Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2009/12/13

世界中のアフリカ2010──1月9日は新宿でアフリカを!!

追記:「毎日新聞 12/27」に刺激的な評がのりました。


2010年1月9日、新宿の職安通りにある Naked Loft で、『世界中のアフリカへ行こう─<旅する文化>のガイドブック』の出版を記念して、豪華ゲストを迎えたトークと音楽を楽しむ催しがあります。みなさん、来てくださいね。もちろん、わたしも行きます!

まずは主催者の明治大学のお三方、中村和恵、管啓次郎、旦敬介の朗読。音楽は、マリ共和国出身のギターとコラ奏者、ママドゥ・ドゥンビア!
トークは、なんと、ベナン共和国出身の、あのゾマホン!
そしてもう一人のトークは、コンゴ民主共和国出身の宣教師、われらがロジェ・ムンシ・ヴァンジラ!

詳細は:
 open 17:30/start 18:00
 前売¥1,000/当日¥1,200(飲食代別) ローソンチケットで前売中(Lコード:32961)
 Naked Loft 店頭にて電話予約受付けます。
 tel:03-3205-1556

上のちらしの映像をクリックすると、大きな画像で見られますよ!

2009/12/12

セバスチャン・サルガドのアフリカ

東京都写真美術館で開かれている「セバスチャン・サルガド アフリカ」を数日前に観てきた。(明日が最終日。)

文化村ザ・ミュージアムで1994年に開かれた「WORKERS」や、2002年の「EXODUS」にくらべると、展示されている写真の点数は少ない。でも今回の展示は「アフリカ」にしぼったもので、面白い並べ方がしてあった。

 1975年に独立したアンゴラやモザンビークの、独立前夜の解放軍の写真、独立後の写真も並んでいた。
 両国とも植民地から独立した直後に、反政府軍──アンゴラはUNITA、モザンビークはRENAMO──が活発に動き出し、生まれたばかりの両国は、教育や経済といった国の根幹をなすものに投入すべき資金を、軍事費に投入することになっていった。
 その反乱軍に資金援助して武器を売り、南部アフリカ全体の「不安定化工作」をはかったのが、南アフリカのアパルトヘイト政権だった。70年代後半から80年代のことだ。それを後押ししたのが当時の米国、レーガン政権だったことも、写真を見ながらあらためて思い出した。
 (ちなみに、現在アフリカ大陸でおきている紛争の原型はこのRENAMOがつくった、とマフムード・マンダニは語っていた。)

 日本では、右肩上がりの好景気がつづくことを疑うことなく、80年代末には「3ヶ月の給料で恋人にダイヤモンドの指輪を買おう」というデビアス社のコマーシャルが、名曲「アメイジング・グレイス」をバックに映画館やTVでうっとり流れた時期だ。

 今回の「アフリカ」では、モザンビークから避難していた難民が、故国に帰国する準備をしている写真もずいぶんあった。みんな嬉しそうにしている。1994年とある。南アフリカで、アパルトヘイト体制が完全になくなり、マンデラを大統領に新国家が生まれた年だ。

 さまざまな思いが脳裏を駆けていったけれど、家に帰って、初めて買ったサルガドの写真集「An Uncertain Grace/不確かな恩寵」を、書架から降ろして埃を払い、ページをめくった。奥付を見ると1991年3月25日、輸入元シグマユニオン、発売元オーク出版サービス、定価8,800円とある。買うにはちょっとした決意が必要だった。

 セバスチャン・サルガドというフォトグラファーと、わたしが初めて出会った本だ。「グレイス」とはなんだろう? とよく考えたのもこのころのことだった。
 

2009/11/26

10年目を迎えたケイン賞

英語文学におけるアフリカ文学の登竜門、ケイン賞が今年で10回目を迎えた。今年はナイジェリアのE・C・オソンドゥが、難民キャンプを舞台に書いた短編「Waiting/待っている」で受賞し、1万ポンド(約150万円)を獲得した。

物語は10歳の少年オーランド・ザキが語り手。オーランドはもちろんフロリダのオーランドだ。赤十字からもらったTシャツの胸にそう書いてあった。だからそう呼ばれている。ザキは彼が発見された場所の名前だ。
キャンプにいる子どもたちはアカプルコ、ロンドン、パリといった具合に、着ているTシャツのキャッチコピーからとった、変な名前で呼ばれつづける。本人は意味がわからないまま、いつかその土地の人が自分を養子にしてくれることを夢想している。キャッチコピーだから、セクシーなんて名もある。

毎日、食料トラックが来るのを待ち、給水タンクが来るのを待ち、カメラマンが写真を撮りに来るのを待ち、戦争が終わるのを、家族が自分を見つけてくれるのをひたすら待っている。
この作品、平易な会話調で、ときにドキッとするほど過酷な日常がさらりと描かれている。そこが評価されたらしい。

ケイン賞の10年間の受賞者を見ると、ナイジェリアとケニアから各3人、南アフリカから2人、スーダン、ウガンダから各1人で、男女半々。

この賞はアフリカを、欧米の目からではなく、アフリカ人みずからの目で書くための場を作ってきた。その成果がバラエティに富むアンソロジーとなって、すでに何冊か出ている。たとえば今年出たのは『Ten Years of the Caine Prize for African Writing

ぜひ、どこかで翻訳紹介したいものだ。

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北海道新聞2009年11月24日夕刊に掲載されたコラムに加筆しました。
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付記:2012.6.27/ 先日、都甲幸治さんと柴田元幸さんの対談を読んでいて、この短編を柴田さんが訳出紹介したという話が出てきて、おっ、そうなのか、と思った。もっとどんどん紹介されるといいなあ。今年、2012年の発表も間近です。

2009/11/22

最近のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

『半分のぼった黄色い太陽』の著者、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの最近の写真と、2年ほど前の写真を、ならべてみました。

さあ、どちらが最近のものでしょう? わかるかな?
 

2009/11/19

11月の断章

鉄の時代に、
敷居をまたげないファーカイル、
生と死の境界にいるミセス・カレン、
Yes / No で答えられないもの。
子どもたちにむかって
「ダメ! 生命を大切にしなさい!」と叫ぶカレン。
現実には決して届かないことばたち。

「現実のむごさを虚構で凌駕したい」がために小説を、激しい小説を、書く──といったのは、桐野夏生だ。
             
リチャード・ブローティガンは、しかし、軽やかなことばで
「現実のむごさ」を凌駕する作品を書いた。
 思いがけないことばの連なりによって…。

2009/11/13

深まる秋に ── ささやくハリス・アレクシウ

秋もじわりと深まるころです。

 黄金色に花火のように枝をひろげる萩、赤茶色や黄褐色のグラデーションが美しい梅と桃、そして真っ赤なもみじ。
 雨あがりの濡れた葉の、鮮烈な色合いが目にしみるこの季節に、ぴったりの音楽を。あったかな飲み物を用意して、アレクシウのささやくような歌声に耳を澄ます。

 ギリシア通の友人がおしえてくれたアルバムです。しみじみと、心の奥深く響きます!

