2013/03/31

刺激的なプレビューでした

「ささやきの思想レジスタンス」のプレビューを体験してきた。すごく刺激的だった。
 東中野のシアター「風」の入った建物の入口で、こうもり傘をさした背の高いフランス人女性のジェスチャーにうながされ、ロウソクが灯された外階段をあがっていくと、なにやら暗い入口があって、そこにもまたフランス人男性が立っていて、なかに入れ、と身振りで示す。ことばはない。

 恐る恐る入っていって、手を取って誘導されて行ったのは、どきどきするような不思議な空間。はらりと栞が手渡され、さらに奥へ進むと、ランプの光の下で書き物をしている男がいて、手の甲に文字を書いてくれる人がいて(わたしのは「明るい霧」)、ほのかな香りのする扇で煽られたり、あやしいまでに「幽玄な」暗い部屋を経て、階段をおりてたどりついたのは、なんと最初の入口。
 ここまでですっかり、黒い衣装に黒い帽子、手には大きなコウモリ傘、おまけに扇と長い筒をもったパフォーマーたちのもつ雰囲気にのまれてしまう。

 入口から再度、ロウソクのともった階段をあがって、やや広めのスペースへもう一度たどりつき、椅子をすすめられて腰をおろす。すると、長い長い筒が肩のところにふわっと置かれる。それをおもむろに耳に当てると、密やかなことばが耳にとどきはじめる。一編の詩のような、物語の断片のような、不思議なことばたち。
 この摩訶不思議な空間で耳にすることばは、なんともあまやかで、どこかこの世のものとも思えない。やや肌寒い春の宵の、束の間のときを、ささやき手(スフルール)と聞き手が共有する、いとも甘美な時間でした。

 写真はわたしの詩をささやいてくれる、アクセル・ピータースン/Axel Petersenと。Merci,Axel!

ささやきの思想レジスタンス──ついに!

 ちょうど2年前のいまごろ、桜前線の移動とともに行われる予定だった「ささやきの思想レジスタンス」。3.11の直後にフランスからスタッフはやってきたものの、原発事故による影響もあって、残念ながら延期となりました。今年はそれが実現します。

 パフォーマーたちが突然街中にあらわれて、長い筒と、短い筒を使って、街行く人々に詩をささやきます。

 ささやきの思想レジスタンス

  4月2日の福岡を皮切りに北上して、東京は7日にミッドタウンで、9日に福島市内を経て、14日にアンスティチュ・フランセ東京で実演される予定です。

 詩が、思想が、いまの社会のなかに突如投げ込まれる試み、といっていいのでしょうか。その名も「レジスタンス=抵抗」ですから、ひょっとしたらその場に、そしてささやかれた人の心のなかに、ことばの竜巻が起きるかもしれません。日仏の詩人たちの作品が参加します。わたしも詩を2編、そのために書きました。
 
 ・あん☆いまじ☆なぶる☆びいなす──プチ・シャルルのために
 ・黄色い指に摘まれる花びら

 パフォーマーたちの声にのって、ことばが届けられる。とっても、わくわくです。

2013/03/28

甘酸っぱい春の味覚

 ウド、ワケギ、春はぬたの季節。京都に移り住んで、白みそが自在に手に入るようになったというMさんのブログを見て、ふいに思い出した。あ、そうだ、ぬただ!

 今夜は、わが家もぬた! といっても、ヤマウドを歩いて採集に行ける土地には住んでいないので、駅前の店から九条ネギと白みそを買ってきた。1950〜60年代に北海道に生まれ育った者には、白みそは「内地」から届く「都」のごちそうだった。めったに口には入らなかった。

 東京に出てきてから京都にも足を運ぶ機会があったり、小料理屋でたびたび食するようになって、ようやくわたしの料理のレパートリーにも入った。

 それでも、ヤマウドのぬたは母がよく作ってくれた、わたしのぬたの原点だ。北海道のウドは緑色いっぱいに育った野生種で、あくも強かったなあ。おまけに当時は、手に入るのは自家製味噌か、しっかり茶色い信州味噌だけ。それでも、甘酸っぱい味噌の味は、ちいさいころから大好きだった。「酢みそ」と呼んでいた。懐かしい春の味覚だ。
 

2013/03/25

春はわくわく、採集民になる

春になるとわくわくする。気もそぞろになる。古い葉っぱのかげからふきのとうが秘かに地面を突き破って薄緑色の帽子があらわれ、樹木の固く細い枝からやわらかな新芽が芽吹く。となると、花よりだんご、眠っていた採集民の血がさわぐ。そのように育ったからだろうか。
 
 この季節、東京の西の郊外ではふきのとうの季節は終わり、すでに蕗の小葉が地面のあちこちに群生を始めた。桜は満開、風にちらちら散って。白いゆきやなぎもはらはら、黄色い山吹もほろりとつぼみを広げる。
 さて、食い意地のはったわたしはきょろりきょろり。いつもの散歩道にしっかり見つけておいた山椒の木。公有地に生えている、かなり大きな木だ。今年も新芽がほころび、ちいさな葉っぱを広げはじめた。

 もらうよ! 少しだけね。

 手を伸ばし、腕を伸ばし、ぷつん、ぷつんといただく。帰宅して、さっそく香り高い焼きみそをつくった。

 最初のプランでは、採集した葉芽もちゃんと撮影するつもりだったのに、家に帰ると料理に忙しく、できあがったみそを見てから、葉芽の撮影を忘れたことに気がついた。というわけで、写真は「焼きみそ」だけ。炊きたての御飯にのっけて食べるとサイコー。

 福島の人たちは、こんなささやかな楽しみさえ奪われたことをあらためて考える。何度でも考える。春がくるたびに。

2013/03/23

ジョン・クッツェーとの時間(3)


 さて、そんなジョン・クッツェーとの会談は、2006年の初来日、2007年の再来日につづいて今回で3度目。初回はお茶を飲みながら、がちがちで緊張の塊のような会談だったけれど、2度目は再会だったから会話ははずんだ。しかし3度目の今回はそれ以上にリラックス、彼の顔からは笑顔もふんだんにこぼれた。ちょっと嬉しい驚きだった。人との関係はまちがいなく時間によって、ゆっくりと熟成されるのだとあらためて感じた。

 いつものように彼が滞在するホテルのロビーで待ち合わせた。「このホテルは迷路のようで、なんども迷った」という彼とT氏とともにエスカレーターで地下のカフェへたどりつき(地下といってもガラス窓の外は地上)、三部作の翻訳をめぐる疑問点をいくつか解決した。『少年時代』に出てくるエディー少年の年齢について質問したときの、作家のリスポンスが傑作だった。話はこうだ。

 『少年時代』では、ケープタウンの家に住んでいるころ、ステレンボッシュのおばさんの紹介で、イダの谷から住み込みの家事手伝いとして「カラード」の少年がやってくる。名前はエディー、7歳だ。しかしエディーは2カ月後に逃げ出す。
 主人公のジョンはエディーより7カ月年下で、エディーがイダの谷に帰ったあとも、エディーには借りがあると思い続ける。なぜなら、ジョンが8歳の誕生日にもらったお小遣いで買った自転車に乗れるようになったのは、ほかならぬこのエディー少年の指導のおかげだったからだ。
 
 しかし、このエピソード、よく考えてみると辻褄が合わない。逆算してみよう。ジョンがエディーより7カ月年下なら、ジョンが8歳になって自転車を買ったときエディーは8歳7カ月だ。7歳で家にやってきたエディーが2カ月後に逃げ出したなら、これはどう考えても矛盾する。なぜなら、7歳でやってきて8歳7カ月になるまでには最低7カ月はかかるからだ。

 この矛盾については『少年時代』を訳した直後、悩んだ末に作家に手紙を書いたことがある。すると「嗚呼、間違いました!/Alas! I simply made a mistake.」という返事が来た。思わず脱力した。1999年秋のことだった。今回「三部作にするため全面的に見直した」と知らされていたので、当然この矛盾も解決されると期待していた。ところが、そのままだった。そのことを今回、直接ぶつけてみたのだ。すると.....

