Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2010/09/12

『半分のぼった黄色い太陽』──「あとがき」に書かなかったこと(1)

 今回もまた翻訳しながら、翻訳したあとも、いろいろ考えた。

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家の作品がなぜこれほど魅力的なのか、ということもそのひとつ。おそらくそれは、彼女がアフリカ世界を内側から描いていることじゃないかな──いや、「アフリカ」と一般化して語ることなどできないか。あの大陸は広いし、気候も、地理も、歴史も、文化も、言語も、宗教も、思想も、住んでいる人間もじつにさまざま。だからこの小説の場合は、おおまかに「ナイジェリア」という社会を内側から書いている、といったほうがいい。そこに住み暮らしてきた人たちの物語を内側から書いている、ということだ。それも、共感をもってすっと入り込める登場人物たちの波瀾万丈の物語として。

 考えたら奇妙なことだが、つい最近まで日本語でくらす私たちは「アフリカ」にかんする大部分の情報を、外部の人が描いたものからおもに得てきた。そのほうがわかりやすかったからだ。(この「わかりやすい」がちょっとしたくせ者なんだけれどね。)
 たとえば、ビアフラ戦争ならまっさきに頭に浮かぶのは、たぶん、イギリスの作家フレデリック・フォーサイスの本だ。でも、ルポルタージュ、紀行文といったものは、あくまで旅人の目線から書かれたもので、そこで生まれ、生き、抜き差しならない状態にいる人間、つまり「当事者」の声を聞き取ったものとはいえない。代弁しているなどとは、さらにいえない。

 もちろん外部から見るとき初めて見えるものだってある。当事者にしても、外部へ出て、距離をおいて、自分が出てきた場所や経験してきたことの意味を初めて理解する、ということはよくあることだ。それに、内部からの声が聞こえないとき、そこへ行って情報を得てくるルポはとても貴重。しかし、部外者の書いたもの「しか」聞こえないというのは残念だ。そして危ない。

 なぜ、危ないか? ちょっと想像してみてほしい。思い出してほしい。たとえば日本が、日本人が(といういいかたをおおまかに使うが)、外部社会でどう描かれてきたか。「日本人というのは◯◯」と乱暴な第一印象で一般化されたステレオタイプが一人歩きしたことはなかったか。そう、日本人といえば、「富士山」と「芸者」と「腹切り」だった時代はそんなに遠くはないのだ。そして、そのことに「当事者」である日本人側からなかなか「そんなの違う」と大きな声でいえない時代がつづいた。

 思い出してほしい、60年代のハリウッド映画に出てくる日本人イメージの、なんと貧相な、紋切り型だったことか。なぜ紋切り型を使うか? わかりやすいからだ。でも、この場合の「わかる」って、いったいなんなんだ?(つづく)

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2010年9月12日(今日)の毎日新聞朝刊に池澤夏樹氏の『半分のぼった黄色い太陽』の書評が掲載されました。発売からまだ半月、すばらしい早さ! こちらです。