Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2008/07/30

謝罪について──J・M・クッツェー『厄年日記』より(2)

『厄年日記/Diary of a Bad Year』は2007年9月に発売された作品だが、これは3段組みのへんてこりんな(!?)構成の本で、上段にJuan(フアンと読むのか? ジュアンと読むのか? 英語なら、もちろん、ジョン──ああ、またまた!/笑)という老作家(南アフリカ出身で「Waiting for the Barbarians」という著作があるそうだ)がドイツの出版社の依頼で書いている「強力な意見」が番号をふられてならぶ。中段にはおなじマンションの最上階に住む若いフィリピン系の女性Anyaとの物語が展開し、下段には彼女とそのパートナーである男性Alanとの物語が展開する、という三層構造になっている。
 引用するのは、この上段の「強力な意見/Strong Opinions」に含まれている。そのおおかたがメッセージ性をもつ文章で、これはJuanなる作家が書いていることになっているが、もちろんそこにはクッツェー自身の影がちらほら見え隠れしている。(この老作家を「セニョールC」なんて呼ぶ場面もでてくる!)

 昨日の続きを引用する。
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今日の新聞に、法的義務を専門とするアメリカ人弁護士の広告が載っていた。時給650ドル(約8万円)でオーストラリアの会社に、義務を負わずに謝罪のことばを述べる方法を指導するとうたった広告だ。公式謝罪は、かつてはもっとも高いシンボリックなステイタスを確保していたものだが、経済人や政治家が現在の風潮──現在の「文化」と彼らが呼ぶもの──のなかで、物質的損失のリスクを負うことなく高い倫理性を獲得できる方法があることを学ぶにつれて、次第に価値のないものになってきている。
 このような展開は、ここ二十年、三十年前にさかのぼって始った、行儀作法の女性化(物腰をやわらかくすること)や、感傷的なものに仕立てることと無縁ではない。硬化しすぎて泣くことのできない男、あるいは、曲げることが不得手で謝罪できない男──もっと正確にいうと、謝罪の行為を(相手になるほどと思わせるように)演じようとしない男──は、さながら時代遅れの恐竜か、変な人物ということになり、流行遅れになってしまった。
 最初、アダム・スミスは・・・(中略)・・・。現在の「文化」では、誠実であることと誠実さを演じることを、わざわざ識別しようとしない──実際、ほとんどの人が識別する能力を失っている──ちょうど、宗教上の信仰と宗教的慣習に服従することを識別しないように。これは真の信仰ですか? とか、これは真の誠実さですか? といった胡乱な質問をしても、ぽかんとした表情が返ってくるばかりだ。真実? なんですか、それ? 誠実さ? もちろん私は誠実ですよ──前にそういいませんでした?
 高額で雇われるアメリカ人は彼の顧客に、真の(誠実な)謝罪を演じるにはどうするかを指導などしないし、見かけが真の(誠実な)謝罪でありながらじつは誤った(不誠実な)謝罪をするにはどうするかを指導するわけでもない。ただ、訴訟を起こされないための謝罪を演じるにはどうするかを指導するだけだ。彼の目には、そして彼の顧客の目には、予期せぬ、想定外の謝罪は、度を超えた、不適切な、計算違いの、それゆえに誤った謝罪のようなものなのだ。つまりは、金のかかる謝罪。金がすべてをはかる基準なのだから。
 ジョナサン・スウィフトよ、きみがこの時代に生きていたらよかったのに。

2008/07/29

謝罪について──J・M・クッツェー『厄年日記』より(1)

