2017/03/21

デイヴィッド・アトウェル──切り抜き帳(3)

今日も1日、雨の降るなか、みっちりとデイヴィッド・アトウェルの著作を読んでいた。第1章はこれで三度目。読むたびに発見がある。とりわけ、『ダスクランズ』の訳者あとがきの参考になる部分には、何重にもアンダーラインを引いてしまう。

<南アフリカによってデフォルメされたぼくの人生>

この第1章に出てくる写真は衝撃的だ。サイモンズタウンのゴルフコースに植えられた松の木。写真のように、松の木は大西洋から吹きつける強い風によって、激しく傾いて、変形し、醜悪なかたちをさらしている。サイモンズタウンはケープタウンの中心部から半島を南下した、東側のフォールス湾に面した軍港。クッツェーはこの木のようすを、自分が少年時代にヴスターで受けた教育と重ねあわせている。

──これから書こうとしていた内陸のヴスターで子供時代をすごした何年かを振り返りながら、彼(クッツェー)はノートブックにこう書いた。「形を歪ませること。南アフリカによって、年を追うごとに、形を歪められたぼくの人生。エンブレム:サイモンズタウンにあるゴルフコースの形を歪められた樹木」

──Looking back on the years of his childhood spent in rural Worcester that he was about to describe, he wrote in his notebook: ‘Deformation. My life as deformed, year after year, by South Africa. Emblem: the deformed trees on the golf links in Simonstown.'


2017/03/18

デイヴィッド・アトウェル──切り抜き帳(2)

第1章 An alphabet of trees. Autobiography - The uses of impersonality を読み始めるとすぐに、この本のサブタイトルは『マイケル・K』の草稿からとられた、と出てくる。スヴァルトベルグ山脈にこもったマイケルのつぶやきだ。そして、クッツェー文学の核を言い当てることばが続く。重要な箇所なので訳してみる。

「時間/時代と向き合うこと」はクッツェーがフィクションを彼自身と歴史、および、彼自身とその倫理性のあいだに置く方法を伝えている。それは高度に自己を意識する方法で行なわれるため、結果としてクッツェー作品への批評は小説のメタフィクション的な特質をめぐる論評にあふれることになる──つまり書くことについて書くということだ。クッツェーのメタフィクションがめざす最も苛烈なところは、しかしながら、それが鋭い実存的問い、たとえば「この本にはわたしのための、そして、わたしの歴史のための場所はあるのか? ないとしたら、いったいわたしは何をしているのか?」という問いによって自分を試す手段だというところである。書物とはある意味、その作家が存在するという謎に答えなければならない。クッツェー作品とは、フィクション化された自伝にもとづく、巨大な実存的試みなのだ。この試みのなかで自伝と印されたテクストは、フィクションと印されたテクストとひと繋がりのものであり、フィクション化の度合いが異なるだけなのだ。

アトウェル(右)とクッツェー
‘Face to face with time’ conveys the way Coetzee puts fiction between himself and history, between himself and his mortality. It does this in highly self-conscious ways, with the result that Coetzee criticism is filled with commentary on the novels’ metafictional qualities – the writing about writing. The most trenchant of the purposes of Coetzee’s metafiction, however, is that it is the means whereby he challenges himself with sharply existential questions, such as, Is there room for me, and my history, in this book? If not, what am I doing? The book must in some sense answer to the mystery of its author’s being. Coetzee’s writing is a huge existential enterprise, grounded in fictionalized autobiography. In this enterprise the texts marked as autobiography are continuous with those marked as fiction – only the degree of fictionalization varies.  ──David Attwell, J.M.Coetzee and the Life of Writing, p2.

2017/03/16

デイヴィッド・アトウェル著からの切り抜き帳(1)

 来週末のデイヴィッド・アトウェル氏の講演会まで、何回かに分けて、彼の近著、 J.M.Coetzee and the Life of Writing, 2015, Viking から気になる箇所を抜き出して紹介する。この本はJMクッツェーにケープタウン大学大学院で教えを受けたアトウェル氏が、クッツェー作品をその生成過程に肉薄して解き明かした本で、本当に面白い。

 これまで『マイケル・K』『少年時代』『鉄の時代』『サマータイム、青年時代、少年時代』『ヒア・アンド・ナウ』と訳してきた者にとっては、なんとなくわかっているが確信がもてないことをいろいろ質問できる絶好のチャンスでもある。予習、予習! 再発見としては、たとえばマイケル・Kについて、今日もこんな記述を見つけた。


More than any other character in Coetzee’s fiction, K embodies a capacity to survive the nightmare of history. It is not fanciful to suggest that by the time Coetzee wrote Michael K, the Karoo had become an essential part of the substrate of his creativity, a key element in his poetics. ──David Attwell, J.M.Coetzee and the Life of Writing, p54.
クッツェーのフィクションに登場する人物のなかで、Kほど歴史の悪夢を生き延びるための素質を体現している者はいない。クッツェーが『マイケル・K』を書くころには、カルーこそが彼の創造性の根幹をなす基本部分となり、彼の詩学を解くための重要な鍵となっていた。

