Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2012/12/31

Auld Lang Syne ──さよなら、2012年



去年もおなじヴァージョンで聞いた曲。ゲール語がまじる歌詞がいい。

2012/12/30

Acoustic Africa ── 雨の日に資料を整理しながら

 今日は思い切って、1988年から89年にかけて反アパルトヘイトの運動に少しだけかかわったときの資料や手紙類を整理した。1989年1月に国連の会議に出席するため、ジンバブエのハラレまで旅したときの手紙類、会議で出会った南ア人から託された南アフリカ国内難民の写真、それといっしょに新聞に書いた記事など、ダンボール箱いっぱいの黄ばんだ紙類から、保存するもの、捨てるもの、区分けして大量の紙を資源ゴミへ。
 国内難民/inner refugee という言葉をこのとき初めて知ったけれど、いま、福島から避難している人たちは、それまで住んでいた場所に住めなくなるという意味で、まさに国内難民にちがいない!

 なつかしい名前、手紙、侃々諤々の論争になったポストカード、20年以上も前の写真は自分の顔もまったく別人のように思える。町田で開かれた会のあとのダンスパーティで、当時のナイジェリア大使とその夫人(じつに美しい人だった)が踊っている写真もあった。いっしょに連れていった末の娘はまだ小学生になったばかり。

 88年、89年、日本は、世界中からアパルトヘイト撤廃のための「経済制裁」を受けた南アフリカとの貿易額が世界一になって、国連総会で名指しで非難された。アパルトヘイト政権下の国を視察して「この国には人種差別等ない」と明言したのは先ごろ都知事を辞めた人だった。あのころは国会議員で、南アの国会議員とともにつくった友好議員同盟の日本事務局長をつとめていたんだ。忘れない。

 日本反アパルトヘイト委員会が、ネルソン・マンデラをはじめとする獄中にある政治囚(とりわけ子どもたち)の解放をもとめ、不名誉きわまりない「名誉白人」を返上したいと、連帯の思いを込めて「WEEKLY MAIL」に出した意見広告も出てきた。南アフリカで検閲制度とたたかいながら情報を掲載していた週刊新聞、日付は1988年7月15-21日。メッセージのあとに、賛同者の名前をアルファベットでつづっていく形式だ。

 さまざまな記憶がよみがえるなかでCDをかけた。Putumayo Presents ACOUSTIC AFRICA (2006)、2年半ほど前にここでも触れたけれど、雨の日に部屋にこもって聴くのもいいな、とあらためて思う。

2012/12/25

クリスマスの思い出


昨日のつづき、今日は降誕祭の当日。

Merry nothing! などと書きましたが、かくいうわたしも子どものころはしっかりサンタクロースの存在を信じていたし、イヴは翌朝、枕元にプレゼントが置かれるのをわくわくしながら眠ったものです。
 10歳になるまで、家では薪ストーブだったので、当然ながらしっかり煙突もあって、あの細いところをサンタはどうやって入ってくるのだろう? と真剣に考えました。朝外へ出て雪原にトナカイの引く橇の跡が残っていないかと念入りに調べもしました。橇が空を飛んでくる絵本と、現実の家の外の雪の原が、どうしても頭の中で結びつかなくて、正直、悩みましたね/笑。

 父が切ってきた樹木に綿をのせて、モールや天使の飾りをつけて、いちばんうえに大きな星型を差し込み、きらきらの電飾をうえから裾広がりにかけると、クリスマスツリーのできあがり。
 北海道の田舎の町で、周囲はみんな仏教徒ばかりの環境で、クリスマスツリーのある家というのはとてもめずらしかった。1950年代半ばのことです。
 25日はクリスマス礼拝のため、隣町の教会に行き、賛美歌を歌い、子どもたちは降誕祭の劇をやって、というのが、わたしの幼いころのクリスマスでした。その劇で、いっしょに台詞を交互にいうことになっていた相手の男の子が台詞を忘れてしまって、靴下をひたすらひっぱりあげようとするのを、困って、困って、困って見ていたのを思い出します。5歳だったかなあ。
 
 母親になってからも、子どもが小さいころは、とても熱心にクリスマスはやりました。楽しかったなあ。当然、サンタクロースがいることをわたしの子どもたちも、ある時期までは信じていました。お正月のしめ飾りはなくても、クリスマスツリーとリースは欠かさなかった。そういうふうに育てられると、自然、自分の子どももそんなふうに育ててしまう。すでにキリスト教徒としての信仰も習慣も捨てていたので、さすがに、教会には行きませんでしたが。

*写真はネットから拝借しました。

2012/12/24

クリスマス・イヴに読む、 佐藤研著『最後のイエス』

 12月24日、いわゆるクリスマス・イヴ。いわずもがなの、イエス・キリストが誕生する前夜のことだ。そこで遠いむかし、なんというか一種の俄クリスチャンに育てられた者として読んでいるのが、この、佐藤研著『最後のイエス』だ。これがまた刺激的。

 キリスト教の信者が多いわけでもないのに、いつのころからか、たぶん第二次世界大戦後だろう、日本社会でもこの日を祝って、ローストチキン、シャンパン、ワイン、ケーキ、などなど盛りだくさんのごちそうを食べ、子どもたちはサンタクロースからプレゼントをもらう風習が根づいた。
 最初のころは、キャバレーやバーで赤い三角帽子をかぶった「オヤジ」たちがばか騒ぎする写真がメディアをにぎわせた。遠いむかしの話だけれど・・・。いまは家族中心、若いカップル中心のファッション?

 これらのモノ、モノ、モノを生産する産業と、その販売を後押しするメディアのなせる結果、といえるだろうか。モノを売る絶好のチャンスだから、この風習は日本に限らず、全世界に広まった。
 昨年ケープタウンからの帰路、トランジットしたドバイ空港にも(アラブ首長国連邦はもちろんイスラム教文化圏)大きなクリスマスツリーが飾られていた。

 さて、キリスト教である。この宗教はご存知のとおり、イエス・キリストという、大工の息子が家族を捨てて、バプテスマのヨハネのもとに馳せ参じたところから始まることは、つとに知られている。(ン?)

 といったことを、もう一度、おさらいするためにこの本を読んでいるのだが、これがめっぽう面白い。イエスという男を最初から聖人あつかいせず、あくまで人間として心理分析をしたり、当時の社会を背景に、彼がなぜあのようなことをしたか、言ったか、という視点から解き明かそうと試みている。新約聖書の翻訳で名高い、屈指の学者が、である。

 きわめて刺激的なこの書物、来年3月に発売される J・M・クッツェーの新著『The Childhood of Jesus』を読むための下準備にはうってつけではないか。イエス・キリストについてこの作家が「that aberrant Jewish prophet Jesus of Nazareth/あの奇人変人のユダヤ人預言者、ナザレのイエス」と言っていることから考えても、あるいは、John とは「洗礼者ヨハネ」つまり「バプテスマのヨハネ」であることから考えても・・・。

 いまは、Merry nothing!

2012/12/22

J・M・クッツェー、3度目の来日

来年のことを言うと・・・と笑ってください、鬼といっしょに。

 さて、来年の3月1日、2日、3日に開催される「東京国際文芸フェスティヴァル」に参加するため、J・M・クッツェーがふたたび来日します。ジュノ・ディアスも、ジョナサン・サフラン・フォアも来るようです。
 
 クッツェーさんは2006年9月が初来日で、翌2007年12月が再来日でしたから、5年ぶり3度目の来日です。インタビューも対談もめったにしない方なので、おそらく、自作の朗読になるのでしょう。詳細はわかりません。わかりしだい、このブログでも情報を共有したいと思います。

 写真はそのジョン・クッツェーさんがヘルメット姿で自転車をこいでいるところですが、彼は知る人ぞ知る自転車狂です。
『少年時代』にも8歳の誕生日にもらったお小遣いでスミス製の自転車を買った話が出てきました。1980年代に彼はスポーツとリクリエーションをかねて、ふたたび自転車への熱に取り憑かれます。

 この写真のキャプションには、ケープタウンで毎年開催される「アーガス・サイクル・ツアー」に15回も出場したとあり、1991年には彼のベストタイム、3時間14分で完走したとか。1994年にもおなじタイムを出したとキャプションは語ります。(あら、1991年と1994年というと・・・南アフリカの祝祭気分の年ですね)

 じつは今日、オーストラリアの「Monthly」というネット上の書評欄にこの写真が掲載されているのを発見したのですが、これは J・C・カンネメイヤーの伝記『J.M.Coetzee: A Life in Writing』に挟み込まれている何枚かのショットの一枚で「Family Album」と銘打たれています。さて、どこから流出したのか、伝記掲載のショットとは微妙に縁取りが違っているようですが・・・。
 とにもかくにも、こんな写真がたっぷり入ったカンネメイヤーの伝記です。クッツェーふぁんにはたまらない面白さ。どこか出版するといってくれる勇敢な出版社はないものでしょうか・・・。

2012/12/21

もしもいま、希望を語ることができるとしたら

 すっかり忘れていた。昨年、6月に自分でリンクを貼りながら、今朝まで忘れていた。でも、あるきっかけで思い出して、再読したことばたち。

1年半も前だけれど、いま、こうして生きているこの社会のなかで、さらに絶望的な思いに駆られそうになる「いま」、もう一度、読んでみても、ある意味で深くうなずけることばたち。

 もしもいま、希望を語ることができるとしたら、それはこういうことなのだと思う。

 *写真はネットから拝借しました。

2012/12/19

ひさしぶりに絵本 ──「チャーリーのはじめてのよる」

本当にひさしぶりに絵本を読んだ。いただいた絵本だ。

チャーリーのはじめてのよる

 ゆきの日に子犬をだっこして、ヘンリー少年が家に連れて帰る。初めて子犬が少年の家で眠る夜の、どきどき、はらはら、そして・・・。とてもやわらかな心が描かれている。

 ちょうど9年前のいまごろ、生まれて3カ月の子猫が、私たちの家にやってきた。そのときのことを思い出した。

 絵本のなかでさえ、ちいさな子どもといっしょに過ごす時間は、大人にとっては宝物なんだよね。

エイミー・ヘスト/ぶん、ヘレン・オクセンバリー/え、さくまゆみこ/やく(岩崎書店)。

2012/12/18

12月10日クッツェーがヴィッツ大学で名誉博士号を授与されて

またまた、ジョン・クッツェー登場です/笑。
 12月10日ヴィッツヴァーテルスラント大学で J・M・クッツェーが名誉博士号を授与された、そんなニュースが数日前にあちこちに流れた。