昨日、エミリー・カーメ・ウングワレー展を観てきた。
 すごかった。本当に、すごかった。
 その絵を観たときにかきたてられた感情をどういったらいいか。おいそれとことばにするのが躊躇われるような、ことばにするとすべて嘘になってしまいそうな、そんな感情に襲われた。
 ウングワレーは1910年ころ、オーストラリアの先住民/アボリジニとして生まれた人だ。1996年の死にいたるまでの最後の8年に、3000点とも4000点ともいわれる「作品」を描いた。
 無文字の人だ。無文字ゆえの、多くのことばをもたなかったゆえの、観る者から一瞬「ことば」を奪うほどの迫力にみちた絵を描いた。それまで溜まりに溜まったものをその身体から噴出する、いや、暴発させる力によって、画布のうえで腕を動かしつづけ、去った人だ。
 会場を出てからはたと考えた。このような力を受け止め、求め、憧れる者とは、いった何者なのか? 六本木という土地の冷房のきいた美術館で、遠く運ばれてきた絵としての彼女の作品を観る側にいる者、つまり、自分のことだ。自分からはすでに失われてしまった「プリミティヴなもの」を求めようとする「わたし」とは、いったい何者なのか?

 家に帰って、思い出した。オーストラリア市民となったJ・M・クッツェーが『厄年日記』のなかで、先住民に対する「謝罪について」書いた文章を。
 それを一部ここに訳出する。

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『オーストラリアの歴史における意味と無意味』と題する新著のなかでジョン・ハーストは白系オーストラリア人が先住オーストラリア人に対して、彼らの土地を征服し奪取したことを謝罪すべきかどうかという問題に立ち返る。懐疑的精神をもって彼は問いかける。正当な返還なしの謝罪がなんらかの意味をもつのか、事実上、それは「無意味」ではないのか、と。

 これはオーストラリアにおける入植者の子孫にとってだけでなく、南アフリカの入植者の子孫にとってもまた、さし迫った問題だ。南アフリカでは、状況はある意味でオーストラリアよりも良い。なぜなら、白人から黒人へ農場の土地の返還が、強制返還というかたちを取らざるを得ないとしても、具体的な可能性として存在するからだ。だが、オーストラリアではこれがない。何ヘクタールもの土地を所有する権利、つまり、そこで作物を生育させ家畜を飼育できる土地を所有することは、たとえ、小規模農業がその国の経済のなかでそれほど重要ではなくなりつつあるとしても、きわめて大きな、シンボリックな意味をもつ。こうして白人の手から黒人の手へ移譲される土地の断片はどれも、かつての状態を復活させることで集結する土地返還の正当性を具体化するプロセスの、一段階をしるしているように思われる。
 このような劇的なことがオーストラリアで計画されることはありえない。オーストラリアでは、下からの圧力が、比較的、弱く、断続的だ。非先住オーストラリア人は、ひと握りの人たちを除く全員が、この問題はひたすら消え去ることを願っている。合州国の場合とおなじように、先住民の土地に対する権利は消し去られ、消滅させられてしまったのだ。(つづく)

2008/07/26

2008年ケイン賞はヘンリエッタ・ローズ=イネスに

 7月7日、本年度のケイン賞は南アフリカのヘンリエッタ・ローズ=イネスに授与すると発表があった。

 アフリカン・ブッカーの異名をもつこの賞は、アフリカの作家が英語で書く作品を対象とし、賞金は1万ポンド(約216万円)。今回の受賞作「毒/Poison」は昨年4月に、南部アフリカ・ペン賞を受賞した作品でもあり、そのアンソロジー「アフリカン・ペンズ/African Pens」に収録されている。

「毒」は、ケープタウン郊外を舞台に展開される、環境破壊の危機的物語だ。ハイウェイを車で走っている主人公リンの目に、遠く都心部の上空をおおう油じみた真っ黒い雲が見える。
 2日前になにかの爆発が起きて、テレビは深刻な状況に警告を発しつづけていたのだが、リンは気にせずにいた。3日目、喉のひどい痛みで、一刻も早く郊外へ出なければ、と遅ればせながらハイウェイへ出る。ガソリンスタンドには、少しでも遠くへ逃げようとする車の長い列が続く。そんな数日間の出来事が、密度の高い文体で描き出されていく。

 ヘンリエッタ・ローズ=イネスの名はかなり前から知られていた。最初の小説『鮫の卵/Shark's Egg』が南アの出版社クウェラから出たのは──手もとにあるヴァージョンを見るかぎり──8年前で、彼女が28歳のときである。経歴が面白い。ケープタウン大学でまず考古学を専攻し、大学院ではノーベル賞作家J・M・クッツェーの指導で創作を学び、「すばらしく緊密で、澄明な文章を書く」と賞賛された。