HARIS ALEXIOU WHISPERS

1. I'M IN LOVE AND I CARE ABOUT NOTHING
2. SMALL HOMELAND
3. DO NOT ASK THE SKY
4. TAKE ME
5. A SHOOTING STAR IS FALLING
6. FLOOR
7. THE GREATEST HOUR
8. I'M ONLY ASKING YOU FOR A FEW CRUMBS OF LOVE
9. THE WILD FLOWER
10. FOLLOW MY TRACKS
11. DO NOT GET TIRED OF LOVING ME
12. YOU'RE ASKING ME TO SING FOR YOU


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付記:このCDは残念ながらAmazon.co.jp では売っていません。USやUKのサイトにも出てきません。ところが、ドイツとカナダのAmazonには出てくるのです。なぜ? きっとこの2つの国には、ギリシャからの移民が多いからでしょう。

2009/11/09

第3回ファラフィナ・ワークショップ

今年もまた、ナイジェリアのラゴスで9月下旬、10日間の「ファラフィナ・ワークショップ」が開かれた。このワークショップは、2004年に雑誌「ファラフィナ」を創刊したムフタル・バカラと作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが設立したNPO「ファラフィナ・トラスト」が、作家を育てるために毎年開いてきたもの。

今年で3度目を迎えるこのワークショップ、申し込み者のなかから参加者をしぼりこみ、期間中は泊まり込みで徹底討論するという。参加経費はすべてスポンサーが提供。今年からそのスポンサーが変わった。昨年までのフィデリティ銀行から「ナイジェリア・ブルーワリー」というビール会社にバトンタッチされ、むこう3年間はこの会社が受け持つという。ちなみに出版社を起こして、アディーチェの第一作『パープル・ハイビスカス』のナイジェリア独自版を出版したムフタル・バカラは、なんと元銀行マン。

写真はワークショップ最終日にラグーン・レストランで開かれたリーディングの夕べのようす。5人のファシリテイターは、左からチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(ナイジェリア)、ビンヤヴァンガ・ワイナイナ(ケニア)、ジャッキー・ケイ(英)、ドリーン・バインガーナ(ウガンダ)、ネイサン・イングランダー(米)。

photo:©Abiodun Omotoso

この記事の詳細を読みたい方はこちらへ!!

2009/11/01

荷物運ぶ「キックスケーター」── アフリカは遠いか?(その3)

「アフリカは遠いか? ─ その3」

宝物のように取っておいた切り抜きがあります。8年以上も前の記事ですが、いつか、どこかで、必ず書こうと思っていました。

 まず、記事を読んでください。キャプション入りの写真も見てください。(写真をクリックすると拡大します。)

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★世界発2001★「自前 こだわりの装備/ルワンダ」──世界のくらし

ルワンダ西部の山間地で「キックスケーター」がはやっていた。日本でブレークしたあのキックスケーターと、構造に違いはない。人が乗る板、ハンドル、前後に小さな車輪がつく。進む時に地面を足でけるのも同じだ。
 遊ぶためや街中をおしゃれに駆け抜ける道具ではない。少年たちが買い物や給水などに使う。「イキジュクトゥ」という武骨な名前がある。現地のことばで「荷物を運ぶ木製のもの」を意味するという。
 手作りで木製。廃品タイヤを切って車輪を覆ってある。後輪の泥よけのようなゴムの覆いはブレーキらしい。自転車のベルを付けたり、板とハンドルをつなぐ部分に金属製のバネを使ったり。こだわりが装備に表れる。
 下り坂はゴロゴロと音を立てて調子がいい。上りでは、降りて重い車体を押さなくてはならない。ファッション性も、輸送手段としてもいまいちだが、数十キロはあろうかと思われる大きな荷物と、こだわりを載せて坂道を行く。(ギセニ<ルワンダ西部>=江木慎吾)

<写真キャプション>
大きな荷物を積んだルワンダ版「キックスケーター」。この荷物、丘を越えて運ぶと800ルワンダフラン(約200円)=ギセニで、江木写す。
(2001年5月5日付朝日新聞より)
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 前回紹介した『ルポ 資源大陸アフリカ』は、紛争や暴力といった烈しいテーマでなければなかなか新聞などでは取り上げられない現状を逆手に取って、あえて紛争地域に乗り込んだ記者が、海外支局に勤務する者でなければ書けないものをまとめた貴重なルポでした。
 でも、書評を書きながら「もうひとつのアフリカ」の話がなければ、これもまたシングルス・トーリーになってしまうなあ、と思い続けていました。その、もうひとつの物語の例として、ここに短い記事を紹介しました。

 ルワンダといえば多くの人が連想するのは、やはり「ツチ系」と「フツ系」ということばと共に思い出される1994年の内戦のことでしょうか。映画になったり、ノンフィクションが何冊も翻訳されたり。
 でも、この記事は、ふつうの人たちの、ごくふつうの暮らしの断面をみごとに切り取っています。写真のなかのハンドルを握る男の人の表情もいいし、子どもの姿勢がまた、なんとも可笑しくて、面白い。

 こういう記事は残念ながら、日々の新聞にはめったに掲載されません。おそらく、記者が本社へ送っても没になることが多いのでしょう。ニュース価値として低い、と考えられているからなのかもしれません。
 でも、アメリカ(中米や南米はもちろん含まない)やヨーロッパ(イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、それにせいぜいオランダ、ベルギー、ポルトガルくらい)の場合は、文化欄や海外事情コーナーなどで、そういった情報が頻繁に記事になる。こんなふうに、大きな情報格差が当たり前のようになっていることに私はとても違和感をおぼえます。それがアフリカを遠くして、シングル・ストーリーの色眼鏡を作ってしまう、そんな気がするからです。

2009/10/27

書評『ルポ 資源大陸アフリカ』── アフリカは遠いか?(その2)

「アフリカは遠いか?──その2」

10月25日付けの北海道新聞朝刊「ほん」の欄に、毎日新聞記者の白戸圭一さんが書いた『ルポ 資源大陸アフリカ』の書評を書きました。

 今日、ネット版にアップされました。(追記:11月5日現在、翌週ページに移動したので、こちらへファイルします。)

 800字という字数のなかに、シングル・ストーリーにならないように書くのは、ほとんど不可能に近いことでした。それでも、この本は「アフリカは遠いか?」という問いに、ひとつの答えを出してくれる貴重な本です。

2009/10/22

シングル・ストーリーの危険 ── アフリカは遠いか?(その1)

「アフリカは遠いか?──その1」

木の葉が色づきはじめ、もうすぐ秋もたけなわ、といった感じですが、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』の翻訳もいよいよ佳境に入ってきました。
 読者のみなさまにお届けするまでには、もう少し時間がかかりますが、最近のアディーチェの横顔を伝える動画がありますので、ご紹介します。