 そのときの彼のスピーチがまた面白い。まず卒業生に向かって、人文学はもう女性の専門領域になってしまったと思ったが、以外にも多くの男性がここにいて嬉しい(会場は爆笑)、ぜひ、小学校教師になってほしい、小さな子どもたちにとっては男の教師も女の教師とおなじくらいいるほうがいい、と述べたのだ。その発言に聴衆も「ええっ?」と戸惑いを隠せなかったようだ。
 
 教師という仕事は、労力の割にはささやかな収入だが、若年人口が多い南アフリカでは将来性のある重要な仕事だ。官僚制度が作り出す多量のペーパーワークと格闘することにはなるが、なにより、小さな子どもたちといっしょに過ごすことは、物を売買したり、コンピュータの前で数字や記号だけをいじっているよりはるかに良いことだし、人間として成長できる仕事だ、とこの作家は述べる。

 スピーチの英文テクストはそっくりここで入手可能。また、スピーチはここで聴けるので、ぜひ!
 
 クッツェーは、自分が小学校で男の教師に初めて教わったのは11歳だったが、小さいときから両性の教師に教わったら、もっと十全な成長ができたのは間違いない、と述べる。社会に出るときの準備ができる、と。これは彼の人間観、教育観ともいえるものがあらわれていて興味深い。

 ちなみに彼の母親ヴェラは小学校教師だった。彼女は幼いころから2人の息子たちを、当時のアパルトヘイト国家体制に奉じる人間をつくりあげる(form)教育に抵抗して、モンテッソーリ・メソッドやルドルフ・シュタイナーの教育理論にしたがって育てた。その子のもっている個性をあたうるかぎり伸ばし、学校教育が押しつけてくる「型にはめる/form」やり方を回避する方法だ。それが彼(ら)を孤立させもしたけれど、ジョン・クッツェーという人間の基礎部分を形づくった。そのことは自伝的三部作の『少年時代』や『サマータイム』のなかで詳しく述べられている(いま訳してま〜す)。

 72歳にして母国、南アフリカのジョハネスバーグにある、アフリカーンス語の名を冠する(かつてはアフリカーナーの法律家を数多く排出し、アパルトヘイト思想の牙城と呼ばれた)大学の名誉博士となったこの作家が、若い卒業生に、ときに笑いをとりながらあくまで平易に語ることばは、彼の思想を考えるうえでも、なかなかに深い意味合いが込められている。

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付記:アパルトヘイトという「人類への犯罪」と呼ばれた制度のなかで加害の側に組み込まれながら、50年を、歯ぎしりしながら、絶望的な思いに駆られながら、それでも真摯に生きてきた人間のシンプルで強いことばは、いまこの怨念が渦巻くような社会のなかに生きるものたちにも強くシンプルに伝わる。ことばの表層の意味ではなく。

2012/12/16

バッハの無伴奏チェロ組曲 ── 今夜はこれ!

 チェロはピエール・フルニエ。録音は1977年、ジュネーヴ。

 その前に持っていたアルヒーフ版の3昧組のLPは、学生時代に買ったもの。モノラル録音をステレオにしたらしく、さすがに音がよくなかったけれど、真冬になると、縁を糸でかがった、文字だけが書いてあるシンプルなクリーム色のジャケットから引っ張り出して、よく聴いた。録音はLPのレーベルに、1960年12月20日と書かれている。ドイツ原盤。

 いまかけている写真の2枚は、CDになってから買い替えたものだけれど、これもよく聴いた。その後、もっと軽くて、楽しい演奏のマイスキーのものをかけることが多かった。90年代だ。でも、先日かけてみるとどうも違うな、という気がした。今夜、フルニエをかけて、いまは絶対にこれだと思った。しっくりくる。

 音楽のほうは変わっていないのだから、聴く者の変化が大きいのだろう。こんなふうに時代はめぐり、耳が求めるものもめぐり、めぐるのだなと思う。

 文学作品にしても、それはおなじかもしれない。何年も前に書かれた作品がふたたび読まれるようになって、新たな読者とめぐりあうこともあるのだ。新刊ばかりがすべてじゃない。
 それにしても、この国は「内破」しようとしているのだろうか?

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付記:さあ、気分を切り替えて、明日からはまた仕事! 自分のできることをやるだけだ!

投票に行ってきました

前回の選挙のときより、投票場が混んでいました。書き込む用紙が多いということもあったけれど、それだけではないような・・・

2012/12/13

16日の選挙に、どうしようかなあと迷っている人

いいサイトを見つけました。16日の選挙に、自分の考えがどの政党のものと一致するのか? 各政党が発表している政策や方針を細かく調べるのが億劫な人、そんな人向けに、自然に浮かぶ質問の形式で結果がわかるサイトがあります。

こちらです

 わたしもやってみました。結果に納得です。詳細がすぐに出ます。
 今回の選挙は、ぼんやりしていると大変な結果を招く、ものすごく重要な選挙ですから、ふだんあまり関心のない人もぜひ、投票場に足を運んで、しっかり投票権を行使してください。

 勝つとマスコミの「世論調査」がのべている政党は、憲法9条を変えるどころか、非常事態を宣言して行政権でいかなる法律も、国会の審議なしで成立させることができる憲法にしよう、という驚くべき提案をしています。国民の基本的人権の条項もすっぽり落ちています。恐ろしい社会が現実のものとなる・・・。

 2011年3月11日の被害による原発事故について、もう一度、基本から考えてみたい。そのためには、こちらのサイトもおすすめ。納得できる発言です。

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2012.12.14 付記: 「世論調査」ってやっぱり、かなり操作が入っているみたいですね。早々と、○○圧勝、なんてやって「なにかを諦めさせる効果」をねらっている・・・日本人は長いあいだ「長いものに巻かれろ主義」でやってきたことを熟知している人たちの巧みな世論操作。投票場では自分の考えにしたがっていいんだよ。ものすごく初歩的な一歩。諦めないで、それが今日も、明日も生きることなんだからさ。ぶつぶつ。

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2012.12.15 付記:この意見、わたしもリツイートではないけれど、ここに貼付けます!
自民圧勝を避けたいなら、当面の方法は一つ。「選挙区内の非自民候補で一番勝てそうな人」に入れること。現状なら自民は得票率3割で圧勝できる(比例区の得票率はその程度)。残りの7割が分裂していて、選挙協力もせず、みんな共倒れするからだ。脱原発支持の世論が7割以上でも選挙結果はそうなる by 小熊英二

2012/12/10

はじける dress after dress の中村和恵さん!

平凡社のヴェブマガジンに好評連載中の「dress after dress」、今月の中村和恵ねえさんは、ぱっきりしゃっきり、すんごいはじけてる! 男の子も女の子も必読です。

 なんてったって、女性が女性であるための身体の話です。いまの日本社会が、とりわけ男性中心社会が目をそむけてきたこま〜ったことを、あっけらかんと白日の下にさらし、それも、とっても前向きです。きっぱり!

 わたしもおおむかし、1980年代にかの「A新聞」に投稿したことのあるテーマでした。そのときも反響がすごかったなあ。あれからはや、30年になりますか。まだ、産婦人科には、あれがあるのよね! もういいかげん、消えてなくなればいいのに!

 えっ? なんのことかって? ではでは、こちらへぜひどうぞ

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2014/5/3   遅ればせながら、3月に中村和恵さんの『dress after dress』が本になりました。傑作です! お薦めします。
その時点で、おそらく、web-heibon のリンクがなくなりましたので、ぜひ本を手に取って、興味津々の、愛に満ちた批判の力を楽しんでください。

2012/12/02

真夜中に走り出す指

  暦も気候も、まさに師走。雪でも降りそうな東京、南多摩の夕暮れです。

「水牛のように」に詩を書きました。「真夜中に走り出す指」。

 編集長の八巻美恵さんが「水牛だより 12月号」で、ウィカムの『デイヴィッドの物語』を紹介してくれました。美恵さん、どうもありがとう!

2012/11/30

グリクワとル・フレーの写真 ──『デイヴィッドの物語』裏話(2)

今回は一枚の写真である(前回はこちら)。グリクワの大首長、アンドリュー・アブラハム・ストッケンストロム・ル・フレーが率いたトレックで、コックスタッドヘたどり着いた人たち、1898年。拙訳『デイヴィッドの物語』89ページに事細かに描写される写真だ。

『デイヴィッドの物語』を翻訳するとき、なにが難しかったかといって、グリクワという民族がどういう人たちなのかを調べることほど難しいことはなかった。いったい、どのような歴史をもち、なにを信奉し、どこで暮らしているのか。だれがグリクワであり、だれがグリクワではないのか。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」を読めばおおよそのことは理解できるが、やはり、ひどくおぼろげだ。ちょっとした疑問に答えをえるために検索してもヒットする情報はそう多くはない。まとまったかたちで日本語で読める資料としては、文化人類学者である海野るみさんの書いた論文しかない。だから前にも書いたが、「歴史を歌う」グリクワの人びとがどのような人たちか、彼らの考え方の根幹となる部分を理解するため、海野るみさんの論文には本当に助けられた。深謝!!