 昨年のケイン賞受賞者はウガンダのモニカ・アラク・デ・ニェコ、その前年は南アのメアリー・ワトスン、といずれも女性作家だ。これまでの9人の同賞受賞者のうち、2000年の第1回受賞者であるスーダン出身のレイラ・アブルエラーを含めて、5人までが女性である。
 書かねばならぬ物語を、アフリカから世界に押し出す彼女たちの力に、おおいに期待したい。そして、耳を澄ましていたい。

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2008年7月22日(火)の北海道新聞夕刊コラム「世界文学・文化 アラカルト」に加筆しました。

2008/07/19

安東次男全詩全句集

安東次男のすべての詩、すべての句、代表的な評論が一冊におさめられ、まとめて俯瞰できるようになった。

 ここには安東次男という詩人のエッセンスが、ぎっしり詰まっていて、その作品に使われた日本語ということばの魅力を、あますところなく伝えている。しかも、その無駄のないことば遣いには、まれに見る、硬質な手触りがある。
 この詩人は、その作品行為に対し、完璧であろうとすることをあえて避け、未完であることを目指した。彼はおのれの作品に、そこから次の者が受け継ぐほつれ、つながり、といった「歯型」のような、抵抗感のある触感をこそ刻み付けようとしたのではないか。次の者が受け継ぐ、手がかりとして。それはこの日本という湿地において、なんとか「他者」を迎えようとする、全身全霊をかけた作業の結果ではなかったか、といま、わたしなどは思うのだ。

 表紙には、この詩人が大好きだった色、濃紺の、ざっくりとした布が貼られている。出版されたばかりの、この「安東次男全詩全句集」の内容を以下にあげておく。

 詩集 『六月のみどりの夜は』定本
    『秋の島についてのノオト』
    『人それを読んで反歌という』 CALENDRIER 補遺
     CALENDRIER 定本
    詩集補遺
    詩集資料
 
 句集 『裏山』
    『昨』
    『花筧』
    『花筧後』
    『流』
    句集補遺

 評論  現代詩の展開
    「澱河歌」の周辺
     風狂始末
     狂句こがらしの巻
     鳶の羽の巻
     梅が香の巻

 年譜、解題、著作目録

2008/07/11

自然は じつに浅く埋葬する!

7月7日、思潮社から「安東次男全詩全句集」が刊行された。

俳句から詩へ、詩から風狂の世界へ
激動の時代にきびしい美を点じ
現実から些かも退くことなく
詩の在り処を求めつづけた妥協なき生涯
詩人・安東次男、その比類なき全軌跡

菊判背継上製二重函入り、総頁数784頁/装幀=菊池信義 
定価(本体14,000+税)
折込:中村稔×粟津則雄 吉田健一 森澄雄 吉本隆明 大岡信 吉増剛造


内容は、全詩および全句と、定本に収録されなかった詩篇や、詩集初版時の野間宏や金子光晴らの跋文、あとがき、句集は初版の配列通りにならべて加藤楸邨による跋文、あとがきを含める。さらに、代表的な評論を三篇収録、従来のものを可能なかぎり増補した詳細な年譜と著作目録がつく、とある。
 

2008/07/09

映画「恥辱」がトロント映画祭へ

 ジョン・マルコヴィッチ主演で南アフリカ、オーストラリアで撮影された映画「Disgrace/恥辱」は、まず、9月にカナダのトロント国際映画祭で、スパイク・リーの新作「Miracle at St. Anna」とともに初公開されることになった。

 詳しくは ↓
 http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,25197,23990221-16955,00.html
 http://www.cbc.ca/arts/film/story/2008/07/02/tiff-special.html

 11月にはロシアでの公開が決まっている。南アフリカでの公開は2008年中、となってはいるだけで、日程はまだはっきりしない。

2008/07/07

ぼくの名まえは──安東次男詩集より(5)

