Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/07/23

フィクション、メモワールそして自己:2012、ノリッジ文学フェスでのクッツェー



ケープタウンの寒風に吹かれて語った60歳のクッツェーから、場面変わって、イギリスはノリッジで開かれた文学フェスに参加して問題提起する、72歳のクッツェー、またまた/笑。

 2012年6月18-22日、ノリッジ世界文学フェスのコロキアムで J・M・クッツェーが行ったプレゼンテーションのタイトルは「Fiction, Memoir and the Self/フィクション、メモワールそして自己」。

 ちょうど彼の「フィクション化」した「メモワール/自伝」三部作を訳し終えて見直しとあとがきの準備をしているところなので、このプレゼンは見逃せない。聴いてみると、きわめて刺激的なヒントが含まれ、さらに、現時点でのこの作家の文学的コミットのある面がすごくよく伝わってくる内容だ。セラピーとセラピストの話、主観と客観による「真実」の異なるありよう、というか、「わたし」と「作者」の関係を可視化しようとするところが面白い。流行りの tell a story について、その社会的位置について、個人にとっての意味合いについて鋭い光があたる。


19世紀にヨーロッパで隆盛をきわめたフィクションの一種類、後にリアリズムという名で呼ばれるようになった小説、そのキーとなる概念が登場人物の歴史的「representativeness/代表していること」あるいは「typicality/典型的であること」だったと簡潔に論じたあと、現代のラジオ/テレビ番組のセラピストの話が出てくるので、ぐんと視界が現代まで広がる。最後の問い:
 
 If we are going to be authors of our own life stories, are we free to be authors of their truth too?

 さあ、この問いの意味は?