Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2012/05/27

クッツェー文学のなかのフレンチ・レターズ

鉄の時代』を訳していたときは、この作品に埋め込まれたアリュージョンの多様さに驚くばかりだった。訳書が出てからも、いくつか気づいたことがある。

 たとえばフロイトの『夢判断』のなかの「燃える子ども」。たとえば「J'accuse/非難しているのよ」という、ミセス・カレンが吐露することば──これはエミール・ゾラがドレフェス事件をめぐり新聞に公開した手紙「私は弾劾する」を強く連想させる語なのだと知った。

 そして先日、ピーター・マクドナルドのレクチャーを動画で観ていて、あらためて気づいたのが『恥辱』の最初のページに出てくる、3つのイタリック体の語についてだ。

 In the desert of the week Thursday has become an oasis of luxe et volupté.

 この「luxe et volupté」である。最初に読んだときも(もう13年もむかしになるけれど)なんとなく連想させるものはあったものの、勢いにまかせて読み進み、この3語がシャルル・ボードレール(1821〜67)とつながっていることまでは確認しなかった。

 しかし、マクドナルドが『恥辱』の最初のページ第2行目に出てくる「solved the problem of sex」という5つの語に関連させて「デカルト」の名前を口にしたのを耳にしたとき、はたと膝をうって調べた。この「luxe et volupté」は、『悪の華』のもっとも有名な詩のひとつ「Invitation au Voyage/旅への誘い」に出てくる「luxe, calme et volupté」とつながることばだったのだ。(われながら気づくのが遅い!)

Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.

そこは、なにもかもが整然と、美しく、
豪奢で、静謐で、そして悦楽に満ちて。

 この詩は、もう4年ほど前になるけれど、「鏡のなかのボードレール」というタイトルの一連の文章をこのブログ内で書いたときにも訳出した。遠い異国の、オリエントの、褐色の肌をした男や女の住む土地へ旅立つあこがれをうたったこの詩のなかで、ルフランとして3度もくりかえされるこの2行は、まことに強力な余韻を残す。

 この19世紀半ばの、ヨーロッパ白人男性から見た遠い異国へのイメージを、20世紀も終盤のケープタウンで、人種主義のシステムが崩壊した社会に生きる、52歳の白人男性大学教授の悦楽のあり方として、クッツェーは作品内でもちいている。このことの意味。ぎりぎりまで刈り込まれた明晰なことばで、登場人物の性格、状況設定が展開される第1ページ目に出てくる効果。

 あらためて唸ってしまった。