Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2008/12/30

ガザ空爆に抗議する人たち──南アフリカの新聞記事、オーストラリアの新聞記事

左の写真は、南アフリカの新聞「メール&ガーディアン」の12月30日、トップ記事の写真です。

「12月30日、東京のイスラエル大使館前に約200人の人が集まり、イスラエルのガザ攻撃に抗議する集会を行った」とAFPの記事が掲載されています。



こちらは「シドニー・モーニング・ヘラルド紙」の写真。
「パレスチナの暴力の即時停止を求めて、シドニー市内を行進する2000人を超える参加者たち」

アミラ・ハス──ガザはいま

いつ来るか分からない爆撃で、次は誰が? ガザ住民は不眠と恐怖におびえる

ハアレツ紙/アミラ・ハス
2009.12.30

アブ・サラーの家族はガザのナッセル地区に住んでいる。そこはシャティ難民キャンプの近くで、キャンプ内に住むハマスの首相、イスマイル・ハニイェフの家を狙う爆撃音がはっきりと聞こえる。ハニイェフのオフィスを攻撃する音も、国連の建物を爆撃する音も聞こえる。

「息子のサラーは家を出ていきたがっているが、私はそうさせなかった」と父親のアブ・サラーは言った。「家の外でなにが起きるかわからないし、家の中だってなにが起きるかわからない」

彼は自分の言っていることを理解していた。月曜日の朝のことを言っているのだ。「これまでに経験したいちばんひどい夜、土曜日よりもひどかった。夜中の12時から7時まで眠れなかった、ひっきりなしの爆撃、爆発、救急車」そして明けた朝。

夜の1時、細長いガザ地区の端、ラファのイブナ難民キャンプがミサイル爆撃を受け、イズ・アル-ディン・アル-カッサム隊の指揮官、リアド・アル-アッタルの家に命中した。アッタルはすでに建物から家族とともに出たあとだった。

それから間もなくもう一発、このミサイルは、人間がひしめく建物に命中した。アッタルの家から300メートル離れた建物だ。家といっても、コンクリートとアスベストの小さなもので、アッバシ家の持ち家である。父親のズィアドは建築請負人で、爆撃で殺された3人の子どもたちは、いまも瓦礫のなかに埋まったままだ。3歳のサドキ、12歳のアフメド、14歳のムハンマド。両親とほかの3人の子どもたちは怪我をしている。

月曜の午後5時、ベイト・ラヒアで一軒の家が爆撃された。先のレポートは7家族が殺されたと伝える。

「親はみんな家のなかが安全だなんて思っていないし、通りも安全だとは思っていない」とウム・バセルは言う。

だれもが、破壊された瓦礫のなかから、幼い子どもが救助されるテレビの映像に見入る。

「発電機を点けたほんの一瞬、目を離すと、子どもたちが、バルシャ家の女の子たちを観るためテレビに駆け寄るの」と彼女は言った。彼女が言っているのは、5人の娘たちをなくし、4人の兄弟と両親が重傷を負ったジャバリヤの一家のことだ。

「ヤファはそのうちの一人が『母さんはどこ?』と小さな声で言ったのに気づいたのよ」と言うウム・バセルは、その夜、家族のなかで眠れた者はだれもいなかったと言い足した。「爆撃のせいで何度も飛び起きた」とも。

家の窓はすべて開けっ放しだ。爆撃によって窓ガラスが割れて、なかにいる人間が怪我をしないように──家の窓ガラスが残っている場合の話だが。

ガザ地区で窓ガラスを入手するのは不可能だ。住民はガラスの代わりにビニールシートを貼っている。そのシートも、窓ガラス同様、イスラエルが過去2年間この地区に運び込ませない製品のひとつで、かろうじて地下トンネルを経て運び込まれている。

現在、そのトンネルも封鎖され、ビニールシートが不足するのは時間の問題だ。なかでもとりわけ、ガザ住民がいま曝されているのは、自分の家のなかにいながら厳寒に対処しなければならないことだ。ほとんど常時停電していて、重油もガスも不足している。

月曜日とその前日、エジプト国境の近くに住むラファの住民は、家を出ていくように言われた。

土曜日の夜、エジプト政府はパレスチナ国家警察のメンバーに、これから砲撃が開始されるため、国境から300メートル離れろ、というイスラエルからのメッセージを伝えた。何百人という人たちが、持ち物をまとめ、ラファ市の中心部にある親戚の家に身を寄せた。彼らの人生における何百回目かの引っ越しのために。

【転送・転載 歓迎】

2008/12/29

ガザ空爆の内実──アミラ・ハスの記事より

ハアレツ紙
2008/12/29

ガザへの攻撃はハマスへの攻撃ではない、それはすべてのパレスチナ人への攻撃だ──アミラ・ハス

日曜日(12月28日)3時19分、電話の向こうで、撃ち込まれるミサイルの音が一発、聞こえた。それから、子どもの恐怖の叫び声と重なって、もう一発。ガザ市のテル・アル-ハワの近くだ。高層アパートの建物がひしめく地域、どの建物にも何十人という子どもがいて、ブロックごとに何百人もの子どもが住んでいる。

子どもたちの父親 B が、隣の家から煙があがっている、と言ったところで電話は切れた。一時間後に、アパートが二軒爆撃された、と彼は伝えてきた。一軒は無人だった。だれが住んでいるか彼は知らない。もう一軒は死者が出た。その家はロケット砲を撃つ細胞のメンバーの持ち家だが、重要な人物がいるわけではない。

日曜の正午、イスラエル空軍はガザの国家警察の敷地を爆撃した。そこにはガザ市の主要な刑務所がある。3人の囚人が殺された。2人は明らかにファタハのメンバーで、3人目はイスラエルとの共謀罪で有罪判決を受けた囚人。ハマスはガザ地区の他のほとんどの刑務所から、ここの刑務所なら安全であると考えて、囚人を移送していた。

日曜の午前12時、Sは電話で起こされた。「どうしても眠れない」と電話の主はいった。「受話器を取るとアラビア語で録音された声が聞こえ、『武器あるいは弾薬を持っている者の家は無差別に爆撃する』といったからだ」

近所の一家で3人が殺された。全員が20代の若者だ。ひとりとして武器や弾薬を持っていた者はいない。通りかかった車をイスラエル空軍が爆撃したとき、道を歩いていたにすぎない。また別の家族は16歳の娘を失い、その妹も重傷を負った。イスラエル空軍はパレスチナ行政府の警察署がかつて入っていた建物を爆撃した。そのすぐ隣が姉妹たちの通う学校だったのだ。

S は、ある友人を訪ねたとき、土曜日の爆撃の結果を目撃した。友人の仕事場はガザ市警察本部のすぐ近くにあった。その爆撃で殺された1人、ハッサン・アブ・シュナブは、かつてのハマスの主要人物、イスマイル・アブ・シュナブの長男だ。

父親のアブ・シュナブは、5年前にイスラエルが暗殺した人物で、ハマスのなかで(イスラエルとパレスチナの)二国家共存の解決案を最初に支持した政治家だった。息子のハッサンは地域の大学で職員として働きながら、警察署の楽隊で演奏するのを楽しみにしていた。彼は爆撃のあった土曜日、警察の卒業式で演奏していたところだった。

「70人の警官が殺されました。みながみなハマスのメンバーというわけではないんです」とハマスに反対の立場をとる S は語った。「ハマスを支持する人たちは職を探している若者で、サラリーが目当てだった。彼らだって生き延びたいわけですから。彼らは、それゆえに死にました。70人が皆殺しです。この襲撃はハマスに対するものじゃない。われわれ全員に対するもの、民族全員に対するものです。こんなやり方で、自分の民族や母国が破壊されることを承服するパレスチナ人はひとりもいない」

【転送・転載 歓迎】

2008/12/27

「現代詩手帖2009年1月号」──ハンス・ファファレーイの詩

<沈黙のなかに滲み出るもの>

現代詩手帖 2009年1月号」に、オランダ領ギニア(スリナム)生まれの詩人、ハンス・ファファレーイ/Hans Faverey(1933〜90)について書きました。ぱらぱらと、のぞいてみてください。

 ファファレーイの詩を初めて読んだのは、J・M・クッツェーが訳したアンソロジー『漕ぎ手たちのいる風景─オランダからの詩/Landscape with Rowers──Poetry from The Netherlands,2004』のなかでした。

 まとまった詩篇が読める英訳詩集としては『忘却にあらがい/Against the Forgetting』がフランシス・ジョーンズ/Francis R. Jonesの訳で出ています。このアンソロジーは全9冊の詩集から過不足なく選ばれていて、ファファレーイという詩人の魅力をあますところなく伝えています。タイプ文字を思わせるタイトルと、ぼかした白黒イメージが印象的なカバー下方には、次のようなことばも。

「ハンス・ファファレーイは、彼の世代ではもっとも純粋な詩的知性の持ち主だった。彼が著した宝石のように美しい詩篇は、本を閉じたあとも永く、エコーのように心のなかに響きわたる。──J・M・クッツェー」

 ファファレーイの詩を訳していると、頭のなかがシーンと透明になる瞬間があって、澄んだ空気で心身が満たされていく愉楽を感じます。
 今回の紹介と訳出は J・M・クッツェー氏の協力と激励あって初めて実現したもの。2006年9月のクッツェー氏初来日のときの会見から、翌年12月の再来日時のやりとりを経て、フランシス・R・ジョーンズ氏が英訳からの訳出を快諾してくださるまでの経緯には、なにか運命的なものを感じます。お二人に深く感謝します!