ぼくの名まえは安東といいます
安はウカンムリにオンナです
東はカブラの矢でつらぬかれた太陽です
世界よ 灰色の雨期よ
ぼくはあなたにそれをあたえる

栗の樹の枝がゆれ
小粉団(こでまり)の花が咲き
かわいい紫蘇の葉がぬれている
そんな季節の変わり目がぼくにはなしかける

すべてはもとのままであるのに
どこかが永久にくるつてしまつた
なにものにも似ないあなたよ
ぼくはあなたにはなしかける

支点をうしなつたぼくの太陽
支点をうしなつたぼくの女
ぼくはそつとウカンムリのゝをおろす
そしてそれを小鳥に変貌させる

小鳥を掌にのせた女
そこで出来上るぼくの均衡
秘められた
だが囚われていない
ぼくの泉!

ぼくはあなたにそれを贈る
世界よ残忍な灰色の雨期よ、
こんこんと眠る女
小鳥を秘めて(小鳥はとぶだろうか?……)
小鳥がとびたつとき ふつとぶ世界
そのときのまぶしそうな太陽を逃すな!

 「秋の島についてのノオト」──『安東次男著作集第一巻』より

***************
 今日、7月7日は流火草堂こと詩人安東次男の誕生日。1919年に岡山県苫田郡(現・津山市)で生まれ、2002年4月9日に没。今年はその七回忌にあたる。

 1996年にふらんす堂から出た句集『流』のあとがきに「十九歳のときにたわむれに詠んだ「てつせんのほか蔓ものを愛さずに」から、七十六歳の吟「この国を捨てばやとおもふ更衣」まで、どこぞに本音ののぞいていそうな三〇四句を選んだ」とあるが、この「どこぞに本音ののぞいていそうな」という部分に、この詩人が、「書く」という行為に向き合うときの姿勢がある。それはわたしにとって、この詩人から学んだもっとも大切なことのひとつだ。 

2008/07/06

卵──安東次男詩集より(4)

 白いくさり卵を立てたように、木蓮の花が咲くと、子供は、また
醜い家鴨の子の話をせがむ。子供にはそれが大事な宇宙が壊れたよ
うに心配なのだ。赤い電車が、はがね色の気缶車が、銀のちいさな
お釜が、子供にはそれをのせて走る卵がなくなったように心配なの
だ。「タマゴ、ウムネエ」と子供は心配そうにいう。そして四つん
匐いになって尻をおとし、醜い家鴨の子の真似をして畳の上を匐っ
てまわる、「ガアガアガア」。痔病やみの父親たるぼくも、あとか
ら匐ってまわる。ぼくらは父と子と二人して、梅雨どきの匂い獣の
ように畳の上を匐ってまわるのだ。それからぼくは鶏小屋へ下りて
いって、鶏たちの朝の卵を一つ失敬する。そしてわざと子供にきこ
えるように大きな声でいう「借りるよ」。ぼくはできるだけでたら
めな盗賊であることを子供にも鶏たちにも分らせるように振る舞う
しかない。「そら」子供の前に卵をころがしていやると、子供は横
目でそれを見て「フフ」と笑う。おお何というあたらしい奇蹟がお
こっているのだ …… それから今度は子供が取りにゆく、子供は「カ
チルヨ」という。彼女はできるだけゆつくりと、宝ものの袋をあけ
るようにそれを畳の上にころがす、そして「ホーラ」といつて手を
うつて、「ウンダネ」と嬉しそうに笑う。それからもういちど、「ガ
アガアガア。」醜い家鴨の子の真似をして匐ってまわるのだ。父親た
るぼくも匐ってまわるのだ。
 そのような朝のひととき、暗い世界のうら側をのぞき見している
やつはたれだ。染め上げた脳の切片をピンセットではさむように、
無意味なことをするやつはたれだ。しかし卵にははさむところがな
い。それは、父と子の朝の太陽のように、大海のなかをころげてま
わるのだ。
            『蘭』─『安東次男著作集第一巻』より