 話の内容は「 The danger of a single story/シングル・ストーリーの危険」というタイトルによくあらわれています。
 「アフリカ」というと饑餓、貧困、紛争、サファリ、野生動物、エイズで死んでいく人びと、とステロタイプなイメージしか持たない北側の人間の横柄さ、そして、それを許している世界のメディアに切り込む彼女のことばが新鮮です。ものごとを片面からしか見ようとしない人間の視野の狭さを、その危険性を、アディーチェはみずからの体験をふまえて、縦横に語っています。

 軽くのぞいてみてください。ここです。ときおり笑顔を見せながら、野太い声と平明なことばで、説得力にみちたスピーチを聞かせてくれます。

 ステロタイプを笑い飛ばす彼女の快活さに拍手! 笑い飛ばしながら、鋭い指摘をいくつもする知性にも拍手! まあ、拍手ばかりしてもいられないのですが・・・ね。

 

2009/10/08

フィクションの枠内で虚実のあわいを漂う”クッツェー”

J・M・クッツェーは発表する作品ごとに奇抜な手法を使って、読者を驚かせたり楽しませたりしてきた作家だ。8月にHarvill Secker から出た『サマータイム/Summertime』は1997年の『少年時代』、2002年の『青年時代』につづく自伝的作品の最終巻で、その斬新な手法にまたしても誰もがあっけにとられた。

「自伝的作品」とするのは『少年時代』も『青年時代』も3人称現在形でフィクションとして書かれているからだ。作家の少年期、青年期の横顔を彷彿とさせるエピソードには、きらりと光る真実がチップのように埋め込まれている。
 このような書き方の根底には、過去の自分をその当時の自分とは異なる存在が書いている事実をあいまいにしない、という意識的な姿勢がある。記憶や思い出を現在から見て都合よく変形しながら、1人称過去形で物語る従来の「自伝」という概念に対して、クッツェーは根底的な疑問をつきつけてきたといえるだろう。

 今回の『サマータイム』ではさらに、手法の劇的変換が見られる。これがまたすこぶる刺激的で、端正な文体はじつに軽やか。
 全体は7章に分かれ、第1章と最終章が作家の残したメモと断章で、まず第1章で米国から帰国した独身のジョンが、やもめの父親と廃屋のような家に暮らしていることが分かる。(実際は当時クッツェーには妻も子もいたし母親も健在、その事実は作品内から完全に消去されている。)
 ところが第2章からは一変してインタビュー形式となり、ヴィンセントなる若い伝記作家が登場する。そして読者はいきなり作家ジョン・クッツェーがすでに死んでいることを知らされるのだ。

 伝記作家は生前のクッツェーとは面識がなく、『ダスクランズ』を書きはじめたころから第二作目『その国の奥で』を仕上げていた時期(1972〜77年)に焦点をあて、彼と親交のあった5人の人物にインタビューを試みる。その5人とは、帰国したばかりのジョンの情人となる人妻ジュリア、カルーの農場でジョンが唯一心を開くことのできたいとこのマルゴ、ジョンが一方的にのぼせあがったブラジル人ダンサーのアドリアーナ、ケープタウン大学時代の同僚マーティン、10歳年下のやはり同僚でジョンといっしょにアフリカ文学の講座を教えるフランス人、ソフィーだ。
 とにかく女性たちの語り口がすごい。当時のジョンに対して情け容赦ないことばをあびせるのだ。そこに浮かび上がるのは、ヒッピーのように髭を生やして詩を書いている不器用な本の虫、他人に自分を開いて見せることができず、一族のあいだでも徹底的な変人として扱われる人物である。

 フィクションという枠内で、虚実のあわいを漂いながら、あくまで外側から突き放したように自画像を描こうとする物語は、ときに可笑しく、ときに哀切で、痛々しいまでに苛烈だ。「他者に語らせる自伝」という形式によって初めて、30代半ばという「朱夏のとき」を書くことができるとクッツェーは考えたのだろうか。長いあいだ温めてきたプロジェクトだと、作家自身は語っていた。
 研ぎ澄まされたことばと、行間にちりばめられた貴石のような沈黙が、心にしみる作品である。

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付記:J.M.クッツェーが3度目のブッカー賞を受賞したら、ある全国紙に掲載される予定で書いたものです。残念ながらブッカー賞ハットトリックならずで、ここに載せることにしました。
 2012.5.13/少し補筆しました。

2009/10/07

J・M・クッツェー『サマータイム/Summertime』──朗読

8月中旬、発売予定を半月もくりあげて出版されたJ・M・クッツェーの『サマータイム/Summertime』は今年、ブッカー賞ショートリストにノミネートされ、ずいぶん話題になりました。惜しくも3度目の受賞は逃しましたが、今回もまた授賞式/パーティー(?)には出席しなかったようです。

 その新作から彼が朗読するようすを、つぎの2つのサイトで聴くことができます。

 http://news.bbc.co.uk/today/hi/today/newsid_8278000/8278003.stm

 http://www.nybooks.com/podcasts/

 これは『少年時代』からはじまるフィクション化された自伝トリロジーの最終巻にあたります。本の詳細はいずれまた。

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2012.5.15 付記:上記の2つのサイトは変わってしまったようです。BBCでは少しだけクッツェーの声が聞こえますが、アナウンサーはあいかわらず「クッツィー」などと発音しているのが残念です。

2009/10/06

愛するものの束縛から自分を切り離して

「愛するものの束縛から自分を切り離して自由になるのがベストだよ」彼は散歩の途中でそう言った──「自分を切り離して、その傷が癒えるのを待つんだ」彼女は彼のことをぴたり正確に理解する。なににもましてそれが、二人が共有していることだから、それは・・・・・・への愛だけではなく、愛に付いてくるものを理解し、愛しすぎてしまうこともあると理解していることだ。

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以前、読んだ本から。強く心に残り、書き留めておいたことばです。

2009/10/01

現代詩焼くように訳してしまえ

というフレーズに目を奪われた。

今月の「水牛のように」にある藤井貞和氏の詩の一行。


高橋悠治さんの「記憶と夢のあいだ」にも刺激的なことばがならんでいる。すこし引用してみようか──。


「理論からははじまらない 眼に見えるものではなく 手をうごかし・・・中略・・・

記憶と夢のあいだ というより 思い出せないことを思い出し まだどこにもないものを夢みるのが音楽だ という ますます強くなる予測に突き動かされ 手 をうごかすなかで新しい発見がある それはまだことばになりきれないままで 途切れるとそのまま消えてしまう輪のように かたちもなく 宙に浮いている」


 十月は収穫のとき!

