Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2012/11/30

グリクワとル・フレーの写真 ──『デイヴィッドの物語』裏話(2)

今回は一枚の写真である(前回はこちら)。グリクワの大首長、アンドリュー・アブラハム・ストッケンストロム・ル・フレーが率いたトレックで、コックスタッドヘたどり着いた人たち、1898年。拙訳『デイヴィッドの物語』89ページに事細かに描写される写真だ。

『デイヴィッドの物語』を翻訳するとき、なにが難しかったかといって、グリクワという民族がどういう人たちなのかを調べることほど難しいことはなかった。いったい、どのような歴史をもち、なにを信奉し、どこで暮らしているのか。だれがグリクワであり、だれがグリクワではないのか。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」を読めばおおよそのことは理解できるが、やはり、ひどくおぼろげだ。ちょっとした疑問に答えをえるために検索してもヒットする情報はそう多くはない。まとまったかたちで日本語で読める資料としては、文化人類学者である海野るみさんの書いた論文しかない。だから前にも書いたが、「歴史を歌う」グリクワの人びとがどのような人たちか、彼らの考え方の根幹となる部分を理解するため、海野るみさんの論文には本当に助けられた。深謝!!

「訳者あとがき」にも書いたけれど、グリクワという人たちは、アパルトヘイト時代の「人種区分」では「カラード」に入れられた。アパルトヘイトが撤廃されて、この「カラード」という区分が取り外されたとき、個々の人たち、あるいは個々のグループはアイデンティティを問われることになった。デイヴィッドが自分探しの旅に出た背景にはそんなプロセスがあったのだ。

 そもそも南アフリカにもっとも早くから住んでいた「コイ」や「サン」といった褐色の肌をした先住の人たちは、征服者としてまずやってきたヨーロッパ人男性との混血がいやおうなく進み、これに労働力/奴隷として導入されたアジア系の人たち等が加わって、さらに混血が進んだ。

 ゾーイ・ウィカムはその辺をめぐる、絡まり合った、一筋縄ではいかない複雑なもつれを解き明かすべく書きつづけてきた作家ともいえる。南アフリカにおけるアイデンティティにからむ複雑な諸問題が解体され、白日のもとにさらされるとき、そこには当然ながら歴史的事実をどのように理解するか、どのように解釈するかが絡んでくる。そこが、J・M・クッツェーの名前へのこだわりともリンクするのだ。
 彼もまた自分はオランダ系アフリカーナーの末裔であるとは単純にはいえない、いいたくない、さらには英語圏文学のなかに吸収されることにも No! という姿勢を取る(その好例が、ここ数年前から彼の作品はまずオランダ語で出版され、そののち英語のオリジナル版が出ることになっている事実に端的にあらわれている)、といった絡まり合った歴史/事情/心情/思想、を背景に抱えた作家である。その視野にはこの世界全体の動きが含み込まれてくる。「世界文学の作家」とわたしが呼ぶのは、そういう意味だ。
 
 上の写真の中央に左を向いて、すっくと立つアンドリュー・ル・フレー/Andrew Le Fleur も、もとはといえば、アンドリス・ル・フレー/Andries Le Fleur とオランダ語とフランス語が混じったような名だったが、あるとき英語風にアンドリューと名前を変えている。当時それがある種の流行りだった。その流行りには政治的な要因がからんでいる。(詳細はぜひ作品を読んでください!)
 しかし、当然「おれはイギリス風なんかごめんだ、いやだ」という人だっている。グリクワの人たちのなかにも、がんこにアフリカーンス読みを主張する人もいたはずだ。訳書内でも、デイヴィッド/David の父は、おなじスペルでもアフリカーンス語風に「ダヴィット/David」と訳した。

 今回もまた、たかが名前、されど名前、の厄介さが、たっぷりと登場した。