従軍していたころとあるので、1944年前後だろうか。父方の農場へ母親と弟と3人で身を寄せたとき、広大な農場をあちこち歩きまわって発見した、不思議な土地があった。

「円形の剝き出しの平らな地面で、直径が歩いて十歩ほど、円周に石でしるしがつけられ、内部は草一本生えていない土地」、あれはいったいなんだろう、フェアリーリングだろうか、母親にきくと、そうだろうと母親はいう。しかしこんな暑熱の南アフリカに妖精がいるのか?

 ずっと後になって、それがなんの跡だったか、一枚の写真を見ているとき、みるみる謎が解けていく。その円形の土地は、じつは、小麦の脱穀がまだ人の手や馬力を使ってやっていた時代の脱穀所だったのだ。その脱穀という農作業をクッツェーは細かく、細かく描いていく。失われた自給自足農業の手作業プロセスとして。bladder を竿につけた農具、とあるのは、具体的には牛や羊の嚢、とくに膀胱を干して使ったのだろうか?
 
 そんな話のあと、友人たちとの南アフリカ横断(縦断?)の旅の途中に立ち寄ったニートフェルローレンをめぐり、南アフリカの農業事情や、解放後の南アフリカに対するクッツェーの思いが展開される。それがこの短編の、いってみれば筋立てだ。そこには、この地球上の暮らしの変化、歴史などに対する彼の考えが、短いながらしっかりと書き込まれている。

***つづく***

2013/10/05

管啓次郎『時制論』朗読会へ行ってきた

 仕事も一段落したところで、下北沢にある本屋さん「B&B」のイヴェントに行ってきた。午後3時開始のマティネーで、出し物は、管啓次郎の第四詩集『時制論』(左右社刊)の朗読会。以下にその極私的感想を。
 
管啓次郎の詩を読むことは、ほとんど、なにも持たずに荒野に出ていくことに似ている。突然、ヒグマが襲ってきたり、唐突に時間の裂け目が広がったり、思いがけない風景のなかに置かれて足場をすくわれたりする。
 だから、読むのはたいがい曇り空の朝、頭がまだ冴え渡るときにかぎると決めていた。だが、それはあくまで能動的に読むときであって、今日は詩人みずからが朗読してくれるのだから、もっぱら受け身に徹して楽しめばいいのだ、と思って出かけた。

 これまで彼は2010年9月に出た『Agend'Ars』を皮切りに、『島の水、島の火』『海に降る雨』と毎年詩集を1冊、それもおなじ形式で出すと決めて、本当にそれを実行してきた。今回の詩集『時制論』はこのシリーズ最後のもので、これまでの3冊とやや趣を異にしている。それは1ページ目からわかる。1行1行が完全に独立していて、それも過去形と現在形が交互に折り重なるように展開されているのだ。日本語の過去形はたいがい「○○た」で終わり、現在形は動詞なら「u」、形容詞なら「i」の音などで終わるので、最終音が耳に一定のリズムを残す結果になる。

 朗読を聞いているうちに、詩行特有のシンタックスに耳が慣れてきて、頭上30センチほどのところに意識が集中するようになった。ところが、次に複数の声が聞こえてきた。メキシコ文学研究者の南映子、写真/美術評論家の倉石信乃をまじえて交互にテクストが読まれていったのだ。このとき、聞いている耳に奇妙な揺れが起きた。過去と未来の行を支える声が入れ替わることで、ある「ずれ」が生じたのだ。地上30センチのところで浮遊していた感覚の足場のようなものが、完全に崩れて、つぎはどうなる? という覚醒へ向かって耳が研ぎ澄まされていく。この感覚は面白かった。朗読と朗読のあいまに演出家の高山明とのトークが入った。
 
 何度か彼の作品朗読を聞いてきて、ことばの砂嵐を全身にあびる覚悟で行ったのだけれど、今回はときおり笑いを誘う詩行があったり、ナンセンスめいた組み合わせがあったり。まるで、やわらかな温かい雨が頭上に降ってくるような感じで、意外なほどの心地よさだった。外は秋の始まりの小雨。すぐ下の階の店で食べた、こんがり焼けたローストチキンがまた美味であった。

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付記:ちなみに表紙の写真に写っているのは、蝙蝠、かな?

2013/10/01

「ぎんぎん ぎらぎら」──水牛のように

「水牛のように 10月号」に「ぎんぎん ぎらぎら」というタイトルで書きました。
1950年代の旧植民地北海道、開拓村の小学校での授業風景。

  ぎんぎん ぎらぎら 夕陽がしずむ
  ぎんぎん ぎらぎら 陽がしずむ

この歌と、ある記憶に結びついたエピソードです。どんな話かは、水牛で