2009/09/27

J・M・クッツェーの小説が発禁にならなかったわけ──南アフリカの検閲制度(2)

アパルトヘイト下の検閲制度に関するクッツェー発言で注意しなければならないのは、検閲官は当時の南アフリカ社会において、みずからを「文学という共和国の守護者」と考えていた作家や大学人だったことだ。つまり彼らは自分の役割を、無教養な国家から文学が生き残るスペースを保護すること、と見なしていた。この点は注目にあたいする。当時の南アの白人社会内部からみれば「勤勉な、ごく普通の人」(もちろん秘密裏に)だったのだろう。

 2008年5月オークランドの作家フェスでクッツェーは検閲制度について述べ、検閲対象となったった次の3作品から朗読した。

  In the Heart of the Country(1977)──日本語訳『石の女』
  Waiting for the Barbarians(1980)──〃『夷狄を待ちながら』
  Life and Times of Michael K(1983)──〃『マイケル・K』

 英国のイースト・アングリア大学でも、ほぼ同時期にクッツェーはおなじような報告をしている。その詳細はサイモン・ウィルスの記事として雑誌「Granta:2008/6/23」で読める。
 
 マクドナルドの『The Literature Police』によると、3冊はまず一般的な選別を受け、それから「文芸委員会」へ送られた。「Country」は異例なことに3人の検閲官、H・ファン・デル・メルヴェ・スコルツ(ケープタウン大学の同僚)、アンナ・ラウ(作家)、F. C. フェンシャムによって精読された。一方「Barbarians」はレジナルド・ライトンによって、「Michael K」はリタ・スコルツ(「Country」を検閲したスコルツの妻)によって精読されたが、このように1人が読んで報告書を出すのが検閲の実施方法としてはより一般的だったらしい。(p309)

 実際1977年に「Country」の南ア独自版がレイバン社から出るとき(この小説は同年にまずロンドンのセッカー社から出た)、作家もレイバンの編集者ピーター・ランドールも、本が発禁にならないよう細心の注意を払っている。そのようすが、両者のあいだの書簡からうかがえ、クッツェーは何カ所か書き直してぼかすことまで提案している。
『夷狄』が出たときも、『マイケル・K』が出たときも、検閲委員会は「じゅうぶんに」機能していた。ところが、1986年の『フォー』は対象外となり、アパルトヘイトの内実をはっきりと書いた『鉄の時代』も対象外。『鉄の時代』が出た1990年は、アパルトヘイトが崩れていくきざしが誰の目にもあきらかになった年だった。

 1988〜9年当時、反体制の新聞は検閲にひっかかった記事を黒塗りしたまま発行するといった抵抗手段をとっていたが、外部からみると、書物に対しても人に対しても、なにが発禁/活動禁止になり、なにがスルーするか、細かなところまでは判断できなかった。
 そのころ南ア国内にいて小説を書いていたクッツェーは、事態の推移をおしはかりながら『鉄の時代』の書き方を決めていったのだろう。その内実が、マクドナルドの著作によっていま、手に取るように明らかになった。

The Literature Police』は、クッツェー作品の一般読者にとっての必読書とまではいえないにしても、同時代を生きるこの作家の作品を訳したり研究したりする者には欠かせない内容を含んでいる。どのような場からあの作品群が生み出されたかを知るためにも、この作家を形成した社会/文化的背景を知るためにも、たいへん役立つからだ。

 1999年に行われたクッツェーへの独自インタビューをも含むこの本について、作家自身はこう述べている──「アパルトヘイト時代の南アフリカで文芸創作を形成かつ変形した暴力を、わたしたちが理解したいと思うなら、必読の書だ──J.M.クッツェー」

(了)

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2011年7月20日、付記:クッツェーが2010年5月にテキサス州オースティンで公演をした映像が見つかりました。ここで触れた検閲官の名前の読みを、その公演でクッツェー自身が語っている音に変更します。ex. ショルツ→スコルツ

2009/09/19

J・M・クッツェーの小説が発禁にならなかったわけ──南アフリカの検閲制度(1)

面白い本が出た。

 南アフリカのアパルトヘイト体制下で実施されていた検閲制度が、作家、出版社、編集者にどのようなことを強いたのか? その時代、作家たちは書きたいことを書くため、自分の作品を出版するため、発禁にならないようにするため、どのような戦略をもちいたか? その過程で、内面にどのような葛藤を抱え込んだか?
 あるいは、編集者とどんな手紙のやりとりをしたか? 発禁になったために出版社はどれだけの損害をこうむったか? 検閲制度の具体的な実態と、制度を支えていた思想について、さらにはそれがもたらした結果について、秘密裏に保管されていた膨大な資料を用いながら緻密に分析した本が出たのだ。

 本のタイトルは『The Literature Police/文芸警察』(Oxford Univ. Press, 2009)。著者は、ピーター・D・マクドナルド、1964年ケープタウン生まれの気鋭の学者だ。

 全体が二部構成になっている。第一部には、検閲制度、出版社、作家について述べた3つの章がおさめられ、第二部を構成する6つの章では、多くの著作を発禁処分にされたナディン・ゴーディマ、エスキア・ムパシェーレ、ブライテン・ブライテンバッハとルルー、黒人詩人たち、さらには発禁をまぬがれたJMクッツェー、最後に反体制文化活動の中心的雑誌だった「スタッフライダー」、についてそれぞれ論じられている。

 図版も豊富だ。80年代後半から90年にかけて私も入手した雑誌や書籍の写真がたくさん掲載されている。それを見ていると、ある感慨に襲われる。
 年譜(1910年〜96年)も充実している。1931年に作られた検閲法を実施するための委員会は、ネルソン・マンデラが解放された1990年に実質的に機能停止になった。しかし法律自体が完全に廃止されたのは1996年、新たな出版法ができたときだった。

 クッツェーをめぐる第8章は本当に面白かった。彼の著作のなかで検閲委員会が対象にしたのは3冊だけだというのも興味深いが、いずれも「望ましくない」となることはなく、発禁にはならなかった。その理由は、マクドナルドが引用する、検閲者の報告書からおよそのことが推察できる。いま読むと、現実を知らない部外者には滑稽に思えるほど。だが、当時の南アフリカで生きる「常識的」人間の考え方をありありと伝えていて、現代および外部世界との落差/僅差(?)に愕然とする。
『IN THE HEART OF THE COUNTRY/(邦題:石の女)』のレイプ場面に対する感想など、当然のことながら、男女で意見がまったくちがう。クッツェーのポストモダン的作風は、旧態然とした「リアリズム」をもとにして考えようとする検閲者の目を、みごとにすり抜けたことが確認できるのだ。

 昨年5月にニュージーランドのオークランドで開かれた「作家と読者のフェスティヴァル」に招かれたクッツェーは、その場で、彼の小説を検閲した報告書が出てきたこと(その事実は2007年にマクドナルドから知らされたそうだ)について、たとえば、ケープタウン大学の同僚の一人が検閲官だったこと、彼自身は検閲の報告書はとうにスクラップされたと思っていたことなどについて語ったという。(つづく)
 