「訳者あとがき」にも書いたけれど、グリクワという人たちは、アパルトヘイト時代の「人種区分」では「カラード」に入れられた。アパルトヘイトが撤廃されて、この「カラード」という区分が取り外されたとき、個々の人たち、あるいは個々のグループはアイデンティティを問われることになった。デイヴィッドが自分探しの旅に出た背景にはそんなプロセスがあったのだ。

 そもそも南アフリカにもっとも早くから住んでいた「コイ」や「サン」といった褐色の肌をした先住の人たちは、征服者としてまずやってきたヨーロッパ人男性との混血がいやおうなく進み、これに労働力/奴隷として導入されたアジア系の人たち等が加わって、さらに混血が進んだ。

 ゾーイ・ウィカムはその辺をめぐる、絡まり合った、一筋縄ではいかない複雑なもつれを解き明かすべく書きつづけてきた作家ともいえる。南アフリカにおけるアイデンティティにからむ複雑な諸問題が解体され、白日のもとにさらされるとき、そこには当然ながら歴史的事実をどのように理解するか、どのように解釈するかが絡んでくる。そこが、J・M・クッツェーの名前へのこだわりともリンクするのだ。
 彼もまた自分はオランダ系アフリカーナーの末裔であるとは単純にはいえない、いいたくない、さらには英語圏文学のなかに吸収されることにも No! という姿勢を取る(その好例が、ここ数年前から彼の作品はまずオランダ語で出版され、そののち英語のオリジナル版が出ることになっている事実に端的にあらわれている)、といった絡まり合った歴史/事情/心情/思想、を背景に抱えた作家である。その視野にはこの世界全体の動きが含み込まれてくる。「世界文学の作家」とわたしが呼ぶのは、そういう意味だ。
 
 上の写真の中央に左を向いて、すっくと立つアンドリュー・ル・フレー/Andrew Le Fleur も、もとはといえば、アンドリス・ル・フレー/Andries Le Fleur とオランダ語とフランス語が混じったような名だったが、あるとき英語風にアンドリューと名前を変えている。当時それがある種の流行りだった。その流行りには政治的な要因がからんでいる。(詳細はぜひ作品を読んでください!)
 しかし、当然「おれはイギリス風なんかごめんだ、いやだ」という人だっている。グリクワの人たちのなかにも、がんこにアフリカーンス読みを主張する人もいたはずだ。訳書内でも、デイヴィッド/David の父は、おなじスペルでもアフリカーンス語風に「ダヴィット/David」と訳した。

 今回もまた、たかが名前、されど名前、の厄介さが、たっぷりと登場した。

2012/11/29

クッツェーの伝記がオランダで出版されて


 南アフリカのアフリカーンス語で書く伝記作家、J. C. カンネメイヤー著『J.M.Coetzee: A Life in Writing』がオランダ語に翻訳されて、英国などより一足はやく出版され、あちこちに評が載ったようです。う〜ん、読んでみたいです。

 それにしても、この右下の写真、すごく笑えます。ロンドンで仕込んだ都会のセンスをケープタウンでも・・・という、23歳のクッツェー。黒い背広にコート、左手には革鞄、右手にはなんと、こうもり傘を持っています。完全英国紳士風。provincial life=属州/国出身者のきばり、というか、いまはきっと、それをにやりと笑う72歳のクッツェーがいるのでしょう。
 だって風の強いケープタウンでは、多少の雨が降っても傘をさす人はほとんどいない、と去年訪ねたときにガイドのFさんがいっていたくらいですから。

 北海道の片田舎から東京に出たばかりの60年代後半の自分を、まざまざと思い出し、にやりとなります/笑。

2012/11/22

グラスゴーの謎の絵──『デイヴィッドの物語』裏話(1)

企画から4年、ようやく出版された『デイヴィッドの物語』には、一枚の絵をめぐるミステリアスな話が出てくる。

 褐色の肌に誤ってぽとりと落ちたような碧眼のデイヴィッド。表向きは学校教師だが、じつは非合法の解放組織ANCの闘士である。あるときミッションを託されてスコットランドのグラスゴーへ行き、訪れた歴史博物館ピープルズパレスで一枚の絵を見る。18〜19世紀のグラスゴーの経済的繁栄を示す展示のなかに、西インド諸島のプランテーションから煙草や砂糖を船で運んで大金持ちになった男の一族を描いた絵画があった。暗色の画布に目を凝らすうちに、左上になにかを感じて目をやると、召使いの服を着た黒人男がこちらをじっと見据えているではないか。だが、男の顔はやがて眼差しといっしょに、ゆらゆら揺れて水に解けるように消えていく。1980年代のことだった。
 
 それから随分ときがたち、いまは1991年。アパルトヘイトからの解放も間近だ。思い立って自分のルーツ探しに訪れた町コックスタッドのホテルで、デイヴィッドは奇妙な体験をする。ウェイターの眼差しにどこか見覚えがある、だが、どこで見たのか思い出せない。なにか不穏な記憶と結びつく視線で、心が落ち着かない。やがてそれは、この絵のなかで見た奴隷の眼差しだったことに気づいて‥‥。
 
左の絵、本にはないけれど、ここで種を明かしてしまおう。
 1767年にアーチボルド・マクラフリンという画家によって描かれた、当時グラスゴーで指折りの「煙草王」、ジョン・グラスフォード(1715〜83年)一家の絵だ。見ての通り、奴隷男の顔はない。しかし銘板に「左手に黒人奴隷が描かれていたが、その後、塗りつぶされた」とあった。デイヴィッドはまず絵を見て、その次に銘板を読んだのだが‥‥。この絵はいまも実際にグラスゴーのピープルズパレスに架かっているという。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」によれば、トバイアス・スモーレットの小説『ハンフリー・クリンカー』(1771年)には、グラスフォードという男が外洋航海中の25隻の船舶を所有し、その貿易額は年に50万スターリング以上にのぼったとある。彼はグラスゴーの大貿易商、銀行家であり、「ヨーロッパでもっとも偉大な商人のひとり」だった。
 この一族の新たな富はとりわけ、グラスゴーの煙草王たちが着用した赤いマントを思わせる赤い衣類とドレープとして表象され、さらに、この絵には奴隷の姿が描かれていた。奴隷は当時の挿絵図版にとって、大儲けできる植民地との結びつきを示すお決まりのシニフィアンだったのだ。しかし、ユマニストたちの擡頭によって、奴隷制廃止論が高まるや、この絵に手が加えられて、奴隷の顔が塗りつぶされた。

 銘板のコメントを見ないうちに、なぜデイヴィッドにその奴隷の顔が見えたのか? 幻視のように。やがてその記憶が、解放組織内の、忘れてしまいたいある記憶へと結びついていく。いまだに全容が解明されていない、アンゴラ北部にあったANCの拘禁キャンプでの記憶である。小説はそのとき、南アフリカにおける奴隷制の歴史と、ひとりの個人の記憶をめぐる謎解きの様相を帯びて緊迫する。

 絵画から塗りつぶされた奴隷の顔が浮かびあがる。これはなにを意味するのか? 

 つづきはこちらへ

2012/11/14

ゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』── 完成!

今日、『デイヴィッドの物語』のみほんができました。この瞬間がなんといっても嬉しい。感無量!

 著者のゾーイ・ウィカムさんはもちろん、力のこもった「あとがき」を書いたドロシー・ドライヴァーさんはじめ、グリクワ民族の専門家である海野るみさんには大変、大変お世話になった。また、大詰めの作業ではアフリカのさまざまな民族をめぐって、なにかと注文の多い訳者の希望を入れてくださった装丁家の桂川潤さん、アフリカの布についていつも、さすがプロと思わせるすばらしい速さで調査をしてくれる「梅田洋品店」の梅田昌恵さん、ほかにも、支援してくださった何人もの方々に心からお礼をもうしあげたい。そして、

 解放闘争の内幕をゴシック/ミステリータッチで描く、圧倒的なナラティヴ・ヒストリー

というキャッチコピーを、要求の多い訳者の意見を入れて、苦心してひねり出してくれた編集の西浩孝さん、本当にご苦労様でした。

 思えば、2007年12月に二度目の来日をしたジョン・クッツェー氏とパートナーのドロシー・ドライヴァーさんとの会話から、この翻訳の企画はスタートした。紆余曲折を経て、企画が決まってからすでに4年。その間、ケープタウンまで旅もした。この作品に出てくる地名を地域別にソートして、まことに効率よく案内してくれたケープタウン在住のガイド、福島康真さんのプロ精神には感服した。

 みなさん、ようやく本になりました。南アフリカの解放闘争の裏でどのようなことがあったか。現在、混迷を深める南アフリカの政治、経済状況は、どのようなことに端を発して現在へいたっているか、その答えのひとつがこの作品のなかに、確実に埋め込まれている。それは紛れもない事実だと思う。
 しかし、翻訳を決心した理由はもちろんそれだけではない。クッツェー氏の文学作品としての破格の讃辞。ドロシーさんとのワイン片手の腹蔵ない会話。そして、なによりこの作品自体のもつ優れたパワーと、テクストとしての先駆性と、それを書いたゾーイ・ウィカムという作家の同時代性に、東アジアに住むひとりの人間として深い共感を覚えたことが、一筋縄ではいかないこの本の翻訳にわたしを向かわせたのだと思う。
 クッツェー氏からも「翻訳が終わったのを聞いて嬉しい。この本の翻訳は生易しい作業ではなかったはずです」とメールをいただいたのは大きな慰労だった。

 みなさん、ぜひ手に取って、読んでみてください!

 ちなみに表紙では、本書内にも登場するストレリチアという南部アフリカ原産の花が、なにやら謎めいた不思議な印象をかもし出しています。
 この本からこぼれ落ちるさまざまな逸話を、これから何回かに分けて「裏話」として書いていきますので、乞うご期待!

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2012.11.22付記:みほんが出来てから数えること○日(これが訳者にはとっても待ちどうしい!)Amazon やほかのネットショップでも昨日から24時間以内発送になりました!


2012/11/09

愛はすべてを赦す──加藤登紀子と坂本龍一

昨夜、八巻美恵さんがママをやる、スタジオイワトの「新月バー」に飲みに行ったら、ハレハレバンドなる3人組がやっていた曲、それがクルト・ワイルの「三文オペラ」黒テントバージョンだった。なんとも時代を感じさせる選曲と歌詞!(ちなみに今回のバーは、チイママが岸本佐知子さんだった!)