 話の途中で、作家は広げた両手を耳の位置まであげて、「ああああ、、、、そうだった! じゃあ、ジョンの年齢を7歳にしよう、7歳の誕生日にもらったお金で自転車を買うことにしよう!」とおっしゃるのだ。一瞬こっちが慌てた。「でも主人公の年齢を変えてしまうのはどうでしょうか、8歳のお小遣い、というのは読者にかなり強い印象を残していますから、むしろエディーの年齢を8歳にしたほうがいいのでは」と提案すると「じゃあ、そういうことにしよう」と結着がついた。
 というわけで、日本語版のトリロジーは『少年時代』に出てくるエディー少年の年齢がオリジナルとは異なる独自バージョンで世に出ることになった。読者のみなさん、訳者による数字の読み違えではありませんので、お間違えのないよう!(つづく

2013/03/21

ジョン・クッツェーとの時間(2)

リアン・マランが「10年いっしょに働いてきた同僚がたった一度しか彼の笑ったところを見たことがないそうだ」などと述べたことについて、アラブ圏の雑誌 Nizwa のインタビューに、クッツェーはこう答えている。
 「リアン・マランにはこれまでたった一度しか会ったことはない。彼は私のことを知らないし、私の性格を云々する資格はない」(Kannemeyer の伝記:p583)

 またこのとき、イラク人インタビューアーのアデーブ・カマル/Adeeb Kamalが、クッツェーの作品をアラビア語へ翻訳したいと考える者へのアドヴァイスを、と訊くと、彼はこう答えている。

「ページ上のことばと、文の形/shape of the sentences に注意すること」(同上)

 これはメルボルン大学が出したMeanjin の翻訳特集号「Tongues」で彼が述べていたことと重なり(この文章はのちにオクスフォード出版局から出た Translation and the Classic に収録された)、「文の形」というところで少し広がる。ヨーロッパ言語以外の言語への翻訳を考慮したことばと考えていいだろうか。

 雑誌「フェア・レディ」(1983年8月号)のインタビューでは、彼の「暗い」小説について挑発的に「だれもがわたしの本のなかに荒涼たる絶望を見ている。わたしにはそんなふうには読めない。自分はコミックブックスを書いていると思っている。ごくふつうの人たちについて書いている。ごくふつうの、さえない、幸せな暮らしをしようとするのに、彼らを取り巻く世界が粉々になっていくような」と彼は語っている。(伝記:p428)
 1983年というと、クッツェーはまだ43歳、『マイケル・K』が最初のブッカー賞を受賞したときだ。南アフリカというと、聞き手はとにかく「アパルトヘイトの暴虐」について作家たちからことばを引き出そうとした。そんな意図にはのらない、という頑固な意思表示でもあるだろう。なんとも皮肉のきいた発言だ。

 こんなふうに、80年代半ばまではクッツェーも新聞記者や文芸評論家のインタビューをかなり頻繁に受けていた。しかし、ある時点で彼は自分の作品について語ることをやめた。その徹底ぶりはすごい。これは、語られることばよりも、書かれたことばに絶大な信頼を置く、置こうとすることのあらわれといえる。それがこの作家の大きな特徴なのだ。
 さらに、自分の語ったことが誤解されるのを避けるために、引き受けた対話では、質問にもちいられたことばの定義から始まったりする。また、相手の文脈にすぐにのらないため、沈黙がしばし長引く、という居心地の悪さを質問者は感じることもあるだろう。とにかくインタビューアーは、彼の作品をとことん読み込んでのぞまなければ、対話は成り立たない。

 そう考えると、ジョンの学生時代からの友人、ジョンティ・ドライヴァー(ドロシー・ドライヴァーの兄)の次のような発言はうなずける──「僕はときどき、ジャーナリストが彼のことを気難しいと考えたがるのは、そのほうが、わざわざ本を読まなくても、なにか書くことができるからだと思うことがあるな」(伝記:p424)

 最新作『The Childhood of Jesus』は、カフカエスクというかクッツェーエスクというか、書き出しはなかなか厳しい、切ないと思いながら読んでいくと、これが案外、にやりと笑わせる場面が多い作品だとわかる。これはまた途方もなく野心的な意図が隠された小説でもある。教育、数学、哲学、宗教、文学など、ギリシア古典からの引用やアリュージョンが半端じゃない。それもヨーロッパ文明の源まで遡るきわめてチャレンジングな視点を含み持つ。しかも、彼の自伝的チップがいつもながら、豊富に埋め込まれている。

 いずれにしても言えることは、南アフリカを離れてアデレードに場所を移してから、彼の諧謔趣味はより一層強まったように思えることだ。『Diary of a Bad Year』でもそれはすでに見えていたが、自伝的三部作の最後『Summertime』ではピリ辛の笑いが炸裂する。そしてその傾向は、よりスパイシーにはなっても、決して消えることはなさそうだ。(つづく

2013/03/20

ジョン・クッツェーとの時間(1)