2009/09/10

カナダの大自然──湖と野生動物と

いま一度、カナダの雄大な自然をお届けします。
 ブライアン・スモールショー氏の撮影した写真。まずは、リンダ湖です。


なんと、山羊がいるんですねえ! 母さん山羊と仔山羊です。

このサイトへ行くと、すばらしい写真がもっとたくさん見ることができます。

photo:©Brian Smallshaw

2009/09/05

美味しい読書──佐野洋子

昨年春に出た『シズコさん』は圧巻だった。母親との確執を、息つかせずに読ませる内容だった。この本で佐野洋子はそれまでにない読者層をつかんだように思える。

 その直後に出た『役に立たない日々』もまた面白かった。笑って読んだ。過去に出たエッセイ集もどんどん文庫化されているようで、嬉しい。個人としての人間の来し方、行く末をしみじみ考える。そして、元気が出る。

 今年になって出た、新しいエッセイ集『問題があります』を、少しずつ楽しみながら読んでいる。

 かつて佐野洋子は、自分には文体はひとつしかない、と発言した。しかし、なぜこれほど心打つ文章を彼女が書けるのか、考えてみると、それは身を削って生きてきた彼女自身の存在を惜しみなく読者に見せてくれるからかもしれない。書くことでさらす、そのことに賭ける潔さを感じるのだ。しかし、最初からそこまで到達していたわけではない。
 佐野洋子が最初に発表した、絵本以外の書物『わたしが妹だったとき』には、みずみずしい子どもの感情、感覚が、みとごに結晶化されていた。『右の心臓』もまた、ヤングアダルト向けの本とは思えない、深く心打たれる文章だった。だが、ここ数年のような凄さはなかった。

 ある時点から彼女は変わった。この絵本作家のかぎりなく簡潔な、てらいのない文体は、人間の虚飾をざっぱり切り捨て、核心に一気に迫るようになった。くりかえし語られる自分自身の生きてきた軌跡が、不器用なまでに鍛え抜かれたことばによって、読者の心をわしづかみするようになったのだ。こざかしい器用さがまるで感じられない。単刀直入、大陸的といえば大陸的。彼女が戦中生まれ育った、北京や大連と関連づけられそうだが、そういうお決まりのレッテルにはおさまりきらないものが、彼女の作品からは立ちのぼってくる。そこがすごい。

 それは、これまでの「推し量る」ことを美とする日本の文化にはなかなか育ちにくかったものであることも、おそらく、間違いない。狭い集団内のことば使いからははじき出される体験によって培われた感覚、まさに一種のクレオール的姿勢がこの書き手には見られる。それは、真実を書こう、伝えよう、とする姿勢に貫かれているためであることもまた、疑いえない。
 

2009/09/02

ターコイズブルーのレイク・オハラ

バンクーバー沖に浮かぶ島に住む友人一家が、この夏、キャンプにいったときに撮影した写真を送ってくれました。
目の覚めるような色合いです。

 Lake O'hara.

写真をクリックするとかなり大きくなります。お楽しみください。

photo:©Brian Smallshaw

2009/08/27

アシャ/ASA──ナイジェリアから飛び立った小さな隼

さあ、今年75歳のムスタキおじいさんが続いたので、この辺で思いっきり若手に登場してもらいましょう。

 アシャ/ASA。

1982年生まれというので、今年まだ27歳です! 生まれはパリですが、両親はヨルバ系ナイジェリア人で、小さいときにすぐナイジェリアに戻って、ラゴスで育ったそうです。で、おもに英語で歌っていますが、音楽活動の拠点はパリ。運命みたいなものを感じるとか。

 とにかく、すっごくいいです。オフィシャルサイトに行くとすぐかかるのが、初アルバム「ASA」の最初の曲、「Jailer/看守」。それで思い出したのは、マジェク・ファシェク/Majek Fashek の1990年のアルバム「Prisoner of Conscience」です。あらためて、ナイジェリアの音楽ってものすごく層があついのを感じます。

 アルバムジャケットの写真が、眼鏡をかけてわめいているようなショットなので、一瞬、引きましたが、YOUTUBE で歌ってる映像を見て、うーん、これはすごい、と思いました。ひさびさに「参りました」。ちょっとトレイシー・チャップマンを思い出させるところがありますが、もっともっとのびやか。でも、歌はね、そうねえ、エムリン・ミシェルとも違う、チオニソとも違う。ことばの意味がストレートに伝わってきます。語りの調子が、しぶいです。良いです。

 おなじナイジェリア人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが1977年生まれですから、アシャより5歳ほど年上ですが、現代の若い歌姫アシャを聞きながら、『半分のぼった黄色い太陽』を訳すのもいいかな〜なんて。
 とにかくお薦めです。

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付記:いやいや、ちょっと調べたら、アシャは昨年来日していました。日本語のオフィシャルサイトもありました! インタビューも出てきました。すごい人気なんですねえ。

2009/08/25

ムスタキとダララス──En Méditerranée/地中海には

ムスタキついでに、素敵なサイトをご紹介しましょう。毎夏ギリシャに通い詰めている友人が教えてくれたサイトです。

ご存知、ジョルジュ・ムスタキは1934年に、ユダヤ系ギリシャ人の両親が亡命していたエジプトのアレクサンドリア──地中海沿いの古〜い都市──で生まれ、17歳でパリに渡り、1968年に「メテック(よそ者)」で大ヒットして一躍脚光をあびた人です。

 お薦めのサイトでは、1996年のオランピア劇場で、ギリシャのスター歌手、ヨルゴス(ジョルジュ)・ダララスとデュエットするムスタキの映像と歌が楽しめます。ムスタキ、62歳。ちょっと猫背の、すてきなおじいさんになっていました!
 フランス語とギリシャ語で交互に歌われている「地中海には/En Méditerranée/Mesogeios」は1970年代の曲で、まだギリシャは軍事独裁政権下、スペインもフランコの独裁政権下にあった時代でした。


 EN MEDITERRANNE by Georges Moustaki


Dans ce bassin où jouent des enfants aux yeux noirs
Il y a trois continents et des siècles d'histoire
Des prophètes, des dieux, le Messie en personne
Il y a un bel été qui ne craint pas l'automne
En Méditerranée

Il y a l'odeur du sang qui flotte sur ses rives
Et des pays meurtris comme autant de plaies vives
Des îles barbelées, des murs qui emprisonnent
Il y a un bel été qui ne craint pas l'automne
En Méditerranée

Il y a des oliviers qui meurent sous les bombes
Là où est apparue la première colombe
Des peuples oubliés que la guerre moissonne
Il y a un bel été qui ne craint pas l'automne
En Méditerranée

Dans ce bassin, je jouais lorsque j'étais enfant
J'avais les pieds dans l'eau, je respirais le vent
Mes compagnons de jeux sont devenus des hommes
Les fères de ceux-là que le monde abandonne
En Méditerranée

