2017/06/13

チママンダ・アディーチェの最新スピーチ

6月4日に、マサチューセッツ州にあるウィリアム・カレッジの卒業式で、アディーチェがこれまでになく、政治について、階級について、はっきりと語りました。民主制が本当に民主的であるためには。。。
 そして最後に、卒業生にエミリー・ディキンソンの詩から「希望」をめぐることばを贈っています。希望はいつも羽をもっている、と。




2017/06/04

ボードレール、だれそれ?


明後日6日発売の雑誌「すばる」7月号がなんと「詩」の特集を組んでます。

 わたしも「ボードレールと70年代」というお題をいただき、あれこれ考えているうちに、学生時代のことをリアルに思い出して書きました。
 当時通った狭い敷地の大学に、「造反教官」と呼ばれた2人のすばらしい教官がいたこと。もちろんカッコイイ先生はほかにもいたのですが、ダントツに強い記憶に残っているのは安東次男と岩崎力のご両人、いずれもフランス文学を教えていた人たちです。安東教授に対する一方的かつ理不尽な教授会からの弾劾辞職勧告決議に、日本フランス語学文学会はすぐさま抗議声明を出したのは快挙でした。当時の世相がどんなものだったか、レジスタンスのありかたなんかも少し。記録として。
 また、阿部良雄責任編集による1973年5月刊の雑誌「ユリイカ、ボードレール特集号」にずらりと並んだ、そうそうたる面々も書き写しました。記録として。

 昨年出した『鏡のなかのボードレール』(共和国)を書くことになったいきさつや、JMクッツェーの個人ライブラリーの最終巻『51 poetas/51人の詩人』に『悪の華』から入った4つの詩篇「スプリーン(憂鬱)」についても。あいからわず、話は「一つ所に滞らない」どころか、じつにあちこちにジャンプします😆。

 タイトルは「たそ、かれ、ボードレール」!
 そう。「黄昏ボードレール」です、というよりむしろ、ぶっちゃけた話、「だれそれ、ボードレール?」って感じでしたね、あのころは。😇!



2017/06/02

6月の夕暮れ

 今日は風の強い1日だった。朝方の、もう梅雨かと思わせる強い湿気が強風に吹き払われて、昼すぎには空気も軽くなってほっと息をつく。夕方、いつもの散歩にでかけると、6月の陽はまだ高く、雑木林に斜めに差し込む西陽が足元の路上に揺れる葉波模様を描いている。樹木から振り払われた小枝を踏む。靴底がぱりぱりと音をたてる。
オパールの原石:璃葉
 夕陽をあびながらいつもの道をたどる。古い保育園の前で立ち話をする母親たちのまわりを、幼い子供が走りまわる。一瞬、走ってくる小さな娘たちを思い切り抱きあげた遠い記憶がよみがえる。そして、長いあいだ住み暮らした土地を離れなければならなくなった人たちのことを考える。戦争で。原発事故で。津波で。過疎で。残って土の世話をしつづける者のことを考える。廃屋に住みつづける者。野生化寸前の山羊と。牛と。緑なす原野のことを考える。

 今日は風の強い1日だった。いまもまだ風は吹いている。余計な湿気も、妄想の霧も吹き払ってくれそうな6月の、もう初夏とはいえない、夏の風だ。

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絵は「水牛のように 6月号」に掲載された、璃葉さんの文と絵「オパール石」から拝借しました。

2017/06/01

クッツェーがトルコの教育者たちに連帯のメッセージ

Nuriye Gülmen and Semih Özakça
JMクッツェーが、トルコで昨年、クーデタ未遂事件後に出された非常事態宣言によって解雇された教育者たちに連帯のメッセージを出した、と伝えられる。彼らは解雇に抗議してハンガーストライキをしていたが、逮捕され、刑務所内でもハンストを続けているという。以下はこのトルコの「デイリーニュース」のサイトからの抜粋。
 またストックフォルムの「自由のためのセンター」のサイトにも詳しい。(画像はこのサイトから拝借。)

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<ノーベル賞作家JMクッツェーがトルコでハンガーストライキをしている教育者たちへ連帯のメッセージを送る>