 それで思い出したのがこれ! LPのレーベルに記された年代が、1982年。なんと30年前ではないか。歌うは30代後半の加藤登紀子、バックのピアノはこれまた若き坂本龍一。そして発見。ワイルの曲の訳詞がなんと高橋悠治さんだったのだ!

 さて、そのレコード盤をひさびさにLPプレーヤーに置いてターンテーブルをまわし、針をのせた。あら〜〜〜〜! ばりばり、びりびりという音がやまない。そうか、このLPはまだ子どもたちが小さいころ、ずいぶん聴いたんだった。とくにA面最後のアップテンポの曲「唯ひとたびの」(映画「会議は踊る」より)がかかると、就学前の3人の子どもたちが、歌詞の意味などちんぷんかんぷんながら、わいわい行進曲風に輪を描きながら踊りまくったのだ。というわけで針飛びはげしく、当然ながら、LP盤には無数の傷がついた。そしてこのひどい音割れ。


いたしかたない、CDを買おうか、どうしようか、迷うなあ〜〜
ちなみにわたしの一番好きな曲は、なんといってもA面の2曲目、「今日は帰れない」です。

作者不詳/訳詞:加藤登紀子   (ポーランド パルチザンの唄 1930年代)

 今日は帰れない 森へ行くんだ
 窓辺で僕を見送らないで
 君のまなざしが闇を追いかけ
 涙にぬれるのを見たくないから
 涙にぬれるのを見たくないから
 
 遠くはなれても 忘れはしない
 君のもとへいつか戻って来たら
 真昼だろうと 真夜中だろうと
 熱い口づけで君を狂わすよ
 熱い口づけで君を狂わすよ

 もしも春まで 帰らなければ
 麦の畑に種をまくとき
 僕の骨だと思っておくれ
 麦の穂になって戻った僕を
 胸に抱きしめてむかえておくれ


2012/11/04

ダンティカについて── 毎日新聞「新世紀 世界文学ナビ」

毎日新聞「新世紀世界文学ナビ」にハイチ出身のフロリダ在住作家、エドウィージ・ダンティカについて書きました。よかったらぜひ。明日11月5日の朝刊コラムです。

「作家本人から」のコーナーには、彼女の最新エッセー集「Create Dangerously/危険を冒しながら創作する」からの抜粋訳が掲載されます。ハイチの独裁政権下で育ったダンティカならではの慧眼が感じられます。独裁はなにも、ハイチに限らないけれど・・・いまも。

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2012.11.18付記:毎日新聞のコラム内に数字の誤りがあります。ハイチ地震が起きたのは2011年ではなく、2010年でした。わたしの元原稿からの誤りがスルーして残ってしまいました。お詫びして訂正いたします。


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2014.2.10付記:ダンティカについて、ここで読めるようにしました。

2012/10/31

J・M・クッツェーの伝記が届いた!

短い札幌の旅からもどると、ケープタウンの Clarke's Bookshop から本が届いていた。J・C・カンネメイヤーが書いた J・M・クッツェーの伝記、JM Coetzee:A Life in Writingである。

 パッキンの入った袋があまりに分厚いためか、日本の税関でいったん開封された痕跡があった。補修テープのうえにそのことを示す日本語が書かれていたのだ。南アフリカから書籍を取り寄せるようになって20数年になるが、こんなことは初めてだ。なにが疑われたのだろう。まあアットランダムにピックするのかもしれないが、とにかく、これから航空便で投函する(+R400)、という知らせがあってから10日後には届いた。この速さはありがたい。

 この書籍、本当に分厚い。ページ数は本文だけで616ページ、註や索引をすべて含めると710ページもある。さらに四部に分かれてカラーおよび白黒の写真が8ページづつはさみこまれている。縦246×横160×厚60cmという大部な書籍、まさに枕本だ。

 Johnathan Ball Publishers という出版社から出たばかりのこの本は、ご覧のように、フロントカバーにクッツェーの若いころのにこやかなプロフィール写真があり、バックカバーにはおなじみデイヴィッド・アットウェル、デレク・アトリッジ、さらにラーズ・イングルの讃辞がならんでいる。これまでプライベートライフに関する質問は受け付けない、書いた作品自体に語らせることが最重要であり作品に関する言及は避け、そのためインタビューは受けない、と明言してきた作家が、アフリカーンス文学研究で名高いカンネメイヤーに自分のプライベートな書類へのアクセスを許可し、2週間にわたりアデレードでインタビューを受けて、率直に、あるときは熱心に応答し、さらにメールでの追加質問にも丁寧に答えている。その結果、事実を書くこと、を条件にまとめられた中身の濃い伝記が仕上がった。しかし、カンネメイヤーはこの伝記を書き上げた直後、昨年のクリスマスにこの世を去った。絶句してしまいそうな出来事だ。

 写真がまたクッツェーファンにはあっと驚くようなものが多い。ヨーロッパからやってきた曾祖父バルタザール・ドゥ・ビールと妻の写真からはじまって、ビッグマンになった祖父ゲリット・マクスウェル・クッツェーとその妻、そして父母の写真、ジョンの幼いころの写真、両親や弟といっしょの写真、ボーイスカウトのユニフォームを着て犬と撮った写真、フューエルフォンテインの屋敷の写真、高校時代のクリケットチムーの写真、コウモリ傘に革鞄を手にケープタウンを闊歩する20代初めの写真、フィリッパ・ジャバーと結婚したころケンブリッジで撮影した写真、フィリッパのプロフィール、さらにクッツェー自身が10代から暗室をもつほどの写真マニアであったことを物語る彼自身が撮影した親戚一家の写真、そして作家として名をなすようになってからのおなじみの写真がならんでいる。若くして他界した息子の顔写真は胸をうつ。ヘルメットをかぶり短パンで自転車をこぐクッツェー自身の写真や、娘とフランスを自転車で長距離走破したときの写真など、彼の自転車への情熱を伝えるもの、1990年代初めに自然公園で家族や作家の友人たちとお手製の料理を広げてピクニックをしている写真など、見ていると興味はつきない。
 なかに手書き原稿の写真が一枚ある。最初の小説 Dusklands の草稿だ。几帳面な細字が大学ノートにぎっしりならび、赤字で添削してある。また、Slow Man はなんと半年という短期間に25回も書き直して仕上げた作品だという。すごい集中、すごい密度である。(付記:2013.5.9──書き直し回数が「5回」と誤記されていたので訂正しました。正しくは25回です。作家はこの作品を2004年7月13日に書き始めて12月に最終テクストを完成、とあります。p595)

 自伝的三部作は Boyhood Youth の部分はおおまかにいって事実に基づいた記述といえるが(といっても細部を見ると、微妙に入れ替えてあったり、省略してあったりするので要注意なのだけれど)、ご存知 Summertime はがらりと様相を変えた、誰が見てもフィクションとわかる書き方である。作家がすでに死んでいるのだから!
 机上にこの大部な本を置きながら、どこまでが事実で、どこまでが創作かを、あらためて行間に透かし見ながら自伝的三部作を翻訳することになった。これまでにない発見、また発見の日々がつづきそうだ。わくわく、どきどき、未経験の作業がつづく。こんなスリリングな体験は初めてである。ちなみに3枚目の写真はオーストラリアのペンギンから出版されるバージョンだ。

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2012.11.12付記:もうじきオランダ語版も書店にならぶようです。そのオランダ語版のカバー写真と、左に山のように積まれているのは原稿とゲラのようですね。

2012/10/29

毎日新聞「新世紀 世界文学ナビ」にシスネロスについて

今朝の毎日新聞文化欄の「新世紀 世界文学ナビ」に、サンドラ・シスネロスについて書きました。「ラティーノ・ラティーナ編です」。よかったら、ぜひ。

 シスネロスはつい最近、Have You Seen Marie? という新刊も出たばかり。

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2012.11.30付記:ここで読めるようになりました。

2014.1.21追記:毎日新聞デジタル版は古い記事をどんどん消すことにしたみたいです/残念、涙。シスネロスについての記事をここで読めるようにしました。よかったら!

2012/10/27

クッツェーがスタンフォード大学で

10月22日にスタンフォード大学でJ・M・クッツェーを迎えて開かれた会のようすが、The Stanford Daily のサイトで読めるようになりました。

 来年3月に出版される The Childhood of Jesus からリーディングをしたあと、スタンフォード大の比較文学の教授たち、アメリカ文学の教授たちとディスカッションをしたようです。質問には短く、ストイックに答えていた、とあります。

彼の作品は自伝的だといわれるが、クッツェー自身は登場人物と作家のあいだには一定の距離があることを強く主張した、というのはむべなるかな。フィクションはひとたび作家の手を離れると、それ自身の生を生きはじめるのだから、場合によっては、そのフィクションについて質問をする相手としてその作家はふさわしくないこともある、と。これは彼がいつもいっていることですね。

 「沈黙の扱い方を熟知している」作家クッツェーの「ことば」に対する倫理性と厳しさは、他のフィクションの書き手たちの追随を許さないところがありますが、それを身をもってしめし続けているのが、彼の行動を追いかけているとよく分かります。

 9月初めにドイツ、フランス、イギリスといったヨーロッパ諸国から始まった今回の長旅は、これでそろそろ終わりでしょうか。お疲れさま。
 

2012/10/21

アディーチェの新作「Americanah/アメリカーナ」

来年のことをいまからいうと・・・ですが、2013年5月にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの次の小説が出る、と facebook で彼女自身のアカウントから発表がありました。

 現在、Amazon でヒットするのは左にあげた表紙の、Fourth Estateから出る予定の一冊だけで、まだ発売日が4月のままになっています。いずれUS版も出るのでしょう。ページ数も、推測するに、これは決定ではないような・・・。ま、いずれにしても来年出ることは間違いないはずです。
 どんな物語かって? それはいまはまだ内緒、なんていっても、すでにこのサイトには載っていますね。
明日は遠すぎて』に入った「シーリング」の登場人物、イフェメルとオビンゼがどうやらメインキャラクターになるみたいです。この短編は、2010年に「群像」に Granta との共同企画でいち早く、日本語訳として掲載された作品でした。

 来年は映画「半分のぼった黄色い太陽」も公開されるし、アディーチェをめぐって、またにぎやかな話題がかけめぐることになりそう!!
 