 さる3月初旬、文芸フェスに参加するため三度目の来日をしたジョン・クッツェーとすごした、短いながらなごやかで愉快な時間について、そしてそのときあらためて確認したことについて、忘れないうちに書いておこう。

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 ジョン・クッツェーは、じつはとっても諧謔趣味に満ちた人だ。その諧謔にはまた、外部から見ると容易に解明できないほど入り組んだ悲哀がたっぷり詰まっている。

 南アフリカのアパルトヘイト政権下へもどって暮らした1970年代から1980年代にかけて書いたものは、監獄のなかから書いているようなもの、という作家自身の言葉の通り、厳しい検閲制度下で書くという事情があった──笑いというのは基本的に、おなじような価値観をもっている人同士ではないと、なかなか伝わらないものだ。当然、利害も価値観も異なる読者が笑える内容というのはひどく限られてくる。しかし、である。

 人種とか、階級とか、生まれとか、歴史的な立ち位置とか、彼の作品には、舞台が具体的な南アフリカであれ、架空の時代や土地であれ、どうあがいても埋められない大きなギャップを可視化するような視点が書き込まれている。作中人物がさらされる暴力の源=権力構造と、近似したギャップの上にあるみずからの立ち位置を発見せざるをえない読者にとって、笑いはなかなかやってこない。彼の作品を読んだあと、ざらっとした感触が残るのは、このことと深い関係がある。

 しかし、彼の親しい友人知人はジョン・クッツェーの皮肉のきいた茶目っ気ぶりを十分知っていたし、それを体験してもいただろう。もちろん彼の作品を読めばわかるように、書く態度も、ことばを発する態度も、権力や権威に媚びることなく、狡猾といわれるほど思慮深く、しかも真摯で誠実だ。徹底的に彼の作品を読み込んで誠実にのぞむ人間に対しては、それとおなじように誠実に対応しようとする。
 いいかげんなアプローチをすると、ぴしゃりと遮断されるか、相手にしてもらえない。(とはいえノーベル賞受賞後はかなり変わった。)その厳しさへの恨みつらみだろうか、彼をめぐる情報には誤情報におもしろ可笑しく、ときには悪意を込めた尾ひれがついて流されてきたものが多い。かつてWikiに書き込まれていたことや、ノーベル賞受賞時の、彼のセカンドネームをめぐるニューヨークタイムズやタイムズの署名入り記事は、その典型である。(これについては昨年出版されたカンネメイヤーの伝記『J.M.Coetzee:A Life In Writing』の冒頭部分に詳しく出てくる。)

 Wikiなどに執拗に流されたクッツェーの性格をめぐるリアン・マランの言説について、彼はあるインタビューのなかで、きっぱりとこう答えている。(つづく

2013/03/19

夕暮れに咲くモクレン


初夏なみの暖かさのなか、ひと仕事終えて、暮れはじめた屋外へ散歩に出る。今日はモクレンに会いにいった。

 昨年は時期を逸して、嵐のあと雨に打たれた黄ばんだ花しか見ることができなかった。不義理をした。今年はきみの盛りの時期を、ほら、ちゃんと写真におさめたよ。
 美しく、白く、まさに咲き誇るということばがぴったりのモクレンの大木。

折しも、福島の第一原発は電源が失われ、原子炉の冷却がストップ、いまだ収拾つかず、というニュースがあちこちから流れてくる。

 自然から、Law of Nature の倫理から、はぐれてしまった人間のいまに、どう対処すればいいのか。モクレンが教えてくれるわけもないが、この美しい花を見ていると、なぜか、すさみかける心が満ちてくる。なんという不思議、妙味。美を感じる心はどんなときも必要だというのは真実、とあらためて思う瞬間だ。
 
 

2013/03/17

声の力、ことばの「無」力

3月16日「ことばのポトラック vol. 9  春に」をのぞきに、渋谷のサラヴァ東京へ行った。
 第一回が開かれてから2年という時間がすぎた。呼びかけ人の大竹昭子さんに乞われて、こんなことばをその前に送った。

「ことばのポトラックvol.1」は「ことばの力」と「ことばの無力」について突きつけられた問いへの、切羽詰まった、ある応答の形ではなかったか。そのとき多くの人がことばのもつ「声」にあらためて気づき、「声の力」を深く確認したように思う。あれから2年。この時間の意味を考えるために、自分の立っている現在地を探るために、「ことばのポトラックvol.9」をのぞいてみる。──くぼたのぞみ