2008/12/17

アフンルパル通信

北海道という北の少し大きな島のなかの、いちばん大きな都市サトポロの郊外に「トヨヒラ」という土地がある。
 そこに住む若い出版人が「アフンルパル通信」という、とても不思議なかたちの小冊子を刊行している。すでに6号まで出ている。
「アフンルパル」というのはアイヌ語で、意味は・・・さあ、調べてみてほしい。ちょっと怖い話だよ。

 北海道は旧植民地だった。まちがいなく「植民地」だった。私はアイヌ語で「トップ」と呼ばれていた土地で生まれ、そこで育った。入植者の末裔、とまではいかないけれど、祖父母の代が入植者だった人間である。このことときちんと向き合うために、ずいぶん長い時間と準備が必要だった。長い、長い、机上の旅が必要だった。アフリカまで行ったのだから。

 さて、その日本国内の旧植民地、つまり私の「故郷」でもある北海道との抜き差しならない confrontation がもうすぐ始まろうとしている。そんな気がする。この「アフルンパル通信」はその契機になるだろう。
 第6号に掲載されている、管啓次郎さんの詩「AGENDARS 13」がまたいい。

2008/12/07

Age of Iron 米国版の表紙

長いあいだ、 Age of Iron の米国版は Viking 社から出たものと思い込んでいました。ところが違った!
 最初に発表されたのはいつものように英国版。1990年9月に Secker & Warburg 社から出ています。ところが、米国版は Random House 社からでした。
 私はこの米国版ハードカバーをもっていません。コレクションの趣味はないし、部屋は狭いし、どうしても必要な本だけ手許におくよう心がけています。それでもどんどん増えてゆく書籍。まあ、積み上げていた本が雪崩て浴室のドアがあかなくなった、という経験は幸いにしてまだありませんが…。
 さて、Age of Iron は最初にタイプスクリプトで読んでしまったので、本を買った時期は、たぶん出版されてから少しあとだったような気がします。手許にある Secker&Warburg 社ハードカバーには(右側の写真)、表紙を開いたところに「4,940」という数字がエンピツで書き込まれています。たぶん東京の洋書店が書き込んだ値段。当時、1米ドルが約150円でした。

 先日、米国版のカバー写真をみつけました(最初の白黒の表紙)。まんなかのギリシア彫刻風のデメテル像を思わせるイメージに、制服姿の黒人高校生たちが走っている場面がかぶせてあり、右下に「A Novel」とあります。1990年ころの南アフリカの激動する政治状況を前面に押し出したイメージと、しかし、この本は「小説」である、とわざわざ断り書きをしているところに、米国の読者層の、南アフリカに対する距離感をはかることができます。
 英国にとって南アフリカは長年の植民地だったわけですから、ぐんと近い。それゆえか、説明的な表記はいっさいありません。米国版はあえてドキュメントを思わせる説明的なイメージ(写真の一部)を使いながら「小説」という文字をうたっている。この作り方のちがいは、いつもながら、クッツェーの小説の売り方が英と米ではっきり異なることを表していて、一考に値します。
 

2008/11/22

オーストラリア/アジア文学賞はデイヴィッド・マルーフに

 昨夜(2008年11月21日)、オーストラリアのパースで、第一回オーストラリア/アジア文学賞の受賞者が発表された。そして(わが密かなる予想/希望どおり)デイヴィッド・マルーフ/David Malouf の短篇集/The Complete Stories(Vingate, 2008)が受賞した。
 私がこの作家を知ったのはまったくの偶然。今年3月、アデレードで開かれたライターズ・ウィークで J・M・クッツェーがマルーフを紹介する場面を観たからだ。その数カ月後には日本でも、現代のオーストラリア社会を映す短篇小説集「ダイヤモンド・ドッグ」(現代企画室)が出版され、彼の短篇「キョーグル線」が日本語で読めるようになった。
 マルーフは1934年、クイーンズランド州ブリスベンで、レバノンから移民したキリスト教徒の父とポルトガルに祖先をもつユダヤ系イギリス人の母とのあいだに生まれている。「キョーグル線」はマルーフが少年時代に父と汽車で旅をしたときの記憶をもとに書かれた短篇で、第二次世界大戦後のオーストラリアで捕虜となった3人の日本兵が出てくる。彼らの姿が当時の人々の目に、あるいは少年の目にどんなふうに写ったか、これは現代の日本人が読むとなかなかの衝撃ではないかと思う。
 
 リンクしたシドニー・モーニングヘラルド紙には(この記事のタイトルをクリック!)、第一回の受賞を喜ぶマルーフのことばも載っているが、面白いのは、この賞がオーストラリアだけでなくアジアをも射程に入れていることだ。ロングリストには村上春樹の『アフターダーク』も顔を見せていた。でも、なんといっても注目したいのは受賞時のマルーフの次のようなコメント:オーストラリアの賞のなかでも、このようにアジアを射程に入れたものは初めてで、ややもすると内向きになって国内にばかり目をやりがちなわれわれが、外に目を向けているのはとても良いことだ。

 作品が、きわめてローカル色の強いものでありながら、狭いナショナリティを超えて外に開かれていること。世界文学としていま求められているのは、それかもしれない。
 とにもかくにも、デイヴィッド・マルーフの作品がマルーフ短編集という形で、おいしい日本語でまとめて読める日がくるといいなあ!!
 

2008/11/19

写真──『鉄の時代』こぼれ話(7)........... fin

 居間の壁に架けられた、トロイの秘宝で身を飾ったソフィー・シュリーマン、大英博物館で買ってきた長衣をまとったデメテルの写真、ピアノの楽譜に印刷された「写真のなかの太った人」と描かれるバッハの顔写真、アメリカに住む娘の写真、花壇のまえで兄ポールとならぶ2歳になるかならないころの主人公エリザベスの写真、ファーカイルが家のどこかから引っ張りだしてきた黒檀の箱に仕掛けられた親族の古い写真、犯罪者みたいなアングルのファーカイルの顔写真、娘の子どもたちがオレンジ色のライフジャケット姿でカヌーに乗っている写真。

 といったふうに、『鉄の時代』には写真がふんだんに出てくる。とりわけ、ユニオンデールの家の庭で撮影された幼い主人公の写真について語られる場面は、南アフリカの土地、労働、所有といったことが滲み出てくる場面で面白い。メタモルフォシスという語と巧みに絡み合わされ、時代が変わればそこに写っているものの意味も変わる、と時間/歴史との連想を誘って圧巻。クッツェーの写真論はやがて、2005年に発表された「Slow Man」のなかで詳しく展開されることになる。<了>
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日経新聞(10月12日付)に掲載された『鉄の時代』の書評がこのサイトで読めます。

2008/11/15

名前と人種──『鉄の時代』こぼれ話(6)

 クッツェー作品にはアパルトヘイト体制当時の人種をあらわすことばがほとんど出てこない。主人公は明らかに白人=ヨーロッパ系入植者とわかる場合が多いけれど、『マイケル・K』などは逆に、非白人であることだけは推測できても、黒人なのか、カラードなのか、よほどの事情通でなければ断定できない。かくいう私も初めてペンギン版のペーパーバックで読んだときはわからなかった。(ヒントは警察の調書のなかの記号「C」に隠されていたのだが。)
鉄の時代』の舞台となるケープタウンは白人よりも非白人、とりわけ「カラード」と呼ばれた人たちが多い都市だ。この小説に出てくる浮浪者「Vercueil/ファーカイル」は1980年代後半、どのような「人種」に区分けされる人物だったのだろう。
 最初、この名前の読みがわからなかった。2006年クッツェー氏が初来日したおりに私が「ヴェルキュエィルですか?」と訊ねると、「フランス語ではそうですが、これはアフリカーンス語でファーカイルです」とのことだった。
 第2章の初めのほうに、主人公エリザベス・カレンがメイドのフローレンスに向かって「ファーカイル、ファルカイル、ファルスカイル」、そんな名前だ、という場面が出てくる。英文は「Vercueil, Verkuil, Verskuil」で、三者の違いを日本語に変換するときは、頭を抱えた。著者にメールで問い合わせると、こんな答えが返ってきた。
 
──The first two are pronounced the same way but spelled differently (the first is the original French spelling, the second a Dutch spelling of the name). The third word means "hide away." The problem this poses for the translator may be insuperable.

 つまり、Vercueil と Verkuil は同音で、スペルは前者がオリジナルのフランス語風、後者がオランダ語風。三つ目の Verskuil には「隠れる」という意味がある。ここで生じる問題を翻訳者が克服するのは困難かもしれない──そこで訳者は苦肉の策として、前二つの綴りの違いを音の違いに変換し、三つ目は音をそのまま表記した。でも「隠れる」という含意は諦めざるをえなかった。

 お分かりのように「ファーカイル/Vercueil」はフランス語起源の名前だ。16〜18世紀、カトリックを国教とするフランスで「非国民」扱いされたユグノー(新教徒)にとって、南アフリカへの移民とはオランダ人社会への同化を意味した。つまり彼らは代を重ね、オランダ語を使うようになっていったのだ。その結果、オランダ語/アフリカーンス語風に発音されるフランス語起源の名前が残った。
 ファーカイルは白人か、というと話の筋からみて明らかに違う。では、当時の人種区分としてはどのカテゴリーに入るのか? もちろんクッツェー自身は本文中でも、本文外でも、ひとことも語らない。ヒントはデレク・アトリッジの著作にあった。「カラードだろう」というのだ。(ちなみに南アでいう「coloured=カラード」には先住民、白人や先住民との混血、アジア系との混血などさまざまな人たちが含まれ、使用言語は基本的にアフリカーンス語、バンツー系の黒人/ネイティヴとは区別され、アパルトヘイト体制のヒエラルキーでは黒人より優遇された。米国でいう「colored=黒人」とはまったく違うくくりなので、要注意!)

