Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2008/01/12

「バラッズ & バートン」

 あれは1990年ころ、のことだったか。新宿タカノの斜め向かいの、大きな通りに面したカフェ・ラ・ミルで、友人と話をしているとき突然、店内に流れているBGMの歌声が耳に飛び込んできた。その瞬間、恥ずかしさが全身を包んだ。なぜ、恥ずかしさ、だったのだろう、といまも思う。説明しがたいあの感覚は、いったいなんだったのか。
 歌声の主はアン・バートン。むかし聴き慣れたアルバムの、むかし聴き慣れたあの曲。しかし、カフェ・ラ・ミルで聴いた歌声の、歌詞として聴こえてくることばには、わたしの記憶と微妙にぶれるものがあって、どうやら恥ずかしさの震源は、そのぶれから立ちのぼる違和感のようだった。

 ことば。歌詞。歌声。

 アン・バートンが歌う歌詞は、よく耳を澄ますと、英語を第一言語として育った人のものとはちがう。そのことにわたしはカフェ・ラ・ミルで初めて気づいた。もちろん彼女がオランダ人であることは知っていた。知ってはいたけれど、1970年代初頭に学生をやっていた者の耳には識別できなかった。そのことが恥ずかしかったのだろうか? いや、ちょっと違うな。
 オランダ人の英語。
 彼女の歌い方がたどたどしい、というわけではないのだけれど、そこにある微妙なぶれが、丁寧に歌いあげている分、逆に、微かな居心地のわるさを感じさせたのだ。ゆったりとした、一語一語をかみしめるようにして歌う彼女の歌が、あのころの自分の心に深く沁みたからだ、とか、まるで借りを返していないみたいな気分に襲われたからだ、とか、月並みな説明もいまならできる。荒れ野にひとり立っているような、どうしようもなく暗くて、青くて、日々をやみくもに通過していた時期。京都も大阪も、まったくもって異国だ! 東京だってほとんどそうだ! わたしは「ニホンジン」じゃなかったのか! と憤りながら送る、おぼつかない都会生活の一日、一日に、あの歌声がわたしを繋ぎ留めてくれた、ということも、いまならできる。

バラッズ & バートン」は日本で2枚目に出た珠玉のアルバムだ。でも、ルイス・ファン・ダイク・トリオをバックに歌うのは、これが最後。突き抜けてくる冴えたピアノの音は、残念ながら、このアルバム以降、聴こえてこなかった。

 今回あらためて気づいたのは、現在手に入るアン・バートンのCDはメイド・イン・ジャパンだということ。AmazonのUKサイトへ行っても、USサイトへ行っても、日本語の帯のついた写真が出てくる。つまり、日本人こそが彼女のアルバムの最大の購買層なのだ。
 日本とオランダの長くて深い、しかし、日本人からはほとんど忘れられてしまった関係によって形成されたなにかが、深部でたがいに引き合う心情として、いまも残っているのだろうか。ウーン、これはなかなか興味深い。

では、珠玉のバラードからA面の出だしの曲を。
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A LOVELY WAY TO SPEND AN EVENING

This is a lovely way to spend an evening
I can't think of anything
I'd rather do
This is a lovely way to spend an evening
I can't think of anyone
As handsome as you
A casual stroll through a garden
A kiss by a lazy lagoon
Catching the breath of moonlight
Humming our favorite tune
This is a lovely way
To spend an evening
I want to save
All my nights
And spend them with you
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