 そして間違いなく2年という時間がすぎたことを実感した。
 この日、もっとも印象に残ったのは、なんといっても、大野更紗さんが iPhoneで録音してきた福島の仮設住宅に住む三人のおばあさんたちの、生のことばだったのだ。質問らしきことばとして発せられた問いに、三人三様の声で、ばらばらのしゃべりで、てんでに答えられることばたち。土地の訛りが混じり、抑揚がついて、なかなか伝わりにくいことばたちだったかもしれないが、これは昔よく聞いた語り/ナラティヴだ、と田舎に生まれ、田舎に育ったわたしなどは、ふと懐かしく感じられたりもした。
 福島にいたわけではないけれど、東北地方のことばに共通するなにかがあって、地方に共通するなにかもあって、それは私が育った土地の、時代のものでもあったからだ。そしてそれはまた、置き去りにしてきたものでもあったけれど、後悔はしていない。

 対話ではないのだ。向き合うことばではないのだ。どこか茫洋として、誰に向かって発せられるのか不分明なほど、彼女たち自身のなかから図らずも湧いてきて、自分に言い聞かせているような、確認しているようなことばたちだ。
 
 東京という日本でもっとも都市化の進んだ土地に住んで、渋谷の地下というこれまたおしゃれな空間にじっと腰をおろして聴く者の耳には、とても異質に聞こえる「生々しいことば」だ。そのことばの背後には「私たちを忘れないで」というメッセージが低く響いていた。ナラティヴとしてのその生の声の前で、造形されたことばの力は........

 さて、これから「ことば」は、「声」はどこへ行こうとしているのだろう?
その方法が、力が、問われていく。
 

2013/03/14

2年前のことばのポトラック vol.1(前半)



2011年3月26日、渋谷のサラヴァ東京で開かれた「ことばのポトラック vol.1」(前半)のようすです。映像と声が、あのころの緊迫した感じを伝えてくれます。

 あれから2年。なにがあらわになったのか? 隠されていたものが一気に表に出てきて、それゆえ直面せざるをえなくなったことがら。それと向き合おうとするもの、向き合うのを避けるもの。知らんぷりして、なかったことにしようとする圧力、それに抗おうとする世界中の生命。

 3月16日、サラヴァ東京で「ことばのポトラック vol.9」が開かれます。

 この2年の時間について考えてみたいので、のぞいてみることにしました。

2013/03/13

旅する「アフリカ」文学 ── 盛況のうちに終了!

昨日、六本木ミッドタウンで開かれた、「旅する”アフリカ”文学」が無事に終了。大勢の方々が熱心に耳を傾けてくれているのが伝わってきて、気持ちよく話すことができました。聞き手の管啓次郎さんの絶妙なさばきには、いつもながら脱帽。お世話になったスタッフの方々、聞きにきてくださった方々、みなさん、どうもありがとうございました。

 第一部は、何世紀も早くから世界を旅してきた「アフリカ」の文学について考え、J・M・クッツェーとチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという対照的な二人のアフリカ出身の作家を切り口に話しました。

ジャズやアフリカン・アメリカン女性文学との出会い、マジシ・クネーネの翻訳の途中で出会った南アフリカや、クッツェーの「マイケル・K」との偶然ながら、ほとんどわたしの人生を変えた出会い。いま、アディーチェやクッツェーはどのようなスタンスで書いているか、その共通性と差異について。アディーチェは「アフリカをいま誰がどのように書くか」をポイントにし、クッツェーは端正かつ明晰なテクスト内に鋭い批判性、倫理性、思想性の深さを封じ込めること、などなど........

 朗読も、アディーチェの作品、クッツェーの作品からそれぞれ短い部分訳を読みました。

 第二部は、ぐっとリラックス。2011年に訪れたケープタウンの写真を使い、クッツェー作品に出てくる場所や土地を見ていただきました。長いあいだクッツェーが教えていたケープタウン大学の英文学部の入った建物や、青年時代アルバイトをした古い図書館の地下室、彼の研究室だった部屋、講義をした階段教室(映画「Disgrace」のロケに使われた)、彼が9歳から12歳まですごした内陸の町ヴスターの風景などを楽しんでいただきました。後半は時間が押して、予定していたポール・オースターとの「往復書簡集」からの朗読ができなかったのが残念!