 白人入植者が父親で有色人種が母親、という組み合わせで子どもが生まれるケースは、世界の植民の歴史のなかには無数にある。母親が生まれた子どもに父方の姓を名のらせたがることも多かった──たとえば映画『マルチニックの少年』のなかのエピソード。
 白人男性と先住民女性の組み合わせからはじまり、混血がさらに進めば、名前だけから人種を断定するのは困難になる──ムクブケリ/Mkubukeli、ベキ/Bheki、タバーネ/Thabane といった、明らかにネイティヴ/黒人系の名前は別として…。
「クッツェー」という名前にしても、白人とはかぎらない。数年前に亡くなった南ア出身のサクッス奏者、バジル・クッツェー/Bazil Coetzee は、凛とした目鼻立ちの「カラード」だった。

2008/11/09

犬について──『鉄の時代』こぼれ話(5)

『鉄の時代』には、浮浪者ファーカイルが連れてきた犬が出てくる。良家の家から盗まれた犬ではないか、と主人公エリザベスが疑う犬、ドライブにもいっしょに出かける、よく訓練された犬だ。
『少年時代』にも犬は出てくる。母親がむかし飼っていたキムというジャーマンシェパードや、家族で飼うドーベルマンの血が入った雑種犬だ。少年は犬にコサックと名づけるが、だれかに砕いたガラスを飲まされて死んでしまう。クッツェーにとって犬は身近な動物だったのだろう。

 しかし『恥辱』に出てくる犬たちは、娘ルーシーの飼うケイティというブルドッグの老雌犬をのぞいて名前をもたず、それまでの作品とは趣を異にして、犬という動物として重要な役割を振られている。英国版ハードカバーの表紙には、病み衰えた一匹の犬の後ろ姿がじつに効果的に使われていた。第22章の最後など、「犬のように?」「ええ、犬のように」という父娘の会話で終わりさえする。
 1999年に発表されたこの作品で、なぜ、惨殺される犬や、処理される対象としての犬が前面に出てきたのだろう。そこで思い出すのは、当時、南アで起きたある事件のことだ。

 アパルトヘイト体制が撤廃された1994年前後のことだったと思う。地元の新聞に、警察犬が集団で「処分」されたという記事が載った。体制を維持するための有用動物として利用されてきた犬が、もう利用価値がないとして大量に殺されたのだ。
 嗅覚の鋭いジャーマンシェバードは警察が麻薬密売の摘発などのために、空港などでよく使う犬だ。南ア警察の場合、反体制活動のかどで逮捕する「黒人」を、犬を使って捜し当ててきた歴史がある。黒人を見ると、あるいはその臭いを嗅ぎつけると、襲いかかるよう訓練された犬。また、白人の大邸宅は、外壁上部に有刺鉄線を張ったり、ガラス片を埋め込んだりして、外部から侵入できないようになっていたが、これに加えて、どの家にもドーベルマンなど大型犬が数匹飼われ、夜間は庭に放し飼いされていた。(犯罪が減らないいまも強盗よけに飼われているのだろうか。)
 ひとたび訓練された犬の再訓練は不可能とみた行政は、「黒人」を襲うよう仕込まれた犬を大量に処分した。この「処置」に対して、74年にベジタリアンになったクッツェーが烈しい憤りを感じたであろうことは容易に想像できる。

 アパルトヘイト撤廃から5年後に発表された『恥辱』は、価値観が大きく変わる社会、それまで見えなかった暴力が強盗、レイプ、殺人といった一般犯罪として噴き出てきた社会を背景にした作品だ。「暴力」というキーワードで見るなら、女性に対する暴力(セクハラ、レイプ、レイプ殺人)と、動物に対する暴力、ということになるだろうか。
 クッツェーがこの作品を書いた時期に、おびただしい件数の暴力犯罪とともに、「警察犬の大量処分」があったことは記憶しておいていいかもしれない。

2008/11/08

アフリカの若い作家たち

この夏、ナイジェリアで面白いワークショップが開かれた。ビアフラ戦争をテーマにした長編『半分のぼった黄色い太陽』(河出書房新社から邦訳予定)によって、2007年のオレンジ賞を最年少で受賞したチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが、ナイジェリア国外から実力作家たちを招き、8月19日から約10日間の、若い作家を育てるワークショップを開いたのだ。スポンサーとなったのはラゴス市のフィデリティ銀行。

 講師陣がなかなかの顔ぶれだ。ケニアからは2002年にケイン賞を受賞したビンヤヴァンガ・ワイナイナが、米国からはピュリッツァー賞の最終候補となったベストセラー作家デイヴ・エガーズと、カリブ海文化と米国黒人文化の深いつながりを書くマリー・エレナ・ジョンが参加。
 今年が第2回のワークショップは、参加者を500人の応募者から25人にしぼり、書くことをめぐって、具体的作品をめぐって、これから作品を発表しようとする卵たちが、すでに世界的に評価の高い作家たちと忌憚なく、しかもユーモアたっぷりに論じ合ったという。さぞや中身の濃いセッションであったろう。

 ナイジェリアは約10年前に軍政から民政へ移行した。その結果、壊滅状態とまでいわれた出版、ジャーナリズムが息を吹き返し、ここ数年は目をみはる活動が伝えられる。
 その一端はアディーチェのような若い作家たちが、北側諸国の大学構内や出版サロン、自室に閉じこもることなく、独自に出版社を起こしたり、ワークショップを開いたり、「考える人」を育てる活動に惜しみないエネルギーを注いでいるからかもしれない。
 アフリカでは「書くこと」が政治、経済、社会の活動に直結しているのだ。

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2008年10月28日北海道新聞夕刊に掲載したものです。

2008/11/05

「White Writing」──『鉄の時代』こぼれ話(4)

 クッツェーは『鉄の時代』を書きながら、じつは、南アフリカの白人文学についてエッセイを書いていた。1988年にイェール大学出版局から出る「ホワイト・ライティング/White Writing」である。
 1652年にアフリカ大陸南端の喜望峰にヨーロッパ人がはじめて植民地をつくってから、ヨーロッパ系植民者がどのような視点から文学を紡ぎだしてきたか、それを詩や、農場を舞台にした小説を具体的に論じながら解明した。そして、植民者たちがどのような人間的退廃をたどっていったかを明らかにしたのだ。
 クッツェーの結論は次のようなものだった。

「最終的にそういわざるをえないのは、アフリカにおける静寂と空漠との出会いを言祝ぐ詩のなかには、それまで、たとえ人間がひしめいていたわけではないにしろ、空っぽではなかったひとつの土地を静寂と空漠の土地と見なそうとする、そんな確かな歴史的意志があると読み取らないわけにはいかないことだ。そこは乾燥し、不毛であったかもしれないが、人間の生活に適さなかったわけではなく、もちろん、人が住んでいなかったわけでもない。ウィリアム・バーチェルからローレンス・ヴァン・デル・ポストまで、植民地支配のために書かれたものは、ブッシュマンを南アフリカのもっとも真正な先住民と見なしてきた。だが、そのロマンスはまさに、ブッシュマンが滅びゆく種族に属していることにあった。公式の歴史文書は長いあいだ、19世紀のキリスト教の時代まで、われわれが現在南アフリカと呼んでいる内陸がいかに無人であったかという物語を伝えてきた。空っぽの空間を詠う詩はいつの日か、同様のフィクションをさらに発展させたことで、告発されることになるかもしれない」

 植民地化された土地に対するこの見方は、『鉄の時代』のなかで一枚の写真をめぐって主人公エリザベス・カレンが述べることばとも響きあう。花壇の前で肩から幼児用ベルトをつけた幼い姿で、母や兄といっしょに撮影された写真。その写真の枠外にいる者たちのことを語る部分だ。
 クッツェーのこの視点は、オーストラリアへ移住したあとも「人はだれしも、出自に関係なく、新たに自分の住むことになった国の歴史上の過去を、自分のものとして受け入れる義務があるのだ──たとえ漠としたものであっても」と述べることばへとつながっていく。

2008/10/31

クッツェーの表情──『鉄の時代』こぼれ話(3)

<厳しさと柔らかさと>── 2007年12月初め、痩身の作家はオフホワイトのさらりとしたワイシャツ姿で約束の場所にあらわれた。南アフリカ出身でオーストラリアに住むノーベル賞作家J・M・クッツェー氏が初来日したのはその前年の秋。

(このつづきの主な部分、『鉄の時代』のタイトルをめぐるエピソードは、2009年11月に出る『南アフリカを知るための60章』(明石書店)に載せていただくことになりました。恐れ入りますが、ぜひ、そちらを読んでください。)

2008/10/30

第2回中東国際映画祭、J・M・クッツェー原作の『Disgrace』が最優秀作品賞

2008年10月20日 12:26 発信地:アブダビ/アラブ首長国連邦──AFPによる。

 第2回中東国際映画祭、クッツェー原作の『Disgrace』が最優秀作品賞を受賞した。
 スティーヴ・ジェイコブス(Steve Jacobs)監督が手掛けたこの作品は、ノーベル賞作家J・M・クッツェー(J.M. Coetzee)の同名小説を下敷きにしたもので、主演はジョン・マルコヴィッチ(John Malkovich)。最高賞の「黒真珠賞」として賞金20万ドル(約2000万円)が授与された。
 映画祭には、34か国から長編76本、短編34本が出品された。
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このところ映画「Disgrace」のチェックを怠っていたら、なんと、中東国際映画祭で最優秀作品賞を受賞していました!

2008/10/29

バッハはやっぱりグールド──『鉄の時代』こぼれ話(2)

<ショパンはリパッティ、
バッハはやっぱりグールド>

鉄の時代』には、主人公のエリザベス・カレンが夕暮れに、ピアノにむかってバッハやショパンの曲を弾く場面がある。バッハは作者クッツェー氏のごひいきの作曲家だ。訳了した2007年9月、ふと、だれの弾くショパンやバッハが好みなのだろう、と思って訊ねてみると、こんな答えが返ってきた。

「ショパンは、若い演奏家は知りませんが、わたしが好きなのはたぶん、何年も前に亡くなったルーマニア出身のディヌ・リパッティです。バッハとなると、やはりグレン・グールドを選ばざるをえないと思います。とはいえ、ミセス・カレンがバッハの音楽に、グールドとおなじアプローチをしているわけではありませんが──」

 この最後のところでは、思わず脱力──!!

