2011/12/30

トンネルを抜けるとカルーだった──ケープタウン日記、番外編(5)

「トンネルを抜けると、雪国じゃなくて、カルーですね」

 そんな冗談をいいながらガイドの F さんが運転する車で、制限時速130キロの国道一号線をおよそ100キロのスピードで走ったのは、内陸の町ヴスターをめざした日だ。「ユグノートンネル」というその長い、長いトンネルを通過すると、風景が一変した。

 まっすぐ走る道路の両側は、赤っぽい土のうえにしがみつくようにして生える低木、ブッシュがはてしなくつづく。灌木がならぶ平地に一列にならんでいるのは防風林だ。背の高い緑の木々はもともと南アフリカにはなかったもので、すべて、植民者がヨーロッパやほかの大陸からもってきて植え付けたものだという。ユーカリ、オーク、ポプラ、ジャカランダといった高木が農場の周辺に植林されている。貯水池も見える。

 『マイケル・K』ではステレンボッシュで母親をなくした主人公がプリンス・アルバートへ向かう道中、球技場のそばの空き家で一夜をあかし、翌日どしゃぶりの雨のなかで畑からじかに生の人参を食べる場面があった。球技場と道路を隔てるようにしてユーカリが一列植わっていたことを思い出した。
 
土埃の町だと『少年時代』でジョン少年が呼んだヴスター。駅前の広場につづく通りには写真のようにユーカリの並木道があったけれど、春先の強い陽射しに人気もなく、どこか打ち捨てられた感じの、荒涼とした風景が広がっていた。

 ケープタウンのウォーターフロント近くだったろうか、鉄道がはじめて敷かれたことをしめす場所があった。そばに防火林が植わっていた。乾燥したケープでは、列車の車輪とレールの軋轢による火花で頻繁に火事が起きた。それで植民者たちは防火林を植えて、火花が飛び散っても緑の葉にあたって、鎮火するようにしたのだという。

 下の写真はケープタウンへの帰路、トンネルではなく山越えをしたときの峠の休憩地、デュ・トイ渓谷からのながめ。ここでふたたび風景は一変して、海にむかって緑の平地や葡萄園がつづくようになった。
 
 1988年にクッツェー作品を初めて読んで以来の、念願のケープタウン旅行は、2011年をふりかえったとき、数少ない、実りの多い「良い」出来事だった──了。

付記:今日のつづきの来年は少しでも「良い」年になるように、祈るだけでなく、動きたい──大晦日に。

2011/12/27

遅れてやってくるもの

今年はなんという活躍ぶりだったろう! 
その人、管啓次郎さんらが編集する『ろうそくの炎がささやく言葉』を、読んでいる。

いまごろ?
と思われるのは重々承知で書く。
いつも遅れてやってくるのだ。それは。ことばがこちらに染み入ってくるようになるまで、ある変化を待っていた、のかも、しれない。本そのものは、永く、永く読み継がれていく、そういう書物だ。


忘れえない2011年の最後に、セザリアの歌を聴きながら。


2011/12/22

追悼、セザリア、もう一曲──Mar Azul

この曲を聴いていると、本当に、目の前に紺碧の海が広がるよう!

追悼、セザリア・エヴォラ──カエターノと

カエターノ・ヴェローゾといっしょに歌う、レグレッソ=帰還。セザリアが歌う、わたしのいちばん好きな曲。

2011/12/21

追悼、セザリア・エヴォラ

カーボベルデ出身のセザリア・エヴォラが12月17日に死んだ。1941年生まれ、70歳。



「私たちの音楽はとっても多くのものからできているの。ブルースやジャズみたいだっていう人もいれば、ブラジリアンやアフリカン音楽みたいだっていうひともいる。でも誰もよくは知らないの。それが古い音楽かどうかってことさえわからないのよ」──セザリア・エヴォラ

2011/12/19

終わらない2011年、忘れない2011年

 忘年会たけなわ、でしょうか。

 この時期、巷の喧噪から離れてはや数年ですが、今年は特別。
 2011年は、あらゆる意味で、終わらない年です。終わり得ない年です。これからも、ずっと、ずっと続く年です。
 憂さは晴らしましょう。お酒を飲んで、わいわいしゃべって、血流よくして元気になる。これは必要なことです。
 
 でも、忘れない。それが最良の報復。
 
 だって、なにも終わっていないんだもの。なにも収束なんかしていないんだもの。どんどん拡散して、どんどん一気に打つ手がなくなって、どんどん、なかったことにしたい人たちが大手をふって歩きそうなんだもの。そのあと、いったい誰が血を流して苦しむの?

 東電は解体!