    ***************
 前回取りあげた「みぞれ」はあまりに有名な詩です。1977年に出た著作集(青土社刊)の投げ込み月報に、詩人吉増剛造が寄せた「予感の折返し」という文でもこの詩が取りあげられていて、「安東次男の詩の根源を形成する、安東次男がものをみ、ものに触れるときの触れかたが、ここにその姿をあらわしている」とあります。
 今日書き込んだ詩「卵」は、安東次男の第二詩集『蘭』の最後におさめられた作品です。この詩篇を取りあげて論じる人は寡聞にしてわたしは知りませんが、詩人安東次男の人間臭い一面をあらわしている作品として、とても貴重だと思います。

2008/07/05

みぞれ──安東次男詩集より(3)

地上にとどくまえに
予感の
折り返し点があって
そこから
ふらんした死んだ時間たちが
はじまる
風がそこにあまがわを張ると
太陽はこの擬卵をあたためる
空のなかへ逃げてゆく水と
その水からこぼれおちる魚たち
はぼくの神経痛だ
通行どめの柵をやぶった魚たちは
収拾のつかない白骨となって
世界に散らばる
そのときひとは



泪にちかい字を無数におもいだすが
けつして泪にはならない
                      (二月)
      CALENDRIER 定本 『安東次男著作集第一巻』より

**********
安東次男の詩を、これで3篇うちあげたことになりますが、まるで、グールドのバッハを聴くような興。この詩人の特徴はことばの明晰さだと思います。ぶれのない硬質なことばで、戦後のある時期を確実に伝えています。

2008/07/04

人それを呼んで反歌という──安東次男詩集より(2)

枝の鵙は
垂直にしか下りなくなる
獲物を追う獸は
もう弧を描いては跳ばない
道に忘れられた魚だとか
けものたちの隠し穴だとか
ころがっている
林檎の歯がただとか
じつにたくさんのものが
顕われてくる
十一月の自然は
いろんな形の鍵を
浅く埋葬する
裸の思考のあとに
もうひとつの
裸の思考がやって来る
饑餓のくだもののあとに
ふかぶかと柄をうめるくだものがある
その柄は
信仰のないぼくのこころを愕かせる
柄について考えよう
見える柄について
見えない柄について
重さの上限と
軽さの下限について
反歌という名の
蔽われていない成熟について
ゆっくり考えよう
いま神の留守の
一つの柄
一つの穴
一つの歯がた
いっぴきの魚
自然は じつに浅く埋葬する。

     「人それを呼んで反歌という」──『安東次男著作集第一巻』より

********
学生時代、「自然は じつに浅く埋葬する」という一行に驚愕、得心した記憶があります。

2008/07/03

六月のみどりの夜は──安東次男詩集より

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である
それを押しかえして
酢のにおいががだよう、
練つたメリケン粉の
匂いがただよう。
ひわれた机のまえに座って、
一冊の字引あれば
その字引をとり、
骨ばつた掌に
丹念に意識をあつめ
一字一劃をじつちよくに書き取る。
今日また
一人の同志が殺された、
蔽うものもない死者には
六月の夜の
みどりの被布をかぶせよう、
踏みつぶされた手は
夜伸びる新樹の芽だ。
その油を吸つた掌のかなしみが、
いま六月の夜にかこまれて
巨大にそこに喰い入つている。
目は頑ななまでに伏目で
撫でつくされ
あかじみて
そこだけとびだしてのこつている
活字の隆起を
丹念にまだ撫でている、
それはふしぎな光景である
しかしそのふしぎな光景は
熱つぽい瞳をもつ
精いつぱいのあらがいの
掌をもつている、
敏感な指のはらから
つたわつてくるのは
やぶれた肉に
烙印された感触、
闇にふとく吸う鼻孔から
ながれこんでくるのは
はね返している酢の匂い、

五躰は
夏の夜にはげしくふるえている、

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である、
それらのなかで
机は干割れ
本や鍋や茶碗がとび散つて
それにまじつて
酢で練つたメリケン粉の
匂いがただよう、
いまはただ闇に
なみだ垂れ、
ひとすじの光る糸を
垂れ、
あわれ怒りは錐をもむ、
やさしさの
水晶の
肩ふるわせる……
そんな六月のみどりの夜は
まだ弱々しい。
        (1949・5・30事件の記念に)

