Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2010/04/12

デイヴィッド・クッツェーが死んだ

2010年1月24日、南アフリカ出身のジャーナリスト、デイヴィッド・クッツェーが死んだ。享年66歳。死因は中皮腫、アスベストなどが原因で起きる肺の病気だ。煙草は吸わなかったという。

 J・M・クッツェーに弟がいることは知っていた。ジャーナリストであることも知っていたが、ファーストネームは寡聞にして知らなかった。三部からなる自伝作品の第一作目『少年時代』にも弟のことは何度か出てくる。『マイケル・K』が最初のブッカー賞を受賞したときの、サンデータイムズの記事が印象的だった。それは、記者に弟のことを訊ねられた作家が、どうやら話題をさらりと転じたと分かる記事だった。

 1943年生まれのデイヴィッド・クッツェーは、ケープタウン大学を出てからロンドンと南アを往還するような生活だったらしい。SouthScan という独立メディアを創設して、80年代以降、果敢にアパルトヘイトの実態を外部世界にむけて、妥協をゆるさず報道した。兄ジョンが解放運動そのものとは距離を置きながら、作家活動をフロントとしたのとは対照的に、具体的にANCなどの組織のメンバーとも親しく交流していたと伝えられる。さらに解放後のターボ・ムベキの政治について本を書きあげていたとか。

 いくつかの記事を次のサイトで読むことができる。たとえば:

 南アのサンデータイムズ
 オールアフリカ
 ガーディアン

 それにしても、ちょっと驚いたのは「デイヴィッド」という名前だ。そう、解放後の南アフリカで、検閲制度が撤廃された時代の南アフリカで、 J・M・クッツェーがのびのびとした筆遣いで書いた小説、さらに、作家クッツェーが南アフリカを出るきっかけを作ることになったあの傑作『恥辱』(原タイトル Disgrace は「恥さらし、面汚し」といった、外部から見た状態の意味合いが強い)の主人公の名前、それが「デイヴィッド」だったのだ。

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付記:2012年9月4日 クッツェーが南アを出てオーストラリアへ移った時期が、ちょうどDisgraceが南ア政権党から批判を受けた時代の数年後だったために、それがなんらかの影響をおよぼしたと誰もが考えがちだったが(かくいう筆者も)、批判そのものが彼の移住の直接の理由ではないし、「きっかけ」でもなかった。90年代から「住む場所を変えること」は考えていたらしい。その時期が偶然重なったのだろう。訂正したい。