JMクッツェーが、非常事態命令のために解雇されたことに抗議して80日以上のハンガーストライキを続ける教育者ヌリエ・ギュルメンさんとヘミヒ・オザクチャさんに連帯するメッセージを送った。
 ギュルメンさんは研究者、オザクチャさんは小学校教師で、ハンガーストライキを開始して75日目にあたる5月23日に「テロ」容疑で逮捕されたが、刑務所内でもハンガーストライキを続けている。スレイマン・ソイル内務大臣は彼らを非合法化された「革命的人民解放党」のメンバーだと非難した。
 クッツェーは手紙でトルコ政府に対し、この問題について行動をとるよう呼びかけた、と5月30日付オンラインニュース・ポータル「Bianet」は報じた。 

 クッツェーは手紙のなかで「ヌリエ・ギュルメンさんとヘミヒ・オザクチャさんが勇敢にもハンガーストライキによって訴えたのは、新体制トルコで知識人が置かれた絶望的な状況に世界の耳目を集めるためだ。どうかNATO内でトルコと同盟を結ぶ国々の政府はこれに注目し、レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領に対して自国を法治国家へ戻すように圧力をかけてほしい」と述べた。

 トルコでは、2016年7月15日に合州国を根拠地とするイスラム教伝道者フェトフッラー・ギュレンの信奉者によって指導されたと広く考えられているクーデタ計画が失敗したあと、非常事態命令が出され、それ以来ずっと非常事態が続いている。

 何千という人が非常事態命令のために職場から解雇されたままだ──以下略──
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クッツェーの手紙の文面は以下の通り:

“Nuriye Gülmen and Semih Özakça have bravely gone on hunger strike to draw the attention of the world to the desperate situation of intellectuals in the new Turkey. It is to be hoped that governments associated with Turkey in NATO will take note and exert pressure on President Erdoğan to return his country to the rule of law,” said Coetzee.



2017/05/29

クロッホとクッツェーとコウト

昨年の9月にブエノスアイレスのサンマルティン大学で行われた「南の文学」講座のことは、ここでも触れましたが、その後、アンキー・クロッホとミア・コウトとJMクッツェーが仲良くならんだ写真が見つかりました。記録のために、ここに貼り付けます。
南部アフリカ出身の3人の作家たち

写真が小さいとジョン・クッツェーの顔が怖い顔に見えるけれど、拡大してみてください。3人とも、かすかに微笑んでいるんですよ〜〜。

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2017.5.30付記──アンキー・クロッホについてJMクッツェーが『厄年日記』に書いた文章をここで紹介しました。ミア・コウトは雑誌「すばる」に抄訳をのせましたが、それについてはこちらへ。

2017/05/28

反アパルトヘイト・ニュースレターのリンク先

昨日開かれた「反アパルトヘイト運動と女性、文学」の場で、アフリカ行動委員会のニュースレターのアーカイヴが移設されていたことを知ったので、リンクをいくつか更新しました。かつての投稿をここに再掲いたします。

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2013/12/31(の投稿です)

2013年がもうすぐ終る。今年はドリス・レッシング、チヌア・アチェベ、そしてネルソン・マンデラが逝った。来年早々にはそのネルソン・マンデラ追悼特集があちこちの雑誌に掲載されることだろう。1950年代にアパルトヘイトに抗して抵抗運動を組織したネルソン・マンデラとその仲間たち。たぐいまれな品格と、その意志と思想の強さで、27年という獄中生活を耐えた人は、南アフリカの抵抗運動、解放運動のシンボルとなっていった。

 日本でも古くは60年代初頭に、南アフリカの人びとと繋がろうとする反アパルトヘイト運動が芽吹いた。70年代初めにマジシ・クネーネが来日して当時の若者たちにあたえた「クネーネ・ショック」、それを契機に運動は着実に継続され、ネルソン・マンデラ解放時に最盛期を迎えた。この運動についてはもっと知られてもいいだろう。また当時の日本社会がどんなようすだったかも振り返ってみるのは悪くない。
 その運動のおおまかな歴史(日本各地に自発的につくられたグループがあり、それぞれに思い思いのかたちで展開された)を、東京のグループである「アフリカ行動委員会」の実質的中心人物、楠原彰氏がまとめたものがここで読める

