Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2007/11/19

わたしの好きな本 (2)『ティンカー・クリークのほとりで』

 この表紙に使われている木の実がなんだかわかりますか? わかる人は相当の樹木好きです。これはプラタナス、別名スズカケノキの実。樹皮が自然に剥けて、まだら模様になった幹が、遠くから見ると不思議な印象をあたえる木です。直径3センチくらいのまるい、かわいらしい、鈴のような実をつけます。大きな葉っぱが特徴で、秋になるとバサリ、バサリと地面に落ちてくる。
 作者アニー・ディラードはこの本で1974年にピューリッツァ賞を受賞しました。日本で邦訳が出たのは1991年(めるくまーる刊)、もうずいぶん前のことですが、わたしにとってはいちばん最初に翻訳というものをやった思い出深い本です。途中で、もっぱらアフリカのほうを向いてしまったわたしに代わって、共訳者の金坂留美子さんが仕上げてくれました。
 とにかく、人間の感覚のみずみずしさが、目も眩むほどの豊穣さで書き連ねられた書物です。心を澄まし、ひたすら見つめると見えてくる、わたしたちを取り巻く世界の不思議さ、自然界の生命の豊穣さ、そして、そのあまりの無駄遣い、そこに織り込まれた不条理な美しさ、地球という惑星の美しくも残酷な風景が、細部につぐ細部の積み重ねで、読む人を圧倒させる筆致で描かれていきます。
 賑やかすぎる世俗の世界にいささか疲れた人には、とりわけお薦め。一気に読み通す必要はありません。ぱらりとページを開いた章を、折りに触れて、ぽつりぽつりと読むのに適した本です。心が洗われること必至です。
 いまは古書でしか入手できませんが、いつか、文庫になるといいなあ、と秘かに思っているのですが・・・。
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付記:プラタナスが日本に渡来したのは明治末期。街路樹として葉を茂らせるようになった大正初期に、さわやかな初夏の街の情景を歌った、アララギ派歌人の歌を一首。(篠懸樹=プラタナス、と読みます。)

 篠懸樹かげゆく女(こ)らが眼蓋に血しほいろさし夏さりにけり  
                          中村憲吉