 作家が徹底的に手を入れた自伝的三部作『Scenes from Provincial Life/地方生活からの情景』の第一部「少年時代」をいま一行一行、見直しているところです。オースターとの往復書簡集『Here and Now』も平行して進めますので、どうぞこちらもご期待ください。

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 左のモノクロ写真は、わたしが初めて見たクッツェーの写真です。80年代に入手したKING PENGUIN版『マイケル・K』のバックカバーに載っていたもの。あのころは、この写真を見て翻訳しようと決めた、という面食いでした! いまもあまり変わっていないかも/苦笑....ですが、来日した作家に訊いたところ、70年代に奥さんか家族が撮影したもの、だそうです。

2013/03/08

「旅する”アフリカ”文学」でスライドショー

3月12日午後7時から、六本木ミッドタウンで開かれる「旅する"アフリカ"文学」が近づいてきました。

 当日は、2011年11月にケープタウンや内陸の町ヴスターを旅したときの写真を使って、クッツェー作品の舞台を写真でめぐるスライドショーを予定しています。
 今月初旬に来日したクッツェーさんのようすや、『少年時代』の内容をめぐる疑問に彼が出した解決策など、思わずにやりとなる話などもたっぷりと。どうぞお楽しみに! 聞き手は、管啓次郎さん。

 入場無料、残席わずかです。申し込みはこちらへ!

 そうそう、アディーチェの新作『アメリカーナー』についても触れますよ〜〜〜

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2013.3.10付記:今日『少年時代』の改稿を見直していて行き当たった箇所。クッツェーが少年時代からこだわりつづけてきた、アフリカーンス語に対する態度を伝えるところ。彼の名前に関する発音へのこだわりの原点はこれ! 少し長いけれど引用する。


「アフリカーンス語を話すときは、人生のさまざまに絡みあった要素が突然はがれ落ちていくような気がする。アフリカーンス語は、どこへでも彼に付着してくる目に見えない包み紙のようなものだ。そのなかに自由自在に入り込み、即座に別人になれる。より単純で、より朗らかで、より足取りの軽い人物になれるのだ。
 イギリス人のことで落胆すること、真似はしまいと思うこと、それはアフリカーンス語に対する軽蔑だ。彼らが眉を吊りあげて横柄にもアフリカーンス語のことばを間違えて発音するとき、「フェルト(veld)」を「ヴェルト」というのが紳士たる者の証しであるかのようにいうとき、彼らとは距離を置く──彼らは間違っている、間違いよりもはるかに悪い、滑稽だ。彼としては譲歩しない、たとえイギリス人に囲まれていても。アフリカーンス語のことばを、本来口にされるべき音で、固い子音も難しい母音もすべて発音し分ける」──『少年時代』第15章より。

2013/03/05

ゾーイ・ウィカムがウィンダム・キャンベル賞を受賞!

デイヴィッドの物語』の著者、ゾーイ・ウィカムが、イェール大学が主催する第一回ウィンダム・キャンベル賞の小説部門を受賞しました! 賞金がすごい。なんと、$150,000です。

 たったいま、アデレードのドロシー・ドライヴァーさんからメールで情報が送られてきました。

 Congratulations!  Zoë!  おめでとう、ゾーイ!





2013/03/03

Here and Now ── 部屋に本がやってきた!

ついに、部屋に本がやってきた!
さあ、翻訳作業の本格開始だ。

 J・M・クッツェーとポール・オースターの往復書簡集『Here and Now/Letters 2008-2011』

 率直な、飾らない、本音のやりとり。なんと豪華な組み合わせだろう。二つの肉声が投げかけ合うさまざまな問い、そして答え。読んでいくと、すごい瞬間に立ち会っているような気がする。
 短期間勝負でまいります。著者の一人とも、そう約束しましたから!

「水牛のように 3月号」に詩を書きました

先月はお休みした「水牛のように」、今月は書きました。忘れないために。


   <記憶のゆきを踏んで

1981年に出した最初の詩集のタイトルが『風のなかの記憶』でした。どうやらわたしは「記憶」にずっとこだわって生きてきた人間のようです。クッツェーの作品のなかでも、回想記風の作品にダントツ興味が惹かれるし、マリーズ・コンデの場合も翻訳したのは、彼女の少女時代の回想記だった。
 こうなると「惹かれる」を通り越して「取り憑かれる」領域に入っているのかもしれません。なんで? 分からない。記憶。分からないけれど、面白い。記憶の遷移。分からないから、面白い。