Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/06/27

マンデラを待ちながら by J・M・クッツェー

ネルソン・マンデラのニュースを追いかけているうちに、クッツェーが1986年に「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」にこんな文章を書いていたのを見つけた。

      マンデラを待ちながら/Waiting for Mandela

 4冊の南アフリカ関連の書物──メアリー・ベンソン著『ネルソン・マンデラ』、ウィニー・マンデラ著『わが魂はネルソンとともに』、ナンシー・ハリスン著『ウィニー・マンデラ』、リチャード・ジョン・ニューハウス著『南アフリカ人が見た南アフリカの未来』──の書評だが、頭出しはむしろその内容を踏まえた彼自身のエッセイのような文章だ。

 ネルソン・マンデラがリボニア裁判で終身刑を言い渡されたのち、アパルトヘイト政権が持ちかける妥協をことごとく拒否したことなど、当時の南アとマンデラの状況を伝えていて興味深い。1986年はクッツェーが『フォー』を発表した年だ。
 当時の南アフリカ政権のありようを批判するピリ辛の表現に、いかにもクッツェーらしさが見てとれる。少し訳してみよう。

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 ネルソン・マンデラを2人のソ連の体制批判者と交換しようとする最近の南アフリカ政府による企ては、自国のもっとも有名な政治囚を厄介払いしようとしてきた一連の長い試みのひとつにすぎない。1973年のむかしからマンデラは、もしもトランスカイの「ホームランド」に引退して暮らすなら(名ばかりの)自由をあたえるという申し出を受けてきた。彼は拒絶した。1985年には、武力擁護から距離を置くことを唯一の条件として釈放するという申し出を受けた。「交渉は自由な身の人間にのみ可能だ。囚人は契約を結ぶことはできない」というのが彼の答えだった。収監されている彼とアフリカ民族会議/ANCの上部指導者たちは、かくして、さしあたり、プレトリア(註/アパルトヘイト政権)が身から出た錆で苦しむことに満足しているらしい。

 1964年、46歳にしてネルソン・マンデラは、ANCの7人の仲間とともに、革命のためのゲリラ戦を遂行するため新兵を徴募して訓練し、さらに外国勢力の南アフリカ共和国侵攻に手を貸すことに共謀した嫌疑で裁判にかけられたのち、終身刑を言い渡された。彼はその罪を否定せず、最初の嫌疑は基本的に真実であるとした。彼が地下運動であるウムコント・ウェ・シズエ(「民族の槍」)を組織したのは、サボタージュ攻撃を実行するのが目的だった。彼はアフリカ諸国をめぐり、ANCへの支援を取り付け、彼自身がゲリラ訓練に耐えたのだ。
 
裁判にあたり彼が読みあげた4時間におよぶ陳述のなかで──彼の政治哲学がもっとも集約された形で述べられている──マンデラは、一方で、排他的な黒人民族主義(「アフリカ人のためのアフリカ」)とはみずから距離をおくことに心を砕き、他方で、国際的社会主義とも距離をおこうとした。ANCの1955年の自由憲章から引用しながら彼は南アフリカの新しい憲法を提唱した。それは、国家を人種による分断や階級による反目から自由にし、私企業の場を含む複合的な経済を基本とした憲法だった。

 マンデラ自身が、あるいは実際にはANC指導部が、この立場を過去20年間のあいだに切り替えたという証拠はない。。。。。。。。

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 思わずもっと訳してしまいそうだが、著者に断りなくここに訳出するのも躊躇われるのでこの辺にしておこう。1986年当時、の切迫した雰囲気がびんびん伝わってくる。マンデラとクッツェー。2000年にANCの一部の人たちが「Disgrace」を批判した記憶がさめやらない2003年、クッツェーがノーベル文学賞を受賞したとき、いち早く祝辞を述べたのはマンデラだったことは記憶しておいてもいいかもしれない。
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2020.4.12付記──マンデラが出したステートメントのこの部分はとりわけ印象深い。
"He might have emigrated but we shall continue to claim him as our own."
「彼は移民したかもしれないが、われわれは彼をこの国の人間だと(直訳すると:われわれのものだと)主張しつづける」