                定本『安東次男著作集第1巻』より

**********
7月7日は、わたしが日本語の師と仰ぐ、故安東次男氏の誕生日です。
それにちなんで、この詩人の代表作といわれる詩をいくつか書き込みたいと思います。これは幻視の詩人、安東次男の第一詩集の表題作。「1949・5・30事件」というのは、この日、都議会で公安条例制定反対のデモ隊3千人が警官隊と衝突し、1人が3階から落下して死亡した事件のことです。

わたしのジャズ修業(4)──向き合うこと

はっきりと覚えているのは、ジャズは苦手だ、と考えた瞬間が、確かにあったことだ。たぶん16歳のときだ。北の旧植民地から、ひたすら憧れるメトロポリスの音楽は、クラシックとポップスだった。
 80年代に入ってから「みんなビートルズを聴いていた」なんて、コピーが街のあちこちに貼られたことがあったけれど、あれは嘘だ。「みんな」が聴いていたわけではない。とりわけ地方の中学、高校では「ビートルズを聴く生徒は不良だ」と教師や親がかたく信じて疑わなかった時代、それが60年代なかばの日本だった。

 わたしは中学生のとき、音楽室でEP盤(4曲入りのドーナツ盤)をかけて仲間と盛りあがり、職員会議にかけられたことがある。初来日したビートルズの武道館コンサートがテレビで放映される日など、高校の進路指導教官がわざわざ、あんなものは観るな、と授業中に念を押したりした。いまなら即「うぜーっ!」である。(ハニフ・クレイシの作品を思い出すよねえ。写真のアルバムは初めて自分のお小遣いで買ったLP。)
 だから、騙されちゃいけない。あのコピーは、歴史的事実があとから書き変えられた典型的な例といっていい。

 憧れのメトロポリスにやってきて1年、自分の好みががらりと変わっていくのがわかった。それまでの価値観のようなものを、ひたすら壊したい衝動にかられたのだろう。音楽も例外ではなかった、というより、音楽こそがそのもっとも重要な対象になっていたのかもしれない。音楽は耳という器官を通して、身体の奥底に入っていって、深くなにかを刻むからだ。
 大学でそれまで属していたオーケストラ──指揮者という独裁者が統治する全体主義の極致!!──を辞めて、トリオ、クアルテット、クインテットといった、数人が対等に演奏する形式に惹かれていった。全体の一部になることではなく、単独の存在として他の存在と向き合う形式だ。

 そう、「向き合うこと」だったのだ。それも、即興で。異なる存在と向き合うこと。楽器や声を通してやり取りすること。チャットすること。といっても、楽器を単独で弾くほどの腕はなかったから、残念ながら、もっぱら聴く方にまわざらるをえなかったのだけれど。
 そして、夜のライヴスポット通いがはじまる。
 

わたしのジャズ修業(3)──ニーナ・シモン

恐かった。こちらをにらんでいる、そう思った。「あなたがたに、わたしの歌が本当にわかるの?」と詰問されているようでもあった。

 大手町のサンケイ・ホールのステージにその人は立っていた。アップの髪に、腕と胸の出る白いロングドレスを着て、ピアノのキーを、太い腕で、力を込めて、叩くようにして弾いた。そして、喉から絞り出すような声で歌った。

 ニーナ・シモン。

「ニューポート・ジャズフェスティヴァル・イン・ジャパン」に出稼ぎにきたのだ。愛想なんか微塵もない。ほかのミュージシャンがお義理で見せる笑顔を、この人は一度も見せなかった。60年代の米国で黒人を中心にして盛り上がった公民権運動、その運動の渦中にいて、ディーヴァだった人だ。