2012/10/17

クッツェーとオースターが「バートルビー」について語る

2012年10月、オールバニで開かれたクッツェーとオースターのディスカッションで取りあげられたのは、なんと、かのメルヴィルの「バーとルビー」ではなくて「バートルビー」だった。

 詳しくはこちらへ
 ついでに映像も貼り付けちゃおう。



この動画はおそらくディスカッションの最後のほうで、おもにバートルビーがじっと眺めていた壁の話を、「モビーディック」の白い顔と関連させて語るクッツェーのことばが記録されています。

「バートルビー」は、こちらで柴田元幸さんの日本語訳が読めます。ラッキー! また、原文の「BARTLEBY, THE SCRIVENER. A STORY OF WALL-STREET.」はここで読めます。

「マイケル・K」もまたまちがいなく、20世紀末にアフリカの南端で生まれた、「バートルビーの仲間」だよなあ〜

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付記:2012.10.18    昨夜、クッツェーとオースターの映像を見つけてここに貼り付け、今朝、ふたたびPCを立ちあげて驚いた。Google がメルヴィル仕様になっているのだ。モビーディック仕様というべきか。なんと! なんと! の偶然。

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付記:2012.11.25   あらためて思うのはこの「バートルビー」の物語の原文についているサブタイトル「A Story of Wall-Street ウォール・ストリートの物語」の部分である。そうか。そうだったんだ! いまや世界中の株、いや金融の中心地、であるこのストリートでバートルビーは当時、働いていた/いなかった、という物語なんだ。


2012/10/15

スタジオイワトの「トロイメライ」──2012.10.14


昨日、10月14日は小雨ふるなか、水道橋のスタジオイワトへ「トロイメライ」を観にいった。すごくよかった。この出し物は何度目かだったけれど、今回ほど心にしみることはなかったな。ことばも、音楽も。

   都市 それは ゆるぎなき全体
   絶対的な広がりを持ち 把握を許さず 息づき 疲れ 蹴おとし
   そこでは 全てが 置き去りにされて 関わりあうことなしに
   ぶよぶよと 共存するのみ
   個ハ 辺境ニアリ
   タダ 辺境ニアリ
   楽しみは あまりに稚なくて ざわめきのみが たゆたい続ける
   こんな夜に 正しいなんてことが 何になるのさ

 これは、1980年代初めに劇作家、如月小春が書いた「トロイメライ」のせりふの一部だ。2008年にシアターイワトで演じられたときより、今回はことばがぐんとくっきり、こちらに入ってきた。

 びらの最初にあるように、2008年のときは即興だった音楽が、今回は細部まで作曲されていた。これも実によかった。おなじみの「トロイメライ」のメロディーが、美しいピアノタッチで流れるたびに、こころがじんとなった。

 それは、なぜか、まあ、深く考えなくてもわかるいくつかの理由、たとえば、空間がちいさめで、演じる人たちと観客の距離があまりなくて密接な空間だった、とか──でも、いや、それだけだろうか、と再考してみる時間が、いま充ちてくる。

2012/10/14

花咲く丘に涙して by ウィルマ・ゴイク

昨日、弘田三枝子の歌をYOUTUBEでくりかえし聴いたせいか、なんだか、ちょっと二日酔みたいな気分だ/笑。

  しかし、60年代にはすごくいい歌もたくさん入ってきた。なかでも、この曲はピカイチ。
    ボビー・ソロの「ほほにかかる涙」もよかったけれど、伊東ゆかりもわるくなかったけれど、65年のサンレモからきた、ウィルマ・ゴイクのこの歌「花咲く丘に涙して」がなんといっても白眉! 「砂に消えた涙」の翌年だったのか〜。




 演歌調のこぶしをきかせて泣きを入れる、捨てられた「女の歌」ばかりがもてはやされた時代、この歌は救いだった。
 いや、「泣き」を入れはじめたのは、69年〜70年ころだったかも。奥村チヨの「恋の奴隷」もこのころだ。かんべんしてくれ、と思いながら、これは流行るわ、と確信したのも思い出す。それってなんだったんだろう? 浅川マキが歌いたくなかった歌「カモメ」とか。過剰な演出とヒット。それを演じる女たち。


ついでに、もう一曲、これもよかった。「花のささやき/In Un Fiore」by Wilma Goich.
意味がわかならいまま、歌詞を音で全部おぼえて歌っていたなあ。10代って面白い時期だ。



In Un Fiore

Se non corri tu potrai vedere 
Le cose belle che stanno intorno a te. 
Non sai che in un fiore 
C'è un mondo pieno d'amore 
Non sai che nei miei occhi c'è 
Amore per te. 

Se non corri tu potrai trovare 
In mezzo ai sassi 
Un diamante tutto per te. 
Non sai che in un fiore 
C'è un mondo pieno d'amore 
Non sai che nei miei occhi c'è 
Amore per te. 
Non sai che in un fiore 
C'è un mondo pieno d'amore 
Non sai che nei miei occhi c'è 
Amore per te. 

Se ti fermi tu potrai capire 
Che hai corso tanto 
Ma sei rimasto sempre qui. 
Non sai che in un fiore 
C'è un mondo pieno d'amore 
Non sai che nei miei occhi c'è 
Amore per te. 
Non sai che in un fiore 
C'è un mondo pieno d'amore 
Non sai che nei miei occhi c'è 
Amore per te. 
Non sai che in un fiore 
C'è un mondo pieno d'amore 
Non sai che nei miei occhi c'è 

Amore per te

(作詞:RAPETTI MOGOL GIULIO/MOGOL  作曲:DONIDA LABATI CARLO )

2012/10/13

砂に消えた涙 by 弘田三枝子

今日、訳していた文章のなかに corazón de melón ということばが出てきたので、あれ、どこかで聞いたことがあるなあ、と思って調べてみると、むかしむかし流行った曲の名前じゃないか、そう、日本では森山加代子がヒットさせた曲だ。「コラソン・デ・メロン・デ・メロン・メロン、メロン、メロン・メロン」で始まる、あの曲だ。
 YOUTUBE でいろいろ見ていると、つぎつぎに懐かしい曲が出てきて、芋づる式。ついに、この曲に行き当たった。

「砂に消えた涙」

 ミーナの曲だというのは知っていたけれど、なんといっても最初に聞いたのは弘田三枝子の歌でだったし、60年代の初めに出てきたシンガーで、弘田三枝子を超えるリズム感をもっていた人をわたしは知らない。

(付記:2013.11.8──リンクしておいたYOUTUBEがなくなったので、こちらで

 文句なく、これは懐かしい。いま聴いても古くない。その後、東京で大晦日に新宿厚生年金会館で開かれた恒例のジャズフェスティヴァルに、「人形の家」でレコード大賞を獲ったばかりの弘田三枝子がやってきて歌ったのを、いちばん前の列に座って、間近に見て、聴いたことがあったけれど、さすが、と思ったな。

 当時、いっぱしのジャズ通たちは、こんなのは歌謡曲にすぎない、と馬鹿にしていたけれど、わたしはこの人の歌の力はすごいと当時も思ったし、すごかったといまも思う。

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付記:それにしても、歌詞はしょうもないね/笑。とりわけ当時の売れっ子作詞家の手になる「人形の家」の歌詞のひどさは耳を覆う。60年代、60年代って懐かしがってるけれど、リブやフェミが生まれた土壌を考えるための参考テクストにはなりますかね。

2012/10/11

La vie sans fards──マリーズ・コンデの新著

届いたばかりのマリーズ・コンデの新著「La vie sans fards」を読みはじめたら、止まらない!
 だって、この本は2002年に(おお、10年前だ!)わたしが訳出した『心は泣いたり笑ったり』(青土社)の続編なのだから。

心は泣いたり笑ったり』は、1937年にカリブ海の島グアドループで生まれたマリーズが、少女時代とパリに留学した青春時代の最初のころを、匂いたつような生き生きとした文体で書いた自伝だった。でも、1950年代のパリで、ハイチの青年と出会ってサン・ミシェル大通りをいっしょに歩いていくところで物語は終わってしまう。

 さあ、そのあとはどうなるの? と気になってしかたがなかった。だって、そのあと彼女は別の人と結婚してアフリカへ渡り、苦労して子どもを何人も産んで育てて、ああ、やっぱりまたパリへ戻ろう、ということになって‥‥と波瀾万丈の部分は前著には少しも書かれていなくて、このつづきはまたね、という感じなのだもの。

 この La vie sans fards(虚飾のない生)が、そのつづきなのだ。タイトルからみても、まさに「すっぴん人生」、ぶっちゃけた話はこうだったの、身もふたもなく言っちゃうとこうなの、という感じで、自分の生きてきた道に情け容赦ない光をあてて、当時の心理を分析し、書き出している。
 
 帯に使われているマリーズと子どもたちの写真をみても分かるけれど、彼女は4人の子どもの母親だ。それも1人目はすごく若いときに産んでいる。4人の子どもをアフリカで育てながら、仕事をして、決意してパリへ戻って、博士号を取って、作品を書いて、それから、それから‥‥
 もう、止まらないよ〜〜

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2012年のノーベル文学賞は中国の作家、莫言/モーイェン氏が受賞しました! Congratulations! 来年はそろそろアフリカ系の女性作家が獲ってもよさそうなんだが。

2012/10/02

水牛に馬の話を書きました

八巻美恵さん編集の「水牛のように」に馬の話を書きました。「道産子」と呼ばれる/呼ばれた馬のことです。隣の家にいた、茶色の、ずんぐりとした、脚の短い、農耕馬。冬は馬橇、夏は馬車、田圃も畑もこの馬が耕しました。