2008/10/15

名前のメタモルフォシス──『鉄の時代』こぼれ話(1)

「J.M.クッツェーの作品に出てくる名前をテーマにすると、それだけで論文がひとつ書ける」

といったのは、すぐれたJ.M.クッツェー論『J.M.Coetzee and the Ethics of Reading/J.M.クッツェーと読みの倫理学』(Chicago Univ. Press, 2004)を書いたデレク・アトリッジだった。

『鉄の時代』を訳しながら、よくこのアトリッジのことばを思い出した。そして考えたのは、主人公ミセス・カレンの名前のことだ。
 主人公は引退したラテン語教師で、ファーストネームをエリザベスという。ペーバーバックの原書や書評には当然のようにこの名が出てくるのに『鉄の時代』本文中には一度も出てこない。主人公が自分のイニシャル「E C」を末尾に記したメモを、キッチンテーブルに残す場面があるだけ。ではなぜ、「エリザベス」という名が広く知られるようになったのか。
 それは、作者であるクッツェー自身がデイヴィッド・アトウェルとのインタビューのなかで、ぽろっと明かしてしまったからだ。それも、原著(1990年刊)がまだ出版されていないときに…。でも、そのインタビューが掲載されたエッセイ集『Doubling the Point/ダブリング・ザ・ポイント』が出たのは、原著『鉄の時代』より少しだけあとのことでしたけれどネ。

 ガンの再発を告知され、物語の最終部で命を閉じる主人公「エリザベス・カレン」の名は、やがて、2003年9月に発表された『Elizabeth Costello/エリザベス・コステロ』となってよみがえる。この作品、原著が出たのはクッツェーがオーストラリアへ移住したあとのなで、中身はすべてオーストラリアへ移ってから書かれたものと思われがちだが、半分以上はケープタウンに住んでいたときに個別に発表されたテキスト。
 原著は8つの章から構成されているけれど(残念なことに邦訳は2つの章を削除)、その第1章におさめられたのは、1996年11月にチャップブックとして出された「What is Realism?/リアリズムとはなにか?」という講演記録だ。どうやらこのとき初めてクッツェー作品に「エリザベス・コステロ」なる人物の名前が登場したようだ。(付記:2019.2.12──1995年12月のオランダでの講演が最初で、翌年11月のベニントン・カレッジでの講演が英語圏での初登場。)
 『鉄の時代』が出てから約6年後、娘に遺書を書いてこの世を去ったケープタウンの元ラテン語教師エリザベス・カレン(Curren)が、歯に衣着せぬ発言をいとわないオーストラリアの作家エリザベス・コステロ(Costello)となって、見事によみがえったのだ。

 でも、よみがえったのはエリザベスだけではなかった。『鉄の時代』の主人公には、ポールという兄がいた。作中ではすでに死んだことになっているけれど、この名はオーストラリアへ移住して書いた初小説『Slow Man/スロー・マン』の主人公となってよみがえる。写真をめぐるイメージまで絡ませながら。ポールという名は、じつはほかの作品にも出てくる(2016.9.30付記:『青年時代』に出てくる大学時代の友人の名だ)。クッツェーにとって、よほどお気に入りの名前らしい。
 こんなふうに、クッツェーの作中人物の名前は転身したり、少しだけ変形したりして、それぞれの作品の余韻を残しながら、あちこちの作品内に登場する。もちろん交互に響き合う効果を考えてのことだろう。そういえば、最新作『Diary of a Bad Year/厄年日記』の主人公の名前が「ジュアン/フアン/Juan(Johnのスペイン語風)」とか「セニョール・C」となっていて『Waiting for the Barbarians/夷狄を待ちながら』という作品を書いた南アフリカ出身の作家という設定だから、ここにもまた作家であるクッツェー自身を連想させる、ちょっとずらした名前が埋め込まれているのがわかる。

 名前といえば、アトリッジはまたこんなこともいっていたっけ。
「クッツェー作品を論じる多くの文章のなかで、なぜか登場人物が女性の場合、それがファーストネームで呼ばれることが多いが、これはアンフェアではないか」と。たとえば『Foe/敵、あるいはフォー』の主人公はスーザン・バートンという名だが、論じられる文章のなかではもっぱら「スーザン」と呼ばれ、「ミセス・バートン」とは呼ばれない、と。
 これもまた一考に値する指摘かもしれない。

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付記:これから何回かに分けて、「解説」からこぼれてしまったエピソードや裏話のようなものを書いていきたいと思います。お楽しみください。

2008/10/04

『鉄の時代』──J・M・クッツェー著

「少年の見開かれた目を思うたび、わたしの表情は醜悪になっていく。それを治す薬草は、この岸辺の、いったいどこに生えているのだろう」

帯の挿画はタダジュンさんの銅板画。
初めて見るのに、なにかを思い出す、
記憶にじんわり沁み入るような、
不思議は感じの絵です。

(池澤夏樹個人編集 世界文学全集第1期11巻、河出書房新社刊、2008)

この『鉄の時代』は1980年代後半のケープタウンを舞台にした小説です。南アフリカのアパルトヘイト体制末期の激動の時代。J・M・クッツェーは、20代にいったんは去った南アフリカへもどる決意をし、以来、その地に住みつづけて数々の傑作を発表してきた作家です。これは当時の社会状況と拮抗するような、緊迫感にみちた筆致でしたためた作品。「数々の偽装を凝らした」クッツェー作品の、かなめに位置する作品といえるでしょう。

 詳しくは→本棚へ

2008/09/19

翻訳をめぐる名言「ゲラが火事になった!」

1980年代なかばだったでしょうか、いや、1990年代初めだったかもしれません。その人の口からじかに聞いて以来、翻訳に対する心構えとして、肝に銘じていることばがあります。

 それは、1975年にリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を訳し、斬新な翻訳文体で日本の翻訳文学にまったく新しい風を吹き込んだ、藤本和子さんのことばです。

 「翻訳はどのようなコンテキストで紹介されるかが生命」

 だから、解説はとても重要な要素ということになるでしょうか。
 2008年5月に青山ブックセンターで行われたトークショーで、新潮文庫に入った『芝生の復讐』について語りながら、「ゲラが火事になった」とおっしゃったのが印象的でした。つまり、朱が入って真っ赤になったという意味です。「だって、間違いだってわかったものを、訂正しないわけないはいかないでしょ」とも。
 文庫化にあたって、あの大先輩の翻訳家は、細部におよぶ微妙な朱入れを、徹底的にやる姿勢をいまも崩していない。その真摯な姿勢は感動的でした。

2008/09/09

『鉄の時代』できました!

できあがりました!

もうすぐ本屋さんにならびます。
帯の挿画はタダジュンさんの銅板画。
初めて見るのに、なにかを思い出す、
記憶にじんわり沁み入るような、
不思議は感じの絵です。

(池澤夏樹個人編集 世界文学全集第1期11巻、河出書房新社刊、2008)

2008/09/08

トロント国際映画祭で『Disgrace/恥辱』プレミア上映

現地時間で9月6日夕刻、J.M.クッツェーの原作をもとにした映画『Disgrace/恥辱』が初公開されました。

写真左から、デイヴィッド・ルーリー役のジョン・マルコヴィッチ、脚本のアナ=マリア・モンティセッリ、ルーシー役のジェシカ・ヘインズ、監督のスティーヴ・ジェイコブズ。

詳しくはこちらで、
http://tiff08.ca/filmsandschedules/films/disgrace

写真は、
http://uk.news.yahoo.com/ap/20080907/img/pen-toronto-film-festival-d-60eec7f4b187.html

記事は、
http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,25197,24309727-5013404,00.html

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早く観たい!!!!──エスペランサのつぶやき

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追記(2008.9.13):「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」にこの映画の評(Joan Dupont 記者)が載りました。そのなかでクッツェーがこの映画について述べたコメントが引用されています。

「スティーヴ・ジェイコブズは、南アフリカという大きな風景のなかに物語を溶け込ませることに巧く成功している。中心となる俳優たちは力強く、考え抜いた演技をしている」

ますます楽しみになってきました。その記事によれば、すでに配給権は南アフリカをはじめ、ヨーロッパ各国、トルコ、イスラエル、ブラジル、メキシコに売れたと伝えられています。日本の配給会社も早く買ってください!

2008/09/04

9月6日のNHK週刊ブックレビューに

明後日の9月6日、午前8時半から放映のNHK衛生第2放送の番組、「週刊ブックレビュー」に出ます。(再放映は翌7日午後11時45分からです。)
今日、無事に収録が終わりました。ほっ。一押しに紹介した本は、エイミー・ベンダー著/管啓次郎訳『わがままなやつら』(角川書店刊)です。

 ほかにも、リチャード・ブローティガン著/藤本和子訳『芝生の復讐』(新潮文庫)と、安東次男句集『』(ふらんす堂刊)を紹介しました。

 ごいっしょしたのは、作家の高橋源一郎さんと、資生堂名誉会長の福原義春さん。始るまではどきどきしましたが、なかなか楽しい収録でした。

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J.M.クッツェー著/拙訳『鉄の時代』の表紙がついにアップされました。
どうぞこちらへ

2008/09/03

「薄明かりの時間」

今月の「水牛のように」に素敵なことばが載っています。

 高橋悠治さんの「連続し高揚する運動ではなく 一音一音のあいだに静寂が煙っている薄明りの時間」ということばです。

 とりわけ「静寂が煙っている薄明かりの時間」という表現が素敵。思わず、こうして書き写してしまいました。

 「Le crépuscule du matin/朝の薄明」とか「Le crépuscule du soir/夕べの薄明」 とか、ボードレールの詩も思い出されて──。

2008/08/26

現代詩手帖 9月号に

「現代詩手帖 9月号 安東次男、その風狂の精神」に書きました。

 初めて安東次男という詩人に出会ったときの記憶や、句集『裏山』に収められた、

 蜩といふ名の裏山をいつも持つ

という句をめぐるエピソードなど、短いけれど気を入れて書きました。

2008/08/25

映画「Disgrace/恥辱」のシナリオライターが受賞

J.M.クッツェーの小説『Disgrace/恥辱』がジョン・マルコヴィッチの主演で映画化され、来月、トロント映画祭で初めて上映されることになったのは、前にも書きました。
 そのシナリオを書いたアナ=マリア・モンティセッリ(写真)が、オーストラリア作家組合が主催する、小説作品のベスト映画化賞を受賞しました。

 クッツェーがこの小説の映画化権をだれに許可するか、ハリウッドを中心に何度もプランが浮上しては消えましたが、それは作家自身がスクリプトを読んで、許諾を出す権利をもっていたからです。最終的にオーケーが出たのは、もと女優でモデルのアナ=マリア・モンティセッリのものだったというのが面白い。彼女がスクリプトを書くのは2度目だそうです。
 決めてはオリジナル作品をゆがめないこと、テーマはもちろん細やかなニュアンスをスクリーンできちんと再現すること、だったとか。でも、映画は最後の部分を少しだけアレンジしてあり、クッツェー自身もそれを許諾したと伝えられています。さて、どんなふうに変わっているのか、楽しみです。

 監督は夫のスティーヴ・ジェイコブズ。主演はジョン・マルコヴィッチ、ルーシー役はジェシカ・ヘインズ。ペトルス役が、コンゴの悲劇的英雄パトリス・ルムンバを描いた映画『ルムンバ』のエリック・エブアニです。
 映画はトロント映画祭でプレミア上映されたあと、9月にオーストラリアで封切られる予定。

