Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2009/06/01

映画「Disgrace/恥辱」の評──オーストラリアの書評誌より

映画「Disgrace」の面白い評を見つけました。Brian McFarlane という人が「Australian Book Review」に書いた評です。

 少しだけ抜き書きしてみます。

Coetzee maintains a distance, an observational detachment from David Lurie, making the reader privy to the essential passages of his life in a spare prose almost lapidary in its precision and refusal of commentary and decorative effect.

  ──中略──

it is as if he(Jacobs)has also intended to preserve Coetzee’s curious tone of objectivity in the chronicling of these events; as though only by such an approach could he ensure our thinking about the issues put before us. There is perhaps a Brechtian denial of easy emotional involvement in favour of a tougher engagement with tough matters.

評者マクファーレンは、クッツェーの小説「Disgrace」をSteve Jacobs 監督が映画化した同名の作品と、フィリップ・ロスの小説「The Dying Animal」をIsabel Coixetが監督した映画「Elegy」とを比較しながら論じています。しかし、重点がおかれるのはもっぱら「Disgrace」。

 作家クッツェーは主人公デイヴィッド・ルーリーから距離を置き、あくまで客観的な剥離/分離を維持しながら、読者をエッセンシャルな話の流れに巻き込んで行く、それも「ほとんど宝石細工のように研磨された精確、かつ簡潔な文体で、説明や装飾効果をいっさい拒否して」──と。

 そして、映画化したジェイコブズ監督もまた、そういった「好奇心をそそる客観的トーン」を踏襲しながら作品内で起きる出来事を追っているが、そうすることでのみ、われわれに、確実に、作品内で扱われていることをありありと考えさせることができるといわんばかり──と論じます。ウーン!! この指摘は「Disgrace」というクッツェー作品を考えるうえでも、また、映画化という行為を考えるうえでも、なかなか重要なポイントを含んでいるように思えます。

 クッツェーは2作目の小説「In the Heart of the Country」をもとにした映画「Dust」にいたく不満足だと伝えられています。「Disgrace」の映画化にあたっては、大きな映画会社が企画した脚本にNOを出しつづけ、最終的にOKを出したのは、原作に非常に忠実なヴァージョンだったとか。若いころから映画好きのクッツェーは、いくら売るためだからといって、自分の作品がゆがめられて映画化されることには耐えられなかったのでしょう。

 ともかく、ジョン・マルコヴィッチ主演のこの映画、はやく観たいものです。

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<2009.6.28追加情報>
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