 わたしが知っているのは80年代末、そのマジシ・クネーネというズールー詩人の叙事詩の翻訳で悪戦苦闘していたころからネルソン・マンデラが解放され、来日した時代のことだ。それについては中村和恵編『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店 2009)に詳しく書いたので、ぜひ。
 特筆にあたいするのは、日本における反アパルトヘイト運動が、それまでわたしが抱いていた「運動」のイメージを快く裏切ってくれたことだ。つまり、組織特有の束縛が一切なく、あくまで自発的個人の意思による活動の場として確保されていたのだ。これは60年代末の全共闘に端を発する運動がセクト化してやせほそり内向きになっていくのを学内でちらちら横目で見ていた者には、じつに新鮮だった。
 だから、集団がからきしダメというわたしのような人間もすっと入ることができた。つまり、あの運動は「あ、それ、わたしがやります!」と手をあげて事実やってしまう人間の集まりであり(そのなかでみんな力をつけた)、命令とか指令とか動員とか、上下関係とか、初心者とかベテランとか、先輩とか後輩とか、そういうものとは無縁だったのだ。人と人の関係が、いわゆる「縦系」の縛りから完全に解放されていた。

 きみもぼくもわたしもあなたも、来る者はこばまず、去る者は追わず。ほんの数年ではあったけれど、のびのびと、やりたいことをやらせてもらったように思う。自分の仕事ともリンクさせることができたし、大いなる学びの場として、また、面倒な人間関係もおなじ志を仲立ちにしてのりこえ、深めていけることも学んだ。だから、心地よく裏切られたり勘違いしたりしたこともあったけれど、恨みとか怨嗟とは無縁だった。世はバブルたけなわ、喧噪とは縁のないわたしの30代から40代にかけての例外的事件だった。

 先日、20年ぶりにそのころの仲間数人とテーブルを囲む会があった。同窓会などとは違って、すっとあの時期に戻っておしゃべりできて、さらに現在この社会で起きていることをも気兼ねなく話題にできた。そういう人間関係。これは貴重。
 運動の最盛期、東京を中心に活動していた「アフリカ行動委員会」は「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」を毎月発行し、定期購読者に郵送していた。1987年の準備号を出した森下ヒバリ編集長から始まり、つぎの高柳美奈子編集長が第三種郵便にする努力を惜しまず、それを引き継いだ須関知昭編集長の超人的な遠路往復で、1995年まで全85号が発行された。その全ページがその須関氏の努力で「アーカイヴ」にpdf ファイルとしてアップされ、読めるようになった。

 当時はまだインターネットはなかった。ようやく小型のワープロが出まわってきたころで、紙面はそれを駆使して打った原稿をそのまま写植で起こして即印刷された。そのため、字間行間に独特のニュアンスが残る。購読料だけでやりくりしたので、経費上ざらっとした紙が使われ、当時はまだコピーも上質ではないため、滲みも多い。いまから見れば紙面は苦労がしのばれるものではあるが、わずか20年のあいだに、われわれを取り巻く活字媒体の変化は恐ろしいほど変化したことをも実証している。
 
 あのころの南アフリカと日本の関係がどうだったのか、バブルにわく日本社会の裏側で、南アフリカの解放運動を横目でながめながら、経済的に裕福になった不名誉な、恥知らずの「名誉白人」がどう振る舞ったのか。80年代に白人アパルトヘイト政権下の議員たちと「友好議員連名」なるものをつくり事務局長をやった当時の国会議員、のちに長らく東京都知事をやった人の名前も登場する。あの時代に若者だった人たち、子供だった人たち、そしていま社会の最前線で活躍する人たちが、なにを得てなにを失い、なにを引きずっているのか。
 いずれ、各号の「目次」もできるはずだ。そうなれば、もっと使いやすくなるだろう。これはまちがいなく貴重は記録だ。2013年大晦日の、わたしからのプレゼント。


 では、みなさま、よいお年をお迎えください。

2017/05/26

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの魅力全開トーク

さる5月4日にニューヨークで開かれたNYTimes のトークです。聞き手は編集者のラディカ・ジョーンズ。限定公開アップですので、ご注意ください。



ちょっと長いトークですが、核心をついたやりとりで話は進みます。

 会場からの質問にも丁寧に答えるアディーチェの姿がいい。かなり突っ込んだ質問が出ますが、なかでも、「天才」という考えはもう過去のものだ、とか、人種差別ではなく肌の色の違いによる(まさに南アフリカのアパルトヘイトを彷彿とする)差別意識がTVからコマーシャルなどで流されて若い女性に内面化される問題──だから「ファッション」はだたの「ファッションの問題」にとどまらないわけですが──とか、現代社会を包むそんなもやもやを払って、クリアに見せてくれるアディーチェのことばには、とても説得力があります。
 
 最後に質問者に対して、Enjoy your life! と加えるところがとてもいい。