2012/03/31

フクシマの噓──認識の基本はここから



ショックな事実がつぎつぎと出てきますが、この認識から再出発するしかないでしょう。厳しい現実を空疎なファンタジーで覆い隠さない。希望はそこからしか始まらないのだから ── 風の日に。

2012/03/29

『明日は遠すぎて』のインサイド情報きわめつけ!

すごい「解説」が出ました!
 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの新作短編集『明日は遠すぎて』に出てくる音楽、テレビ番組、著名人、などなど、映像や音源入りで詳しく紹介してくれるサイトがあらわれました。

 表参道に進出した「あふりかわいい」梅田用品店オーナー、梅田昌恵さんのサイトです。

 「震え」に出てくるイケメン革命家、トマス・サンカラの絵柄がついているブルキナファソの切手。「クオリティ・ストリート」の最終場面でかかるPスクエアの曲「No One Like You」の動画。「シーリング」に出てくるTV「アフリカ・マジック・チャンネル」へのリンク。やはり「シーリング」に登場する女学生イフェメルがベッドの上で腰をふりながら「ランランラン」と踊るフェラ・クティの曲はこれ! とか、ブッキッシュなわたしにはとてもカバーしきれない盛りだくさんな情報です。

 きわめつけはピリ辛短編「ジャンピング・モンキー・ヒル」についての梅田さんのコメント。

アフリカを複眼的に見ず、偏ったイメージで捉えてしまうこと(彼女の講演での言葉で言えば「シングル・ストーリー」)を痛烈に批判するこの作品。思わず声を出して唸ってしまうような痛快さ。また、私たちの「アフリカへの偏見度」が測れる作品だとも思いました。

 結婚式に(これは合同結婚式かな?)大人も子どもも盛装した姿で楽しそうに踊る「ノー・ワン・ライク・ユー」の動画をここに貼付けておきます。Please enjoy it!

2012/03/27

フランツ・ファノンからのエピグラフ

『デイヴィッドの物語』のあとがき、見直し完了! もう一息だ。
 この小説のいちばん最初に出てくるエピグラフ:


 わたしの最後の祈り、
 おお、わたしの身体よ、いつまでもわたしを問いつづける者にしていてくれ!

                  ── フランツ・ファノン『黒い皮膚、白い仮面』


 超有名なテクストだが、ほかにも山のように「相互参照テクスト」が出てくる。ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とか、トニ・モリスンの『ビラヴド』とか。それぞれ響き合って、小説に深みをあたえている。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」が(というより作品解説に近いなこれは)そのテクスト内テクストを丁寧に、丁寧にひもといてくれるので、南アフリカの文学史がとてもよくわかるし、アパルトヘイトからの解放闘争のなかで女性がどんな位置に置かれていたか、よ〜くよ〜くわかる、というより深い、深い問いの場を提供してくれるというべきかな。

 女性をめぐる隠されてきた事実、これ、日本のことでもあるよなあ、と思う反面、クッツェーが『鉄の時代』でも書いていたように、ニュアンスやあいまいさを許さない南アフリカという土地柄についても考えさせられる。クッツェーの『恥辱』のなかの、日本の読者にとってもっとも理解しずらいルーシーという登場人物の行動も、この作品を読むとその背景が理解できる。その意味で、『デイヴィッドの物語』はやっぱり『恥辱』と響き合うテクストなのだ。響き合うのは名前だけじゃない。
 
 あのコントラストのはっきりしたケープタウンの、真っ青な空を思い出しながら、やっぱり人間の心のありようは、その土地の風土に左右されるのかなあ、と思ったり。

 今日の東京は晴れて、風が吹いて、やけに花粉が多かった!

2012/03/25

缶詰状態で聴く歌

いまはむかし。この歌が「蛍の光」として流れ、歌われる季節になりました。学校の卒業式で歌われる歌詞はいただけないけれど、このヴァージョンは好きです。
 60歳をすぎると、この本歌のしごく素朴な意味を考えながら、こんなヴァージョンで聴くのもいい。

2012/03/23

最近のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの声

"To Instruct and Delight: a Case for Realist Literature." Chimamanda Ngozi Adichie speaks on Connecting Cultures at 2012 Commonwealth Lecture, organised by the Commonwealth Foundation.

2012/03/22

『デイヴィッドの物語』──ドロシー・ドライヴァーのあとがき

いやあ、最後の山場です。ゾーイ・ウィカム著『デイヴィッドの物語』の本文訳はすでに完成。いま、それについているドロシー・ドライヴァーさんの「あとがき」の訳を仕上げています。今月中には終わらせるつもりなので、ほぼ缶詰状態。

 ひえ〜っではありますが、これがまたすごい! 原稿用紙にして約120枚。まことに熱のこもったあとがきです。「2000年、ケープタウン大学にて」とあるところをみると、彼女がケープタウンから、パートナーである J・M・クッツェー氏とオーストラリアはアデレードへ移住する 1.5年ほど前に書かれたものでしょうか。

 あのころ、です。そう、クッツェーの『Disgrace/恥辱』が、南ア政権党のANCから公的に批判された2000年5月と、時期的に重なる、そこのところが決定的!

 当時の南アフリカの文学界で激しく議論されたことが彷彿とする展開で、読み応え抜群です。ポストコロニアル文学理論としても、フェミニズム文学理論としても、南アフリカの文学作品を読む人たちにとっては欠かせないものになるでしょう。
 いや、南アフリカ、という限定は吹き飛ぶかもしれない。同時代的な作品というのは、その作品が生み出された歴史的な場と切り離せないものであることを、いや、むしろその場において新たに読み直しを求められるべきであることを、彼女は熱を込めて論じます。

 いやあ、すごい──と「いやあ」が何度も出てきてしまいました/笑。秋には本になります。お楽しみに!

