2017/08/16

渇いた耳にしみるセザリアの声

思っていたよりずっと渇いていたらしい。耳という感覚が。このアルバムを、本当にひさしぶりに聴いて、ほとんど泣きそうになっている自分を発見したのだ。

 CESARIA EVORA の SÃO VICENTE DI LONGE

このブログで初めてセザリア・エヴォラのことを書いたのは、2010年5月9日だ。まだセザリアも健在、3.11も起きていない。こんな歌手がいるよ、とカーボベルデの歌姫、セザリア・エヴォラのことを教えてくれたのは、長年のつきあいの編集者O氏だった。わたしにとって初めて聴いたセザリア・エヴォラ、それがこのアルバムで、たぶん2002年か2003年だった。
 とりわけ最後から二番目の曲、CREPUSCULAR SOLIDÃO が好きで、何度も何度も聴いた。あ、またしても「薄明」だ。クレプスキュル、クレプスクラル。ダスク。


 ここ1年、JMクッツェーの『ダスクランズ』の新訳にかかりきってきた。途中チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』も出したけれど、原著が出版されてまもなく神奈川大学評論に訳してあったので、今回は見直しをして解説を書いただけ。

 長さからいっても、内容の濃さ、重さ、迫力からいっても、圧倒的にクッツェーの『ダスクランズ』の新訳が仕事の中心を占めてきた1年あまり。その作業からほぼ解放されて迎えた旧盆のお休み。セザリアの歌声を聴いて、つくづく思うのだ。感覚の表面が渇ききっていたと。いま耳から、砂漠に雨が降るように、といいたくなるような、そんな気分で、セザリアの歌声がしみる、しみる。

2017/08/07

J. M. クッツェー『ダスクランズ』

 嵐の夜に、表紙がアップされました。カヴァーも帯も、燃え尽きるような深い赤です。そして強い黒のタイトルと、帯には白く踊ることばたち。

     J. M. クッツェー『ダスクランズ』


 ・暴力の甘美と地獄を描く、驚愕のデビュー作

ふと考える──この赤はなんだろう? 平原に沈む太陽が空を焦がす色? ナマクワランドの赤土? いや、ひょっとしたら200年を隔てて、「黄昏の土地」で流されてきた……かもしれない。

  J. M. クッツェーが34歳で発表した『ダスクランズ』、新訳で人文書院から9月30日に発売です。  

2017/08/05

カナディアン・ロッキーとマーモット

今年もまた、うだるような暑さの8月です。
東京から離れられない身としては、せめて、カナダの友人ブライアン・スモールショーさんの写真を拝借して、涼をとりたい。


 ブライアンは今年もまたカナディアン・ロッキーに挑戦したみたい。大きなマーモットの写真。そして見事な縞模様を見せる山肌。真っ白な残雪が美しい。


仕事は今日も、ゲラ読みです。

2017/08/03

彷徨える河──やっと観た、面白かった!

 エアコンを入れた途端にぐんと涼しくなって、プチ夏休みも最後の日。
 昨年の秋に観そびれていた映画をDVDでようやく観た。

「彷徨える河」 監督シーロ・ゲーラ

 日本公開のための予告編に、これまた定番のように『闇の奥』なるラベルがペタッと貼ってあったので、なんだかなあ、と思っていたけれど、信頼できる複数の人たちが「いい映画だよ」「面白いよ」といっていたので観に行こうと思ってはいたのだ。でも、昨秋は結局時間がなくて映画館に足を運べなかった。だからDVDになると聞いて注文しておいた。それが今日とどいた。さっそく観た。

 いやあ、面白かった。(それでふたたび『闇の奥』はやっぱり不要なラベルだと思ったんだけれどサ。)2時間あまりのモノクロ映画で、最後に少しだけカラーの映像が入る。この間、まったく見飽きなかった。途中で喉が渇いてきたけれど、一時停止ボタンを押す気になれなかった。ちいさなPC画面ではなく、やっぱり映画館の大きなスクリーンで観たかったなあとあらためて思った映画だった。

 なかなか良いレビューが密林(!)のサイトに載っているので、興味のある方はそちらへ。

 シーロ・ゲーラというコロンビア出身の若い映画監督は(なんと1981年生まれか!)これからJMクッツェーの『Waiting for the Barbarians』を映画に撮る予定。(2018年に撮影して、リリースされるのは2019年の予定だそうだ。)
 若いころから映画狂のクッツェーが、あのBarbarians を映画化する許可を出した若い監督の作品とあって観たのだけれど、出てくる人たちの描き方に、いたく納得した。こうなると、Barbarians の映画もすごく楽しみになってきた。わくわく。