Le ciel est endeuillé par-dessus l'Acropole
Et Liberté ne se dit plus en espagnol
On peut toujours rêver d'Athènes et Barcelone
Il reste un bel été qui ne craint pas l'automne
En Méditerranée


 「地中海には」ジョルジュ・ムスタキ作詞作曲


黒い瞳の子どもが遊ぶ、このたらいのような内海には
三つの大陸と、何世紀もの歴史があり
預言者たち、神々、救世主その人がいた
地中海には、秋を怖れぬ
美しい夏がある 

岸辺に漂う血の臭い
生々しい傷口とおなじくらい傷ついた国々
有刺鉄線で囲まれた島々、閉じ込める壁
地中海には、秋を怖れぬ
美しい夏がある 

爆撃で枯れるオリーヴの木々
そこは最初の鳩があらわれた場所
戦争で滅ぼされ、忘れられた人びと
地中海には、秋を怖れぬ
美しい夏がある 

子どものころ、このたらいのような内海で遊んだ
足を水に浸して、胸いっぱい風を吸い込んだ
遊び仲間は大人になったけれど
そこにいる兄弟たちは、地中海で
世界から見捨てられている

アクロポリスの上で空は喪に服し
スペイン語で「自由」は口にできないのに
相も変わらず人はアテネやバルセロナに憧れる
地中海には、秋を怖れぬ
美しい夏が残っている

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追記:思えば、パレスチナのガザ地区もまた地中海に面した土地だ。

2009/08/24

ジョルジュ・ムスタキ──Nadjejda

 もう35年も前のことだ。1974年2月にほんのしばらく、小雨が降ってはちょっと陽の差すパリにいたことがある。
 ジャズ狂いだった私はジャズスポットを探してパリの街を歩きまわったが、思ったような成果はななかった。(短期滞在で、それもたったひとりで、東洋から行った女の子にそう簡単に街の奥がわかるわけがない!)サン・ミッシェル大通りを行きつ戻りつしながら、ふらりと立ち寄ったレコード店で2枚のLPを買った。
 黒っぽいハイネックのセーターを着て髭を生やした店員さんに、あなたのお薦めのアルバムはどれ? と訊くと、彼が即座に示したのがこのLPだったのだ。

 ジョルジュ・ムスタキの「DECLARATION」。1973年に出た、ムスタキがまだ39歳のときのアルバムだ。
 ムスタキの名前は知っていた──1973年に日本でも出たバルバラのLPで「La Ligne Droite」をデュエットしていた人だったし、来日もしていたから。
 
 パリで買い求めたそのアルバムには、A面の3曲目に「Nadjejda」という曲が入っている。

  Nadjejda, Nadjejda
  En russe ça veut dire espérance
  Nadjejda, Nadjejda
  En amour c'est peut-être absence
  Combien de temps encore, sans voir ton corps
  Combien d'étés, combien d'hivers
  Combien de saisons en enfer

  ナジエージダ、ナジエージダ
  ロシア語では希望という意味
  ナジエージダ、ナジエージダ
  愛では、たぶんそれは、不在
  あとどれくらい、お前の姿を見ないまま
  いくつの夏と、いくつの冬、
  地獄の季節はつづくのか


 そう、Nadjejda とは「espérance」のことなのだ。

 帰国してすぐに研修が始まった。4月から勤めることになっていた会社の、3泊4日の新入社員向け研修会だ。
 しかし、である。早春のその研修会に、私は直前にみつけて買ったセーターを着ていった。オレンジと赤と少しの緑を基調とした、このアルバムのジャケットデザインそっくりの色調のセーターだった。
 朝から晩までびっしり見知らぬ人たちといっしょに受ける研修は、とにかく疲れた。
 当時はまだウォークマンもない。好きな音楽がいっさい聴けない環境で、独りが好きな人間にとっての、ひそかな抵抗感とみずからへの励ましが、ムスタキの「宣言」仕様のセーターだったのだ。

 いま考えると、笑える。 
 

2009/08/23

エムリン・ミシェル──Reine de Coeur

買いました! やっぱり、買ってしまいましたね。ハイチ出身の歌姫、エムリン・ミシェル。デビューして20年、さすがにすばらしく貫禄がつきてきました! 

 この夏もどこかへ行くあてもなく、机に向かっているので、せめてリズミックな音楽をいろいろ聴きたい。長いこと買いそびれていたこのアルバム、遅ればせながら、行く夏の終わりに楽しんでいます。

 アップテンポで、ちょっと軽くなって。録音もわるくない。(これまで出ている9枚のアルバムのうち、私がもっているのは4枚ですが、1994年のベスト版は残念ながら音がよくない!)今回のアルバムは、とにかくバックが多様。アコーデオンの音色がリリカル。ヴァイオリンやらサックスやら、なかなか楽しめます。もちろんエムリンの声にも、磨きがかかって。この人の声、ファルセットの高音もいいけれど、なんといってもやっぱり低音部がいい。
 
 アップした映像は、書籍のように縦長のカバーの裏写真です。表よりもこっちがいいな。

 彼女のおしゃれなオフィシャルサイトには、てんとう虫が這っていたり、蝶々が飛んでいたり。これまで出したアルバムの情報や、コンサート写真などが楽しめて、試聴もできるみたい。

2009/08/16

2009年7月29日のJ・M・クッツェー

7月29日、アデレードの南部オーストラリア作家センターでスピーチするクッツェーの動画です。

なかみは、見てのお楽しみ!

2009/08/14

アフリカ大陸に日本はいくつ入る?

「アフリカ大陸って、どのくらいの大きさ?」「アフリカ大陸は日本とくらべて面積は何倍くらい?」そんな問いを、パッと解決して、視覚にうったえて見せてくれるサイトがあります。
 さあ、アフリカ大陸には日本がいくつ入る?

 答えはこちら→ 日本列島で世界を測る

 カーソルが日本列島になっていて、動かすといっしょについてくる仕掛けです。

 このサイトを作っているのは、「梅田洋品店」というお店を開いている、梅田昌恵さんです。アフリカわいいお洋服を縫っているお針子さんでもあります。しかし、このお針子さん、ジンバブエに2年間暮らした経験の持ち主で、西アフリカに布地を買い付けにいって、それを独自のデザインで裁断して、縫製して、仕上げまで自力でやっている方です。

 お店にはあざやかな色彩のヘアゴムや、籠、アクセサリー、南アフリカのすてきなビーズ雑貨などもならんでいます。
 そうそう、アフリカフェやアフリカン・プライド(タンザニアの紅茶、ミルクティーにするとすっごく美味しい)もあるので、嬉しくなりました。

 「アフリカわいい」がトレードマーク! サイトには、アフリカの音楽や、アフリカをあつかった書籍の情報なども満載です。

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2014.6.14付記:アフリカ大陸は日本の何倍? という質問に、数字に弱いわたしは即答できないことがつづいて苦笑! 答えを書いておきます:約80倍です。アフリカ大陸は約3,022万k㎡、日本は3,779k㎡、だから約80倍ですね。それがアフリカ大陸、80個の日本が入ってしまう大きさです。