 今月は詩ではなくて散文。2012年9月17日付け北海道新聞朝刊に掲載されたコラム「記憶のなかのピンネシリ」の続きです。

2012/09/29

報告「ゾーイ・ウィカムとトランスローカル」

9月13、14日にヨーク大学で開かれた「ゾーイ・ウィカムとトランスローカル」のリポートがここで読めます

そうそうたる南アフリカ文学者、研究者たちが集い、発表し、朗読し、という会。
参加者たちの写真を何枚か見ることのできるサイトもありました。こちらです

 三回つづいたウィカムをめぐるシンポジウムもこれが最終回。いずれペーパーになって読むことができる日がくるでしょう。
 
 わたしは日本語訳『デイヴィッドの物語』の再校ゲラと格闘中。いやはや、この作品はすごい! としか言いようがない。通常の3~4冊分のエネルギーを費やしたような気がする。それだけの価値のある作品だと、訳し終わって、全体を通読しながらあらためて思う。ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」が作品内容と不可分に結びついていて、たがいに引き合い、補い合って読み応え抜群です。

 デレク・アトリッジが言っていたように、チャレンジングな野心作です。船を水に浮かべる「進水式」を待つような気分。11月発売です。どきどき。

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付記:都甲幸治さんの『21世紀の世界文学 30冊を読む』のなかの、日本語で閉じた世界がすべてとは思わずに、地球の裏側におなじ悩みを持ち、何かをはじめている人がいることを知ってほしい、というところを読んで、そう! ウィカムを訳そうと決めた動機って、まさにそれ! と膝をたたいたんだった!

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さらに付記:管啓次郎さんに「トランスローカルってどう訳せるだろう?」とぶつけてみたら、「小さな土地と土地の呼応のことですから、グリッサンの<世界の響き>écho-monde とおなじことでしょうね」という実に明快なことばが返ってきた。そうか、グリッサンとも響き合ってる世界なんだな!

『リージェンツ・パークのミナレット』

スーダン出身で、大学を卒業後イギリスへわたり、現在アラブ首長国連邦に住む作家、レイラ・アブルエラー/Leila Aboulela の自伝的小説『ミナレット』がアラビア語に翻訳された。タイトルは『リージェンツ・パークのミナレット』、アラビア語になるとこのタイトルのほうがいい、気に入っている、と作家自身が自分のフェイフブックで述べている。

 以前「博物館」という短編を日本語に訳した者として、この作家はもっと日本にも紹介されていいと思いながら、南アフリカやナイジェリアの作家たちの作品で手いっぱいで、なかなか手ががまわらない。

 アルジェリア出身の作家、たとえばヤスミナ・カドラはフランス語から翻訳された──もちろんフランス語で書いている作家なのだから当然だけれど・・・。マフフーズのようなビッグなエジプトの作家はアラビア語から直接翻訳された。でも、エジプト出身のサーダーウィーは英語からだったし、モロッコのメルニーシーも英語からだった。

 このアブルエラーはハルツームで大学に通い、卒業後に渡英して統計学を学び、作品は英語で書いている作家である。上記の短編「博物館」で2000年に第一回ケイン賞を受賞、長編が3冊、短編集が1冊ある。現在、英語圏作家のなかでもアラブ社会の内側を描き、積極的に発言している作家として、日本でももっと注目されていいように思うのだけれど・・・。

 ちなみに作家の名前のカタカナ表記「アブルエラー」は、アラビア語の専門家に原語をあたってもらって確認したものだが、さらに原音に近い表記にすると「アブルエッラー」となるそうだ。

 

2012/09/20

失われたエデンの園、ふたたび

  エデンのどこかで、この時代のあとになお、
  まだ立っているだろうか、廃墟の都市のように、
  打ち捨てられ、不気味な釘で封印された、
  幸運に見放された園が?

  そこでは、うだる暑さの昼のあとに
  うだる暑さの夕暮れと、うだる暑さの夜がきて、
  黄ばんだ紫色の木々の枝から
  朽ちかけた果実が垂れているだろうか?

  その地下世界には、いまもなお、
  岩々のあいまに広がるレースのように
  縞瑪瑙や黄金の
  未発掘の鉱脈が伸びているだろうか?

  青々としげる葉群れのなかを
  遠く水音をこだまさせて
  この世に生きる者は飲まない、川面なめらかな、
  四本の小川がまだ流れているだろうか?

  エデンのどこかで、この時代のあとになお、
  まだ立っているだろうか、廃墟のなかの都市のように、
  見捨てられて、ゆっくりと朽ちる運命を背負った、
  誤りであると知れた園が?

                   イナ・ルソー

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 この詩のオリジナルはアフリカーンス語。1954年に発表されたイナ・ルソー(1923〜2005)の第一詩集『見捨てられた園/Die verlate tuin』におさめられています。今回は、J.M.クッツェーの英訳からの重訳です。

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2008年6月にこのブログで試訳した詩です。いまふたたびアップします。半世紀も前に南アフリカで書かれた詩。世界はまだ希望に満ちていたかに思えた時代に、南アフリカで進んでいた事態はいま世界中に確実に広がっている。この陰画のような風景が、脈略は少し違うけれど、この暑さにぴったりに思える。クッツェーの詳しい訳者ノートはこちらへ


(2012.9.21 付記)
上は1965年ころのカンパニー・ガーデンの写真(テーブルマウンテンに、雲のテーブルクロスがかかっている)。

下は2011年、ケープタウン旅行で筆者が撮影したカンパニー・ガーデン。

2012/09/15

Ascenseur Pour L'Echafaud ── 死刑台のエレベーター

ついにCDを買った。いまごろ? そう、いまごろ。DVDをぜひ、といわれたけれど、あっという間に到着したCDをかけながら、やっぱりこの音楽はわたしにはジャンヌ・モローの映像なしのほうがいい、と確認する。
 マイルスのトランペットを聴いていると、浮かんでくるのは映画のシーンではなく、60年代後半に足しげく通ったあちこちのジャズ喫茶の店内なのだから。カウンターでサイホンがぽこぽことたてる泡まで見える。黒光りしたテーブルのうえにどさりと置いた本の表紙まで浮かんでくる。そんな濃密な感覚に襲われる音楽なのだ。

 自分では買わなかったけれど、マイルス・デイヴィスはあのころ、おそらくコルトレーンとならんでジャズファンが最も話題にし、最も多くの人が耳にしたミュージシャンだったはずだ。あまりにもメジャーで、あまりにもマッチョな音楽だったため(「ビッチェズブリュー」のジャケットを思い出してほしい!)、わたしは反射的に、徹底的に敬遠した、そうだったのだろうか。
 とはいえ、ジャズを聴きにいく店のなかで否応なく耳に入ってくるのがマイルス・デイヴィスだった。そういえば、ニューヨークで開かれたブラックパンサーの集会を密かに録音したというテープを聴かされたときも、マイルスがペットを吹いていたっけ。テープ起こししろといわれたけれど、とても無理だった!(60年代のハーレムの写真を撮った吉田ルイ子さんなら理解できただろうな、とふと思う。)

 この音楽は50年代後半のものだけれど、こうして聴いてみると、なかなかいい。いや、正直いって、すごくいい。記憶との結びつきも、ここまでくると悪くないか、ということを発見する。残暑の厳しいこの夏の終わりは、このマイルス・デイヴィスでしのごうかな。

 テイクは1957年、わたしが7歳の年である。初めて自転車を買ってもらって、新開地特有の、碁盤の目のように切られた田舎道を走りまわっていたころだ。これで狭い場所に閉じ込められずに、ひとりでどこへでも行ける、と思ったのもあのころだったろうか。
 しかし、十年ほど経って、いざ東京に出てみると、それほど遠くへは行けないのだな、と気づいたのが、マイルスの音楽を街のあちこちで耳にしていたころだったのかもしれない。

2012/09/13

マイルス・デイヴィスとジャンヌ・モロー

わたしが8歳のときのフランス映画で流れたメロディー、だそうだ。



8歳のとき、つまり小学3年生のとき、ようやく村から町になった北海道の田舎で、こんな音楽がこの世にあることさえ想像できなかったはず。
 10年後、東京に出てきてから通ったジャズ喫茶で、たしかにときどき耳にした音楽である。である。であった。そうだったかな?
 
 あのころジャンヌ・モローといえば「Jules et Jim」(日本では「突然炎のごとく」という、どこから考え出したか! と驚くタイトルだったナ)と「マドモワゼル」だったからなあ。
 いまさらながら、「死刑台のエレベーター」という固有名詞は、わたしにとってはどこまでも音楽であり、映画ではなかったことを認識した。妙な気分だ。
 それにしても、美しい! ジャンヌ・モロー。

2012/09/10

J・M・クッツェーの伝記 ── A Life in Writing


 9月10日になった。そろそろJ・C・カンネメイヤーが書いた J・M・クッツェーの伝記が発売になるころだが、まだ音沙汰はない。

 ネット情報では、表紙も出てくるし、発売日も明記されているけれど、変更になる可能性もあるだろうな。なにしろ、作者自身は大部な原稿を書きあげて出版社に手渡した昨年の暮れに急逝したというのだから、編集作業の難しさは容易に想像がつく。

カンネメイヤーのファスートネームはこれまたジョン、クッツェーと同名で、生まれは1939年で一年ちがい、というめぐり合わせだ。でも、カンネメイヤーの第一言語はアフリカーンス語で、この伝記もアフリカーンス語で書かれている。9月に出ることになっているのはその英訳版である。翻訳は南アフリカの作家 Michiel Heyns。

 アフリカーンス語バージョンも当然出ることだろう。オランダ語バージョンというのも Amazon を探すとすでにヒットする。オーストラリアは10月にペンギンから出るようで、そのサイトにはこうある。


JM Coetzee: a life in writing is a major work that corrects many of the misconceptions about Coetzee, and that illuminates the genesis and implications of his novels. This magisterial biography will be an indispensable source for everybody concerned with Coetzee's life and work.


