Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/09/11

disgrace はこの国の原発推進派にぴったりな言葉かも

 ふと思ったことだけれど、J. M. クッツェーの傑作小説「Disgrace」というタイトルは、いま、この国で起きている原発をめぐる責任者たちのためにこそあるのではないか。

 東電をはじめとする電力会社、経産省、原子力「安全」委員会、保安院、原発をこれまで推進してきたすべての学者、研究者、政治家、実業家、それを支えてきたマスコミ、広告、さらには放置してきた国民まで含めて。

 クッツェーの小説「Disgrace」は「恥辱」と訳されたけれど、原発をめぐるこの国や東電の対応に「恥ずかしい」という感覚はないだろう。あれば、もっと対応がちがってくるはずだ。これだけ生命を、生態系を傷つけ、生き物たちの傷みをないがしろにしながら、それでもさらに、巨大な利益を生み出すマッチョな装置を押し進め、毒性については隠蔽しようとあらゆる努力を惜しまない、そんな生き方、その態度。

 ここは、したがって、ことば本来の意味をそのまま使おう。

 disgrace=loss of reputation or respect as a result of a dishonourable action

 disgrace = 不名誉、不面目、 恥さらし、面汚し、恥辱。



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註/クッツェーの小説の主人公、デイヴィッド・ルーリーは恥ずべき事態にそれなりに向き合い、それなりに考え、なんとか希望をみつけようとする。隠蔽はない。そのプロセスを突き放したように描くところが読者の心をうつのだが・・・。

追記:よく考えると、クッツェーが書いているのはあくまで「個人」の disgrace であって、巨大な集団をそのまま人格としてあつかうのはこの場合無理があるかもしれない。でも、その集団を形成しているのは、やはりひとりひとりの「個人」なのだが。