Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2009/05/11

『デイヴィッドの物語』──ゾーイ・ウィカム著

<南アフリカ解放闘争と先住民グリクワのナラティヴ・ヒストリー>

 ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語/David's Story』は、さまざまなテーマが色とりどりの糸で編み込まれた一枚の布のような物語である。スリラー、ゴシック、あるいはポストモダン小説。

 主人公のデイヴィッド・ディルクセはカラードのフリーダムファイター、時代は1980年代後半から1991年、アパルトヘイトからの解放が間近に迫る、南アフリカ社会の転換期だ。

 それまで自分のアイデンティティのことなど深く考えることのなかったデイヴィッドだが、あるとき思い立って、グリクワとしてのルーツ探しの旅に出る。グリクワとは、南部アフリカの先住民族「コイサン・ピープルズ」に属する一民族のこと。コイサンとは、ヨーロッパ人がつけた蔑称「ホッテントット」や「ブッシュマン」という呼び名によって日本にも伝えられていた人たちのことだ。
 解放闘争の裏面史的性格をもつこの作品は、だから、グリクワ民族の歴史物語ということにもなる。デイヴィッドの祖母や曾祖母たちの語りによって、20世紀初頭にナマクワランドからオレンジ川流域へ、さらにコックスタッドへ、それからふたたび東ケープ北部へとグリクワの首長たちに率いられてトレックする人たちの姿が、くっきりと浮かびあがる仕掛けになっているのだ。ここに「白人」対「黒人」という二項対立で見られがちな「アパルトヘイト」の裏側、歴史の細部を伝える物語が展開される。

 さらにこれは女たちの物語でもある。デイヴィッドの妻サリー(やはりフリーダムファイター)や、同志ダルシー(拷問を受けた身体をもつ女性)の語りが活写するのは、解放闘争にリクルートされたカラードの女たちの姿だ。物語が進むにつれて、外部からは見えなかった解放組織の内実、その知られざる姿が影絵のように浮かびあがる。旅の途中、デイヴィッドは自分が「抹殺者予定リスト」に載っていることを知る。ダルシーとデイヴィッドの関係も、なるほど、そうか──と、じつにスリリング。ここが、現在の南ア政権党=ANCの内部性格を理解するうえで役立つ。ある意味、この物語の最大のポイントかもしれない。
 ゾーイ・ウィカムの重層的なナラティヴのなかに、じわじわと浮上して像を結びだすのは、解放運動の活動家、スパイ、破壊工作員、地下活動者たちの相矛盾するいくつもの真実だ。それは、アパルトヘイトからは解放されたが、苦悩に満ちた過去の重みから、いまだ解き放たれていないこの国の人々の現在ともリアルに重なる。

 この小説は南アの解放からわずか6年後の2000年に出版された。ジンバブエなど、解放闘争の真実が文学作品として描かれるまでに10年待たなければならなかったことを考えると、それもまた驚きというべきか。          
 
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<讃辞>  
「何年ものあいだ、アパルトヘイト後の南アフリカ文学はどのようなものになるだろうかと、私たちはずっと待っていた。いま、ゾーイ・ウィカムがその逸品を届けてくれた。ウィットに富んだ語調、洗練された技法、多層的に織り込まれた言語、そして政治的にはだれの恩恵も受けていない『デイヴィッドの物語』は、途轍もない偉業であり、南アフリカの小説を創り直す大きな一歩でもある」
   ──J.M.クッツェー

「目撃することのパラドックス、民族解放の確かさと底辺層のハイブリッドなアイデンティティの不確かさ、性交の神秘、政治的フィクションの苦さに導かれて読む、繊細でパワフルな小説。ウィカムの本は、マリーズ・コンデやイヴェット・クリスチャンセとおなじ書棚に置かれるべきだ」
   ──ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク