Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2009/09/27

J・M・クッツェーの小説が発禁にならなかったわけ──南アフリカの検閲制度(2)

アパルトヘイト下の検閲制度に関するクッツェー発言で注意しなければならないのは、検閲官は当時の南アフリカ社会において、みずからを「文学という共和国の守護者」と考えていた作家や大学人だったことだ。つまり彼らは自分の役割を、無教養な国家から文学が生き残るスペースを保護すること、と見なしていた。この点は注目にあたいする。当時の南アの白人社会内部からみれば「勤勉な、ごく普通の人」(もちろん秘密裏に)だったのだろう。

 2008年5月オークランドの作家フェスでクッツェーは検閲制度について述べ、検閲対象となったった次の3作品から朗読した。

  In the Heart of the Country(1977)──日本語訳『石の女』
  Waiting for the Barbarians(1980)──〃『夷狄を待ちながら』
  Life and Times of Michael K(1983)──〃『マイケル・K』

 英国のイースト・アングリア大学でも、ほぼ同時期にクッツェーはおなじような報告をしている。その詳細はサイモン・ウィルスの記事として雑誌「Granta:2008/6/23」で読める。
 
 マクドナルドの『The Literature Police』によると、3冊はまず一般的な選別を受け、それから「文芸委員会」へ送られた。「Country」は異例なことに3人の検閲官、H・ファン・デル・メルヴェ・スコルツ(ケープタウン大学の同僚)、アンナ・ラウ(作家)、F. C. フェンシャムによって精読された。一方「Barbarians」はレジナルド・ライトンによって、「Michael K」はリタ・スコルツ(「Country」を検閲したスコルツの妻)によって精読されたが、このように1人が読んで報告書を出すのが検閲の実施方法としてはより一般的だったらしい。(p309)

 実際1977年に「Country」の南ア独自版がレイバン社から出るとき(この小説は同年にまずロンドンのセッカー社から出た)、作家もレイバンの編集者ピーター・ランドールも、本が発禁にならないよう細心の注意を払っている。そのようすが、両者のあいだの書簡からうかがえ、クッツェーは何カ所か書き直してぼかすことまで提案している。
『夷狄』が出たときも、『マイケル・K』が出たときも、検閲委員会は「じゅうぶんに」機能していた。ところが、1986年の『フォー』は対象外となり、アパルトヘイトの内実をはっきりと書いた『鉄の時代』も対象外。『鉄の時代』が出た1990年は、アパルトヘイトが崩れていくきざしが誰の目にもあきらかになった年だった。

 1988〜9年当時、反体制の新聞は検閲にひっかかった記事を黒塗りしたまま発行するといった抵抗手段をとっていたが、外部からみると、書物に対しても人に対しても、なにが発禁/活動禁止になり、なにがスルーするか、細かなところまでは判断できなかった。
 そのころ南ア国内にいて小説を書いていたクッツェーは、事態の推移をおしはかりながら『鉄の時代』の書き方を決めていったのだろう。その内実が、マクドナルドの著作によっていま、手に取るように明らかになった。

The Literature Police』は、クッツェー作品の一般読者にとっての必読書とまではいえないにしても、同時代を生きるこの作家の作品を訳したり研究したりする者には欠かせない内容を含んでいる。どのような場からあの作品群が生み出されたかを知るためにも、この作家を形成した社会/文化的背景を知るためにも、たいへん役立つからだ。

 1999年に行われたクッツェーへの独自インタビューをも含むこの本について、作家自身はこう述べている──「アパルトヘイト時代の南アフリカで文芸創作を形成かつ変形した暴力を、わたしたちが理解したいと思うなら、必読の書だ──J.M.クッツェー」

(了)

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2011年7月20日、付記:クッツェーが2010年5月にテキサス州オースティンで公演をした映像が見つかりました。ここで触れた検閲官の名前の読みを、その公演でクッツェー自身が語っている音に変更します。ex. ショルツ→スコルツ