*この項のタイトルをクリックすると、The Sydney Morning Herald の記事へ行けます。

2008/08/18

「ボードレールと日本」(上)──鏡のなかのボードレール、補遺1

 わが師、安東次男にもボードレールについて書いた文章がいくつかあった、と思い出して、著作集をひもときました。ありました。 1967年に「ボードレールと日本」と題した文章が発表されています。ボードレールが日本でどのように読まれてきたかを示す例として、とても面白い内容なので、補遺として2回に分けて紹介します。

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この投稿は、拙著『鏡のなかのボードレール』におさめられることになりました。

2008/07/30

謝罪について──J・M・クッツェー『厄年日記』より(2)

『厄年日記/Diary of a Bad Year』は2007年9月に発売された作品だが、これは3段組みのへんてこりんな(!?)構成の本で、上段にJuan(フアンと読むのか? ジュアンと読むのか? 英語なら、もちろん、ジョン──ああ、またまた!/笑)という老作家(南アフリカ出身で「Waiting for the Barbarians」という著作があるそうだ)がドイツの出版社の依頼で書いている「強力な意見」が番号をふられてならぶ。中段にはおなじマンションの最上階に住む若いフィリピン系の女性Anyaとの物語が展開し、下段には彼女とそのパートナーである男性Alanとの物語が展開する、という三層構造になっている。
 引用するのは、この上段の「強力な意見/Strong Opinions」に含まれている。そのおおかたがメッセージ性をもつ文章で、これはJuanなる作家が書いていることになっているが、もちろんそこにはクッツェー自身の影がちらほら見え隠れしている。(この老作家を「セニョールC」なんて呼ぶ場面もでてくる!)

 昨日の続きを引用する。
***********

今日の新聞に、法的義務を専門とするアメリカ人弁護士の広告が載っていた。時給650ドル(約8万円)でオーストラリアの会社に、義務を負わずに謝罪のことばを述べる方法を指導するとうたった広告だ。公式謝罪は、かつてはもっとも高いシンボリックなステイタスを確保していたものだが、経済人や政治家が現在の風潮──現在の「文化」と彼らが呼ぶもの──のなかで、物質的損失のリスクを負うことなく高い倫理性を獲得できる方法があることを学ぶにつれて、次第に価値のないものになってきている。
 このような展開は、ここ二十年、三十年前にさかのぼって始った、行儀作法の女性化(物腰をやわらかくすること)や、感傷的なものに仕立てることと無縁ではない。硬化しすぎて泣くことのできない男、あるいは、曲げることが不得手で謝罪できない男──もっと正確にいうと、謝罪の行為を(相手になるほどと思わせるように)演じようとしない男──は、さながら時代遅れの恐竜か、変な人物ということになり、流行遅れになってしまった。
 最初、アダム・スミスは・・・(中略)・・・。現在の「文化」では、誠実であることと誠実さを演じることを、わざわざ識別しようとしない──実際、ほとんどの人が識別する能力を失っている──ちょうど、宗教上の信仰と宗教的慣習に服従することを識別しないように。これは真の信仰ですか? とか、これは真の誠実さですか? といった胡乱な質問をしても、ぽかんとした表情が返ってくるばかりだ。真実? なんですか、それ? 誠実さ? もちろん私は誠実ですよ──前にそういいませんでした?
 高額で雇われるアメリカ人は彼の顧客に、真の(誠実な)謝罪を演じるにはどうするかを指導などしないし、見かけが真の(誠実な)謝罪でありながらじつは誤った(不誠実な)謝罪をするにはどうするかを指導するわけでもない。ただ、訴訟を起こされないための謝罪を演じるにはどうするかを指導するだけだ。彼の目には、そして彼の顧客の目には、予期せぬ、想定外の謝罪は、度を超えた、不適切な、計算違いの、それゆえに誤った謝罪のようなものなのだ。つまりは、金のかかる謝罪。金がすべてをはかる基準なのだから。
 ジョナサン・スウィフトよ、きみがこの時代に生きていたらよかったのに。

2008/07/29

謝罪について──J・M・クッツェー『厄年日記』より(1)

昨日、エミリー・カーメ・ウングワレー展を観てきた。
 すごかった。本当に、すごかった。
 その絵を観たときにかきたてられた感情をどういったらいいか。おいそれとことばにするのが躊躇われるような、ことばにするとすべて嘘になってしまいそうな、そんな感情に襲われた。
 ウングワレーは1910年ころ、オーストラリアの先住民/アボリジニとして生まれた人だ。1996年の死にいたるまでの最後の8年に、3000点とも4000点ともいわれる「作品」を描いた。
 無文字の人だ。無文字ゆえの、多くのことばをもたなかったゆえの、観る者から一瞬「ことば」を奪うほどの迫力にみちた絵を描いた。それまで溜まりに溜まったものをその身体から噴出する、いや、暴発させる力によって、画布のうえで腕を動かしつづけ、去った人だ。
 会場を出てからはたと考えた。このような力を受け止め、求め、憧れる者とは、いった何者なのか? 六本木という土地の冷房のきいた美術館で、遠く運ばれてきた絵としての彼女の作品を観る側にいる者、つまり、自分のことだ。自分からはすでに失われてしまった「プリミティヴなもの」を求めようとする「わたし」とは、いったい何者なのか?

 家に帰って、思い出した。オーストラリア市民となったJ・M・クッツェーが『厄年日記』のなかで、先住民に対する「謝罪について」書いた文章を。
 それを一部ここに訳出する。

******************
『オーストラリアの歴史における意味と無意味』と題する新著のなかでジョン・ハーストは白系オーストラリア人が先住オーストラリア人に対して、彼らの土地を征服し奪取したことを謝罪すべきかどうかという問題に立ち返る。懐疑的精神をもって彼は問いかける。正当な返還なしの謝罪がなんらかの意味をもつのか、事実上、それは「無意味」ではないのか、と。

 これはオーストラリアにおける入植者の子孫にとってだけでなく、南アフリカの入植者の子孫にとってもまた、さし迫った問題だ。南アフリカでは、状況はある意味でオーストラリアよりも良い。なぜなら、白人から黒人へ農場の土地の返還が、強制返還というかたちを取らざるを得ないとしても、具体的な可能性として存在するからだ。だが、オーストラリアではこれがない。何ヘクタールもの土地を所有する権利、つまり、そこで作物を生育させ家畜を飼育できる土地を所有することは、たとえ、小規模農業がその国の経済のなかでそれほど重要ではなくなりつつあるとしても、きわめて大きな、シンボリックな意味をもつ。こうして白人の手から黒人の手へ移譲される土地の断片はどれも、かつての状態を復活させることで集結する土地返還の正当性を具体化するプロセスの、一段階をしるしているように思われる。
 このような劇的なことがオーストラリアで計画されることはありえない。オーストラリアでは、下からの圧力が、比較的、弱く、断続的だ。非先住オーストラリア人は、ひと握りの人たちを除く全員が、この問題はひたすら消え去ることを願っている。合州国の場合とおなじように、先住民の土地に対する権利は消し去られ、消滅させられてしまったのだ。(つづく)

2008/07/26

2008年ケイン賞はヘンリエッタ・ローズ=イネスに

 7月7日、本年度のケイン賞は南アフリカのヘンリエッタ・ローズ=イネスに授与すると発表があった。

 アフリカン・ブッカーの異名をもつこの賞は、アフリカの作家が英語で書く作品を対象とし、賞金は1万ポンド(約216万円)。今回の受賞作「毒/Poison」は昨年4月に、南部アフリカ・ペン賞を受賞した作品でもあり、そのアンソロジー「アフリカン・ペンズ/African Pens」に収録されている。

「毒」は、ケープタウン郊外を舞台に展開される、環境破壊の危機的物語だ。ハイウェイを車で走っている主人公リンの目に、遠く都心部の上空をおおう油じみた真っ黒い雲が見える。
 2日前になにかの爆発が起きて、テレビは深刻な状況に警告を発しつづけていたのだが、リンは気にせずにいた。3日目、喉のひどい痛みで、一刻も早く郊外へ出なければ、と遅ればせながらハイウェイへ出る。ガソリンスタンドには、少しでも遠くへ逃げようとする車の長い列が続く。そんな数日間の出来事が、密度の高い文体で描き出されていく。

 ヘンリエッタ・ローズ=イネスの名はかなり前から知られていた。最初の小説『鮫の卵/Shark's Egg』が南アの出版社クウェラから出たのは──手もとにあるヴァージョンを見るかぎり──8年前で、彼女が28歳のときである。経歴が面白い。ケープタウン大学でまず考古学を専攻し、大学院ではノーベル賞作家J・M・クッツェーの指導で創作を学び、「すばらしく緊密で、澄明な文章を書く」と賞賛された。

 昨年のケイン賞受賞者はウガンダのモニカ・アラク・デ・ニェコ、その前年は南アのメアリー・ワトスン、といずれも女性作家だ。これまでの9人の同賞受賞者のうち、2000年の第1回受賞者であるスーダン出身のレイラ・アブルエラーを含めて、5人までが女性である。
 書かねばならぬ物語を、アフリカから世界に押し出す彼女たちの力に、おおいに期待したい。そして、耳を澄ましていたい。

**********
2008年7月22日(火)の北海道新聞夕刊コラム「世界文学・文化 アラカルト」に加筆しました。

2008/07/19

安東次男全詩全句集

安東次男のすべての詩、すべての句、代表的な評論が一冊におさめられ、まとめて俯瞰できるようになった。

 ここには安東次男という詩人のエッセンスが、ぎっしり詰まっていて、その作品に使われた日本語ということばの魅力を、あますところなく伝えている。しかも、その無駄のないことば遣いには、まれに見る、硬質な手触りがある。
 この詩人は、その作品行為に対し、完璧であろうとすることをあえて避け、未完であることを目指した。彼はおのれの作品に、そこから次の者が受け継ぐほつれ、つながり、といった「歯型」のような、抵抗感のある触感をこそ刻み付けようとしたのではないか。次の者が受け継ぐ、手がかりとして。それはこの日本という湿地において、なんとか「他者」を迎えようとする、全身全霊をかけた作業の結果ではなかったか、といま、わたしなどは思うのだ。

 表紙には、この詩人が大好きだった色、濃紺の、ざっくりとした布が貼られている。出版されたばかりの、この「安東次男全詩全句集」の内容を以下にあげておく。

 詩集 『六月のみどりの夜は』定本
    『秋の島についてのノオト』
    『人それを読んで反歌という』 CALENDRIER 補遺
     CALENDRIER 定本
    詩集補遺
    詩集資料
 
 句集 『裏山』
    『昨』
    『花筧』
    『花筧後』
    『流』
    句集補遺

 評論  現代詩の展開
    「澱河歌」の周辺
     風狂始末
     狂句こがらしの巻
     鳶の羽の巻
     梅が香の巻

 年譜、解題、著作目録

2008/07/11

自然は じつに浅く埋葬する!