2009/08/10

白い肌のテロリスト──ブライテン・ブライテンバッハ

南アフリカ出身の詩人、画家として60年代から世界に知られるブライテン・ブライテンバッハが、アフリカについて縦横に語るサイトがあります。

 1939年にウェスタンケープでアフリカーナー(オランダ系)として生まれた彼は、60年代にパリに移り住み、そこでベトナム系フランス人と結婚、帰国すれば当時のアパルトヘイト体制下の異人種間結婚を禁止した法律に触れることになり、反アパルトヘイト運動に深くコミットしていきます。1975年に偽造パスポートで南アへ帰国した彼は、逮捕されて、国家に対するテロリズムという罪で7年間投獄されました。その経験を書いたのが『The True Confessions of an Albino Terrorist/白い肌のテロリストの真実の告白』(1984)です。

 2008年12月末「デモクラシー・ナウ」に登場したブライテンバッハは、アパルトヘイト解放後の南アフリカの現況について、国家崩壊に近いジンバブエについて、ソマリア沖の海賊について、ダルフールについて、アンゴラやコンゴについて、さらにはイスラエルとパレスチナについてまで、包括的に、なにが現状を引き起こしているのか、どのようにすれば紛争は解決に向かうか、核心をつくことばを語ります。

アフリカ各地の出来事は、断片的な情報を日々追いかけているだけではなかなか理解できないことが多いのですが、彼の語りを聞いていると、おおざっぱながら、アフリカについてひとつの全体像が見えてくるように思えます。

 フランスの市民権をもつ彼は、現在、ダカールとニューヨークを往還しながら暮らしているそうです。

 お薦めのサイトはここです!! 英語が得意な方はこちらへ!

 最後の部分には、昨年イタリアで公演中に心臓発作で亡くなった「ママ・アフリカ」ことミリアム・マケバが、国連で行なった反アパルトヘイト演説が収録されています。また、一世を風靡した曲「パタパタ」や、「カウレーザ」などの歌も聴けます。お楽しみください!!

2009/08/01

真夏の夜はリズ・ライトで

8月になりました。真夏の夜はリズの歌を聴きながら、といっても、今年は雨が多く、日照時間が少なく、畑にも田んぼにも、はたまた生きとし生けるものすべてにとって、あまり喜ばしくないお天気です。

 梅雨があけて、からりと晴れて、暑い暑い、といいながらも、カンカン照りの強い日差しと真っ黒い影、そしてミーンミーンと時を惜しんでしきりに鳴く蝉たちが、なんだか恋しいですね。

 土臭い、ブルースっぽい、リズ・ライトの歌声は、これまたある人からのお薦めで知ったのですが、気に入っています。

 ジンバブエの音楽、ジンバブエの文学、ナイジェリア出身の作家の近況、とアフリカからの話題が続きましたが、こうしてリズの歌を聴いていると、アフリカン・アメリカンの系譜とはいえ、やっぱりすごくアメリカンであることを感じます。アフリカン・ディアスポラの、ソフィスティケートされた音楽です。耳になじんだ、というべきか。

 クレイグ・ストリートというプロデューサーの音作りが、それと深い関係があるのだろうと思います。この人、すごい手腕の持ち主だと思う。
(3枚のうち上2枚がこの人のプロデュース。)
 

2009/07/30

ペティナ・ガッパ /『イースタリーへの悲歌』

ジンバブエからすばらしい作家が登場した。1971年ジンバブエで生まれて、いまは息子とジュネーヴに住むペティナ・ガッパ(Petina Gappah)だ。4月に出た初の短編集『An Eelegy for Easterly/イースタリーへの悲歌』では、切れのいい、からりとした文体で、ジンバブエ人の悲喜こもごもの暮らしぶりを活写する。

 植民地化されたアフリカのなかでも比較的遅く、チムレンガと呼ばれる長い解放闘争をへて1980年に独立したジンバブエは、南部アフリカの星と期待された。しかし、30年におよぶムガベ大統領の独裁色を強める体制下で、ここ数年は天文学的数字のインフレを経験し、昨年の選挙では多数の死者も出た。

 短編集におさめられた13の物語は、この国のエリートへの痛烈な皮肉から、名もなき人々の苦悩やスラムに吹き寄せられる底辺層の暮らしまで、じつに幅広い。悲しい話も多いのだが、人を笑わせるのが好きというガッパは、持ち前の旺盛なユーモアで、悲惨な話を土臭い、ピリ辛のコメディにしてしまう。しかも繊細なタッチで。そこがとても新鮮だ。

 いくつも印象にのこった短編のなかで、もっとも面白かったのが、最後の「真夜中に、ホテル・カリフォルニアで」、これが傑作! もちろん、あのイーグルスのヒット曲のことだ。でも、舞台となる「ホテル・カリフォルニア」は田舎町のB&Bで、ブラックマーケットでなんでも手に入れて生き延びる人たちのなかで手練手管で稼ぐ男の話。ぱきぱき語るガッパの調子が、ホント、笑えます。

 作品内には民族言語の一つ、ショナ語も頻出する。作家自身はショナ語と英語が混じった「ショニングリッシュ」で書く、と堂々と語る。アフリカ出身の作家たちを勇気づける面白い話ではないか。

 驚いたのは、この短編集がフランク・オコナー賞の最終リストに残ったこと。昨年インド系アメリカ人作家、ジュンパ・ラヒリが受賞した、英語で書かれた短編集に贈られる最もビッグな賞である。ここにもまた世界文学の新しい潮流が見て取れる。

 いま長編小説に初挑戦中のガッパは、南部アフリカ文学の期待の星だ。間違いない。

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付記:2009年7月28日付北海道新聞夕刊に掲載した記事に加筆しました。

2009/07/25

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ──CNNに登場!

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはいま31歳のナイジェリア出身の作家です。

 2007年に『半分のぼった黄色い太陽』でこの賞はじまって以来最年少でオレンジ賞を受賞し、この4月に出したオリジナル短編集『The Things Around Your Neck』はフランク・オコナー賞のロングリストに入り、と相変わらずの活躍をみせるアディーチェですが、この7月にナイジェリアのラゴスでこの短編集の独自版(by Farafina)の出版を記念して、作家を囲む会が開かれたようです。写真はそのときのもの。

 また、CNNのインタビューに答えている映像を教えてくれた方もいます。Many thanks!

 もともと落ち着いた低めの声の持ち主ですが、その声や表情にさらに磨きのかかった貫禄が出て、話もずいぶん歯切れがよくなっています。
 まさに「パワフルなことば」です。
 
 Half of the Yellow Sun の翻訳、がんばらなくっちゃ!!