 全然わかっていないのかもしれない、とそのときわたしは本気で考えた。そもそも「わかる」って、いったい何だ? ジャズはいい、ジャズじゃなければ、なんてはしゃいでいるけれど、上っ面をなでてるだけじゃないのか、と痛感したのもこの瞬間だった。まさに、頭から冷水。思えばそのとき、大きな宿題をもらったのかもしれない。黒い塊のような、理解不能のものを抱え込むことになったのだから。
 ニーナ・シモンを自分の部屋で聴くことは、ほとんどなかった。厳しすぎるのだ。疲れて帰ってきて、人は、また叱られるような歌を聴きたいとは思わない。アン・バートンやサラ・ヴォーンなんかのほうが、ずっと気持ちがやわらかくなって、肩の凝りもとれる。

 でも、ひっかかりはずっと続いていた。80年代初め、子育ての真っ最中に、トニ・モリスンの『青い目が欲しい』やアリス・ウォーカーの『メリディアン』を読んだとき、ここにあるのは、ニーナ・シモンの歌声とおなじ水源から流れてきた声だ。ことばになった声だ、つながった! と思った。意識の下で脈々と流れてきた水脈が、あるとき、ふいに、もうひとつの水脈と合流する瞬間だった。わが人生の最初の混乱期から、すでに、10年以上のときが流れていた。
 

2008/07/02

わたしのジャズ修業(2)──ブラウン・ベイビー

ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
おまえが大きくなっていくときは、
たっぷりと入ったカップから飲んでほしいもんだね、
すっくと、まっすぐに立って、胸をはって、
はっきりと、まわりに聞こえる声でしゃべるんだよ。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
年月がたっていくだろ、そのときは、
頭をしっかり、高くあげるんだよ、
正しいことがちゃんと通る規則のなかで、生きられるようになるといいね、
おまえには、自由へつづく道を歩いてほしい、
ちっちゃな、茶色の赤ちゃん、
だからお眠り、ぐっすりとお眠り、
このわたしの腕のなかで、安全に、お眠り、
おまえのお父ちゃん、お母ちゃんがおまえを守ってくれるまで、
おまえに降りかかる危害から守ってくれるまで。
ブラウン・ベイビー、あたしが一度ももったことのないものを、
おまえが手にするようになるなら、あたしは嬉しいよ、
人という人の心から、憎しみという憎しみが全部消えて、
いい子のおまえが、もっとましな世のなかで生きることになるんならね。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー。
             (作詞作曲/オスカー・ブラウン・Jr.)
             ************
 
それがいつだったか、はっきりと覚えてはいない。しかし、どこでこの曲を耳にしたか、それはよく覚えている。青森だ。店の名は忘れた。
 何度目かの夏休みの帰省のときだ。当時、東京から北海道へ帰省するには、上野から夜行列車に乗り、夜明け近くに青森駅について、早朝の青函連絡船に乗り継ぐのが一般的だった。空路はまだまだ高嶺の花の時代。
 青函連絡船の出発時刻までに少し時間があったのか、あるいは、東京へ帰る往路に立ち寄ったのかもしれない。とにかく、そのジャズスポットまでの地図を片手に、青森の街を歩いたことがある。

 地下の細長い店だった。入った途端、ウーン、なかなか良い音が響いているな、と思った。奥のほうに「山水」のスピーカーが2つ、少し内側に顔を向けてならんでいた。中音域の伸びがすばらしいのでボーカル向きといわれた、前面が透かし彫りになった美しいスピーカーである。
 珈琲をたのみ、店内を見まわしていると、パリパリ、と針が盤面をこする音がして、いきなり、その声が聴こえてきた。下腹部に響く、すごい声。ニーナ・シモンの「ブラウン・ベイビー」だった。

 目をあげると、遠くカウンター近くにそのLPのジャケットが飾ってあった。「いまかけているアルバムです」という意味だ。Nina Simone at the Village Gate. そこまではよく覚えている。でも、それが赤と黒のルーレット盤のジャケットだったのかどうか、よく覚えていない。いま手許にあるのは、テイチクが英国版のシリーズを出したLP「ニーナ・シモン・コレクション第6集」で、白地に、歌うニーナの横顔が描かれたものだ。ルーレット盤は、CDとして、随分あとから買った。