7月7日、思潮社から「安東次男全詩全句集」が刊行された。

俳句から詩へ、詩から風狂の世界へ
激動の時代にきびしい美を点じ
現実から些かも退くことなく
詩の在り処を求めつづけた妥協なき生涯
詩人・安東次男、その比類なき全軌跡

菊判背継上製二重函入り、総頁数784頁/装幀=菊池信義 
定価(本体14,000+税)
折込:中村稔×粟津則雄 吉田健一 森澄雄 吉本隆明 大岡信 吉増剛造


内容は、全詩および全句と、定本に収録されなかった詩篇や、詩集初版時の野間宏や金子光晴らの跋文、あとがき、句集は初版の配列通りにならべて加藤楸邨による跋文、あとがきを含める。さらに、代表的な評論を三篇収録、従来のものを可能なかぎり増補した詳細な年譜と著作目録がつく、とある。
 

2008/07/09

映画「恥辱」がトロント映画祭へ

 ジョン・マルコヴィッチ主演で南アフリカ、オーストラリアで撮影された映画「Disgrace/恥辱」は、まず、9月にカナダのトロント国際映画祭で、スパイク・リーの新作「Miracle at St. Anna」とともに初公開されることになった。

 詳しくは ↓
 http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,25197,23990221-16955,00.html
 http://www.cbc.ca/arts/film/story/2008/07/02/tiff-special.html

 11月にはロシアでの公開が決まっている。南アフリカでの公開は2008年中、となってはいるだけで、日程はまだはっきりしない。

2008/07/07

ぼくの名まえは──安東次男詩集より(5)

ぼくの名まえは安東といいます
安はウカンムリにオンナです
東はカブラの矢でつらぬかれた太陽です
世界よ 灰色の雨期よ
ぼくはあなたにそれをあたえる

栗の樹の枝がゆれ
小粉団(こでまり)の花が咲き
かわいい紫蘇の葉がぬれている
そんな季節の変わり目がぼくにはなしかける

すべてはもとのままであるのに
どこかが永久にくるつてしまつた
なにものにも似ないあなたよ
ぼくはあなたにはなしかける

支点をうしなつたぼくの太陽
支点をうしなつたぼくの女
ぼくはそつとウカンムリのゝをおろす
そしてそれを小鳥に変貌させる

小鳥を掌にのせた女
そこで出来上るぼくの均衡
秘められた
だが囚われていない
ぼくの泉!

ぼくはあなたにそれを贈る
世界よ残忍な灰色の雨期よ、
こんこんと眠る女
小鳥を秘めて(小鳥はとぶだろうか?……)
小鳥がとびたつとき ふつとぶ世界
そのときのまぶしそうな太陽を逃すな!

 「秋の島についてのノオト」──『安東次男著作集第一巻』より

***************
 今日、7月7日は流火草堂こと詩人安東次男の誕生日。1919年に岡山県苫田郡(現・津山市)で生まれ、2002年4月9日に没。今年はその七回忌にあたる。

 1996年にふらんす堂から出た句集『流』のあとがきに「十九歳のときにたわむれに詠んだ「てつせんのほか蔓ものを愛さずに」から、七十六歳の吟「この国を捨てばやとおもふ更衣」まで、どこぞに本音ののぞいていそうな三〇四句を選んだ」とあるが、この「どこぞに本音ののぞいていそうな」という部分に、この詩人が、「書く」という行為に向き合うときの姿勢がある。それはわたしにとって、この詩人から学んだもっとも大切なことのひとつだ。 

2008/07/06

卵──安東次男詩集より(4)

 白いくさり卵を立てたように、木蓮の花が咲くと、子供は、また
醜い家鴨の子の話をせがむ。子供にはそれが大事な宇宙が壊れたよ
うに心配なのだ。赤い電車が、はがね色の気缶車が、銀のちいさな
お釜が、子供にはそれをのせて走る卵がなくなったように心配なの
だ。「タマゴ、ウムネエ」と子供は心配そうにいう。そして四つん
匐いになって尻をおとし、醜い家鴨の子の真似をして畳の上を匐っ
てまわる、「ガアガアガア」。痔病やみの父親たるぼくも、あとか
ら匐ってまわる。ぼくらは父と子と二人して、梅雨どきの匂い獣の
ように畳の上を匐ってまわるのだ。それからぼくは鶏小屋へ下りて
いって、鶏たちの朝の卵を一つ失敬する。そしてわざと子供にきこ
えるように大きな声でいう「借りるよ」。ぼくはできるだけでたら
めな盗賊であることを子供にも鶏たちにも分らせるように振る舞う
しかない。「そら」子供の前に卵をころがしていやると、子供は横
目でそれを見て「フフ」と笑う。おお何というあたらしい奇蹟がお
こっているのだ …… それから今度は子供が取りにゆく、子供は「カ
チルヨ」という。彼女はできるだけゆつくりと、宝ものの袋をあけ
るようにそれを畳の上にころがす、そして「ホーラ」といつて手を
うつて、「ウンダネ」と嬉しそうに笑う。それからもういちど、「ガ
アガアガア。」醜い家鴨の子の真似をして匐ってまわるのだ。父親た
るぼくも匐ってまわるのだ。
 そのような朝のひととき、暗い世界のうら側をのぞき見している
やつはたれだ。染め上げた脳の切片をピンセットではさむように、
無意味なことをするやつはたれだ。しかし卵にははさむところがな
い。それは、父と子の朝の太陽のように、大海のなかをころげてま
わるのだ。
            『蘭』─『安東次男著作集第一巻』より

    ***************
 前回取りあげた「みぞれ」はあまりに有名な詩です。1977年に出た著作集(青土社刊)の投げ込み月報に、詩人吉増剛造が寄せた「予感の折返し」という文でもこの詩が取りあげられていて、「安東次男の詩の根源を形成する、安東次男がものをみ、ものに触れるときの触れかたが、ここにその姿をあらわしている」とあります。
 今日書き込んだ詩「卵」は、安東次男の第二詩集『蘭』の最後におさめられた作品です。この詩篇を取りあげて論じる人は寡聞にしてわたしは知りませんが、詩人安東次男の人間臭い一面をあらわしている作品として、とても貴重だと思います。

2008/07/05

みぞれ──安東次男詩集より(3)

地上にとどくまえに
予感の
折り返し点があって
そこから
ふらんした死んだ時間たちが
はじまる
風がそこにあまがわを張ると
太陽はこの擬卵をあたためる
空のなかへ逃げてゆく水と
その水からこぼれおちる魚たち
はぼくの神経痛だ
通行どめの柵をやぶった魚たちは
収拾のつかない白骨となって
世界に散らばる
そのときひとは



泪にちかい字を無数におもいだすが
けつして泪にはならない
                      (二月)
      CALENDRIER 定本 『安東次男著作集第一巻』より

**********
安東次男の詩を、これで3篇うちあげたことになりますが、まるで、グールドのバッハを聴くような興。この詩人の特徴はことばの明晰さだと思います。ぶれのない硬質なことばで、戦後のある時期を確実に伝えています。

2008/07/04

人それを呼んで反歌という──安東次男詩集より(2)

枝の鵙は
垂直にしか下りなくなる
獲物を追う獸は
もう弧を描いては跳ばない
道に忘れられた魚だとか
けものたちの隠し穴だとか
ころがっている
林檎の歯がただとか
じつにたくさんのものが
顕われてくる
十一月の自然は
いろんな形の鍵を
浅く埋葬する
裸の思考のあとに
もうひとつの
裸の思考がやって来る
饑餓のくだもののあとに
ふかぶかと柄をうめるくだものがある
その柄は
信仰のないぼくのこころを愕かせる
柄について考えよう
見える柄について
見えない柄について
重さの上限と
軽さの下限について
反歌という名の
蔽われていない成熟について
ゆっくり考えよう
いま神の留守の
一つの柄
一つの穴
一つの歯がた
いっぴきの魚
自然は じつに浅く埋葬する。

     「人それを呼んで反歌という」──『安東次男著作集第一巻』より

********
学生時代、「自然は じつに浅く埋葬する」という一行に驚愕、得心した記憶があります。

2008/07/03

六月のみどりの夜は──安東次男詩集より

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である
それを押しかえして
酢のにおいががだよう、
練つたメリケン粉の
匂いがただよう。
ひわれた机のまえに座って、
一冊の字引あれば
その字引をとり、
骨ばつた掌に
丹念に意識をあつめ
一字一劃をじつちよくに書き取る。
今日また
一人の同志が殺された、
蔽うものもない死者には
六月の夜の
みどりの被布をかぶせよう、
踏みつぶされた手は
夜伸びる新樹の芽だ。
その油を吸つた掌のかなしみが、
いま六月の夜にかこまれて
巨大にそこに喰い入つている。
目は頑ななまでに伏目で
撫でつくされ
あかじみて
そこだけとびだしてのこつている
活字の隆起を
丹念にまだ撫でている、
それはふしぎな光景である
しかしそのふしぎな光景は
熱つぽい瞳をもつ
精いつぱいのあらがいの
掌をもつている、
敏感な指のはらから
つたわつてくるのは
やぶれた肉に
烙印された感触、
闇にふとく吸う鼻孔から
ながれこんでくるのは
はね返している酢の匂い、

五躰は
夏の夜にはげしくふるえている、

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である、
それらのなかで
机は干割れ
本や鍋や茶碗がとび散つて
それにまじつて
酢で練つたメリケン粉の
匂いがただよう、
いまはただ闇に
なみだ垂れ、
ひとすじの光る糸を
垂れ、
あわれ怒りは錐をもむ、
やさしさの
水晶の
肩ふるわせる……
そんな六月のみどりの夜は
まだ弱々しい。
        (1949・5・30事件の記念に)