ヨーク大学のウィカムをめぐるシンポジウムも数日中にはじまる。10月にはニューヨーク州オールバニでポール・オースターとの対話も予定されている。クッツェーさん、相変わらず忙しそう。

2012/09/06

ジュノ・ディアス短編集──This is how you lose her

さあ、本がとどいた。表紙がすっごくすてき。Faber & Faber のだけれど。
This is how you lose her ── さあ、どう訳すのかな。楽しみだな。

 エピグラフがサンドラ・シスネロスの詩の一部からとられている。One Last Poem for Richard/リチャードのための最後の詩。シスネロスが若いころ出した詩集に入っている。

Okay, we didn't work, and all
memories to tell you the truth aren't good.
But sometimes there were good times.
Love was good.  I loved your crooked sleep
beside me and never dreamed afraid. 

 今年は思わぬ「贈り物」で、たっぷりと本が読める。寝っころがって読書三昧なんて、ずいぶん久しぶり。夏休みがまだ本物の夏休みだったころ以来だな。つまり、母親業に突入する前のことか・・・。

 まだまだ暑さはつづくから、その分、まだまだ夏休みもつづくといいな。ほとんどどこへも行けない者の特権! 

2012/09/01

水牛に詩を ── 書きました

9月1日、「水牛のように

詩を書きました。殻の詩です。

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付記:2012.9.2──それにしても、ウェブマガジン「水牛のように」に毎月すてきな絵を描いている、璃葉さん。今月の絵はまたすばらしい色づかいです。勝手ながら、このブログに転載させていただこう。もちろん「水牛」には璃葉さんの詩といっしょに載っているので、そちらもぜひ!
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2012/08/31

2012年の夏 ── 今日は朝からやってるみたい


Anti-nuclear protests signal new activism in Japan



Anti-nuclear protests signal new activism in Japan    In this July 16, photo, anti-nuclear energy protesters march on a street in Tokyo.AP

TOKYO —
This is Japan’s summer of discontent. Tens of thousands of protesters—the largest demonstrations the country has seen in decades—descend on Tokyo every Friday evening to shout anti-nuclear slogans at the prime minister’s office. Many have never protested publicly before.

“I used to complain about this to my family but I realized that doesn’t do any good,” said Takeshi Tamura, a 67-year-old retired office worker. “So I came here to say this to his office. I don’t know if we can make a difference but I had to do something, and at least it’s a start.”

The government’s much-criticized handling of the Fukushima nuclear crisis has spawned a new breed of protesters in Japan. Drawn from the ranks of ordinary citizens rather than activists, they are a manifestation of a broader dissatisfaction with government and could create pressure for change in a political system that has long resisted it.

What started as relatively small protests in April has swollen rapidly since the government decided to restart two of Japan’s nuclear reactors in June, despite lingering safety fears after the meltdowns at the Fukushima Daiichi plant triggered by the March 2011 earthquake and tsunami.

As many as 20,000 people have gathered at the Friday rallies by unofficial police estimates, and organizers say the turnout has topped 100,000. Officials at the prime minister’s office say their crowd estimate is “several tens of thousands.” Either way, the two-hour demonstrations are the largest and most persistent since the 1960s, when violent student-led protests against a security alliance with the United States rocked Japan.

The protesters include office workers, families with children, young couples and retirees.

“No to restart!” they chant in unison without a break.  “No nukes!”

Despite the simple message, the anger runs much deeper, analysts say.

“It’s not only about nuclear,” says writer and social critic Karin Amamiya. “It mirrors core problems in Japanese society, and the way politics has ignored public opinion.”

Distrust of politics runs deep in Japan, and many think politicians are corrupt and only care about big business. Some voters were angered when the government rammed through a sales tax hike in July that had divided public opinion and the ruling party. The government has also done little to reduce the U.S. military presence on the southern island of Okinawa despite decades of protests there, under the security alliance that had initially triggered violent student protests.

In a country not known for mass protests, the nuclear crisis has galvanized people to an unusual extent. Unlike other issues, it cuts across ideological lines. For Japanese from all walks of life, it has shattered a sense of safety they felt about their food, the environment and the health of their children.

That helps explain why the long-standing frustration with government exploded in protests after the restart of two reactors in Ohi in Fukui Prefecture. They were the first of Japan’s 50 reactors to resume operation under a new regime of post-tsunami safety checks.

Prime Minister Yoshihiko Noda was criticized for making the restart decision behind closed doors and calling the weekly chanting and drum-beating outside his office “a loud noise.” An apparently chastised Noda met with rally leaders, who have proposed talks, allowing them inside his office compound for the first time Wednesday. Noda also met with leaders of Japan’s influential business lobbies afterwards.

“It’s not a loud noise that we are making. It’s desperate voices of the people,” said Misao Redwolf, an illustrator who heads the weekly protests, as she demanded Noda immediately stop the two recently resumed reactors and eventually abandon nuclear energy. “We’ll continue our protests as long as you keep ignoring our voices.”

Noda promised to listen to the people’s voices carefully before deciding Japan’s long-term energy policy, but refused to stop the two reactors.

Protest leaders said they don’t expect anything to happen just because they met Noda, but at least hold on to their hope for a change.

“All these years, lawmakers have only cared about vested interests, and that was good enough to run this country,” Kiyomi Tsujimoto, an activist-turned lawmaker, said at a recent meeting with protest organizers. “The government is still seen doing the same politics, and that’s what people are angry about. I think (the demonstrations) are testing our ability to respond to the changes.”

Masanori Oda, cultural anthropologist at Chuo University who heads a drum section of the protest, said many Japanese also contributed to prolong such a system “very convenient” to politicians by not getting angry or standing up against unfavorable policies.

“Now more Japanese are learning to raise their voice. Japanese politicians should develop a deeper sense of crisis about the situation,” Oda said.

Separately, an even larger rally, joined by rock star Ryuichi Sakamoto and Nobel laureate author Kenzaburo Oe, drew 75,000 by police estimates on July 16, a public holiday. Organizers put the crowd at Tokyo’s Yoyogi Park at nearly 200,000. Thousands also ringed Japan’s parliament after sunset on July 29 and held lit candles.

Smaller rallies have sprung up in dozens of other cities, with participants gathering outside town halls, utility companies and parks.

“Obviously, people’s political behavior is changing,” says Jiro Yamaguchi, a political science professor at Hokkaido University. “Even though a lot of people join demonstrations, that won’t bring a political change overnight. The movement may hit a plateau, and people may feel helpless along the way. But there could be a change.”

Already, there are signs of change. Many lawmakers have converted to supporting a nuclear-free future amid speculation that a struggling Noda will call an election in the coming months and that nuclear policy will be a key campaign issue.

A new party, established by veteran lawmaker Ichiro Ozawa and about 50 followers who broke away from Noda’s ruling party after opposing the sales tax hike, has promised to abolish atomic energy within 10 years. Some lawmakers have launched study groups on phasing out nuclear power. A group of prefectural, or state-level, legislators has formed an anti-nuclear green party.

The government was also forced to step up transparency about the method and results of town meetings to better reflect public views on energy policy to determine the level of Japan’s nuclear dependency by 2030. The options being considered are zero percent, 15% and 20-25%. That already delayed the energy report for several weeks, and officials set up a new panel Wednesday to discuss how to factor in public opinion in policies.

“If we carry on, we could get more people to join in the cause around the country,” said Mariko Saito, a 63-year-old homemaker from nearby Kamakura city, who joined the protest outside the prime minister’s office on a recent Friday. “I’ll definitely vote for an anti-nuclear candidate. Their nuclear stance would be the first thing I’ll look at.”

The rallies are peaceful compared to the 1960s, when activists wearing helmets and carrying clubs threw stones and burst into the parliament complex. One died and dozens were injured.

Today’s protesters hold flowers or handmade posters and even chat with police officers.

“It’s almost like a festival,” journalist and TV talk show host Soichiro Tahara wrote in his blog. “The people have finally found a common theme to come together.”
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2012/08/27

グリーンポイントで波しぶきをあびて走る

あまりの暑さ。もうやけになって、ケープタウンはグリーンポイントの遊歩道が、ざんぶりと波をかぶる写真を借りてこよう。
 プロムナードを走る人たちが波しぶきでずぶ濡れ。


 グリーンポイントは、『マイケル・K』で、主人公マイケルが手づくりの手押し車に母親をのせて散歩に連れ出し、歩いてみたシーポイントの遊歩道からすぐのところだ。あれは 7月。やっぱり冬。
 
 でもこの写真は2月。だから夏だ。走っている人たちは半そで姿。きゃーっ! とかいって、楽しそうだな。
 撮影は:Gordon Richardsonさん。

2012/08/25

激しい風と波にあらわれるケープタウンの港

早くお届けしたい。ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』。熱暑の東京で、ただいまゲラ読みの真っ最中。連日、30度をこす暑さのなかで、机に向かう。もちろんクーラーなし。

 昨年の日記をみると、8月上旬が暑かった。でも20日すぎは、すとんと気温がさがって、あまり暑さ負けせずに、『デイヴィッド』の翻訳を最終行までたどりつくことができた。あれからもう一年も・・・とわれながら驚く。その間、11月にはケープタウンまで行って、あちこちまわって、ケープマレー料理なんかも食べて、まあ、それがいまこうして読んでいるゲラに中身をあたえているとも言えるわけだけれど。


そのケープタウンはいま真冬だ。涼しげな、というか、激しい風と波にあらわれる港の写真をここにのせて、涼をとることにしよう。

(写真は、Abbey Manor というゲストハウスのサイトから借用しました。)

