Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/05/31

おすすめ2冊 ──「日本人のためのアフリカ入門」と「野生哲学」

3.11をはさむようにして出た2冊。(著者が「あとがき」を書いたのが2月、4月ということです!)

 白戸圭一著「日本人のためのアフリカ入門」(ちくま新書)
 管啓次郎著「野生哲学──アメリカ・インディアンに学ぶ」(講談社現代新書)

アフリカ入門書ならすでに多くの書籍が出版されているのに、あえて「入門書」となっているのはわけがあります。それは第1章 アフリカへの「まなざし」を読んでいると、だんだんわかってきます。
 そう、「日本人のためのアフリカ入門」は、毎日新聞の記者である白戸氏が属する日本のメディアの「アフリカへのまなざし」がいかにステレオタイプか、それを現場から指摘する本なのです。

 きわめて具体的な例として最初に出てくるのが、あるTVの人気番組についての検証です。その番組の「へんな部分」を知人から調べてほしいと頼まれた白戸氏は、当時の赴任地ヨハネスバーグから、その番組がロケされたエチオピアへ飛び、そこに登場した少年や叔父、孤児院のスタッフなどを取材します。その過程で、現実とはかけはなれた「やらせ」の事実が浮上します。なぜ「やらせ」が起きるか。視聴者がもとめるから? だとしたらそれはなぜか?

 読んでいると、この本はアフリカについて知る、というよりも、アフリカを報道する日本について知る本であることがわかります。メディアが流す偏った情報、誤った情報を鵜呑みにする視聴者、読者。いや、鵜呑みではなく、むしろ積極的にステレロタイプをこそ無意識に求めてしまう日本人の偏向がありありと浮かんできます。
 アフリカのみならず、一字ちがいの「アメリカ」との関係が、合わせ鏡のようになって見えてくるのも面白い。

 もう一冊は、そのアメリカ、いや「アメリカス」(北も南も中央も含むアメリカ大陸全体)にもともと住んでいた人たち=アメリカ・インディアンの「生きるための思想」を、具体的に、俯瞰的に展開します。
 「土地」とはなにか、動物とは何か、植物とは何か、太陽とは何か、もうめちゃめちゃ大きな問いのたてかたですね! それがちっとも大上段にかまえた感じがしなくて、すとんと腑に落ちる書き方がされている。文章もわくわくするような刺激に満ちている。「アメリカ合衆国」という国家がつくられていく過程でヨーロッパからきた入植者たちが、なにをしたか? いまも決定的証拠がないまま「テロリスト」と呼び、「ジェロニモ」と呼んでビンラーディンを殺害するあの国が、先住の人たちにいったい何をしたか、しているか?

 著者はハワイ大学、ニューメキシコ大学など、いってみれば「白いアメリカ」からやや離れた土地で学び、生活してきた人です。その蓄積が、こうして圧縮された本となって読者に届けられる。嬉しいことです。この一冊には、3.11以降の日本人が、いや世界人が、この地球上で行きていくための知恵と覚醒の契機が秘められている。

 特筆すべき点をひとつ。「部族(tribe の訳語)」についての議論です。この2冊を読むと「部族」という語をめぐって、歴史的な意味を含む包括的な視点がえられます。
 白戸氏の著書では、アフリカをめぐる報道では明確な「差別語」であるこの語が、いかにステレオタイプなアフリカ像を読者に印象づける役を担ってきたかが詳述されます。納得の議論です。(いまだにアフリカというと「民族」ですむところを「部族」と使う権威主義的な新聞の存在は嘆かわしいかぎりです。)
 ところが、管氏の著書ではこの語が、原発を含む「近代文明」に対するカウンターカルチャーを表象する新たな意味合いを付加されて使われるようになった、その経緯が述べられます。「部族」の使用を積極的に評価するスタンスです。したがって、「アメリカ・インディアンと文明批評」について語られる場合は、たんに「部族」を「民族」に置き換えればすむ問題ではないことが見えてきます。ことば狩りは逆に歴史を見えなくする、という格好の例かもしれません。

 薄い新書という形をとっていますが、読みやすく、まことに濃い、充実した内容の2冊です。併読をお薦めします。

2011/05/19

リッチモンドで「J・M・クッツェー祭り」

クッツェーの「マイケル・K」みたいに、地図のどこにもない場所へ行って、ひそかに、ひそかに土地を耕して、必要な量だけ水を汲みあげて、その土地からえられたものだけを食べて生きていけたらいいなあ〜〜。

 ベランダにあらためて据えたちっぽけなプランターに、紫蘇の苗を植えながら、風車のまわるグレイトカルーを夢想する毎日。

 こんな催しもあります。南アフリカのノーザンケープ州リッチモンドで、5月27日、28日に開かれる文学祭の開催者は石油採掘に反対する人たち。
 クッツェーの「Disgrace/恥辱」の名にあやかり、開催地リッチモンドを Disgraceland と呼んで文学祭を開く。世界の耳目を集めるためでしょう。クッツェーは参加しないけれど、彼の作品についてさまざまに、名だたる作家が発表する催し。1994年に新生南アフリカが誕生したときの新憲法を起草した人物、かのアルビー・サックスも馳せ参じたい、といっているとか。

 こんな形もありなんだ、と思わせるアイデアです。

the Karoo town of Richmond will transform into “Disgraceland” to celebrate the first ever JM Coetzee literary festival in South Africa

2011/05/11

書評:ヴィヴァ!『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(再録)