2012/03/17

書評:J・M・クッツェー『遅い男』

時事通信社による配信から2カ月ほど経ったので、書評をここにアップします。

2012/03/12

定型の強さ、恐さ──昨日、スタジオイワトで

詩人、藤井貞和の『東歌篇──異なる声 独吟千句』(定価500円 反抗社出版 カマル社制作)のリレー朗読/ピアノつき、に参加して思ったこと。それは、日本語が内包するリズム、五七五七七五七五七七・・・のすごさだった。いやあ、面白かった!

 20人あまりの人たちが参加して、一区切りずつリレーで読み、それに高橋悠治のピアノ即興演奏が絡むという趣向。作者である藤井貞和がまず最初の「少年」を読み、それを受けて参加者の1人が「祈念」を読み、そして次の「鎮魂」は前夜、急遽参加することになったという2人の琵琶師による詠唱となった。
 それまで、どちらかというと「ぼそぼそ」というふうに読まれていた詩が、ここへきてメロディーをもつ歌となり、詠となり、enhanced されたことばとなって琵琶の音とともにあたりに響いた。

 当初の説明では、わからない漢字が出てきたら作者である藤井貞和に質問し、相互やりとりを経ながら、ゆっくりと進行するはずだった。がしかし、細部はさておき、リズムにのって、どんどん先へ、先へと朗読は進んでいった。

 途中、あれ、その読みでいいのかな、ちがうよなあ、と内心思いながらも、その場の雰囲気に水をさすのもためらわれ、まあ細部はともかく、「鎮魂」ムードにのって粛々と、という雰囲気でいやます勢い、いやそれだけではなくて、次に読むのはだれかな? わたしか? なんて緊張もすこしあって、少しの緊張も20余人分天井へ螺旋となってのぼっていくか、とか、いろいろ脳裏をよぎるなか、あっというまに最後の行へ到着してしまったのだ。

 この間、約1時間と15〜18分。

 当初はもっとたっぷり時間がかかるものと主催者は考えていたらしい。少なくとも2時間、いや3時間以上、だらだらやると・・・。しかし・・・。

 意識するとしないとにかかわらず、日本語に埋め込まれている定型のリズム、身体に刻み込まれているリズムは恐るべし、あなどれない、そのことをあらためて認識した一日であった。

 この『東歌篇──異なる声 独吟千句』は、文字で読んでいるときは、定型のなかにもひょんと肩の力を抜くユーモアが組み込まれている。だから、内心くすっと笑いながら読むことになるのだが、昨日、声になった詩ではその「ユーモア性」がどこかへすっ飛んでしまっていた。このことは参加者の一人がいっていたのか、いや詩人その人がいっていたのか。確かに。

 終演後、福島のお酒を飲みながらだらだらと話すなか、高橋悠治が述べていたことばが心に残っている。それは、切る箇所を変える、つまり、五と七、七と七、のあいだを切らず、またぐようにすればいい、ということだったと記憶している。そうか。

 北海道という開拓地の出身者であるわたしは、内地のヒョウジュンを学び、追いつき、合わせようとする教育のなかで育ったせいか(どうか?)、なんとか抗いたいと思いながらも、みんなに合わせっちまって・・・ああ、力の抜き方が足りなかったぜ、と自省するばかり。ハハハ。
(敬称略)

 最後に、企画の八巻美恵さん、ありがとう! 平野公子さん、福島のお酒、おいしかったです!

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付記:朗読後の質疑応答のなかで、高橋悠治さんがした質問と指摘は記憶されるべし、であった。近世にあったさまざまな日本語のリズムが、近代化とともに「軍歌」と「詩吟」に収斂されていったという指摘である。(このまとめ、これでいいのかな?)

2012/03/05

3月11日は「スタジオイワト」で声を出します


 つぎの日曜日、3月11日はいろんなところで、いろんな催しが予定されています。デモに行く人、開催する人、福島まで行く人、銀河鉄道の朗読会など、本当にさまざま。
 
 東京の今年の寒さがちょっとこたえる身としては、スタジオイワトを選びました。藤井貞和さんの『東歌篇━異なる声 独吟千句』をリレー朗読する会です。

 「3.11を真正面から受け止め、リアルタイムでひとりうたいつづけた藤井貞和の・・・」とちらしにもあるように・・・

 詳しくはこちらへ

 藤井貞和さんは「水牛」でご一緒させていただいている、大先輩の詩人です。今回、参加させていただくことにした大きな理由のひとつは、藤井貞和という詩人が奈良に生まれて育ったということです。この詩人の日本語感覚、これが不思議なまでに面白い、というか、彼が生み出す日本語の詩は、北海道の片田舎に生まれ育ったわたしのような人間には、もう、ほとんど異言語空間に近い。この感覚をもう少しあらわにしてみたいと思ったからです、自分なりに。

 日本語の「中心」はどこにあるか? という問いとも重なります。from provincial life ということとも。

 さて、当日、どうなるか。異郷感覚で朗読する旧植民地=北海道出身者の言語は、どうなるか? 自分でも、どきどき、いやいや、すごく楽しみです。

2012/03/03

アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

今月の「水牛のように」に詩を書きました。

 アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

もうすぐ「3.11」から一年になります。でも、でも・・・