Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2008/03/20

読書、切り抜き帳(4)──「真実和解委員会」

 『鉄の時代』の解説を書くために、いくつか資料をあたっていてぶつかった本に、『J.M.Coetzee and the Idea of the Public Intellectual, edited by Jane Poyner, Ohio Univ. Press, 2006』というのがありました。「J・M・クッツェーと、おおやけの知識人という考え方」とでもいったらいいでしょうか。

 エドワード・サイードなきあとの世界に、インターナショナルな知識人としてのクッツェーについて、いろんな人がエッセイを寄せている本です。
 巻頭に編者、ポイナーの質問に対して答える(おそらくメールでやりとりしたのかな?)クッツェーのことばがあります。ポイナーから、サイードは public intellectual についてこういってますが、そのコメントにあなたはどこまで賛成するか? と質問されたクッツェー氏、「サイードがここでいっているのはコメントではなく、定義です」と、いつもながら、まず、ことばの明晰性を確認してから、曇りない目で、現在の「知識人再興」の現象(?)について述べています。
 そのすぐ直前に、南アフリカの真実和解委員会について、ポイナーがぶつけた質問があります。それに答えるクッツェーのことばを紹介します。短いものですが、はっとする箇所がありました。少しだけ訳出します。
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ジェイン・ポイナー:南アフリカの真実和解委員会についてコメントしていただけますか? どの程度までその目的を達成できたか、告白という概念が公共の場に置かれるのは場違いなのでしょうか? 言い換えるなら、あのような告白の様式は、裁定を下す権限をもたないパフォーマンスであることを暗示しているのでしょうか?

J・M・クッツェー:公的な宗教をもたない国家において、真実和解委員会はいくぶん首尾一貫性を欠くものでした。大幅にキリスト教の教えにもとづく法廷でしたし、住民のごく一部の人たちだけが受け入れているキリスト教の教えに危ういまでにもとづくものでした。真実和解委員会がなにを成し遂げたか、それを明言できるのは未来だけでしょう。

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 真実和解委員会が成し遂げたことはたしかに大きなことだったと思うけれど、そこには積み残された問題がたくさんあるのもまた、事実のようです。
 わたしのようなアカデミック門外漢には、こういう本を読むよりは、やっぱりクッツェーの小説そのものやエッセイをじっくり読んでいるほうが面白いなあ、と思ってしまうのですが、ちょっと気になっていたことだったので、書きました。