 それしかありません。理由はこちらを読めばよくわかります→メルトダウンを防げなかった本当の理由

 すこしだけ引用します。

「分野ごとに閉鎖的な村をつくって情報を統制し、規制を固定化して上下関係のネットワークを築きあげる。その上下関係のネットワークが人々を窒息させる。イノベーションを求め、村を越境して分野を越えた水平関係のネットワークをつくろうとする者は、もう村に戻れない。それが日本の病だ。」

 村生まれのわたしとしては、もう村に戻れない、というところが本当にガツンときます。
 でも、戻らないで、砂嵐のなかに立っていると、やっぱりひとりで立っている人と出会うことがある。これが奇跡、これが喜び、これが宝。連帯はそこからはじまる。ひとりで立たないと見つからないものってあるんだ。「絆」なんていって愛しすぎないこと、それが大切なときだってあるんだよ。

(写真は「喜望峰」の絶壁下)

2011/12/15

リンガ・フランカ──ケープタウン日記、番外編(4)

ケープ植民地への奴隷の輸入は17、18世紀はアジアからが多かった。インド南部、スリランカ、インドネシア、マレーからが多く、タイ、フィリピン、日本から売られてくる者もいた。とくに技術をもった職人/クラフトマンが好まれた。スレイブ・ロッジに展示されていた地図は、西アフリカからも人が入っていたことを示していた。

 さて、今回は言語の話をしよう。

 輸入奴隷がふえた1770年ころには植民地内で生まれる奴隷も多くなった。奴隷男性と先住コイ人の女性、奴隷女性と植民者やオランダ東インド会社雇用者(これらの組み合わせに注目!)のあいだに生まれた者たちである。彼らはどんな言語を使っていたか。

 第一言語/母語のちがう人たちが第二言語で意思疎通をする場合、それをリンガ・フランカという。1800年ころまで、インド洋のリンガ・フランカはポルトガル語だった。ケープ植民地で使われるリンガ・フランカも最初はポルトガル語。奴隷貿易をするポルトガル船に乗せられ、船上で、あるいは中継地マダガスカルで、奴隷はポルトガル語を仕込まれたのだろう。命令はポルトガル語が使われたということだ。
 だが19世紀初めになると、これがケープ・ダッチと呼ばれるオランダ語になり、それがアフリカーンス語になっていく。(スレイブ・ロッジの掲示内容をメモしてきたのだけれど、これで間違いないかな?)

 この過程を考えると、おぼろげながらアフリカーンス語の成り立ちがわかる。「キッチン・ランゲージ」、つまり読み書きできない人たちが台所や農場の労働現場で意思疎通のために使い、代々受け継がれていった言語、それがカラードが使うアフリカーンス語だ。だからこの言語は、最初はもっぱら話しことばとして簡素化された形で後世代へと伝わった。
 一方、オランダ系入植者たちが使うアフリカーンス語はそれとはかなり異なることが指摘されている。でも当然、身近にいる人間どうしが使う、基本的に同一の言語は混じり合い、影響し合い、白人のアフリカーンス語も簡素化されていったのだろう。たとえば動詞の変化がなくなるとか。

 ボーア戦争以後、イギリスに経済的にも政治的にも覇権を奪われてきたアフリカーナーたちが政権を獲得したのが1948年。この言語に権威をもたせたいと考えたこのアパルトヘイト政権が1974年に政令を出した。そしてバンツー教育(黒人の教育)はすべて、英語ではなく、アフリカーンス語で行うとした。その2年後に起きたのが、かの有名な「ソウェト蜂起」だ。
 ソウェトの高校生たちが「自発的に蜂起した」と伝えられたが、『デイヴィッドの物語』の主人公は、それはナイーヴな受け取り方で、非合法で地下活動を行っていた解放組織による外部からの周到な指令によって起きた、と明言する。う〜ん、あるいは、そうなのかも・・・。


 スレイブ・ロッジ内の展示では、もうひとつ、おもしろい発見があった。南アフリカには、セッテンバー、ジャヌアリー、など月を示す語を姓とする人が大勢いるが、これはもともと奴隷の買い手が、奴隷を買いつけた日付をそのまま名前としてつけたことからくる、と説明されていたのだ。それで思い出すのはトニ・モリスンの『ソロモンの歌』。(そうそう、『デイヴィッドの物語』にもモリスンの『ビラブド』からの引用があったっけ。)植民者は、モーゼ、シーザーといった、自分の子どもには絶対につけない名前をペットや奴隷につけた、とも書かれていた。ふ〜ん。そういうものか。そういうものだろな。名づけの暴力。


