Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2009/08/24

ジョルジュ・ムスタキ──Nadjejda

 もう35年も前のことだ。1974年2月にほんのしばらく、小雨が降ってはちょっと陽の差すパリにいたことがある。
 ジャズ狂いだった私はジャズスポットを探してパリの街を歩きまわったが、思ったような成果はななかった。(短期滞在で、それもたったひとりで、東洋から行った女の子にそう簡単に街の奥がわかるわけがない!)サン・ミッシェル大通りを行きつ戻りつしながら、ふらりと立ち寄ったレコード店で2枚のLPを買った。
 黒っぽいハイネックのセーターを着て髭を生やした店員さんに、あなたのお薦めのアルバムはどれ? と訊くと、彼が即座に示したのがこのLPだったのだ。

 ジョルジュ・ムスタキの「DECLARATION」。1973年に出た、ムスタキがまだ39歳のときのアルバムだ。
 ムスタキの名前は知っていた──1973年に日本でも出たバルバラのLPで「La Ligne Droite」をデュエットしていた人だったし、来日もしていたから。
 
 パリで買い求めたそのアルバムには、A面の3曲目に「Nadjejda」という曲が入っている。

  Nadjejda, Nadjejda
  En russe ça veut dire espérance
  Nadjejda, Nadjejda
  En amour c'est peut-être absence
  Combien de temps encore, sans voir ton corps
  Combien d'étés, combien d'hivers
  Combien de saisons en enfer

  ナジエージダ、ナジエージダ
  ロシア語では希望という意味
  ナジエージダ、ナジエージダ
  愛では、たぶんそれは、不在
  あとどれくらい、お前の姿を見ないまま
  いくつの夏と、いくつの冬、
  地獄の季節はつづくのか


 そう、Nadjejda とは「espérance」のことなのだ。

 帰国してすぐに研修が始まった。4月から勤めることになっていた会社の、3泊4日の新入社員向け研修会だ。
 しかし、である。早春のその研修会に、私は直前にみつけて買ったセーターを着ていった。オレンジと赤と少しの緑を基調とした、このアルバムのジャケットデザインそっくりの色調のセーターだった。
 朝から晩までびっしり見知らぬ人たちといっしょに受ける研修は、とにかく疲れた。
 当時はまだウォークマンもない。好きな音楽がいっさい聴けない環境で、独りが好きな人間にとっての、ひそかな抵抗感とみずからへの励ましが、ムスタキの「宣言」仕様のセーターだったのだ。

 いま考えると、笑える。