                定本『安東次男著作集第1巻』より

**********
7月7日は、わたしが日本語の師と仰ぐ、故安東次男氏の誕生日です。
それにちなんで、この詩人の代表作といわれる詩をいくつか書き込みたいと思います。これは幻視の詩人、安東次男の第一詩集の表題作。「1949・5・30事件」というのは、この日、都議会で公安条例制定反対のデモ隊3千人が警官隊と衝突し、1人が3階から落下して死亡した事件のことです。

わたしのジャズ修業(4)──向き合うこと

はっきりと覚えているのは、ジャズは苦手だ、と考えた瞬間が、確かにあったことだ。たぶん16歳のときだ。北の旧植民地から、ひたすら憧れるメトロポリスの音楽は、クラシックとポップスだった。
 80年代に入ってから「みんなビートルズを聴いていた」なんて、コピーが街のあちこちに貼られたことがあったけれど、あれは嘘だ。「みんな」が聴いていたわけではない。とりわけ地方の中学、高校では「ビートルズを聴く生徒は不良だ」と教師や親がかたく信じて疑わなかった時代、それが60年代なかばの日本だった。

 わたしは中学生のとき、音楽室でEP盤(4曲入りのドーナツ盤)をかけて仲間と盛りあがり、職員会議にかけられたことがある。初来日したビートルズの武道館コンサートがテレビで放映される日など、高校の進路指導教官がわざわざ、あんなものは観るな、と授業中に念を押したりした。いまなら即「うぜーっ!」である。(ハニフ・クレイシの作品を思い出すよねえ。写真のアルバムは初めて自分のお小遣いで買ったLP。)
 だから、騙されちゃいけない。あのコピーは、歴史的事実があとから書き変えられた典型的な例といっていい。

 憧れのメトロポリスにやってきて1年、自分の好みががらりと変わっていくのがわかった。それまでの価値観のようなものを、ひたすら壊したい衝動にかられたのだろう。音楽も例外ではなかった、というより、音楽こそがそのもっとも重要な対象になっていたのかもしれない。音楽は耳という器官を通して、身体の奥底に入っていって、深くなにかを刻むからだ。
 大学でそれまで属していたオーケストラ──指揮者という独裁者が統治する全体主義の極致!!──を辞めて、トリオ、クアルテット、クインテットといった、数人が対等に演奏する形式に惹かれていった。全体の一部になることではなく、単独の存在として他の存在と向き合う形式だ。

 そう、「向き合うこと」だったのだ。それも、即興で。異なる存在と向き合うこと。楽器や声を通してやり取りすること。チャットすること。といっても、楽器を単独で弾くほどの腕はなかったから、残念ながら、もっぱら聴く方にまわざらるをえなかったのだけれど。
 そして、夜のライヴスポット通いがはじまる。
 

わたしのジャズ修業(3)──ニーナ・シモン

恐かった。こちらをにらんでいる、そう思った。「あなたがたに、わたしの歌が本当にわかるの?」と詰問されているようでもあった。

 大手町のサンケイ・ホールのステージにその人は立っていた。アップの髪に、腕と胸の出る白いロングドレスを着て、ピアノのキーを、太い腕で、力を込めて、叩くようにして弾いた。そして、喉から絞り出すような声で歌った。

 ニーナ・シモン。

「ニューポート・ジャズフェスティヴァル・イン・ジャパン」に出稼ぎにきたのだ。愛想なんか微塵もない。ほかのミュージシャンがお義理で見せる笑顔を、この人は一度も見せなかった。60年代の米国で黒人を中心にして盛り上がった公民権運動、その運動の渦中にいて、ディーヴァだった人だ。

 全然わかっていないのかもしれない、とそのときわたしは本気で考えた。そもそも「わかる」って、いったい何だ? ジャズはいい、ジャズじゃなければ、なんてはしゃいでいるけれど、上っ面をなでてるだけじゃないのか、と痛感したのもこの瞬間だった。まさに、頭から冷水。思えばそのとき、大きな宿題をもらったのかもしれない。黒い塊のような、理解不能のものを抱え込むことになったのだから。
 ニーナ・シモンを自分の部屋で聴くことは、ほとんどなかった。厳しすぎるのだ。疲れて帰ってきて、人は、また叱られるような歌を聴きたいとは思わない。アン・バートンやサラ・ヴォーンなんかのほうが、ずっと気持ちがやわらかくなって、肩の凝りもとれる。

 でも、ひっかかりはずっと続いていた。80年代初め、子育ての真っ最中に、トニ・モリスンの『青い目が欲しい』やアリス・ウォーカーの『メリディアン』を読んだとき、ここにあるのは、ニーナ・シモンの歌声とおなじ水源から流れてきた声だ。ことばになった声だ、つながった! と思った。意識の下で脈々と流れてきた水脈が、あるとき、ふいに、もうひとつの水脈と合流する瞬間だった。わが人生の最初の混乱期から、すでに、10年以上のときが流れていた。
 

2008/07/02

わたしのジャズ修業(2)──ブラウン・ベイビー

ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
おまえが大きくなっていくときは、
たっぷりと入ったカップから飲んでほしいもんだね、
すっくと、まっすぐに立って、胸をはって、
はっきりと、まわりに聞こえる声でしゃべるんだよ。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
年月がたっていくだろ、そのときは、
頭をしっかり、高くあげるんだよ、
正しいことがちゃんと通る規則のなかで、生きられるようになるといいね、
おまえには、自由へつづく道を歩いてほしい、
ちっちゃな、茶色の赤ちゃん、
だからお眠り、ぐっすりとお眠り、
このわたしの腕のなかで、安全に、お眠り、
おまえのお父ちゃん、お母ちゃんがおまえを守ってくれるまで、
おまえに降りかかる危害から守ってくれるまで。
ブラウン・ベイビー、あたしが一度ももったことのないものを、
おまえが手にするようになるなら、あたしは嬉しいよ、
人という人の心から、憎しみという憎しみが全部消えて、
いい子のおまえが、もっとましな世のなかで生きることになるんならね。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー。
             (作詞作曲/オスカー・ブラウン・Jr.)
             ************
 
それがいつだったか、はっきりと覚えてはいない。しかし、どこでこの曲を耳にしたか、それはよく覚えている。青森だ。店の名は忘れた。
 何度目かの夏休みの帰省のときだ。当時、東京から北海道へ帰省するには、上野から夜行列車に乗り、夜明け近くに青森駅について、早朝の青函連絡船に乗り継ぐのが一般的だった。空路はまだまだ高嶺の花の時代。
 青函連絡船の出発時刻までに少し時間があったのか、あるいは、東京へ帰る往路に立ち寄ったのかもしれない。とにかく、そのジャズスポットまでの地図を片手に、青森の街を歩いたことがある。

 地下の細長い店だった。入った途端、ウーン、なかなか良い音が響いているな、と思った。奥のほうに「山水」のスピーカーが2つ、少し内側に顔を向けてならんでいた。中音域の伸びがすばらしいのでボーカル向きといわれた、前面が透かし彫りになった美しいスピーカーである。
 珈琲をたのみ、店内を見まわしていると、パリパリ、と針が盤面をこする音がして、いきなり、その声が聴こえてきた。下腹部に響く、すごい声。ニーナ・シモンの「ブラウン・ベイビー」だった。

 目をあげると、遠くカウンター近くにそのLPのジャケットが飾ってあった。「いまかけているアルバムです」という意味だ。Nina Simone at the Village Gate. そこまではよく覚えている。でも、それが赤と黒のルーレット盤のジャケットだったのかどうか、よく覚えていない。いま手許にあるのは、テイチクが英国版のシリーズを出したLP「ニーナ・シモン・コレクション第6集」で、白地に、歌うニーナの横顔が描かれたものだ。ルーレット盤は、CDとして、随分あとから買った。

 でも、最初のときに受けた衝撃の感覚だけは、何十年たったいまでも、曲を聴くたびにもどってくる。あれから歩いてきた自分の道も、ぼんやりと見えてくる。(つづく)

***** オリジナル歌詞 *****
Brown Baby ──by Oscar Brown Jr.

Brown baby, brown baby. 
As you grow old
I want you to drink from the plenty cup,
I want you to stand up tall and proud,
And I want you to speak up clear and loud,
Brown baby, brown baby, brown baby,
As years go by,
I want you to go with your head up high,
I want you to live by the justice code,
And I want you to walk down freedom's road,
You little brown baby,
So lie away, lie away sleeping,
Lie away safe in my arms,
Till your daddy and your mamma protect you
And keep you safe from harm.
Brown baby, it makes me glad
You're gonna have things that I never had,
When out of all men's hearts all hate is hurled.
Sweety, you're gonna live in a better world,
Brown baby, brown baby, brown baby.

わたしのジャズ修業(1)──樽

 ジャズを聴きはじめたのは1969年の秋ごろだったように思う。4月に入学した大学が、あれよ、あれよ、というまに全学ストライキに入り、授業がまったく行われなくなってから、ほぼ1年がすぎていた。この1年間は、いま振り返ってみても、わが人生における最大の混乱期のひとつであったと思う。
 北の田舎に帰っても、やることがなく、「現場」から引き離されているというもどかしさに、すぐに東京に舞い戻った記憶がある。授業がないので、この期間はすべて独学。なにを学んだかというと、授業ではやらないことのすべてだ。それが現在にいたるまでの人生の基礎、わたしの原型を形づくった、といっても過言ではない。そこで出会ったもののひとつ、それがジャズだった。

 「スイング・ジャーナル」という分厚い雑誌に載っているジャズスポットの名前と電話番号、住所などを、茶色いリングノート(いや、スパイラルノートかな)の裏表紙にびっしりと書き出し、まず山手線と中央線の駅近辺から、手当たり次第にのぞいていった。独りで行動した。あのころ、映画も、ジャズも、本屋も、よほど気のあう仲間でなければ、いっしょに行くということはなかった。なんでも、たいていは独りでやった。そこで自分がまず、なにを聴き、なにを感じたか、それをことばにすることに全力をあげたかった。他人の感想に耳をかたむける余裕がなかったのだろう。