2009/07/23

草刈り

 草刈り鎌を研ぐのはなかなか難しかった。子どもの手にあまった。草を刈る動作にもこつがあって、しっかりと鎌の柄を握り、草の茎の根元あたりにほぼ垂直に刃をあて、思い切ってさっさっと動かさなければならない。やはり小学生のわたしは上手くできなかった。

 いまの時期、田んぼの畦の草はどんどんのびる。牧草地の草は、毎日ちがう場所に山羊の鎖の先端を打ち込んでおけば、その杭を中心にしてまあるく山羊が食べてくれるので、刈る必要はなかった。

 東京に出てきてから、しばらく隣人たちと畑を借りて、無農薬野菜を作っていたことがある。80年代の話だ。子どもがまだ小学生のころで、ほうれん草は冬に灰を周囲に敷いてやるとか、霜の降りそうなころになると白菜はすっぽり新聞紙にくるんでやるとか、東京にいながら野菜作りをほんの少し体験したことになるけれど、さあ、はたして覚えているかどうか。彼女たちは隣人が飼っている犬や猫ばかり追いかけまわしていた。

 あるとき思い立って、家の近くの草地を刈りはじめたことがある。鎌が草の根元にすっと入っていった。ああ、こういう感じ。大人になればできるのか、と改めて思った。つまり、肩と腕の筋肉と鎌の大きさの関係なのだろう。しばらく気持ちよく刈ったけれど、あっという間にエネルギー切れ、翌日は右の腕も肩も痛んだ。それもまた、ずいぶん前のことだ。
 
 湘南の知人の田んぼの光景をまた、借りることにした。草刈り鎌と、きれいに刈られた畦の草。下の写真は蓮の花だ。稲はすくすくと育っている。

2009/07/19

CHIWONISO──Rebel Woman/反逆する女

2008年に出た最新アルバム「Rebel Woman──反逆する女」がいま届きました。さっそくかけています。

 チウォニソにとって4枚目のソロアルバムだそうです。
 暑い夏にぴったりの音楽のような気がします。重すぎず、軽すぎず。中身はなかなかです。ショナ語はまったく分からないけれど・・・。
 考えたら、タイトルも正面きっていてすごい。

 アップテンポのブラス中心の曲が終わったら、ムビラの奏でる柔らかな音楽がつづいて。あの軽い、泣くようでいて泣きすぎない、メロディアスなスチールギター、いいです!

 今日の夕焼けは、桃ジュースの色!

2009/07/18

Ancient Voices──チウォニソ

いま聴いている音楽は、ジンバブエのミュージシャン、Chiwoniso/チウォニソです。

 ムビラ/親指ピアノを使ったすてきな音楽。ああ、そうそう、この季節、すっきりと心の涼を取るのにもいいかもしれない。ショナ語で歌っている1曲をのぞいて、あとは英語です。
 アルバムの背景に写っているのは、かの、グレートジンバブエ、ユネスコの世界遺産になった遺跡です。

追加情報:8月に来日するとか!

2009/07/13

アフンルパル通信 第8号──ピンネシリふたつ

「アフンルパル通信」は、札幌の書肆吉成が年に3回発行する「雑誌」だ。
 
 A4を縦に半分に折った形の冊子には、毎号すばらしい写真が掲載される。今号の表紙写真は富士山の火口、石川直樹氏の作品。
 題字は詩人の吉増剛造氏の筆。

 詩を2編、「ピンネシリ 1」、「ピンネシリ 2」を寄稿した。右上の「Café」にはりつけた連作の、出だしの部分にあたる。
 
 「アフンルパル通信」は小さいながら、実に切れのいい短文や詩や写真がならんでいる冊子で、手に取るとその圧縮された存在感がまたきわだつ。ぜひ、実際に手に取ってみてほしい。問い合わせはこちらへ

2009/07/12

わたしのジャズ修行(5)──アート・ペッパー/チェット・ベイカー

1969年ころに聴いて良い、面白い、すごい、と思ったジャズは、結果として、まず黒い肌のアメリカ人が演奏する音楽が多かった。そういう音楽として最初に認識したからなのかもしれない。おおいに偏見が入っていたことは、いまとなっては明らかだが、この偏見は一考にあたいするかもしれない、とも思うのだ。なぜなら、音楽そのものに埋め込まれた「切れ」が違うから。その「切れ」の違いを識別できる耳を育てよう、自分の感覚として獲得しよう、とあの当時はっきりと意志したのを覚えている。以来、ジャズ批評のたぐいはいっさい読まなかった。

その結果なのかどうか、とにかく、ああ、いいなあ、と思うのはニューヨークなど東海岸のアーティストのものが多かった。西海岸から発信される音楽、とりわけハリウッド近くから出てくる音楽は、好みではなかった。なぜだろう? 

最近、とある新聞記事(2016.2後記:辺見庸のコラム)のなかで触れられていた「チェット・ベイカー」とはどんなミュージシャンか、と家人に問われて、説明できなかったので(知人の推薦するアルバムを)1枚だけ買ってみた。「Chet Baker sings」だ。1950年代半ばの、ロスとハリウッドの録音、ベイカーはまだ20代後半の若さだ。このトランペッター、確かに、あまくて柔らかい素晴らしい音を出すのだけれど、私がアルバムを一枚ももっていない理由も、これを聴いてよく分かった。あますぎるのだ。(思い出すことば──甘さと権力!──笑)
 全曲歌が入っている。
 こんなふうに歌うのは3曲くらいで十分、あとは楽器だけでいいのに、と家人とも意見が一致した。自己憐憫、いや自己惑溺寸前の、過剰な退廃的雰囲気が濃厚で、それを臆面もなく前面にだしてくるところが、まことに鬱陶しい。

しかし、この時代の西海岸のジャズで、私が唯一例外的にもっているアルバムがある。「The Rreturn of Art Pepper」。このサックス奏者、音色はあまいが、切れはかなりよい。LPで聴いていたものを80年代にCDで買い直した。
 いずれにしても、麻薬、アルコール、セックス、退廃の極みのような米国の男中心の文化が咲かせた花である。

 あの時代、ジャズ音楽で身を立てることは、黒人男には立身出世になるけれど、白人男にとってはメインストリームから完全にはずれていく「落伍者」のイメージだったのだろう。おなじ音楽をやっても、まったく社会的意味合いが違ったことになる。ビリー・ホリディが歌う「Body and Soul」や「My Man」は臓腑にしみるすごさがあった。その理由を、いま、改めて考える。私たちの手元には、すでにトニ・モリスンの作品群があるのだ。

(ちなみに、50年代末から60年代初めに録音されたものを聴きたいという方には、スイング感あふれる、レッド・ガーランドをお薦めします!)

 やがて生演奏をやるジャズスポットへ通うようになってからは、もっぱら日本人の演奏する生の演奏を聴いた。彼らの出したアルバムは、買ったとしても部屋で聴くことはまれで、現場で聴くジャズと、部屋で聴くジャズは、わたしの場合、はっきり分かれていたように思う。