2012/08/22

アフンルパル通信 13

しばらく前にいただいた「アフンルパル通信 13」は、太い樹木の根元部分が大写しになった写真が表紙に使われている。東松照明の写真が圧倒的な存在感だ。

 写真、詩、文章を寄せているのは次の方々。
 
 東松照明
 管啓次郎
 鵜飼哲
 吉増剛造
 宇波彰
 宇田川洋
 小川基
 山田航

 圧倒的な「ますらお」ぶり、である。小川基の散文詩のようなことばが心にしみた。がんばれ、アフンルパル! 発行は書肆吉成。1部/500円。連絡先はこちらです。

2012/08/20

ゾーイ・ウィカムとトランスローカル

9月13日と14日にイギリスのヨーク大学で、Zoë Wicomb and Translocal:Scotland and South Africa という面白そうな催しが開かれる。基調講演はドロシー・ドライヴァー(アデレード大学)。主催者に、デレク・アトリッジ、デイヴィッド・アトウェル(いずれもヨーク大学)、カイ・イーストン(SOAS)、メグ・サミュエルスン(ステレンボッシュ大学)の名がならんでいる。朗読会に出る面々が、エレケ・ブーマー、ブライアン・チクワヴァ、J. M. クッツェー、パトリック・フラナリーなどなど。

 あらまあ、5月にアトリッジ氏がいっていたのはこの会のことか、と思いながら、ウィカムの長編『デイヴィッドの物語』のゲラ読みで忙しいわたしは、行きたいなあ、と思うだけで、とてもヨークまで飛んで行く余裕はない。
 先日もウィカムさんとのメールのやりとりで、「なんで来ないの?」といわんばかりの(笑)メールをもらったけれど、まあ、やっぱりイングランドは、ちょっとサッポロへ行ってくるといった距離じゃないわねえ、と遠くからながめやる。

 この会は、いってみればゾーイ・ウィカムをめぐって、南アフリカ/南部アフリカのエクスパトリオット文学者たちが多く集って旧交を温める会のようにも見える。そのタイトルも「スコットランドとトランスローカル」だ。
 この「トランスローカル」というのが面白い。中心となる(なってきた)文化的な大都市、都会からちょっとはずれた、かなりはずれた都市で生きている人たち──ウィカムさんが1994年から住んでいるスコットランドのグラスゴーというのも英国のなかではローカルな場所だし、ドライヴァーさんが住んでいるオーストラリアのアデレードもまちがいなく地方都市だよねえ──のあいだで、はて、どんな話が展開されるのだろう? 

2012/08/17

「あなたの意見にわたしは反対する。でも・・・」

「あなたの意見にわたしは反対する。でも、あなたがその意見を言う自由をわたしは命をかけてまもる」というようなことを言ったのがヴォルテールだというのを最近どこかで読んだ。

「というようなこと」とか「どこかで」とか、あいまいなこと限りないけれど、別に原典にあたって忠実に訳さなくてもいいか、と思うところがいまのわたしにはある。

というのは、つまるところこれは、1976年のソウェト蜂起の年に結婚という人間関係のなかに入ってから今日にいたるまで、わたしが身にしみて学び、そして試行錯誤しながら実践してきた最も大きな仕事のひとつだったように思うからだ。長い道のりだった。

そしてこの「あなた」と「わたし」の性差がなくなる山の向こうまで、行けるか、どうか。La lutte continue!!

2012/08/13

「クレア」と「ミセス」に『明日は遠すぎて』が

少し前ですが、雑誌「クレア」に『明日は遠すぎて』の書評が載りました。評者は今村楯夫さん。「最初の1行から私はアディーチェの世界に引き込まれ、気がついてみたら9編すべての短編を読み負えていた」という書き出して、作品を紹介してくださいました。Muchas gracias!

最近では、あの「ミセス」に「今月の本」として取りあげられました。「著者を彷彿とさせる生命力あふれる、若々しい聡明な女性が、どの短編にも登場する。そしてそこに描かれたナイジェリアの風景の美しいこと!」と書いてくださったのは、作家の野中柊さんです。ふたたびの Muchas gracias! です。

こんな嬉しい評を聞くと、暑い夏もなんのそのです!

2012/08/06

ロス・アラモスでハンストをする人

この映像は一見の価値あり。ニューメキシコ州のロス・アラモスで(1994-5年にサンタフェに行ったとき、横を車で通り過ぎたことがあったっけ)、この7月24日からハンストをしている男性です。「敵なんかいない!」という第一声が心に響きます。



ついでに、こちらの電子書籍も気になります。立ち読みしました。買おうかな、どうしようかな。840円というのもお手頃だし。とにかく、世界が原爆を手にしたいきさつ=歴史が分かる。それに関わった人たちの証言集だもの。

ヒロシマ・ナガサキのまえにーオッペンハイマーと原子爆弾 

2012/08/05

豊満な姿のダフネ

湿った空気が、強い夏の光のなかで少しずつ軽くなって、微風が窓から吹き込む。そんな今日の朝は、気温は高くても気持ちがよかった。湿気が大の苦手なわたしには、好ましい東京の夏。

  まぶしい光のなかで、ローレルの木がずいぶん大きくなったことにあらためて気づいた。そこでぱちりと写真を撮った。7年前の春に丈1メートルほどの、根元が二股に分かれた若木を移植したとき、周囲の樹木の陰になってあまり陽があたらなかった。するとそのうちの1本がみるみる丈を伸ばして、てっぺんばかりがひょろりと長い姿になった。ところが、それから数年のあいだに、根元の樹皮を草刈りの刃でやられたもう1本のほうがつぎつぎに脇枝を伸ばして、いまではこんもり茂る樹影を形づくっている。

アポロンに揶揄されたエロスが放った矢のおかげで、アポロンはひたすらダフネを追いかけ、ダフネはひたすらそれから逃げようとする。父である川の神によって、すんでのところで月桂樹に姿を変えたダフネ。というのがギリシア神話の月桂樹にまつわる物語である。以来アポロンはいつも月桂樹を身にまとうことになったとか。

毎年4月にちいさな花をつけ、秋には黒い実もつけるこの月桂樹。いまではまちがいなく豊満なダフネの似姿といってよさそうだ。

2012/08/01

真夏に訳す『サマータイム』

クッツェーの『Scenes from Provincial Life』の第三部『サマータイム』を訳している。今日は「アドリアーナ」の章を訳了した。これが傑作。少しだけお話のお裾分けを。

この章でインタビューを受けるアドリアーナは、ブラジル生まれのプロのダンサー。軍政下で監獄に入れられた夫といっしょにアンゴラに逃げる。夫はそこの新聞社で働いていたが、またまた非常事態宣言のために新聞社は潰され、夫自身も徴兵されそうになり、2人の娘ともどもケープタウン行きの船に乗る。1973年のことだ。そこでようやく警備員の仕事を見つけた夫は、倉庫の夜勤中に斧をもった強盗に襲われて昏睡状態に。

しかたなく、まだ十代後半の上の娘は学校をやめてスーパーで働き、下の娘を修道会の女子校へ通わせるため母親もダンス・スタジオでラテン・ダンスを教える。

この母親アドリアーナ、小柄ながらすごい美人である。母親の血を受け継いだ下の娘が通う学校の、英語の補修授業を担当していたのが、いまはなき「偉大な作家」ジョン・クッツェーだ。もちろんまだ無名時代である。このラテン系美人、アドリアーナに一方的にのぼせあがった若きクッツェー、というのが話の内容なのだ。

いまはブラジルのサンパウロに住み、「ダンサーの呪い」で腰を傷めて杖をついている身だけれど、とにかく、まあ、そのアドリアーナのナラティヴの生きのいいこと、面白いこと、可笑しいこと。生まれながらにダンスの不得手なジョン・クッツェーのことを「木偶人形」と言ってのける小気味よさ。含みをもった彼女のことばの説得力のあること!

もちろん、この女性は作者クッツェーのつくった人物だというところがみそ。そうそう、あの『フォー』の主人公スーザン・バートンの元モデルだったということにもなっている。訳書が出るのはたぶん来年かな、お楽しみに!

2012/07/30

「国会包囲、議事堂前に解放区」──すごい!



facebook でみんなが共有している映像。ここにもアップしておこう!

残念ながら暑さ負けで行けなかったけれど、この映像を見るかぎり、とっても平和的に、まったく暴力なしで、あの国会前の車道に人びとが集まり、多くの笑顔が見られて・・・ああ、あの解放感にわたしも混じっていたかった。

デモが恐いという人に、行ってみたら? 楽しいよ〜、とこの映像を見れば言える。
そう、強い思いを共有し、なんとかしたい、なんとかしよう、というひとつの意思のもとに集うことで共有できるなにかがここにはある。すごくいいリズム!! 決めてはこれかな。

子どもを肩車しているお父さんの笑顔がまぶしいっ!!

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付記:実際に現場に行った人の感想はもちろんこれとは違う。どこもかしこも「規制、規制」で狭い歩道に押し込められていたという。一度でも実際に行ったことがあれば容易に想像はつく。車道をぜんぶ解放すればいいのに・・・。あえて、愚直に、そう言うよ。

2012/07/18

映画『半分のぼった黄色い太陽』撮影終了!

長いあいだ待たれていたアディーチェの長編『半分のぼった黄色い太陽』の映画撮影が、6月23日にナイジェリアのカラバル(ナイジェリア南部、カメルーンに近い都市)で終了。監督、脚本を担当したのはナイジェリア人のビイ・バンデレ。ロケもナイジェリアで行われたようです。これであとは編集され、上映されるのを待つばかりとなりました。


写真はたぶん、戦争中に避難先で行われたオランナとオデニボの結婚式でしょう。幸せそうな二人もこのあとすぐに空襲を受けて・・・。
ここでもう一度、配役を見ておきましょう。

オランナ──タンディ・ニュートン
オデニボ──チウェテル・エジオフォー
リチャード──ジョゼフ・モーレ
カイネネ──アニカ・ノニ・ローズ
ウグウ──ジョン・ボイエガ
レーマン教授──ポール・ハンプシャー
ミス・アデバヨ──ジュヌヴィエーヴ・ンナジ
オケオマ──バブー・セーサイ

封切りは来年の2013年。以前、お知らせしたものから少し変更があったようですが、とにかく、楽しみですねえ。