『デイヴィドの物語』に出てくるグリクワ民族の祖、アダム・コック一世は、18世紀に一族をひきつれてナマクワランドへトレックした人だが、もとは奴隷だった。自由をみずから買い取り、東インド会社からなんと「バスタード(私生児)」という「称号」をあたえられた。この経歴を見ると、複雑な思いになる。コックはグリクワとしての「カピタン/首長」の称号も植民地政府からもらっている。
 キリスト教、約束の地、トレック、など彼らにはオランダ系白人の宗教、思想、文化との共通項が多い。グリクワを率いて何度もトレックした大首長、アンドリュー・ルフレー(1867〜1941)は、金とダイヤモンドの利権を強奪して勢力をのばしていくイギリス植民地政府と対等の関係を築こうと奮闘しながら、裏切られ、投獄され、アパルトヘイトを打ち立てた国民党からもさんざんなあつかいを受ける。だが、最後は「分離発展」をみずからのぞみ、アフリカーナーの思想を支持するようになっていった。先住民、カラード、といっても、この辺がなかなか複雑である。

 1948年生まれのゾーイ・ウィカムが書いた『デイヴィッドの物語』は、このグリクワの歴史に、解放組織ANCに個人としてリクルートされた「カラードの男女」が絡む、まことにスリリングな、ポストモダン的小説仕立ての、壮大な歴史物語である。

 こうして見ると「カラード」とひとくくりにされてきた人たちは、じつに多様な文化的、言語的背景をもっていることがわかる。クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルも、『マイケル・K』の主人公も、きっとこの「カラード」なんですね。『恥辱』に出てくる女学生メラニーとかパートで娼婦をやる主婦のソラヤもそう。ソラヤはマレー系とわかる名前だし、映画もそれらしき女優が演じていた。

 ケープタウンって土地は、とっても複雑で、とっても面白い! 

(付記:そうそう、ジョン・クッツェーがなぜ、クツィアやクツィエではなく、クッツェーなのかということも、今回の旅でよくわかった。)

2011/12/13

スレイヴ・ロッジ──ケープタウン日記、番外編(3)

年の瀬に、奴隷制の話かよ〜、と思われる方は、もっと「楽しい」ところへいらしてください。今日の話題は、でも、日本人も奴隷だった、ということなんだけどね。

 さて、ケープタウン滞在中に、ひとりで街歩きしたとき行ったのが、宿から歩いて三分ほどのところにあった「スレイブ・ロッジ」。ここは必ず行こう、と出発前から決めていた。なぜならいま訳しているウィカムの『デイヴィッドの物語』の内容と切り離せない場所だからだ。
 この建物はかつて船で連れられてきた奴隷を入れておいた場所。売ったり買ったりした場所はもっと海沿いの、ケープタウン港の埠頭のそばにある広場だった。建物自体の歴史はこちらへ。

 さて、南アフリカの奴隷制については、あまり伝わってこない。なぜか。複雑なのだ、これが。あまり触れたくないと思っている人たちも多かったし、いまも多いのかもしれない。アパルトヘイト時代「カラード」という範疇に分類されていたのは、大ざっぱにいうと、白人、バンツー系黒人(ネイティヴ)以外の、じつにさまざまな人たちだった。
 まず先住民コイサン女性とヨーロッパ入植者男性の子どもたちの、そのまた子どもたち。ここにさらに加わるのが、当時のオランダが植民地としていたインドネシアやマレー半島、さらには南インドやスリランカから買いあげられ、連れられてきた人たちだ。彼らはマダガスカル経由で農園の労働力としてケープ植民地に大量に移入され、混血が進む(詳細は次回に)。

 ケープタウンの観光局が誇る地元料理、ボボティやフリカデルといったケープマレー料理は彼らが持ち込み、発達させた料理だ。内陸部とちがって牛肉料理やバーベキューばかりではない。ムスリムも多い。地区によっては毎朝、モスクから鐘の音が聞こえるという。ちなみにケープタウンの人口はこの元「カラード」が圧倒的に多い。彼らの第一言語はアフリカーンス語。(写真は、滞在中に美味しいボボティ/bobotie──カレー風味の挽肉等に卵をトッピングしライスを添えた料理──を食べた「カッスル」内のレストラン。)

 日本からもポルトガル人によって連れられてきた奴隷がいた。名前が明らかに日本人、という記録があるという。ポルトガルが海を制覇していた時代、つまり日本に「鉄砲」など持ってやってきたころのことだが、日本からも奴隷として人が売られていたということだ。「カラード」というカテゴリーにはインド人も最初ふくまれていたが、ガンジーなどの地位向上運動で特別に分離した。つまり、日本人は過去の南ア的分類からすればカラードなのだ、どう考えても。

 次に勢力をのばしたオランダが17世紀半ばにこの地に植民地としての足場を築き、五角形の砦、カッスル・オブ・グッド・ホープを建設した。ここの展示には、オランダ東インド会社の頭文字「VOC」が焼き付けられた、特注の伊万里焼きの青い大皿が何枚も飾ってあった。景徳鎮の焼き物もガラスケースにいれられていた。いま読んでいるタイモン・スクリーチの『阿蘭陀が通る』時代(この本がまためっちゃ面白い!)、船はケープタウン経由で長崎の出島にやってきていたのだ。