 3.11以降、心がざわつく。落ち着いて本が読めない。でも中断していた本へもどり、時をわすれて、力あることばたちを読んだ。

 漫画、TVゲーム、SF、とあまり馴染みのないオタク文化満載、膨大な脚注なのに、読ませる。この力はなんだ? 
 ディアスは1996年に出た短編集「Drown(邦題『ハイウェイとごみため』)」でニューヨークの貧民街に住む声なき人びと=ドミニカ移民に声をあたえた。この一作でMITの教職を手に入れたことからみても、なみの才能ではない。そして事実、教職で生計を立てながら絶対に書かねばならない本を書いた。それがこの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』である。

 主人公のオスカーはスポーツ大嫌いのふとっちょオタクだが、まことに気弱でまじめな愛すべき男の子。しかし彼を溺愛するのは母ベリと姉ロラだけで、彼がのぼせる女の子からは総スカンを食う。ま、それもそうか、だって開口一番、TVゲームやSFの細部について語りまくるのだから。

 母の出生の物語はトルヒーヨ独裁下のドミニカ共和国の歴史と絡む。それは幼くしてニューヨークに移民したディアスの経験(直接ではないにしろ、親の世代から生々しい体験として延々と語り聞かされたはず)を写してもいる。それが半端じゃなく過酷だ。その過酷さに対抗できる手法を生み出すためディアスは十年の歳月を費やした。確かにそれだけのことはある。読むほどに作品に込められた凄まじいまでの力がひしひしと伝わってくる。
 ペルーの大物作家リョサの『チボの饗宴』(権力者を視点にすえた興味深いがシンプルな物語)に対抗し「支配する側からではなく、支配される側から見た」物語を書くためディアスはこんな手の込んだ手法を編み出したのか。語り手もオスカー、ロラ、ベリと移り、最後にオスカーのルームメイトにしてロラの元彼だったユニオールが話をまとめることになるところが、『半分のぼった黄色い太陽』のウグウをちょっと思い出した。
 
 その結果、きらきらしい引用で迷路のような奥行きをもった、猥雑きわまりない独特のスペイン語てんこもりの、まことに斬新かつリアルなアメリカ青春文学が生まれた、というのは部外者のつける理屈で、オタク文化の迷路こそアメリカの、いや近未来世界の「重層的ないま」をとらえる網の目と作者は考えたのだろう。

 それにしても、オスカーくん、二次元キャラじゃなく、いつも三次元の生身の人間を好きになり、最後まであきらめずにアタックするところが泣かせます。
 そして最後に特筆すべき点をひとつ。あれだけ頑固な母に育てられ、強烈な性格の姉といっしょに暮らしながら、主人公オスカーにミソジニー(女性嫌悪症)がかけらもない。マチスモ(男尊女卑)の濃厚なラテンアメリカ世界から出てきたディアスにも感じられない。これは特筆にあたいする。女たちの内面をじつに生き生きと描ける秘密はそこにありそうだ。訳も丁寧ですばらしい。
  
ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』都甲幸治/久保尚美訳(新潮社刊 2400円)

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付記:2011年4月11日に書いたブログを今日アップしました。ここにも再録します。北海道新聞の書評(5月8日掲載)はこれを圧縮したバージョンです。

2011/05/05

J. M. クッツェーが 6月にヨーク大学で朗読?

6月24日に英国はヨーク大学で開かれるサミュエル・ベケットの国際学会で、特別ゲストとして招待されたJ.M.クッツェーがベケットについて語り、自作を朗読する。

 詳しくは、こちらへ

 ヨーク大学といえば、クッツェー論でおなじみのデイヴィッド・アトウェルやデレク・アトリッジのいる大学である。アトウェルは『ダブリング・ザ・ポイント』で突っ込んだ面白いインタビューをした人。
 2003年にクッツェーがノーベル文学賞を受賞したとき、スウェーデンの新聞「ダーゲンス・ニューヘーテル」に唯一インタビュー記事が載ったが、そのときのインタビューアーがアトウェルだった。その後も興味深いクッツェー論をいくつか発表している。
 一方、ジョイス研究家のアトリッジもまた、『J.M.クッツェーと読みの倫理学』という優れたクッツェー論の著者だ。

 これまでに世界中でおびただしいクッツェー論が書かれてきた。3年ほど前に『鉄の時代』の訳者あとがきを書くとき、参考にする文献や引用は、作家自身のもの以外は、できるかぎりこの2人の著作や論文に限定しようという方針をたてた。理由は、クッツェー自身が彼ら2人の著作は信頼に足ると考えているらしいこと、さらにこの2人がテキストをあくまで南アフリカという土地から切り離さずに読み込んでいることだ。(といっても、南アフリカに「限定」しているわけではないので、誤解なきよう!)

 過去の事例から、新聞記事は憶測が強く、たとえそこに事実的な誤りが含まれていても作家自身はみずから声をあげて訂正したりしないことがわかっていた。あくまで「問われれば答える」という姿勢を貫いている(たとえば、作家のミドルネームをめぐる著作表紙の誤記やニューヨークタイムズなどの誤報道)。
 
 今年71歳になったクッツェーは、アデレード大学でふたたび教職に復帰するという情報が聞こえてきたばかり。今回、ヨーク大学ではなにを朗読するのだろう? 1月にジャイプール文学祭で読んだ「The Old Woman and the Cats」だろうか。それともまったくの新作だろうか? いずれにしても、南アフリカ時代の友人たちとの再開をはたすわけだ。

 2006年と2007年に日本を訪れ、また訪ねたいと語っていた彼は、3月11日の東北大震災後に起きた福島原発の事故をめぐって、いまどんな「オピニオン」をもっているだろう? 気になるところだ。