2017/07/31

思い出す「まゆだま」

 今日からまたプチ夏休みに入った。今回の休みは暑さ負け状態寸前で小休止するための休みだ。ついにリビングにエアコンが入った。仕事場にはないが、いざとなればそこに逃げ込めるという、まあいってみれば、最後の切り札のようなものか。

  たま川にさらす手づくりさらさらに何そこの児のここだかなしき

これは子供にたいする歌じゃないのか、という意見にわたしも一票! 忘れないうちに書いておきたい。谷崎由依著『囚われの島』を読んで、もうひとつ痛切によみがえった情景のことを。この本を読んで、ありありと思い出したのは、裏日本と呼ばれた、ひとつづきの土地のことだ。そこに綿々とつらなる村社会の内実だ。越前─越中─越後。

 谷崎さんは「村」を描いてきた人だとあらためて思った。ファンタジックに。この日本社会の根っこにある「村」を、そしてその人間関係の救いがたさ、男尊女卑、それでも、そこでしか生きられなかった女たちの細やかな心、体、その生と性をまるごと描きたかったのだなと感得した。311以後、見渡せば日本中にいまだに広がる「村社会」を。

 旧植民地ながら、じつは、わたしもその湿り気を皮膚からじっとりと吸いあげるようにして育ったのだ。土地は移っても、ひきずっていく移民たちの「故郷」という繭玉の内部を目にしながら。旧正月になると黒い梁から伸びる枝につけられた「まゆだま」。
 だからわたしにとって、因習に対する反発とともに、これは不思議な懐かしさも感じられた小説だったのだ。

2017/07/15

プチ夏休み:読書の愉楽

まだ梅雨はあけないみたいだけれど、東京はまるで真夏の暑さだ。このところ、5月に種を蒔いた朝顔がほぼ毎日のように花を咲かせている。

 昨日、40枚ほどの短編を訳了! クッツェーの『ダスクランズ』の再校ゲラがとどくまでに、まだ少しあるので、数日プチ夏休みということにした。
 昨日はまず、洗濯を朝から二回に分けて、がらがらと。風があるので、あっという間に乾いた。で、午後からは読書の愉楽にひたった。夢中になって本を読むという時間はひさしぶりだ。時間がかぎられていない「夏休み」ならではだ。読まねば、という義務感もないし、読んだら書評を書かなければという縛りもなく、ひたすらページをめくるという、遠いむかしの「夏休み」の感覚を取り戻す。ときのたつのを忘れて読みふける。

 今年のささやかなプチ夏休みの読書は、これ!
 谷崎由依著『囚われの島』(河出書房新社刊)。
 
 無駄のない端正な日本語と、ことばのリズムに乗せられて読み進む心地よい読書、ひさしぶりだな、この快楽は。たとえばこんな細部が光るのだ。

「蓮花がちいさな花びらの先を赤く燃やして咲くときに、その年の蚕飼いははじまりました」

 高校時代まで住み暮らした北の外地に「蓮花」はなかった。教科書に引用された俳句のなかに出てくる花の名前として記憶された「蓮花」を、内地にきてから目にして「ああ、これが蓮花の花か」と思ったことは覚えていても、それがどこでいつだったか記憶は定かではない。
 蓮花はマメ科の植物だから、根に根粒バクテリアとの共生によって窒素を固定する。だから休閑地や、耕す前の田んぼに蓮花を植えて、それを土地にすき込む、と学んだのは生物の授業でだったか。

 高校時代の夏休みは家の前の植え込みのかげにデッキチェアを広げて、そこに寝転んでよく本を読んだ。あの当時、夢中になって読んだフランス小説に出てくる「ヴァカンス」なるものを真似てみたかったのかもしれない。それはダントツに涼しい北の国で、ささやかな演出をかねた「夏休みの読書」だったのだけれど、いかんせん、気温が27度くらいまでしか上がらなかった60年代半ばのこと、強い風に吹かれて本を読んでいるうちに、手足が冷えて、芯まで冷たくなってしまう。ぶるぶる震えながら、家のなかからシーツを持ち出して全身をおおい、シーツから手だけ出して文庫本を読んだ記憶がある。いま思うと笑える。
 

2017/07/05

対談:ハッピーなフェミニスト

アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の出版を記念して、下北沢のB&Bで5月20日に行われた対談が、雑誌「すばる 8月号」に掲載されました。タイトルは:

 ❤️ハッピーなフェミニスト❤️

2時間ちかく星野智幸さんとしゃべった話の要点をざっくりまとめて、しかも、とてもわかりやすい流れにしてくださったのは倉本さおりさん。Merci beaucoup! みんな、読んでね〜〜。

7月9日には神田でこんな読書会もあります! わあ、満員御礼ですね!