 商売をする相手として長いつきあいがあるから、アパルトヘイト時代、本当は「カラード」なんだが、商談するときにいちいち別扱いは面倒だから、特別待遇として「名誉白人」にしてやる、といわれたのが日本人=名誉白人のことの起こり。それに尻尾を振って飛びついた日本経済界の御仁たちは、なんという恥辱! 記憶に新しい、つい1994年まで続いた話である。

2011/12/05

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの新作短編

ケープタウン旅行で忙しくしているあいだに、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが「ガーディアン」に新作短編を発表していました。わっ!

 Miracle

 読んでみると、ラゴスを舞台にしたストーリーで、どうも次の長編小説の一部のようです。

 もうすぐ出る日本語のオリジナル版第二短編集『明日は遠すぎて』(遅くなってすみません、河出書房新社から来春、出版予定です!)にも、この短編とつながっていると思える短編がひとつ含まれています。

 ひょっとすると、つぎにアディーチェが発表する小説は連作短編かもしれません。う〜ん、楽しみですねえ。

2011/12/02

きみのいない岬の街で

「水牛のように 12月号」に詩を書きました。

 きみのいない岬の街で

 出てくるのは、初夏のケープタウン、内陸の町ヴスター。
 そして帰還した東京の今日は、本格的な冬到来の気配。寒い!

2011/12/01

TOUWSRIVIER──ケープタウン日記、番外編(2)

クッツェーの自伝的三部作の第一部となる『少年時代』に「ヴスター/WORCESTER」という地名が出てくる。もとはイギリスの「ウスター」からきた地名がアフリカーンス語なまりとして「ヴスター」という音で呼ばれていた。
 そこからさらに内陸に入ったところに「TOUWSRIVIER」という町がある。カルーの入口といっていいだろうか。しかしこの「TOUWSRIVIER」をなんと読むか、これが最後の最後までわからなかった。町の人に聞くのを失念して、リターンしてきてしまったのだ。
 あきらかにアフリカーンス語表記であることは後半の「RIVIER」からわかる。英語なら「RIVER」、そう「川」という語だ。前半は「タウス」「トウス」あるいは「タウヴス」・・・いやはや、ケープタウンにもどってから、何人かの人に尋ねてみたが、どうもはっきりしない。

 泊まっていた宿の受付の男性は自信たっぷりに「俺はこの名前、知ってるぞ。トイスリヴァーだ!」といった。書店に勤めている、どう見てもアフリカーナー由来の姓ながら、第一言語は英語だという若い女性は、はたと考え込む。さすが教師であり作家でもある彼女は「じゃあアフリカーンス語を母語とする人、呼んであげる」といって受話器を持ちあげた。呼ばれて店の奥からあらわれたのは、マレー系のムスリム女性(とわたしには思えた)。

 ヨーロッパ語どうしの翻訳なら、こんな苦労はせずにすむが、日本語は土地の名前等は、カタカナという表音文字であらわさなければいけないので、発音を調べる必要があるのだ、と説明する。彼女によると「Wはサイレント」だという。そして、わたしの耳には「タウスラフィール」と聞こえる音を小声で発したような、いや、聞き違えたかもしれない・・・。

 書店を出て、はたと気づく。カタカナ表記はあくまで便宜的なものにすぎない。おなじ南アフリカの、おなじケープタウンという街に住む人たちのあいだでさえ、これだけの違いが存在するのだ。アルファベット表記はひとつだとしても、それを具体的な音にする経路は人それぞれ。どんな母語によって育ったか、最初にどんな音として耳に入ったか、ふだんどんな言語で暮らしているか、によって異なる。その違いにこだわるか、こだわらないか、それもまた人それぞれ。

 たったひとつの地名が、多言語、多文化が重層的に現存する社会のなかではこれほどまでに異なり、揺らぎながら存在しているのだ。どれが正しいなどとはいえない、まさに「虹色の世界」。それをカタカナという日本語表記に変換することによって、あるひとつの音として固定するのはかなり一方的、断定的な行為であることに、あらためて気づいた。得難い体験だった。

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2012.11.6追記:この地名 Touwsrivier は『マイケル・K』にも出てきました。そこでは「タウス・リヴァー」としてあります。もうすぐ発売になるゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』でも、実際に現地では多くの人が「タウスリヴァー」と呼んでいる事実から、また、作品相互間の響き合いを考えて現地音主義を採用し、訳書内では「タウスリヴァー」と表記したことをお断りしておきます。