 でも、最初のときに受けた衝撃の感覚だけは、何十年たったいまでも、曲を聴くたびにもどってくる。あれから歩いてきた自分の道も、ぼんやりと見えてくる。(つづく)

***** オリジナル歌詞 *****
Brown Baby ──by Oscar Brown Jr.

Brown baby, brown baby. 
As you grow old
I want you to drink from the plenty cup,
I want you to stand up tall and proud,
And I want you to speak up clear and loud,
Brown baby, brown baby, brown baby,
As years go by,
I want you to go with your head up high,
I want you to live by the justice code,
And I want you to walk down freedom's road,
You little brown baby,
So lie away, lie away sleeping,
Lie away safe in my arms,
Till your daddy and your mamma protect you
And keep you safe from harm.
Brown baby, it makes me glad
You're gonna have things that I never had,
When out of all men's hearts all hate is hurled.
Sweety, you're gonna live in a better world,
Brown baby, brown baby, brown baby.

わたしのジャズ修業(1)──樽

 ジャズを聴きはじめたのは1969年の秋ごろだったように思う。4月に入学した大学が、あれよ、あれよ、というまに全学ストライキに入り、授業がまったく行われなくなってから、ほぼ1年がすぎていた。この1年間は、いま振り返ってみても、わが人生における最大の混乱期のひとつであったと思う。
 北の田舎に帰っても、やることがなく、「現場」から引き離されているというもどかしさに、すぐに東京に舞い戻った記憶がある。授業がないので、この期間はすべて独学。なにを学んだかというと、授業ではやらないことのすべてだ。それが現在にいたるまでの人生の基礎、わたしの原型を形づくった、といっても過言ではない。そこで出会ったもののひとつ、それがジャズだった。

 「スイング・ジャーナル」という分厚い雑誌に載っているジャズスポットの名前と電話番号、住所などを、茶色いリングノート(いや、スパイラルノートかな)の裏表紙にびっしりと書き出し、まず山手線と中央線の駅近辺から、手当たり次第にのぞいていった。独りで行動した。あのころ、映画も、ジャズも、本屋も、よほど気のあう仲間でなければ、いっしょに行くということはなかった。なんでも、たいていは独りでやった。そこで自分がまず、なにを聴き、なにを感じたか、それをことばにすることに全力をあげたかった。他人の感想に耳をかたむける余裕がなかったのだろう。

 新宿のピットイン(表の店と裏のライブスポット)、DIGとDUG、アカシア(なぜかロールキャベツが名物)、渋谷のスウィング、デュエット、ついでにホーローびきのカップで珈琲が出てきたブラック・ホークも、お茶の水のNARU、四谷のイーグル、神保町の響とコンボ、新橋の裏通りのビル6Fにあるジャンク、吉祥寺のファンキー(ここはフロアによってかける音楽がちがって、4Fがヴォーカルだったと思う)、ロックが多いビバップ、あちこちのぞいてみたあと、肩の凝らないスポットを見つけた。立教通りの「樽」という店だ。

 池袋から外側へ歩いて30分ほどのところに住んでいたので、大学までの道すがら、ちょっと立ち寄ることができた。そんな利点もあったけれど、毎日のように通ったのは、その店にはとても素敵なウェイトレスのお姉さんがいたからだ。もの静かで、成熟した大人の雰囲気を醸し出しながら、わたしがいつも独りで入っていくとニコッと笑って、つっぱった感じの女学生に決して反感を抱いていないことを伝えてくれた。(当時は、ジャズ喫茶へ独りで入っていく女学生というのは、きわめてまれな存在だったのだ。女性客は、たいていは男性に連れられてやってくるか、面白半分に連れ立って入ってくるケースが多かった。)
 その店はレコードをじかにかけることもあったけれど、カウンターの横に大きなTEACのオープンリールデッキが設置されていて、銀色のリールが2個ゆっくりとまわっていた。音はすばらしかった。珈琲のおかわりが半額、というのもよかった。読みかけの本をテーブルに出して、2時間ほどねばるのが常だった。(つづく)