 新宿のピットイン(表の店と裏のライブスポット)、DIGとDUG、アカシア(なぜかロールキャベツが名物)、渋谷のスウィング、デュエット、ついでにホーローびきのカップで珈琲が出てきたブラック・ホークも、お茶の水のNARU、四谷のイーグル、神保町の響とコンボ、新橋の裏通りのビル6Fにあるジャンク、吉祥寺のファンキー(ここはフロアによってかける音楽がちがって、4Fがヴォーカルだったと思う)、ロックが多いビバップ、あちこちのぞいてみたあと、肩の凝らないスポットを見つけた。立教通りの「樽」という店だ。

 池袋から外側へ歩いて30分ほどのところに住んでいたので、大学までの道すがら、ちょっと立ち寄ることができた。そんな利点もあったけれど、毎日のように通ったのは、その店にはとても素敵なウェイトレスのお姉さんがいたからだ。もの静かで、成熟した大人の雰囲気を醸し出しながら、わたしがいつも独りで入っていくとニコッと笑って、つっぱった感じの女学生に決して反感を抱いていないことを伝えてくれた。(当時は、ジャズ喫茶へ独りで入っていく女学生というのは、きわめてまれな存在だったのだ。女性客は、たいていは男性に連れられてやってくるか、面白半分に連れ立って入ってくるケースが多かった。)
 その店はレコードをじかにかけることもあったけれど、カウンターの横に大きなTEACのオープンリールデッキが設置されていて、銀色のリールが2個ゆっくりとまわっていた。音はすばらしかった。珈琲のおかわりが半額、というのもよかった。読みかけの本をテーブルに出して、2時間ほどねばるのが常だった。(つづく)
 

2008/06/29

コサックという犬──『少年時代』より

 犬がほしい、母親はそう決める。ジャーマンシェパードがベストね──いちばん賢くて、いちばん忠実だから──でも、売りに出されているジャーマンシェパードはいない。そこでドーベルマンが半分、ほかの血が半分混じった仔犬にする。その子は自分が名前をつけるといってきかない。ロシア犬ならいいのにと思うので、ボルゾイと呼びたいところだが、本物のボルゾイではないので、コサックという名前にする。だれにも意味がわからない。みんなは、コス・サック(食糧袋)という意味にとって、変な名前だという。
 コサックは聞き分けのない、訓練されていない犬だと判明する。近所をうろついては庭を踏み荒らし、鶏を追いまわす。ある日、その子の後ろから学校までずっとついてくる。どうしても追い返すことができない。怒鳴りつけて石を投げると、両耳を垂れ、尻尾を両足のあいだに挟み込み、こそこそ離れていく。ところが、その子が自転車に乗ると、またすぐ後ろから、大股でゆっくりと走ってくる。とうとう、犬の首輪をつかみ、片手で自転車を押しながら、家まで連れ戻すしかなくなる。激怒して家に着いた彼は、もう学校へは行かないという。遅刻したからだ。
 十分に成長しないうちに、コサックはだれかが出したガラスの砕片を食べてしまう。母親がガラスを排泄させるために浣腸をしてやるが、回復しない。三日目、犬がじっと動かなくなり、荒い息をして、母親の手を舐めようとさえしなくなると、母親はその子に、薬局まで走っていって、人に薦められた新薬を買ってくるよう命じる。大急ぎで薬局までいって大急ぎで戻るけれど、間に合わない。母親の顔はひきつり、うつろで、彼の手から薬ビンを取ろうともしない。
 コサックを埋めるのを手伝う。毛布にくるんで庭の隅の土のなかに埋めてやる。墓の上に十字架を立て、その上に「コサック」と書く。もう別の犬を飼いたいとは思わない。みんながみんな、こんな死に方をするはずはないとしても。
         J.M.クッツェー『少年時代』(みすず書房刊)より
**********
付記:少年時代のクッツェーが南アフリカの内陸ですごしたころのメモワールです。動物への陰湿な暴力を描いたシーンですが、訳したあとも忘れられない場面のひとつです。

2008/06/27

映画『Disgrace/恥辱』のシナリオライターは語る

 J.M.クッツェーの1999年に発表された小説『Disgrace/恥辱』が映画化された。主演がレイフ・ファインズからジョン・マルコヴィッチに変わって(たしか、ファインズの前にも別の候補が噂されていたような…そう! ジェレミー・アイアンズ! この俳優がデイヴィッド・ルーリーを演じるのを見てみたかったナ)、最終的にはオーストラリアのスティーヴ・ジェイコブズ監督、アナ=マリア・モンティセッリ脚本によって完成。撮影は2007年はじめに、ケープタウンとその近郊シーダーバーグで行われ、ケープタウン大学も撮影場所に使われた。
 脚本を書いたモンティセッリは女優からシナリオライターに転じた人で、クッツェーのこの小説を買ったとき、まさか自分がそのシナリオを書くことになるとは思わなかったそうだ。「でも、すぐに、これはすばらしい映画になると思ったの・・・いろんな思想や複雑なものがぎっしり詰まった本だから・・・さんざんスクリプトを読んだけれど、どれも陳腐で意外性に欠けていた。思想ってものがない、というか、自分を見つめさせるような、困難なことに直面させられて、それを否応なく、深く考えさせる論点が含まれていないの」。
 映画を監督したスティーヴ・ジェイコブズはモンティセッリの夫。「THE AUSTRALIAN/2007年7月18日付」に彼女のインタビューが掲載された時点で、2008年の公開に向けて、映画はポストプロダクションの最中だというから、フィルムはすでに完成したと考えていいのだろう。

 アパルトヘイト撤廃後の南アフリカを舞台にした小説『恥辱』の主人公は、「大学改革」に失望した大学教授だ。教えている女子学生のひとりを誘惑したことをきっかけに、彼の人生は混乱のきわみに陥る。モンティセッリによると、このキャラクターは彼女に、映画のなかで、男の欲望と、権力と、偽善を深くさぐりたいと思わせたという。アフリカで映画を製作したいと思っていた、モロッコ生まれのモンティセッリは、映画『恥辱』でその夢がかなったわけだ。

 英国の映画製作会社のいくつかが、この小説の映画化権についてオプションをもっていたため、その期限が切れるのを待って、彼女はこの物語の映画化を熱望する人たちの列に加わった。もちろんその前に、原作者クッツェーに自分のシナリオライターとしてのデビュー作「ラ・スパグノーラ」(2001)を観てもらい、強い印象をあたえておいた。

「わたしにとって最も重要なことは、この本を歪曲しないこと、素材に誠実であることだった」と彼女は述べている。「シナリオを書くための決め手は、登場人物たちがなぜその行動をとるのか、彼らがどのように考えているのか、そのような状況のもとで生きるのはどういうことか、それをきちんと理解することだった。良いスクリプトを書くのは本当に大変だけれど、でも、こつをしっかり理解すれば難しくはなくなるものよ」とも。

 オーストラリアや南アフリカでは、2008年公開が予定されている。
 日本でも、一般上映されるといいなあ!

****************
You ought to be in pictures:THE AUSTRALIAN,July 18, 2007」をもとに加筆しました。

2008/06/22

エデンの園──イナ・ルソー

  エデンのどこかで、この時代のあとになお、
  まだ立っているだろうか、廃墟の都市のように、
  打ち捨てられ、不気味な釘で封印された、
  幸運に見放された園が?

  そこでは、うだる暑さの昼のあとに
  うだる暑さの夕暮れと、うだる暑さの夜がきて、
  黄ばんだ紫色の木々の枝から
  朽ちかけた果実が垂れているだろうか?

  その地下世界には、いまもなお、
  岩々のあいまに広がるレースのように
  縞瑪瑙や黄金の
  未発掘の鉱脈が伸びているだろうか?

  青々としげる葉群れのなかを
  遠く水音をこだまさせて
  この世に生きる者は飲まない、川面なめらかな、
  四本の小川がまだ流れているだろうか?

  エデンのどこかで、この時代のあとになお、
  まだ立っているだろうか、廃墟のなかの都市のように、
  見捨てられて、ゆっくりと朽ちる運命を背負った、
  誤りであると知れた園が?

**************
 この詩のオリジナルはアフリカーンス語。1954年に発表されたイナ・ルソー(1923〜2005)の第一詩集『見捨てられた園/Die verlate tuin』におさめられています。今回は、J.M.クッツェーの英訳からの重訳です。訳者ノートにはこうあります。

「1954年という年は、白人のアフリカーナー民族主義者たちが波にのって、その頂点に登りつめた時代だ。国内的には、彼らが建設しつつあったアパルトヘイト国家に反対する者を徹底的に鎮圧する途上にあり、国外的には、その執拗な反共産主義が西側諸国からの支持ないし黙認を、なんとか取りつけたところだった。彼らがその信奉者に約束した未来は、繁栄と安全である。したがって、この時点であらわれた「エデンの園」は驚きに満ちた、心おだやかならぬテキストであり、しかも、政治的に多岐にわたるどの視界にも入ってこない、若いアフリカーナー詩人の手によるものである。
 形式やイメージは伝統的手法を用いているが、「エデンの園」はあいまいな詩だ。内容的には南アフリカをあらわす形跡はまったく見あたらない──作品が書かれた言語をのぞいて皆無だ。だが、ひとたび「南アフリカ」というキーフレーズが息づくとき、この詩は花のように開いてくる。最初のヨーロッパ人入植者がアフリカの最南端に入植したのは、オランダ人商人が東インドを含むアジア東南部地域へ航行させる船に、新鮮な果物と野菜を供給するためだった。彼らが設計した庭園──いまもモダンな、ケープタウンの中心にある、いわゆるカンパニー・ガーデン──は、ルソーによって、ユダヤ・キリスト教神話の天国の楽園と関連づけられ、ゆえに、堕落のない国家への回帰という、新たな出発の約束に結びつけられている。これはヨーロッパ人によるアメリカスの植民地化に、きわめて強い影響をあたえた約束でもあった。
「mislukte tuin」 つまり、誤りであると知れた庭、あるいは、誤りであると知れた植民地を、見捨てらたものとしてだけでなく、過去の霧のなかに遠くかすんでしまったものとして、ある不特定の未来の日から逆に見つめる、この詩の深いペシミスティックな視点は、ルソーのまわりで未来永劫の彼方まで続くと吹聴されていた、白人キリスト教徒の南アフリカのヴィジョンとは真っ向から対立する」

 1954年という時点で、このような詩を書いていたイナ・ルソーという詩人の作品は、とても気にかかります。

(左の写真は1965年ころのカンパニー・ガーデン)