2017/03/15

デイヴィッド・アトウェル教授の講演会

来週末、24日と25日に東大駒場でこんな催しがあります。予約不要、無料、だれでも参加できるようです。ただし、使用言語は英語で、通訳はなしです。

J・M・クッツェー研究の第一人者であるアトウェル氏を囲んで、2日にわたるシンポジウムが開かれます。まず読書会、それから講演、さらにクッツェー作品や南アフリカ、とりわけゾーイ・ウィカムをめぐる発表があります。
 
 デイヴィッド・アトウェル氏といえば、なんといっても2015年に出た J.M.COETZEE AND THE LIFE OF WRITING ですが、いま『ダスクランズ』の訳者あとがきを書くために再度読み直しています。読み直すたびに新たな発見があって驚きます。



 来週末はアトウェル氏に会って、じかにいろんなことを質問できると思うと、いまからわくわくします!

2017/03/13

ワイルドフラワーが春風に揺れる

そうだ、お知らせするのを忘れていた。
今月はひさしぶりに「水牛」に詩を書いたのだった。

ワイルドフラワーが春風に揺れる

これはよくわかる──奴隷貿易について

<数百年前の奴隷貿易が、現代社会にあたえている影響──当時のヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカの経済状況を含めて、なぜあれほど大規模な奴隷貿易がおこなわれ、それが何百年ものあいだ続いたか>

2017/03/09

『アメリカーナ』と「アメリカかぶれ」


チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』の日本語訳が出てから、いろんな人がいろんな感想を書いてくれている。とても嬉しい。ちらほら読んでいると面白いことがわかってきた。
 まず、この本はアメリカ社会の複雑な内部情報として読まれることが多いようだ。イフェメルという、米社会の外部からきた人の鋭い目線で、なかなか見えないところまで光をあてているのだから、それはそうだろう。半分はアメリカ合州国を舞台にした作品なので「アメリカ文学」として読む。それはありだ、もちろん。

「アメリカーナ」というタイトルからして「おお、アメリカか」となるのもわかる。この名前のブランドやバンド(いや音楽のジャンルか?)もあるらしい、というのもつい最近知った。
 まあ、アディーチェの本のなかで使われるときは、ナイジェリアの少年少女たちが、アメリカへ行ってアメリカ文化を身につけてきた同級生を「アメリカかぶれ」と揶揄することばなんだけれど。「あいつはアメリカ〜ナ〜だな」とか。

パートナーのイヴァラさんと
作品にはロンドンとその近郊を舞台とした移民のドラマも、細部にわたって描き込まれている。ナイジェリアのラゴスやスッカを舞台にした少年少女や家族の物語、あるいは政変、騒乱に人々が巻き込まれるシーン、主人公イフェメルが帰国して雑誌の編集をするところなど、ナイジェリア社会の描写も、もちろんたくさんある。細部のモノ、コト、ナイジェリア英語の独特のいいまわしなど、登場人物どうしのやりとりで、ナイジェリア人ってこんな感じで生きてるってことが浮かび上がるような場面も多い。

 だから、この小説は大雑把には、西アフリカ、西ヨーロッパ、北アメリカの三点を結ぶ大西洋を横断、縦断する物語なのだといえる。それはちょうど、何百年か前に奴隷を運ぶ船が行き来した航路そのままたどりなおす旅でもあるのだ。(まあ、カリブ海を中継したことは消えるけれど……。)
 
 そういう大きな枠ではなくて、細部を読み取る楽しみに焦点をあててみると、アメリカをめぐる感想が多いということは、日本語読者にとって「アメリカ」がいかに大きな存在であるかということで、そのことをあらためて実感した。先の大戦で負けた相手国の文化摂取の肥大化───戦後の70余年ってそういうことだったのかと。

 でもこれをきっかけに、「アフリカ諸国」とアメリカの絡み合った関係に目が行けばいいなあ、とわたしなどは思う。アフリカにそれほど関心がなかった人たちも、この本を読んで、アディーチェのほかの本も読みたいと思ってページを開く、となれば、これほど嬉しいことはない。
 いわゆる「アフリカらしい」ステレオタイプな「アフリカ文学」(使っちゃった、「アフリカ文学」という表現!)ではなくて。アフリカ出身のほかの、個々の作家にも興味がわく、という流れになると、もっと嬉しい。

 先日、ガーディアンにアディーチェのインタビューをもとにした面白い記事が載った。この作家の近況を伝えるとても内容の濃い記事だった。彼女の写真もたくさん載っているし、娘のこと、フェミニズムのこと、ナイジェリア社会のことなどを率直に語っているところがとても面白かった。おすすめです。(写真はその記事から拝借しました。)

男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(河出書房新社 4月刊)

 もうすぐ刊行ですよ〜。